「伯父さん、わたしが牛乳きらいなの、忘れたふりしないでよ」 

 鳥が煩くて目が覚めた。台所から音がする。朝はすべて任せてあった。その代わり夜はわたしが担当している。この田舎で、在宅の仕事をこなしながら恋人や先輩後輩友人と連絡を取って、実のところこういう未来は想定していなかった。もっとはやく死ぬんだと思っていた。自分の体質をこれでも一応理解していたから。
「おはよう」
「おはようございます」
「起きれる?」
「大丈夫です」
 部屋を覗いた伯父とそう会話をして、二人で笑い合う。
「なんか昔みたいだね」
「…確かに」
顔洗ってから行きます、と言えば待ってるよ、と返される。
 変わらない日常だった。昔のように。いつか終わるのだとしてもとても平穏な、日常だった。



蜘蛛は殺さない朝の牛乳の味いつもよりかなんかまずい / 森まとり

***

これから始まる生活に乾杯 

 向こうを出るまでずっと人に囲まれていたからか、飛行機に乗って電車とバスを乗り継いで、懐かしの故郷へ戻ってきた時、その静寂にあ、と思った。静かに寂しいとはよく書いたものだ、昔の人はとても頭が良い。そんなことを思っていたのが分かったのか、後ろに立っていた伯父がよし、と声を出した。
「今日は焼肉にするか」
「庭で? それとも遠出する?」
「フライパンで。ソースとか塩とかレモンとか、皿に出して店みたいにしようぜ」
まるでツーカー。それぞれに一番がいるのに、ついでに言えばきっと二番もいたのに、わたしたちは分かり合う。とても良いコンビだ。
「大丈夫だよ」
伯父は笑う。その笑顔に慰めの色はない。
 「いつだって焼肉はおいしいから」



かなしいことがあったので今晩は焼肉にしようって言えたらいいね / 森まとり

***

天使のようなきみに一言くらい文句を捧げたい 天ヘク R18

*夕暮れ√

 互いに仕事をしていれば一緒に住んでいても生活リズムが合わないことはあるし、一週間会えない、なんてことはまあ珍しいけれどもないということはなかった。ただそれが、今回突然にやってきてしまっただけで。
 ようやっと帰ってきた年下の恋人を迎え入れながら、ああ、この香りも久しぶりだな、なんて呑気なことを思っていたらそのままキスをされた。扉の完全に閉まらないうちの犯行だった。故に、鍵も閉めていない。枯渇したと言いたげな舌が自分勝手に人の口腔内を荒らしていって、それだけでもう息が上がる。鍵、と思うヘクトールにも構わず、青年の手は淀みなく服へと掛けられた。家での格好なんてたかが知れている。裾から舞い込んだ指が的確に、肌を辿っていく。
「ま、」
て、というのが大きな言葉にならなかったのは、遠くから人の声がしたからだった。
 此処は単身者用の賃貸ではない。いろんな人間が住んでいる。家族もいれば、シェアハウスなんてものもいる。勿論、単身で住んでいる人間もいるだろうが。どうにも声の数を数える限り、同じ階に住んでいるサークルかなんかの集まりのようだった。彼らは休憩に外に出てくることがあって、そうなるとなかなか中には戻らない。煩くしている訳でもないから、玄関先にずっといるとかでもなければ気にならないのだけれど。
 残念ながら此処は玄関先だった。
 紛れもない玄関先だった。扉の向こうには人がいる。それは青年だって分かっているはずだった。
「…なあ、」
囁いた声は自分が思っていたよりも小さい。
「ベッド、に、」
「いえ」
即答すぎて眩暈がする。迎えた体勢をそのまま流すように、玄関扉へと押し付けられた。
「此処で」
頬が押し付けられた扉が冷たくて気持ちが良い、なんて一瞬現実逃避しそうになる。いや実際冷たくて気持ちが良いのだけれども、それは自分が熱い、ということでもあって。
 押し付けられた所為でより感じる扉を隔てた向こうの人の気配。この扉はそこまで薄いものじゃあない、けれども大きな声なんかが出たら。そんなヘクトールの思考などまるっと無視して青年はヘクトールの服をたくし上げた。背中にキスが落とされる。その合間を縫うようにしてずるり、と太腿に擦り付けられる熱が何なのか分からない訳がない。
「あ、まくさ、くーん…?」
「何ですか」
「オジサン、口でしたいなー…なんて…」
「…すみません、いつもなら嬉しいのですが」
無理です、と囁かれた声に余裕はなかった。
 彼が別に趣味が悪い訳ではないことをヘクトールは知っている。この少年が青年になるまでの長い時間を結局のところ独り占めしたようなヘクトールには、その清純たる性根が嫌と言うほど分かっている。だから、今回は本当に余裕がないだけなのだと分かっているが、それでもこの野郎、と思うことはタダだろう。本当に。思うだけなら。
「準備は、ちゃんと、しますから」
「いや、それは最低限でしょ…」
「だから、声、」
ずり降ろされるスウェットに、もうちょっと脱がすのに手間が掛かるもので迎えれば良かった、と思う。
「頑張って、我慢してくださいね」
 懇願にも似たその声に、ヘクトールが折れないことがないと分かってしまっているのが苦しかった。

