猫に鈴 引っ越してきてすぐのその街はまだ知らない街だった。一応と父にもらった(とても下手くそな)地図とにらめっこしながらわたしは歩いていたが、目的の書店には辿り着けない。その上困ったことに完全に裏路地に入り込んでしまったし、大通りは元より新しい家に戻れる気もしなくなってきた。これならマシュが帰ってくるまで待てばよかった。委員会に入っているらしいマシュは、春休みでも学校に用事があるらしく、だから今日は一人で来たのだったが。 大きな街だった、だからか警官がその辺でのんびりしていたりはしない。引っ越す前の田舎は困ったら警官に声をかければ手伝ってくれたし、きっとそれは都会でも変わらないのだろうがしかし、これではその警官を見つけることすら難しそうだ。どうしたものか、と思案しているとスーツの男がぶつかってきた。ごめんなさい、と反射のように謝れば男は一瞬驚いたように目を丸くして、次の瞬間には罵倒を始めた。急いでいるのにうんたらかんたらと、ぶつかってきたのは向こうであるのにこの人は何をしているんだろう、急いでいるならさっさと行けば良いのになあとのんびり考えていると、それが無反応に見えたのか、男は手を上げた。 ―――あ、殴られる。 避けられないな、と思って衝撃に備え、思わず目を瞑ったが一向に何も起こらない。 「いけませんなあ」 知らない声に目を開けると、異様に大きな男がスーツの男の手を掴んでいた。黒いフードを被り、顔には髑髏のような仮面をしている。何かのコスプレだろうか、と一瞬現実逃避しかけた。 「そのような態度は褒められたものではありますまい。しかも相手は子供。貴殿は大人として模範になるべきなのでは?」 痛いいたいとスーツの男が悲鳴をあげる。腕からギチギチとまずそうな音があがっているが突っ込んだ方が良いのだろうか。 「いやはやしかし自らぶつかりそれを謝罪することもなく芥のような言葉を並べ立てる性根は改善する術もないのでしょうな。残念なことです」 そう言って大きな男はやっと手を離した。離された男はぺちゃっと地面に転がって、喚きながら逃げていった。都会怖い。 「…あの、助けてくれて…? ありがとうございました」 助けてもらっておいて何だが完全に不審者である。声を掛けるのも少し躊躇う。 「いえ、あの男に用があっただけのこと。お気になさいますな」 「えっ、逃げちゃいましたけど大丈夫なんですか」 「心配無用。あのような者を見つけることは造作もないこと」 「ならいいんですが…」 わたしの所為で用事を済ませ損ねたとなると申し訳ない。 「ところで貴方は何故このようなところに? 路地裏は人目が減りますから、あまり長居はおすすめしませんぞ」 「迷いまして」 「なんと。何処へ行きたいのでしょう」 「この地図の書店です。大通りに出られれば大丈夫だと思うんですが」 紙を見せる。どうやら父の下手くそな地図でも分かったらしい。 「此処なら分かりますぞ。ご案内しましょう」 「えっそこまでご迷惑をおかけする訳には」 「何、これも何かの縁」 そうして結局書店まで案内してもらい、ついでに地図も綺麗に書き直してもらったので帰りは迷うことなく帰れた。大きな男はハサンと名乗っていると自己紹介してくれたが、どうやら他にもハサンを名乗る人物はいるらしい。よくわからない。 別れ際にもらった名刺には掃除屋という文字がでかでかと書かれており、少し悩んでからわたしはそれを財布にしまった。 *** この先の未来を誰の手の中に落とそうか 白い病室だった。此処にいるのが自分でよかった、と思う。少し風邪を拗らせただけ、その言い訳はまだ通用するのだろうか、そもそも彼女は本当に自分の言葉を信じているのだろうか。そんな不安が頭の中を過ぎっていく、誤魔化す方法なんて幾らでも思いついたはずだった、なのにどうしてこんなにも彼女に嘘を吐きたくないなんて思うんだろう。ぱちぱち、と目を瞬かせるのと同時によっ、と病室に入ってくる影。 「ヨージローには会った?」 「少しだけ」 洋二朗は父の名前だった。先程までこの病室にいて、目覚めてから少し話をした。またきっと医者を交えて詳しい話をすることになるのだろう。それくらい、自分の身体のことなのだから分かっている。 