優しさの終着点



優しさの終着点 

 「堪忍な」
練習が終わり、二人しかいなくなった部室で突如放たれた謝罪に、桜井は首を傾げた。何に対しての謝罪だろう。もしかしていつも青峰を探し回っていることについてだろうか。思い当たった桜井は、青峰サンのことですか? と問う。眼鏡の奥の糸目は何を考えているのか分からないし、チェシャ猫のように歪む口元も、更に彼の考えを覆い隠してしまう。桐皇の主将、今吉とはそういう男だ。
 ロッカーの場所故にしゃがんだまま着替えていた桜井は顔を上げて、そろりそろりと近付いて来る今吉を見上げる。そして気付く。やたらと苦しそうな表情をしていることに。
「…キャプテン…?」
さっきの問いかけの答えはまだ返って来ない。そのままの表情で目線をあわせるように今吉が屈んで、
「え」
思考は、追いつかなかった。
 ふにり、と柔らかいものが唇に触れて、眼前には閉じられた眸。あ、睫毛長い、なんて場違いにも思いながら、桜井はやっと自分がキスされていると気付いた。
「…んッ!?」
強引に舌を捩じ込まれ、懐柔するように口内を荒らされる。抵抗しようと遅れて動き出した腕は簡単に絡め取られ、そのまま床にゆっくりと押し倒された。
「ふ、ぁ、」
呼吸のタイミングすら奪われ、無防備に酸素を求めたのを好都合と言うように。苦しくて、本能的に目を閉じてしまった。
 暫く貪るように続けた後、ちゅ、とわざとらしく音を立てて唇が離れた。恐る恐るというように目を開ければ、一番に目に入ったのは今吉の唇で。どちらのものともつかない唾液で濡れたそれはあまりに艶かしい。
「…きゃぷ、てん?」
満足気に、でもまだ何処か苦しそうに唇を舐める彼に、声を掛ける。
「なん、で…」
「…せやから、謝ったやん」
最初の謝罪はこのことだったのか。眼鏡越しにも眸は可笑しく揺れているのが分かる。こんな表情の今吉を、桜井は見たことがない。
「堪忍な、ずっと桜井のこと見てきてん。もう耐えられんわ」
もう一度降って来るであろうそれに、桜井はそっと目を閉じる。それが受け容れることを覚悟した合図になると、分かっていてそうした。
  自分の中にある気持ちがどうであれ、こんな表情(かお)をした今吉を、全力で拒絶など、出来るはずがないのだ。



中途半端な僕ら

 「さくらい」
普段からは想像出来ないような拙い声が耳に滑りこむ。
「ん…ッ」
「さくらい」
額や瞼にキスが降ってくる。
「こえ、だして」
こうしてる時の今吉が、驚くほどくしゃりと歪んだ顔をしているのを、桜井は知っている。
 練習後の部室で押し倒されてから、幾度となくこういうことを続けてきた。今吉から桜井へ向いた矢印は紛れもなくラブであるのだが、桜井から今吉へのそれは未だにちゃんとした形をなさない。意地悪や駆け引きで桜井が答えを出さないんじゃないと分かっている今吉は、最初の一回以来そのことを口にはしないが。
 欲を吐き出し終えて、同じベッドの上ふわふわと漂う桜井を、今吉はやたらと優しく撫ぜる。まるで壊れ物か何かを扱うように。
「…桜井は、ワシのこと軽蔑せんの?」
そんな表情(かお)して何を言うんだ、と叫びたい。
「して欲しいんですか? キャプテン」
「して欲しくはない。けどな、誰にでもこういうことするん? て思うやろ?」
落ちてくる視線は束縛や侮蔑を含んだものではなく、ただ純粋に心配を彩っていて。ああ、この人も自分も大概だな、なんて思うのだ。
「誰にでもって訳じゃないです」
「…そうか」
理由は言わない。貴方のその表情(かお)の所為です、なんて、責任転嫁な発言はしたくない。
「なぁ、桜井」
ぎゅう、と抱き締められ耳元で懇願するように囁かれる。
「ワシに堕ちへん?」
甘美な言葉だなぁ、と思いつつも、それに応える術はない。
「…考えて、おきます…スイマセン」
それと同時に、突き放す術だって持てやしないのだ。