***

連帯責任 

*放課後√

 こうなることが分かっていなかった訳じゃない、でもずっと想像よりもひどかった、というだけの話。予想出来ていたのならもっと具体的な提案でも置いていってくれたら良かったのに、と思うけれども、多分彼女が何も具体的なことを言っていかなかったのは、これから先は彼女にだって想像のつかない領域だったからなのだろう。
 だって、こんなに。
 ずっと彼女の影を探している、なんて。
 彼女の死を受け止められていない訳ではないのだ、でもふとした瞬間に、例えば寝ている時だとか。ヘクトールは彼女の名前を呼んで、そうして抱き締めるような仕草をする。彼らの関係が普通の伯父と姪のようなものではないことは分かっていたけれど、此処までくると最早共依存の域だっただろうけれど、彼らは決してそれを感じさせなかったし、互いの恋人に対して何不満を持たせることもなかった。
「ヘクトールさん」
呼ぶ。揺り起こす。悪夢ではないのだろう、と思うけれど、それでもきっと長く夢を見ていた分だけあとで現実でゆり戻りが起こる。
「朝ですよ」
全部、嘘だったけれど。天草に出来るのは、それくらいしか、なかったけれど。
 細やかな声と共にヘクトールが目を押し上げる。だから天草は一旦その目に手を乗せてやる。
「夢を見ていたんですね」
「…うん」
「夢ですよ」
「分かってる」
 共犯者になりたいだなんて、口が裂けても言えなかった。



幸せとたたかうような君がいて朝が来るたび星も生まれる / 琳譜

***

愛したあの子は影の向こう 

*放課後√

 夢を見た。まだ小さなあの子が元気に駆けずり回っている夢。もう、二度と見ることは出来ない夢。ひどい、ひどい、ひどい、だってそれを選んだのは俺だ。きっと俺がちゃんと言えば、あの子はどんなにつらくとも頷いた。そうやって暮らしてきた、そういう関係だった。あの子に悲しい思いをさせてでも、ヘクトールは愛し子を、傍に、置いておきたかった。
 目が覚める。
 もう、手を握ってくれる子は、いない。



軽々と封鎖を破り夏は来る街路あまねく逃げ水に濡れ / 松野志保

***

きみが此処にいたらどんなに、 

*√夕暮れ

 大学院に進んだのは自分がやりたいことが出来るのだと知ったからかもしれない。ずっと、早く良い仕事につくことだけが良いことなのだと思っていた。ホワイトな就職先を探して、そうしてまとまった休みで大切な人に会いに行って、ただそれだけ、望むのはそれだけ、だった、はずなのに。
―――わたしは、マシュがやりたいことをやっているのを、話してくれればそれが嬉しいよ。
そんなふうに、先輩を育てたのはきっと、彼だったから。
 敵わないなあ、と思う。敵いたい訳でもないけれど。
 電話の、よく使うリストの一番上に来るようにしてある、名前。いち、に、さん。コール数は多分、ポケットに入れていないから。
「あ、もしもし先輩ですか」
『こんな時間に電話してくるなんて珍しいね、なんかあった?』
「特別なことはないのですが、元気かと思いまして―――あの人も」



