いえないきもちをたまごとじ パンを作るのが趣味だと聞かれたのはその時が初めてだったし、そういえば口に出してそう言ったのも初めてだった。 「そうなのか」 少しの間ぽかんとしていた山崎はにぱっと笑顔を見せた。 「すごいな!」 すごい。 その言葉がほわほわと古橋の中に浸透していく。すごい。古橋が好きでやっていることが、褒められた。 「…料理も、出来るぞ」 「そうなのか!? すげーな」 俺は野菜炒めくらいしか出来ねーや、と言う山崎。食べてみたいな、との声に古橋は顔を上げる。 そして、一つ提案をした。 「なぁ、明日、弁当を交換しないか」 察しのいい山崎はすぐに分かったらしい。 「お前が作ってきてくれんの?」 「ああ。でもちょっと二人分はキツイから」 「お前の分は俺が負担する、と」 「…どうだ?」 首を傾げると、山崎はうん、と勢い良く頷いた。きらきらと、目が輝いている。 「それ、言いな。やろうぜ」 「分かった。明日な」 「楽しみにしてっかんな」 楽しそうに笑う山崎に、明日のおかずは卵とじにしようと、そう決めた。 * image song「卵とじ」倉橋ヨエコ *** いつか来るかもしれない未来を夢見て コンコン、とノックされる研究室の扉。はぁい、と間延びした声で返事をしてから、一番その近くにいた俺は扉を開けた。 どうも、と頭を下げたその向こうの相手は背の高い男だった。短い黒髪、死んだ魚のような目、陶器みたいに色のない肌―――知らない顔。 ええと、何か、と首を傾げてやれば、山崎弘はいるかと問われた。やまざきひろし、同じ研究室所属の同輩だ。今は奥の部屋で作業をしている。友人か何かだろうか、そう思って、呼んで来ようか、と問えばいや、忘れ物を届けに来ただけだから、と彼は言った。 渡しておいてくれると嬉しい、とその忘れ物を預かって、その背中が廊下の角を曲がって消えたところで気付く。先ほど忘れ物を届けに来て欲しい、と電話する山崎に絡んだ俺は、恋人か、と問うた。それに対して山崎は、曖昧に笑うだけで否定しなかった。割合溌剌とした人柄の山崎にしては珍しい反応だな、とは思ったが。 忘れ物を持って奥の部屋へと入る。 「山崎」 「なに」 呼び掛けに顔も上げない同輩に、忘れ物、届いたぞ、とそれを手渡す。渡された山崎は一瞬びっくりしたような顔をしてから、それからありがとう、と笑った。そのまま作業に戻ろうとする。 のを、俺は声を掛けて引き止めた。引き止めてから軽率だったな、と思った。なに、とこちらを見つめて来る山崎に、後戻りは出来そうにないと感じた。えーと、あの、と言葉を濁す俺を、山崎は何も言わずに待っていた。 「…なんつーか…お前ってゲイなの?」 「お前結構繕わないタイプだよな」 「自覚はある」 「あんのかよ」 「悪かったな」 「いや。俺はお前のそういうとこ、美徳だと思うけど」 回りくどくよそよそしくされるよかマシだ。そう山崎は呟く。そしてそれから、会ったんだな、と呟いた。それは俺に問いかけたというよりも、自分で確認するための言葉に聞こえた。まぁ俺も否定しなかったしな、しょうがねえか、というのはその前の恋人の件のことを言っているのだろう。 「あー…ゲイとか、そういうの…それは俺もいろいろ考えたけど、多分俺ヘテロだよ。アイツだけ例外。何か心理学的にも証明されてるらしい…? んだっけかな」 聞いたことあるな、と頷けば、だろ、と返って来た。 「だから、多分、アイツと駄目になったら女と付き合うんだろうなぁって、あー…」 がん、とテーブルに打ち付けられる頭。 「だめだな、ちょっと考えただけでめっちゃヘコんだ。アイツと駄目になったら俺大分引きずるわ、次の恋愛とか無理かも」 その様子にどうやら幸せらしい、と思って、それからふと浮かんできたことをそのまま尋ねてみる。 「だからお前、英語めっちゃ出来んの」 「え?」 