「なあ、ヨー」 「なんですか」 「これはさあ、ヨージローにも提案してあることなんだけど。…あのさ、お前さん、オジサンと、田舎に帰らない?」 思わず目を見開いた。 「………それは、」 すぐには言葉が出て来ない。待つように椅子に座った伯父―――正しくは血が繋がっている訳でもないし親戚関係的伯父である訳でもないがまあ伯父―――はいつもの軽薄な笑みを消していた。 「…そもそも伯父さんはあっちに住んでた訳じゃないじゃないですか」 「お前さんが生まれる前にちょっとは居候してたよ」 「居候って」 「だから、向こうでも暮らせるし、そもそもオジサン定職に就いてないし? 自由に動けるんだよね。それに、姪っ子的にはお前さんのことも可愛がってる自覚はあるし?」 「まあ、可愛がられていた自覚もありますけど。………でも、」 言うべきか黙っているべきか。そのラインが未だによく分からない。 「…田舎に帰っても、天草くんからは逃げられないと思いますけど」 「………別に、逃げたい訳じゃないよ」 行くにしたってちゃんと連絡先は置いていくし、お前さんのことを説明すれば怒るような子じゃあないだろう、と彼は言う。確かにそうだろう、二つ下の後輩は彼を怒らない、怒らないし理由を理解し、納得し、そうして一人で泣くことすらしないだろう。根本の解決には恐らくならない。 「子供には子供の時間を生きて欲しいって、そんなことを思うだけさ」 「それ、狡い大人の言い訳じゃないですか」 「そうかもな」 「そんなに大人とか子供とかに拘るのなら導いてあげたら良いのに」 「そういう訳でもないよ」 祈るように手を組む姿が、まるで子供の模倣だった。 「怖いよな」 何が、と言うことが出来ない。 「未来ある子供のその未来を手中にしちゃったって感じがさ」 「犯罪に手を染めてるみたいな言い方ですね」 「お前さんはいいかもしれないけどオジサンはわりと犯罪沙汰手前だから…」 「…あっ」 思い切り忘れていたが世の中にはそういう法律や条例があるのだった。 「未来を手中に、かあ…」 すごい言葉だ。 「わたしがこのままこの街にいると、マシュにそれを強要することになってしまいそうですね」 「…そんなことは言ってないよ」 「そんなことを言っているんですよ」 「そうかな」 「そうです」 息を吸って、吐いて。 わたしも大人になる時が来たのだ。決断を、する時が。 「わたしは―――」 *** 王様の耳はロバの耳 この学校は中高一貫コースがあって更には大学付属でもあるからかいや関係ないかもしれないけれども敷地がやたらと広くてその一角には教会がある。ミッション系でもないのに。とは言えそこにシスターがいるかと言えばおらず、どうやら以前はいたらしいのだが兎に角今はおらず、代わりに一人の生徒が我が物顔で其処には居座っていた。その生徒こそが同じ委員会の後輩なのだが。 「いやでも何だか天草くんは教会が似合うね」 「そうですね、先輩」 委員会が同じだけという、接点は正直なところ薄いけれどどうやら気が合うらしく、時間の空いている時はこの教会でのんびりとすればいいと誘われ、いつしかそれは日課のようになっていた。 と、なれば、彼が趣味のように受けているお悩み相談(実際には相談ではなく王様の耳はロバの耳なのであって天草くんは何を解決している訳でもない)に巻き込まれることも少ない訳ではない。 「貴方が天草ですか? …と、ヨーではありませんか。何をしているんです」 「アルジュナ先輩。天草くんとは委員会が一緒なんです」 「なるほど」 その日教会の天草相談室に現れたのはアルジュナ先輩だった。アルジュナ先輩は二つ上の先輩だが、よく本屋や図書館でかち合うため自然とお互いに顔を覚えており、その縁で何度かお茶もしている。というか先輩は三年なのだから受験に忙しくなると思っていたのだけれどもこんなところに来ていて良いのか。それとも受験絡みだろうか―――なんて言う想像は打ち砕かれる。 「ちょうどいい。どうせならヨーも其処にいなさい」 「えっ嫌ですけど」 「ちなみに先輩、私は王様の耳はロバの耳しか出来ませんが大丈夫ですか?」 「ええ、了解しています。くれぐれも聞いたことは内密に」 「勿論。