真っ青な給水塔のてっぺんに触れるほんとにひとりでよかった / 森まとり

***

わるいおとな 天ヘク

*夕暮れ√

 迎えに来て欲しいと言われたから迎えに行った。それは辛うじて繋がっていることへの贖罪のような気持ちもあったのだと思う。
 しかしながら同じ頃の年なのであろう友人たちと話す彼に、もやりとしたのも事実。
「早く帰るよ」
見たいテレビがあるからね、と笑ってみせればそうでしたね、と彼は笑う。見たいテレビなんてないのを知っているのに。
「嫉妬ですか?」
友人たちと離れてから、彼がまた笑って言うからああそうだよ、とその頭を撫でた。
 愛してる、とは言えない。言ったこともなければ言ってほしいと言われたことも、態度で示されたこともない。匂わすことも、ない。彼はきっと諦めている。ヘクトールが彼に対してそういう言葉を使わないことを、彼は分かっている。分かっていて、違う心の形だけでも与えられることをよしとした。
 賢い子供だ。
 賢すぎる子供だ。だからヘクトールは悪い大人だった。恐らく解法が分かっているのに、それをしないヘクトールは悪い大人だった。でも、どうせ、後戻りなんて出来ない。
 だから。
 彼の頭をくしゃりと撫でる。なめらかな質感は若さを感じさせる。
 責任だけは、誰が何と言おうと取るつもりだった。例え彼自身が望んでいなくとも、取ってやるつもりだった。



なあ俺は一生お前に愛してるとは言わないが 俺だけ見てろ / ロボもうふ1ごう

***

この恋に水をください 天ヘク

*放課後√

 始まってしまったものはもう元には戻らないけれども始まってすらいないものをどう言うべきなのか。天草四郎はそんなことを思う。思うけれども誰かに問うことも出来ず、答えを貰うことも出来ない。
「どうしたものですかね」
「天草くんがわたしにそんなこと言うなんて、学生時代とは逆だね」
「…先輩は一度も俺のところに来なかったでしょう」
「うん、そうだね」
必要がなかったからね、と言った先輩はねえ、と続ける。
「わたしは間違えたかな?」
 それが何のことだか分からなかった。
「…俺は、聞くだけですよ」
「知ってるよ」
「だから問いかけは無意味です」
「うん。だから、これは意地悪だよ」
わたしたちだけの秘密だよ、と先輩は言った。その笑みが学生時代と一欠片も変わらなくて、天草はなんだかひどく安心したのだった。



確恋 http://85.xmbs.jp/utis/

***

そしてこの恋を終わらせよう 天←モブ(女)

 この人に恋をする人は一体この学校にどれくらいいるのだろうなあ、と思ったのは私がやはりこの人に恋をしていたからだし、学校にと限定したのは彼がそんなよく分かりもしない誰かの秘密を引き受ける趣味をしているのが学校でだけのことだと知っていたからである。時には教師までやって来る教会は決して彼のものではなく彼もまた占拠しているつもりはないのだろうけれども其処はやはり彼の城だった。
 そう、だった=B
 彼はもうすぐこの学校を卒業し、この城の主ではなくなる。それが私は悲しい。だって私は彼に恋をしていたから。
「先輩」
呼ぶと彼は振り返る。
「私の懺悔を聞いてくださいますか」
彼が断らないことを知っていて、私は彼に、一方的な告白をするのだ。



ベゴニアを枯らしましたこれは懺悔で告白で別れで愛です / 卵塔

***

線の上 

 どうかしましたか、と聞いてくるのは顔見知りの少女二人組であった。またこんなところに、とため息を吐くと年下の方の少女がほらやっぱり先輩、この辺りは危ないんですよ、と先輩である少女を諌める。何処か方向音痴なところがあるらしい彼女を、この少女が上手く誘導出来たらきっと一番良いのだろうが。きっとそれが出来たら苦労しないのだ、となんとなく思っていた。彼女のすべての基準はこの少女なれど、その選択を掴み取るのは彼女でしかないのだから。



他人の血たぶん午後には乾いてしまう路地でこの眼はまだ壊れない / 松野志保

***




20190921