「なんつーか、この先海外とか」 「あー…んー、別にちゃんと考えてる訳じゃねーけど、いざそうしたくなった時に何もないよかマシかなってその程度だよ」 あんまり未来のヴィジョンがしっかりしてるって訳でもねーさ、と言う山崎の背中を、とりあえず叩いて置いた。そうだな、しっかりしてたらこんな実にもならない研究室にいねーよな、と言えば、お前は、と苦笑される。 「ていうかお前、時間大丈夫なのかよ」 「時間?」 「さっきバイト行くとか言って帰り支度してなかったっけ」 言われてはっと気付く。そうだった、バイト。時計を見やればまだなんとか大丈夫な時間だ。 「俺行くわ」 「おー、がんばれ」 呑気な山崎の声を背に、俺は研究室を出た。 建物の外へと出ると、太陽がさんさんと照っていた。勿論、先ほどの山崎の恋人の姿は何処にもなかった。結構イケメンの部類だったよな、と思う。山崎は案外面食いなのかもしれない。 息を吐く。 「結局ノロケだったよな、アレ」 誰に言うでもなくそう零れた言葉に一度大きく伸びをして、足を踏み出す。 「あー! 俺も恋してー!」 そんなことを叫びながら。 *** 五度の世界 いつか、戻って来るから。 そう言って古橋は冷凍庫の中に帰って行った。山崎にはいつ帰ってくるか予想もつかないので、とりあえず冷凍庫には古橋用に必要なものが入っている。 古橋康次郎は、ある日突然山崎の家の冷蔵庫から出て来た男だった。本人曰く、冷蔵庫の向こうにはこちらと同じように国があって、古橋はそこで暮らしていたのだと。それがどうしてこちらへとやってきたのかと、その質問には答えてもらえなかったけれど。暑いと溶けてしまうんだ、とそう言った古橋はよく冷蔵庫の中に入っていた。どういう仕組みなっているのか知らなかったが、山崎家の小さな冷蔵庫に入って、その身体を冷やしては体調を整えていた。 ―――いつか、戻って来るから。 その言葉だけを信じて、山崎は鍵を冷凍庫に放り込む。冷たければ冷たいほど持ちやすいのだと、そう笑っていた古橋のことを思い出しながら。 小指がずっと冷たいような気がした。別に約束は果たされなくても良かった。この指が冷たいような気がしているうちは、それで良いと思った。 *** 言葉より息が詰まる 土曜日の昼練。 「ミセドいかね?」 体育館の使用割り振りの関係でそれは三時には終わり、いつものメンバーで片付けが終わるのを待っていた。唐突にそんなことを言い出した原に山崎は首を傾げる。 「ミセスドーナツ? なんでまた」 「なんか今フェアやってんのー。限定食いたいじゃん」 ほらこれ、と見せられた携帯画面には美味しそうなドーナツの画像。文字を読めばフェアは今日かららしい。 「今ちょうど小腹も空いてるし、どーかなって」 小腹が空いているのは山崎も同じだ。財布にも余裕があったはずだし、いいな、行こう、そう言うために開いた口は、微かな違和感によって閉じられた。 今、何か感じたような。 ジャージの襟が首を掠めた? いや、そんな感じではなかった。じゃあ、ジャージが少し背中側に落ちた? 一人でに? まさか。 振り返る。中途半端に手を宙に漂わせている古橋が、罰の悪そうな顔をしていた。 「あー…」 咄嗟に言葉が出なくて、そんな間抜けな声が唇から出て行く。 「原、それ今日からだよな?」 「んーそうだよ? 何、今お財布寂しいの?」 「ん、そんなとこ」 原の位置からは古橋の行動など見えなかったはずだ。しかしそのどことなく笑いの滲んだその声は、すべて分かっていると言っているようだった。 「じゃあまた誘うわ。そん時はみんなで行こ」 「みんな?」 「花宮とか瀬戸とかも誘ってさ、そんなら良いでしょ?」 流石に一人でミセド行く勇気はないからさ、ついてきてよ。古橋に目で問えば、僅かに首が縦に振られた。 「おう」 短く返す。 そうして原が行ってしまってから、ようやく古橋、と名を呼べた。 「………悪い」 「別に、怒ってねーよ」 限定のドーナツ、うまいと良いな、と笑えば、こくり、と縦に小さく振られる首。