不穏の影 

 「今吉サンとデキてんの?」
青峰にそう問われた時、桜井が動揺しなかったと言えば嘘になる。
「えっ!?」
目を見開いて声を上げたのは咄嗟に出た無意識の反応だったが、特に怪しまれるものでもなくて安心した。
「な、何ですかいきなり…」
「んー…いや、ちょっと。気になって」
こめかみがどくどくと脈打つ音が聞こえる。手のひらに嫌な汗が溜まっていくようで落ち着かないのを、無理矢理そっと吐き出した息でやりこめた。
 瞬間、桜井の頭はフル回転を始める。部活を引退した後も今吉は、諏佐を連れて二週間に一回程度の割合で顔を出す。が、その時に特に進んで会話をすることはない。練習に来るようになった青峰を構い倒すのが常だ。人の来るような所でいろいろあったのは最初の部室でのことだけだし、その後は今吉の部屋に呼び出されたり、桜井の家に来たり、だ。人目には気を使っていたはずだし、そういうことの誘いもメールのみ、カモフラージュになるかは分からないが体は勉強としている。いくら寮の壁が薄いと言っても、生活音を遮断するくらいの機能はある。だから元々声を出さない質らしい桜井の声が、漏れていることもないだろう。そもそも、今吉の部屋は奥まったところにあり、人通りはないに等しい。寮生の部屋に寮生ではない生徒が泊まることも桐皇では珍しくなく、宿泊許可は毎回ちゃんととっているが、その頻度が多くても特には疑われないはずだ。今吉がうっかり漏らすとも思えない。桜井も覚えている限りでは失言も何もしてない。
 切り抜けられる。
 「で、どうなんだ?」
「え、あ、付き合ってはいません! スイマセン!!」
いつもの通りに余計な謝罪までついて、少し自分が嫌になる。けれど、いつもの癖が出るくらいには動揺は収まったらしい。ちゃんと質問には答えられたようで安心した。嘘も吐いてはいない。そもそも今吉の一方的なそれを完全に拒めていないだけで、付き合っているとかではないのだから。
「そうか、なら良いんだけどよ…」
納得してないのがありありと分かる表情で青峰が立ち上がる。
「青峰サン…?」
「今日は練習遅れてくから。若松サンにテキトーに言っとけ」
「は、はい…」
教室から出て行く後ろ姿を見送る。それから自分の荷物をまとめて、部活に向かうべく立ち上がった。  ざわざわとまだ騒がしい廊下を歩いて行く。
 否定した時に何処か痛い気がしていた。
「…きの、せい」
言葉にしても、何も変わらないと分かっていた。