口から葦は生やしません」 「お二人も」 「マシュまで換算に入れないでもらえます? マシュ、逃げよう」 「あの、先輩。天草くんが放してくれないので一緒に行けません…」 「天草くん狡いぞ。マシュを人質にとるなんて」 「先輩はこうすれば残ってくれることを知っていますし。ほら、マシュ先輩もそんなに嫌がっていないんですし良いじゃないですか。秘密くらい」 「趣味でやってる天草くんと一緒にしないでください」 「まあまあ」 結局逃げ切れずに先輩の横で座って話を聞く羽目になった。 「私は種違いの兄と暮らしているのですが、」 「重い」 「先輩、お静かに」 出だしから重い。当たり前だけれどもアルジュナ先輩とはお茶をするだけの関係で、そんな関係の相手に普通は世間話でそんな重たい話はしない。よってこれは初耳だった。 「私はうちの大学を第一志望に、というかうち以外はまったく考えていなかったのですが先日兄に県外の大学を進められまして。私としては卒業後も兄と暮らしたかったし社会に出ても兄と暮らしていたかったのであの家を離れるつもりはなかったのですが、兄はそうではなかったのかと、口に出してしまい…」 「兄弟喧嘩ですか」 「それだけなら良かったのですが。そのままお前が好きなのだと告げてしまって」 「え、何?」 「先輩、お静かに」 「以前からお兄さんのことが?」 「ええ、でも黙っているつもりでした。もし兄に恋人が出来るようなら、その時こそ諦めようと…逆を言えば兄にそんな素振りがないうちは家にいても良いのだろうと…」 「なるほど」 「兄の幸せを祈ることが出来る人間に、私はなりかったのです。兄に育てられた人間として、そうなりたかった。なのに、私はどうして言葉を発してしまったのか」 「一度口にした言葉は取り消せませんからね」 「そうなのです、そうなのです。私は取り返しのつかないことを。………ああでも、進まない訳にはいかない。なかったことには出来ない。ですから私は穴を求めたのです」 「穴になれたのであれば良かったです。あまり思い詰めませんように」 「大丈夫です。ヨーも、マシュもありがとうございます」 「い、いえ…ちゃんと秘密は守りますね」 「秘密は守りますが今後は巻き込まないでください」 「無理でしょうね」 先輩はまるで他人事のように言う。 「貴方は恐らく巻き込まれ体質でしょうから」 ちなみにアルジュナ先輩の言ったことがわたしに分かるようになるのは数年後のことで、ちゃんと定期的に連絡を取っていたわたしは電話口で思い切り愚痴を言うことになり、なんだかんだ恩を売っておいて良かったと思う羽目なるのだった。 *** 都会のパンはよく客食うパンだ テレビの中や話の中で存在だけは知っていたけれどもそういえば来るのは初めてだなあ、とわたしは後輩についていく。あちらこちらから小麦のいい香りがしていた。バターのいい香りも。何だかすごいと思いながら、わたしは後輩から離れないようについていく。別にそこまで混んでいる訳でもないが、立ち止まればすぐに引き離されそうだ。 マシュはトングを持っていた。先輩の分は私が取りますから、と言われてしまえばお願いするしかない。だってマシュの笑顔が可愛いし。どれが食べたいですか、と言ってくれるマシュにあれこれ聞きながらパンを選んでいく。それは楽しかった、とても楽しかった。が、一つだけ、気になることが。 パンを買い終わって店の外に出て、他の客がいなくなったところで勇気を出して呼びかける。 「…マシュ」 「先輩? どうしました?」 「パンを取るやつ…トング? あったじゃん」 「はい、ありましたけど…」 「あれを、他の人はなんかカチカチさせていたんだけど、あれは何だったんだろうって思って。マシュはやってなかったし」 「ええ…ああ、あれですか。そうですね…パン屋さんに来るとやりたくなってしまう一種の儀式…とでも言いましょうか」 「儀式」 「一部ではパンを威嚇するための行為、とも言われていますね」 「威嚇しなきゃいけないの? 都会のパンは襲い掛かってくるの?」 