その何処か幼さを感じさせるような仕草に、胸の中がふわふわしたもので満たされるのを感じていた。 *** 高カロリーにつきご注意 フルーチェに生クリームを入れたら美味しいらしい。そんなことを何処から聞いてきたのか真夜中、古橋が突然やろうと言い出して、少しだけその話に興味を持った俺はするすると流されて。 そのカロリーのやばそうなフルーチェを作ってみたところで、余った生クリームはどうするかという話になった。 「凍らせた果物を生クリームに入れると良いらしい」 一体全体何処でそんな情報を、とも思うが、脳裏のちらつくのは高校時代のチームメイト、頭の色がお祭みたいな奴だった。あいつならばとっかえひっかえの女たちから女子力の高い情報を仕入れていても可笑しくはない。 そういう訳で真夜中、冷蔵庫に入っていた苺を冷凍庫に放り込んで、あーだこーだ言いながらフルーチェをつつき、そうしてやることがなくなった辺りで生クリームを泡立て始めた。 のだが。 「おまえ砂糖多くいれたろ、今」 「…気のせいだ」 「いやぜってー多かった。二倍はあった」 何事にも規定量というものは存在するというのに、古橋はどうしてかそれを破っていく。 「お前そんなに甘いの好きだったっけ」 こうして一緒に暮らすようになって、食べ物の好みは流石に把握したと思っていたのだが。違ったのだろうか。 対する古橋はハンドミキサーの先をじっと真面目な顔で見ながら、そうだな、と呟いた。 「なんとなく、許されるような気がしたんだ」 「許される?」 「入れた砂糖の分だけ、お前に愛を伝えても許されるような、そんな気が」 頬がじわじわとあつくなるのを感じていた。 「…っとにお前はもう…」 「なんだ」 「変なとこでロマンチストっていうか。そんなん許されなくても伝えてこいよ馬鹿」 「………山崎も人のこと言えないと思うが」 充分に角の立ったクリームにハンドミキサーを止められた。味見、と称して一口食べた唇をそのまま押し付けられる。 「…あっま」 「でも嫌いじゃあないだろう」 心なしかドヤ顔の恋人に返す言葉は肯定しか残されていないのだ。 * 「泡立てた生クリームに入ってる砂糖のぶんだけ愛を伝える」嶋田さくらこ *** 夏色をした世界 決して血色が良いだとか褐色だとかは言えぬその指先を見つめる。 太陽は眩しかった、そこから古橋を溶かそうというかのように―――目の前の橙の頭が振り返る。 「何してんだよ」 「なんでもない」 「ならいーけどよ」 また前を向いてざくざくと、黄色の海を掻き分けて行く。 このまま二人、向日葵に水没してしまえたら。 *** 透明の血液を。 こころのかたち 秘密だ、と古橋の薄い唇が紡ぐのを山崎はぼんやりと眺めていた。 ぜったい、だれにもいうな。子供のような、わざと強い言葉を選んでいるのだ、それは山崎にだってすぐに分かる。しかしそれでもその口調は、何処までも穏やかに聴こえた。 見なかったことにしろ、と尚も唄う頬に手を伸ばす。その痕跡を拭ってやると、指先を壊れた水泡が濡らしていった。この男も涙を流すのか。そんな当たり前のことを今更ながら知って、山崎はそのことに感動していた。心が打ち震えるのを感じた。あの、能面のような。 古橋康次郎も人間だったのだと、そんなひどい感想を抱きながら、ただただその指先を濡らしていく。 素晴らしいことだ。何も言わずに、山崎はその眸に触れる。 体温で温められた雫が生ぬるくて、それだけが古橋の感情の証明のようだった。 *** 今ここで抱きしめたい 迂闊だったと、言ってしまえばそれだけだったけれど。 「お前は、オレのことが好きなのか」 じっとその静かな瞳で見つめられて、山崎は返す言葉が咄嗟に浮かばなくて口ごもってしまった。それが何よりもの肯定だと気付いたのは一瞬後のことで、既にその時は後の祭りだった。 「…そう、か」 古橋にはあますことなくその想いの有無が伝わってしまって、ああ、と項垂れる他ない。 