歯車は加速する 

 「お前、バスケ部の元主将とデキてるんだって?」
知らない男たちに手近な教室に連れ込まれ、唐突に聞かれたのはそんな内容だった。
 放課後、部活に向かおうとしていた桜井は、現在進行形で囲まれている。校章の色からして二年生と思われた。
「オレたちさー今年の初めにバスケ部退部してんの。何でか分かる?」
直ぐに思い浮かぶのは青峰の姿。特別扱いと言える破格の待遇の中、その他を見下したような彼。それに対する不満を全て突っぱね、気に入らないなら辞めろ、と静かに口にした今吉。
「あ、その顔は分かってるね?」
「多分アタリだよ、それで。オレたちは青峰のことで主将に直訴して、可哀想に辞めさせられた奴らだよ」
何をもってして可哀想などと言うのだろう。きっと、今吉は追い詰めた訳じゃない。ただ一つの選択肢を提示しただけだ。それを選んだのは、今桜井の目の前にいる彼らだろうに。
「だからアノ人に復讐したくてねー。でも全然隙とかないから。ほんっと、君が居てくれて良かった」
復、讐? 桜井は小さく唇を噛む。何を言い出すんだ。直接は聞いたことはない、それでも桜井には分かる。部活中、時折見せるあの懺悔するような表情が、誰に向けられているかを。桐皇バスケ部主将として、全ての思いを背負っていく覚悟があったのだと。無念だ、横暴だ、と言われ続け、青峰をエースに据えた責任を、一人で受け止めていたあの人に、何を言うんだ。
「君なら青峰にもちょっとはダメージ行くかもしれないし?」
「まぁ、驚いたけどねー」
「あの鉄壁みたいな主将の弱点が後輩だなんてなぁ」
弱、点。息が詰まりそうだ。ただ拒めないだけの自分にそんな価値などあるものか、叫びたくなる。こんなどろどろとぬるま湯に浸かっているような自分が、あんなにきれいに苦しむ彼の、そんなものになり得るはずがない。
「バラされたくなかったらさ、オレたちのお願い聞いてよ」
バラすも何も、付き合ってませんが。と、啖呵を切ればたらいいのだろうが如何せん度胸が足りない。何も言わないでいる桜井を肯定と見たのか、男たちが詰め寄る。
「ふぅん、こうして見ると、君、ほんとに可愛い顔してるよね。それで主将も誑し込んだの?」
「こういう大人しそうな奴に限って淫乱だったりするんだよなー」
「アノ人咥え込めるなら、オレたちでも大丈夫だよね?」
くだらない、と思ったのも仕方がないと思う。
「ヤラせてよ。そしたら黙っててあげるからーさッ」
どん、と壁に押し付けられ、一瞬息の仕方を忘れる。痛い、と思いながらも目を瞑ったら屈したことになる、などと思う。
「へー。割と攻撃的な顔もするんだ。こっちが本性?」
「愛しい今吉さんのために普段は大人しくしてるってか? 泣けるねぇ」
煩いな、と思うも桜井の力では反撃など出来ない。何より、無駄な抵抗をして怪我でもしたら。
 バスケが、出来なくなるかもしれない。
 それは桜井の身体を硬直させるには充分だった。
「まぁ、愉しませてよ―――」
 ガラリ、と教室のドアが開いたのは、本当に神がかったタイミングだった。
「…諏佐、サン」
「うちの後輩に何か用か」
低い声で問うと、男たちは動きを止めた。その間を逃さない桜井ではない。
「ッて、こいつ…ッ」
弾丸のように包囲網を突き抜け、諏佐の元へと走り抜ける。
「オレの後ろにいろ」
言われるままに背中にしがみついた。
「宇多野、志賀、喜田、立海に倉俣か。久しぶりだな。元とは言え後輩囲むような、大事な用事でもあったのか?」
自分の名前が呼ばれたことに、それが顔を見て名前を思い出すと言った動作だったことに、彼らはとても驚いたようだった。それ以降は桜井もちゃんと聞いていなくて、気付いたら教室に彼らの姿はなくなっていた。
 「桜井、もう大丈夫だぞ」
頭を撫でられる。
「何で…諏佐サン…」
「青峰に聞いてな」
安堵したのだろうか、膝から力が抜けそうになるのを、気力で堪える。
「最近桜井の周りをうろうろする奴らが増えたから、注意しててくれって」
諏佐の話をまとめると、屋上のいつもの場所で昼寝をしていた青峰は、そこでされる不穏な会話を聞いてしまったらしい。だからこの間、様子が変だったのか、と桜井は思う。今吉とデキているのか―――その疑問は、そんな話を聞いたからこそ出たものだったのか。
「あいつらはもうああいうことはしないから安心してくれ。…こちらのゴタゴタにお前まで巻き込んで、悪かった」
「い、え…」
崩れ落ちる。怖かった。今吉とあの男たちでは比べ物にならないとは分かっている。方や良く知る上品な先輩、方や知りもしない下品な複数人。だけれど、此処まで差が出るとは思わなかった。同じ行為のはずなのに。息がちゃんと続いているのか不安になるくらい、他のことを考えられない。
「桜井、過呼吸か?」
諏佐が背中を撫でてくれている。なんとか頷けば、何処から出したのか、口元にビニール袋があてられた。狂ったように息を吸う。
 ああ、でもきっと、今吉なら、嫌だと言えば止めてくれるんだろう。
 薄れゆく意識の中で、桜井はそれだけを思った。