「そういうことになっている場合もあるようです」 「そういうことになっている…」 「まあ、なんとなくこう、カチカチと音を立てたくなる気持ちも、分からなくはないですけどね」 ふふ、と笑うマシュがやっぱり可愛かったので、よくわからなかったけれどもそっか、と頷いておいた。 *** 迎えに来ました王子様 生まれた家は所謂由緒正しきというやつで、学校も良いところに行かせてもらったし習い事も多くこなしたし、そんな環境の中、当然のように結婚はお見合いだった。けれども相手はとても優しい人で、こんな俺との結婚でも幸せなものになるでしょう、って笑ってくれた。実際に、幸せなものだった。息子にも恵まれ、確かに彼女との生活は恋愛には発展しなかったけれども、パートナーとしてこの上なく良い関係を築けていたと思う。 でも、息子が生まれて少しした頃に実家が傾いた。それが直接の原因とは言い切れないけれど、俺も妻も同じ時期に親から離婚しろと言われた。二人でよくよく話し合って、今の状況で一番何が良いのか考えて、結局離婚することにした。家の指示に従ったと言うよりは、このまま一緒にいても事態が好転しないどころか家の方と共倒れになるのが分かったから、だった。どちらに原因があった訳でもないから、金のことも特に問題なく済んだ。 元妻が息子を連れて出て行って、まあ寂しかった。俺の方は何もやることがなくてあちこちで働きながら、元妻と息子に援助金を送っていた。元妻は息子と一緒に住み込みで働くことになって、と言うとまあちょっと誤魔化しがある。愛人、だったのだろう。現代では一夫一妻制だから、表立っては言わなかったけれど。勿論愛人なんだから向こうには正妻がいて、他の愛人もいて、その混沌の中で息子は死んだ。殺されたんだろうとは思ったけれど、結局事故ってことになった。当時は泣いたし絶対に許せないとも思ったけれど、そのうちに元妻の雇い主は病死して、そいつの会社も大分傾いて、もう取り返しがつかない状態になったからもういいや、って思った。 元妻はその混乱に乗じてその家と関係を解消して、というか愛人ってことを知らない人間が雇い主が倒れた辺りで勝手に解雇したらしい。それを、同じ家で働いていた俺の弟が助けて、そのまま二人は恋に落ちた。もう俺とは別れているんだし、元々俺とは恋愛関係にあった訳じゃあないから、彼女が幸せならそれで良かった。二人の結婚式も見届けて、最後に援助はもういらないって言われて、それもそうだよなって納得して。 もうやれることがないなって思った。俺にやれることはない。何も、何も。そうしたら急に妙に困って、学生時代の友人であるヨージローを訪ねた。彼のところでは子供が生まれていて、冗談で彼が伯父さんだぞ〜なんて教えるから、俺は親戚のようになっていって、あの街に行くのにもついていった。 それで、全部。何にも面白みもない話。 「辛かったですね」 田舎だった。 確かに住所は教えていたし(それくらいが礼儀だと思っていた)、文通も続けていたが、だからと言って突然連絡もなくやってくるとは思わなかった。彼の先輩であるこの家の現在の家主だって、聞いていなかったようで驚いていたし。トランク一つでやってきた少年に、もう青年と言える彼に好きですと、だからすべて教えてくださいと、覚悟は決まっていますと言われてしまえば、もう口をつぐんでいる理由もなくなった気がして。つらつらと連なる面白くもない過去。今更語って涙するようなことはない。悲しむべきことはちゃんと当時悲しんで、今は穏やかに過去になっているのを眺めるだけだ。なのに青年は辛かったですね、と俺を抱き締める。まるでそうすることが当たり前のように。そう言えば姪から在学中は学校の教会を私物化していたと聞いていた。 似合う、と思う。 「…そうでも、ないぜ? もう過去のことだしな」 「だから過去形で言ったじゃないですか。今の貴方は過去を過去として受け入れているし、過剰に囚われている訳でもない。過去は今の貴方を延長線上に置くもので、決して切れないものだと貴方は知っている」 「もしかして褒めてる?」 「褒めてます」 ぎゅう、と抱き締める腕に少し力が込もる。 「それにですね、恐らく貴方が先輩のお父上を訪ねたのは、困ったから≠カゃないんじゃないですか」 「じゃあなんだと思うの」 「さみしかったんじゃないでしょうか」 思わず瞬く。 