「…気持ち悪ィとか思ってんだろ」 「…いや」 「無理すんな」 覆った顔を上げることも出来ないで其処にしゃがみこんだ。 「俺だって、正直良く分かんねぇよ、ホント。今まで好きになんのは女だったんだよ、お前どう見ても男じゃねーか。なのに、なのに、時々お前がすっげー可愛く見えるときがあるって言うか、いや、その、女みたいに見てる訳じゃねぇんだけど…あーもう!」 余計なことまで口走っている気はしたが、恥ずかしさのあまり口をついて出る言葉たちは止まらない。 「いろいろ俺だって考えたけどな! めっちゃくちゃ悩んだけどな! でもこれ嘘でも勘違いでもないからな!!」 勢いに任せてそう叫びながらばっと顔を上げると、目に入ったのは。 「おま、」 「ば、か。見るな馬鹿野郎」 耳まで赤く染めて、古橋は口元を手で覆っていた。 かわいい。 もう可愛いという形容詞が男へと、しかも同い年のバスケ部に所属する、筋骨隆々とまではいかなくとも、それなりにしっかりとした身体を持つ男へと与えるものではないなんてことは、どうだって良くなっていた。今までで一番大きなその感情がぶわり、と音を立てて胸から全身へと広がっていく。ばくばくとうるさい胸の音はさっきまでとは違った嫌な汗を伴うものではなくなり、そう、こめかみがきゅんきゅん言うような。 「お、まえ、が」 「え、あ、」 「あまりに、予想通りの反応を、するから」 言い訳のように言葉を、やっとのことで吐き出すと、古橋は同じようにずるずるとその場にへたり込んでしまった。その顔はもう、ふせられてしまって見えなかったけれども。 髪の隙間から見える耳が、あまりにも真っ赤なものだから。 *** 自己犠牲のカナリア おしえてくれ、と縋る声がぞわぞわと背中を駆けていく。こんなものを甘美だと思うほど俺はだめな人間だったか、そんなストッパーまがいの自問自答をしても意味などない。 「…わかった」 手を伸ばす。 それが頬に触れた瞬間どうしようもなく嬉しそうな顔をするのだから、もう。 *** 私を塞ぐピアス 魚になりたいと、そんなことを思ったのは人魚姫の絵本を読んでいた時だった。委員会の仕事中のこと。童心に返ることも必要だと、新しく図書室に入った絵本たち。それを整理している最中、どうせなら読んでみるかと手にとったのが偶然人魚姫だっただけ。 魚になってしまえば、読み終わって本を閉じたあとにも、その思考は尾を引いていた。いつか、別れる、と思う。古橋は山崎に好意を抱いているし、山崎もそれに応えようとしてくれてはいるが、それはいつだってちぐはぐで、だからこの先の未来がずっと永劫続いていくなんてことはないのだ、と思う。それはどちらかと言えば古橋の問題であった。山崎はそれを責めるようなことはしないけれど。 「許さないでくれ」 だから、縋り付く。 叶わない思いとして処理するのにはこの感情は膨大すぎた、だからせめてこの思いを処理する切欠として、傷が欲しかった。きっといつか消えるだろうのに今この瞬間古橋をひどく痛めつけるこの感情を、それでもこの感情を抱いてしまったことに罪悪感すら抱けない自分に罰を、罪を、認識させていて欲しかった。いつか消えた時に、その傷を見て思い出せるように、ずっと古橋が許されないでいるために。断罪の言葉が欲しかった。痛みならきっと忘れないから、忘れることは出来ないから。 でも。 「許すよ」 山崎は言う。古橋の言いたいことを分かった上で、理解した上でそう言う。それが痛くて辛くて、でも傷にはならなくて。きっといつか忘れてしまう。こんなに優しい日々があったことを、古橋はきれいさっぱりに忘れてしまう。人魚姫のように泡になりたかった。山崎を忘れてしまう自分なんて消えてしまえば良いのに、忘れないでいることもきっと出来ないから。 それなのに、この腕が優しすぎて、ずっと此処で眠っていたいなどとそんな罰当たりなことを願うのだから。本当に、どうしようもなかった。 * image song「聲」天野月子 *** |