落下する善意 

 目を覚ますと、白い天井が目に入った。保健室のようだ。過呼吸に陥ったあと、そのまま気を失ったらしい。涙の痕も全て綺麗に拭き取られていて、諏佐には悪いことをしてしまったと、桜井はため息を吐いた。あの時、感じたのは、紛れもなく恐怖だった。拒めないだけと言えども、好きでもない人間とする行為、というのは変わらないと思ったのに。桜井の身体は非道く正直なように思えた。
「…目、覚めたか」
不意にした声にカーテンの向こうを見やる。聞き違えることなんてない、それは今吉のもの。先ほどのため息を聞き取ったのだろう。ずっと、外にいたのだろうか。
「入って良えか?」
「…どう、ぞ」
上体を起こしながら小さく応える。
 控えめに開いたカーテンの隙間から今吉が入ってくる。
「すみません、ご迷惑をお掛けしました」
何か言われる前に謝罪を吐き出す。この人のことだ、どうせ自分の責任だとか言ってまた背負い込むんだ。桜井はそう思っていた。それならば、先に言ってしまえば良い。
「迷惑はかかっとらんよ」
今吉は小さく言うと、ベッドの横に腰掛けた。
「もう、苦しない?」
「はい、大丈夫です」
良かった、と息を吐いた今吉は微笑う。
「もうこないなこと、やめよか」
頬を撫ぜる手は限りなく優しさに満ちていて、それを拒めない自分を正当化してしまいたくなるくらいに。
「桜井に危害加える奴がいたら、そりゃ勿論ワシがやり返しに行くんやけど。その前に、桜井に嫌な思い、させとうないし」
いつもは温かい指先がひどく冷えているのが、気になった。
「もうワシの所為で、桜井に嫌な思い、させとおない」
貴方の所為じゃない。からからに乾いた喉から、その言葉は出ていかない。あんなにきれいに、一人でその責任を負って悩む貴方が、悪いなんて。そんなこと。喉の張り付いて唇さえ動かない。
「堪忍な」
頬を撫ぜていた手が髪を軽く梳いた。何も発することのない桜井の唇に、接吻けが落とされる。触れるだけ。これが最後だと、言われているのが分かった。
「ほんまにワシ、桜井のこと好きやってん。それは本当や」
今まで、ありがとう、と。確かにその表情に微笑みを浮かべて今吉は立ち上がる。それでもまだ、桜井は何も言うことが出来なかった。
 今吉がカーテンの向こうに消える。それから保健室のドアが開く音、申し訳程度に投げられた失礼しましたーという声、ドアが閉まる音。重力に従うように後ろに倒れ込む。掛け布団も引き寄せ、その中に包まる。
 最後まで、今吉はきれいだった。そして、限りない優しさに満ち溢れていた。それがどうしてなのか、桜井はちゃんと分かっている。この関係が始まる時にしっかり伝えられていたのだから。それを今までのらりくらりと躱してきたのは自分だ。信じられなかった訳ではない。最初に拒めなかったことで、その優しさに良いように甘えてきただけ。甘さが心地好いからと言って、期待だけさせるなんて非道い話だ。だから、これは正しい結果なのだ。
 自分に言い聞かせるように桜井はぐるぐると思う。しかし、胸に隙間風が吹いているようなこの感覚が消えない。
 さみしい。その感情の名前を漸く探し当てて、少し驚いた。
 「…そんなこと、言う資格、ない、のに…」
枕に顔を埋める。
 胸がきゅう、と痛む音が聞こえていた。



正しい距離 

 全てがあの日の前に戻ったようだった。今吉の桜井への接し方はそれまで通りで、ただ身体を重ねることだけがなくなった。あれらがまるで夢だったようで喉が乾きそうだ。だけれど、時折感じる甘ったるく灼けつくような視線が、顔を上げて確認せずとも誰から向けられているか分かってしまうそれが、何一つ夢ではなかったのだと伝えていた。
 あの日胸に見付けた寂しさに、桜井は苛まれていた。何をしていても今吉の顔が浮かぶ、些細な日常のことにも影がちらついた。首を振って意識から追い出しても、一度自覚したものは消えてはくれない。  卒業式の日はあっという間にやって来た。
 主に課外授業の時間を使って練習した送る歌が、空に消えていく。入場、退場と桜井の目は自然に今吉を探していた。どちらでも見付けることは出来たが、今吉が桜井の方を向くことはなかった。ずきり、と胸の辺りが疼く。