「貴方は、そういうことを言わなそうですし」 「あー…」 「出来たら私とまったく会わなかったこの三年間も、そうだったのであれば嬉しいですけど」 「うわ、うわ…ああ、もう、うん」 完全に一手先を行かれた気がする。笑ってしまう。 「そうかも」 抱き締め返すのにもう抵抗はない。 「ああ、うん、そうだったんだ」 「さみしかったですか」 「うん。お前は」 「さみしかったです。あと、」 「うん」 「貴方に優しくされたかった」 だから今泣きそうです、と言われて、ああ本当に俺はひどい大人なんだなあ、と再認識した。 * image song「シンデレラグレイ」米津玄師 *** 累計推定サティスファクション *√放課後 迎えに来てください、と珍しくそれだけの簡潔なメールを貰って何事かと思った。急いで返信で場所を聞くと、よく使う駅の名前が送られてきた。 「…酔ってる?」 同居している姪(正しくは姪ではないが便宜上姪)に断って飛び出して来たというのに、駅前に来て目に入ったのはどう見ても酒の入った青年の姿だった。 「はい」 「お前未成年じゃなかったっけ」 「この間成人しました」 「あれそうだっけ。いやあ、よその子の成長は早いな」 「…そうやって、子供扱いをする」 「悪い悪い」 ふらふらします、と言う青年に肩を貸してやる。そういえば出会った時彼はまだ中学生だったんだよな、と思い出すと、それほどの時間、自分に費やさせてしまったのかと罪悪感すら湧いてくる。 「…何か余計なことを考えていませんか?」 「いーや? 別に」 姪に彼を家まで送る旨をメールする。身体の弱い彼女には先に寝ていて欲しかった。鍵を持ってきて良かった、と思う。 「ほら、家まで送ってやるからそれまで起きてろよ」 「徒歩ですか」 「ヤバそうならタクシーいるし、使うか?」 「大丈夫です」 そんな会話をしながら進む夜道の風は冷たくて気持ちが良かった。 ほら着いたぞ、と初めて足を踏み入れた彼の家は整理整頓の行き届いた部屋だった。この年頃の青年というのはもっと部屋が乱雑でも良いような気がするけれど、イメージ通りと言えばイメージ通りだ。ちなみに家主はと言えば道中なんとか会話はしていたけれども、もう三分の二以上寝ている。声を掛けて上着だけ脱がせてやって、ついでにその長い髪をくくっているのも解いてやる。そうしてベッドに放り投げてやって、とりあえずは任務完了だ。とは言え殆ど初めて酒を飲んで酔っ払っているだろう青年を放っておく訳にも行かない。死ぬようなことはないだろうが。姪に今日は泊まっていくとメールを送る。既読はつかないのでもう眠ったのだろう、良いことだ。 そうしてから煙草が吸いたい、と思って立ち上がる。流石に人の家の中で吸うのには家主の許可がいるだろうから、外に出るつもりだった。 のに。 服の裾が引かれる。 「…いてください」 掛けられたのは思いの外細い声だった。 「何、さみしいの」 「さみしいです」 「酒に酔ってるからだよ」 「ええ、だから行かないでください」 「何も、こんなオジサン捕まえなくても」 「貴方が良かったんです」 思わず固まる。 「………なあ、そういうのは、」 「同世代の女の子に言え、でしょう。貴方の言いたいことなんか分かってるんですからね」 「なら、」 「でも嫌です」 腕が頬へと伸びてくる、半分ほど起こされた上半身に引き寄せられる。 「五年も経ったはずなのに、貴方しか考えられない」 端正な顔が近付いてくる。 正しい道を選ぶなら、此処で拒絶でも何でもするべきだった。 最初は触れるだけ、次は唇を食むように、その次は迷いなく舌を伸ばして。その何処かたどたどしい動きに毒気を抜かれたのもあるのかもしれない。ん、と息の合間にやけに甘い声が出たのと、ベッドの方へと引き寄せられたのは同時だった。 「天草、」 「ヘクトールさん」 好きです、とだめ押しのように囁かれた言葉に、この五年と少しでゆるやかに歯止めを失った心ではそれ以上何を言うことも出来なかった。 簡潔に言うと、絆されるには充分すぎる時間だった。 *** 雨の箱庭 太陽のような人だった。そう思っていたから自分はいつしか雨なのだと思っていた。この思いもまた、それに類するものだった。