「願うだけならありでしょう?」


「古橋」
硬質な声が古橋を呼び止めた。
真っ暗な学校の裏門。
この時間はいつも裏門は開いていないから、
利用する人間は花宮の特製メニューをこなしたあとに、
少々高い柵を飛び越える元気のある者に限られる。
だからこそ、古橋は今日、こちらを選んだのだが。
一瞬心臓が止まるかと思ったのを振り払い、振り返る。
其処には、予想通り、山崎が立っていた。

部活を終え、てきぱきと身支度を整えてさっさと部室を後にしたのは、
前日山崎に対してやらかした、という気持ちがあったからだ。
ひどいことはしない、と言っておきながら、
あれは割りとひどいことだったと冷静になると思えた。
それを受けさせられた山崎にとっては、
謝られることすらそれを呼び起こす引き金にしかならないだろう。
このまま忘れてしまう方が山崎にとっては幸せだ。
覚えていたところで、汚点にしかなりえない。
そう思ったから、山崎が何か言いたそうにしていても触れなかったし、
山崎と関わることも必要最低限に抑えた。
こうして帰りのルートを若干変えることまでしたのに。
「…何だ」
「昨日の、こと」
それ以上山崎が何か続ける前に遮る。
「山崎には悪いことをしたと思っている、謝っても足りないとも思っている。
だから、忘れて良い。
オレにも必要以上に関わらなくて良い。
お前が言うなら退部だって考える」
山崎は鈍器で殴られたような顔をした。
きゅ、と唇を噛むのが見える。

それが山崎の持つ一つの癖であることは、古橋には良く分かっていた。
良く分かるくらいには見ていた。
だって好きなのだ。
見てしまうのは当たり前と言って良いほどに付随する行為だろう。

何か言いたいことがあるけれど、上手く言葉に出来ない。
上手く言葉に出来ない自分の不甲斐なさに苛立つ。
その癖が示すのは、そんなところだ。

しばらく続いた沈黙を、古橋は黙って受け入れていた。
山崎が何か言いたいことがあるなら、古橋にはそれを受け止める義務がある。
そう思っていたから。
…というのは大義名分で、
本当は山崎が自分に向けるものは全て、ちゃんと受け取りたかっただけ。

やがて、当て嵌められる言葉が見つからなかったようで、
山崎は眉根を寄せた怖い顔で吐き出した。
「忘れられるかよ」
それもそうだ。
価値観とかそういったもので形成される世界を、ぶち壊すようなことをしたのだから。
「…悪かった」
喉に張り付きそうな謝罪を捻り出す。
言ったところで、許された気分にさえなれなかった。
当然だ、これは山崎が全てを忘れるための手助けなのだから。

しかし、山崎は尚もかぶりを振った。
「オレが欲しいのは謝罪じゃねーよ…」
「…じゃあ、どうしたら良いんだ」
途方に暮れた古橋に、もう本人に問う以外に手はなかった。

「責任、取れよ」
「…は、」
思わず、声が漏れた。
責任、とは。
「好きとか分かんねぇ。
お前が言うのも、正直理解し切れなかった。
だから、その、責任ってのは付き合うとかじゃなくて。
オレから、逃げんな。
もっと、分かんなくなる」
震えるような、掠れるような、
中身が透けて見えるようなぐちゃり、とした言葉。
「お前が瞼の裏に、張り付いて、離れなくて。
だから、」
泣きそうな顔で、見ようによっては青褪めているようにも見える表情で、
山崎が言うのを古橋はやや呆然として見ていた。

それは、きっと、恐怖だ。

答えは直ぐに出た。
それを指摘してやるのは古橋にとって容易だったはずだ。
けれどしなかった、出来なかった。
それ程までに感情を植え付けたのが、場違いにも嬉しかったのもある。
今まで特別な名前なんて付いていなかっただろう古橋という小瓶に、
山崎の心の中でジャンルはどうであれレッテルを付けさせたのだ。
古橋にはそれすら喜びに感じられた。
だから余計に、やっと手に入れた、未だほわほわと彷徨っているレッテルを、
恐怖なんていう明確なものにしてしまいたくなかった。
それが何なのか分からないでいる間は、山崎は古橋を見ていてくれるはずだから。
どんな形でも良いから山崎の目に映っていたい。
不毛にも、古橋はそう思ってしまっていた。

そして何よりも、指摘してしまえば、山崎は自分を嫌うだろうと思ったからだ。
この感情の所為で気持ち悪がられる覚悟はしていた。
それでも山崎は古橋を嫌うことはしない、
古橋がずっと見てきた山崎とはそういう人間だった。
しかし、どうやら古橋の思う以上に、昨日の出来事は山崎を傷付けたらしい。
恐怖を抱く程に傷付けられた人間は、それを自覚した後どうするか。
それは想像に難くない。

自己防衛に回る。
それが大多数だろう。
そして、その大半が加害対象を嫌う、という手段を取るだろう。

それは嫌だった。

古橋自身、自分が繊細であるなどとは思っていない。
嫌われることは、何としてでも避けなければならないことでもない。
だが、古橋にも一般的な感情というのは備わっているのだ。
価値観も同様に。
好いた人間には出来るだけ嫌われたくないと、そう思う心が。

だから、その指摘は出来ない。

「わかった」
動揺を悟られないように息を吐く。
「責任、とる。逃げない」
じっと見つめて、一言ひとことかみ締めるように言い放つ。
「おう」
未だ揺らぐ瞳をした山崎は、それでも分かりやすく笑顔を作った。



「…帰るか」
山崎の言葉に二人は、疲弊した身体に少々の鞭を打って柵を乗り越えた。
街灯に照らされる道の半歩先を歩くその背中を見つめる。
「…続いたら、良い、のにな」
「あ?何か言ったか?」
山崎が振り返った。
古橋は首を振る。
これは、言ってはいけない願いだ。
でも、
「何でもない」

そうか、と言って山崎は前を向く。
また、その広い背中が古橋の視界に映る。

ああ、これは紛れもない幸せだ。



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20130122