 三年生はまだ学校に来ることはあるだろうが、それでも卒業式は一つの区切りだ。男子バスケ部でもその認識に例外はなく、卒業式の後は体育館でささやかな卒部式が行われた。三年生には現部員から花束とプレゼントの贈呈。二年の先輩が今吉に花束を渡すのを、桜井はぼんやりと拍手しながら見ていた。卒業式らしく、その花束はスイートピーだった。
「合格発表はまだやけど、ワシも諏佐も東京に残ることになるやろなぁ」
からからと笑う声が聞こえる。東京に残る、その言葉がすとん、と落ちてきた。なら、また、直ぐ、とそこまで考えてはた、と気付く。またって何だ、直ぐって何だ。ぐるぐると回り出す。横では青峰が何やら言いたそうな顔で桜井を見ていた。
 ボクは、何を。
 「良」
短く、青峰が呼びかける。
「今吉さん、行っちまうぞ」
言われるままに、視線は体育館の出口に向かった。花束を持った今吉、もう靴は履かれている。体育館を出て行くその背中に、桜井は自分の中で何かが切れかかるのを感じた。よろ、としゃがみ込むとバッシュの紐を解く。じりじりと導火線に火が点いたように何かに急かされる。
「桜井?」
これから練習が始まるというのにバッシュを脱ごうとする後輩に、若松が声を掛ける。
「すみません、外周、行って来ます!」
靴を取りに部室に走った桜井を、誰もが不思議そうに見ていた。
 追って、どうしようと言うのだろう。靴に履き替えた桜井は走った。頭の中で警鐘が鳴っている。でも、止まることだって出来やしない。
 今吉の背中は直ぐに見えた。その隣には諏佐がいる。どうして良いか分からず立ち止まると、諏佐はこちらに気付いたようで、何やら今吉と二言三言話すと去っていった。今吉が振り返る。
「…さくらい」
目が合った。瞬間、ぶわりと胸の辺りから指先つま先まで全身が暖かくなる。これを求めてた、もう誤魔化しは効かない、でも桜井は言葉を知らない。
「迷惑、たくさんかけたな」
今吉は笑った。
「でも、ワシ、後悔はしてへんから。ひっどい奴やと思うけど、それでも。ワシはこれから先、桜井のこと忘れられへんと思うけど、桜井は忘れて良えで」
ほな、元気でな、とまた背が向く。だめだ、行ってしまう。
 服の裾を掴んだのは完全なる無意識だった。
「…桜井?」
何処か期待を込めた声で今吉が問うが、その手を放すことが出来ない。
「行かないでください」
いつものスイマセン、はつかなかった。そのことに少し安心する。
「今吉サンは、狡いです」
もうこうなったら思考なんて追いつかない。止める間もなく溢れるように、言葉が桜井の口から零れていく。
「今吉さんがそんな表情(かお)するから、ボクは今吉さんを拒めないのに。泣きそうな顔でボクが欲しいなんて、言う、から。ずっと、その表情が、頭から、離れなくて…」
どうしてか涙に染まる声に、一旦鼻を啜った。
「今吉サンは、狡い、です」
もう一度重ねた言葉の後は、もう顔なんて見れなかった。今すぐ逃げ出したいのに脚に根が生えたように動かない。今吉の足元を見つめたまま、ず、とまた鼻を啜る。
 「その台詞、そっくりそのままお返しするわぁ」
効果音をつけるのなら、ふわり、が妥当だろう。それくらいに優しく抱き締められていた。
「ワシがどんな気持ちで手放したと思うとるの」
「…ボクのことを思っていてくれたのは分かります」
自惚れでも何でも良い、桜井にはそう感じられた。はぁ、と今吉がため息を吐くのが聞こえた。
「もう手放したりせぇへんからな。覚悟しぃ」
「今吉サンこそ。クーリングオフは受け付けてませんからね」
強気にそう返せば、くい、と頬を包まれた。
「今度はちゃんと答えてや?」
目が合う。
「好きや、さくらい」
その優しい声に、眸に、手に。愛おしくて堪らないと、全身で訴えられているようで。
「はい! 僕も…ッ今吉サンが、すきです」
 ああ、やっと掴めた。

***

加速の理由 

 「そういえば、何であの人たちにはバレたんでしょう」
今までずっと疑問だった。桜井が今吉の弱点になり得るのは置いておいても、聡明な今吉がそれを悟られるような真似をするのだろうか。
「あーそれな…携帯見られてん」
今吉がかこかこと携帯を弄り、何やら画面を呼び出す。
「これ」
見せられた画面に表示されていたのは確かに自分が送ったメールだった。
『ボクも好きです
明日のお弁当 楽しみにしててくださいね』
ぱちり、と瞬く。確かこれはアスパラガスのベーコン巻きの話だったと思うが。
「ベーコンアスパラの話やってのはワシが一番よく分かってんねんけどな。桜井に好き言われたみたいで、思わず保護してもうたんよ」
その保護してあるのを見られてな、と済まなそうに眉を下げる今吉に、じんわりと胸が暖かくなるのを感じた。



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