何もかもを今は濡らしていくこの雨も嵐も兄の前ではいつしか晴れるのだと、そう信じていたかった。 「アルジュナ」 兄が呼ぶ。弟を呼ぶ。いつもの声で。そうだ、私は兄にとって弟で、それでしかないのだと思い出す。兄の。 好きな人には、成り得ない。 「アルジュナ、そのだな。うまく言えないんだが」 その先の言葉を、私はずっと前から知っている。 「俺は弟として、お前が好きだ。だからお前の願いをすべて叶えてやりたいと思う」 そう、兄の言葉は決まっていた。兄として、永遠に変わることのないこの人の言葉は、いつだって私のためのものなのだ。 * 箱庭に雨はふらないはじめからだれも救われないのだ、雨垂れ / 加藤治郎 *** 少女の敗北 その先輩が好きだと気付いたのはいつのことだろうか。校内の教会を私物化しているという先輩のことは有名で、彼はどんな話も誰にも言わずに聞いてくれる天使のような人なのだと言われていた。私もそれにお世話になったうちの一人だ。それがきっかけで、私はくだらない秘密を先輩に打ち明けるようになり、教会の常連となった。秘密があれば先輩は教会への滞在を赦してくれた。本当は先輩の場所ではないので先輩が許可しなかったところで私が締め出される訳でもないのだけれど、それでも教会は先輩のためにあるようで、生徒の殆どがそうしていた。 先輩は時折聖書をめくりながら私の秘密を聞いていた。その様子があまりに自然なので私は途中何度も勘違いしそうになったものだ。先輩は私といてくつろげるのだと、そんなことを勘違いしそうになった。 でも、先輩は私といると営業用の顔しかしないのだ。それは先輩が私を眼中にも入れていない証拠だった。私は先輩に笑って欲しかった、でもそれは大それた願いだった。 「先輩は、」 「はい」 「好きな人がいるんですね」 「はい、います」 そう返した先輩の顔を見た時、ああ、と私はやっとこの恋を終わらせる決断をしたのだ。 先輩は笑っていた。今まで一度も私に向けられなかった笑顔が、その相手を思い出すだけで浮かべられたのだ。私の完敗だった。 ああどうか、と私は願う。 先輩の恋がうまく行きますように。 * 好きだった 君が聖書をめくる音 空を許して消えてゆく虹 / 千葉聡 *** 泡沫の約束 仕事を見つけたんです、とマシュは言った。ちゃんと休暇の取れるところで、だから此処にもたくさん遊びに来ます、と。 「…遊びに来て、良いですよね?」 「勿論だよ」 わたしは頷いた。 「何もないところだから、マシュがそう言ってくれてちょっとほっとしてる」 マシュのことが好きだった。だから会える時には会いたいけれど、ずっと此処に縛り付けておくのも怖かった。マシュの可能性をわたしが潰すかもしれない、それだけが。マシュもそれが多分分かっていて、だからちゃんと自分のやりたいことを優先した。マシュの人生とわたしの人生は隣り合うけれども完全には重なり合わない。 「…でも、将来的にはそちらに行きたいです」 「その時は野菜でも作って暮らそうか。無人販売所みたいなの」 「私たちでも出来ますか?」 「マシュの分まで勉強しておくよ」 その時までわたしが生きていられる可能性は正直低かった。けれどもわたしはそんな約束する。わたしがその約束を守りたかった。 約束を糧に、生きたかった。 * 道端で本当ばかりを並べたて 神様みたく暮らしてみたい / ロボもうふ1ごう *** 美しい君の香り 生まれた日は雨だったと聞いていた。それを私に繰り返し寝物語のように囁いていたのは母であるその人だった。貴方は雨の日に生まれた私の息子、紛れもない私の息子、繰り返される言葉は暗に兄のことを否定しているようで嫌だった。 だから兄に言ったのだと思う。 「私は雨の日の息子なのです」 驚いたように兄はその美しい目を丸くして、それから私の頭を撫でた。 「そんなことはない」 兄の優しい声がする。 「お前は太陽に愛されている」 優しい腕が私を抱き締める。 「俺が愛している」 私はその言葉が私と違うものだなんてその時は全く思っていなかった。 * 寝返りをうつあなたからあふれだす雨の匂いにまみれたいです / 田丸まひる *** 20170713 |