Lion Drop



 「は?」
花宮は問い返した。
「古橋がいなくなった?」

まるでだめな二人の話(推定) 

 それなりに人の出入りのある手頃なカフェ。駅前のそれを指定され呼び出された時にはまた喧嘩したのかと思っていたが、どうやら違うらしいと花宮は今更ながら気付く。目の前にいる山崎は久しぶりに会ったから、という言い訳が通用しない程に窶れて見えたし、その原因が古橋が居なくなった、などと言うのだから。
「だってお前、マンション買ったって」
「ああ、その引越しの隙に逃走された」
 山崎と古橋は大学生の時からこじんまりしたアパートに二人で住んでいた。そのことを花宮は知っている。元々古橋の猛アタックから始まったその関係が、人が思うよりもとても良好であることもまた、知っている。相性が良かったのか、はたまた愛のなせる業なのか、それは分からなかったが。同性であることなど正直忘れてしまうくらいに、傍から見た二人は穏やかで、時には羨ましく感じる程にうまくいっていたことも知っているのだ。
 「アイツ、仕事も辞めたみたいで…実家の位置も変わってたし、どうして良いか分からなくて。古橋のこと、相談出来るやつもそんなにいないし」
 それが、逃走?
 にわかには信じがたい話だった。古橋が、というのもまたそれを助長させているように感じた。あれほど―――あれほど。色ごとに疎い花宮でさえ気付く程に、熱い視線を山崎に送っていた古橋。愛に大きさなどないのかもしれないが、古橋のそれは紛れもなく強大であって、この関係が破綻するとしたら山崎の方からだろうとしか思えない程だったのに。
「オレ、何かしちまったのかな…」
手元のカフェオレを無駄にかき回しながら山崎が呟く。弱々しいその声は、未だ現実を受け入れられていないようだった。無理もない。山崎は新しく良いマンションを買っていて、近いうちにそこへ古橋と共に移り住む気でいたのだから。
 きらめく未来が一転、引越しの隙に失踪されるなんて。
 「何か変わった様子とかなかったのか」
仲が良いとは言っても喧嘩は何度もするし、その度にこの馬鹿は花宮に相談しに来るのだけれど、古橋の変化一つひとつを余すことなく拾えるのは、彼の恋人であるこの男だけなのだ。一縷の望みをかけて問う。しかし、きっと、答えは予想通りなのだろう。
「…特にこれといって気付かなかった」
力なく振られる首。それがあまりに痛々しくて、誤魔化すようにコーヒーに口をつける。
「お前が分からない古橋の変化が、オレに分かる訳ないだろ…」
 どこに行ったんだ、古橋。カフェの窓から見上げた空は、腹が立つ程に青かった。
 夏の気配がしていた。



 「来月、引っ越すから」
山崎がそう宣言したのは、本当に突然のことだった。


まるでだめな二人の話(確信)

 「引っ越す?」
古橋はその言葉を繰り返す。引っ越す。それは住居を移転することだ、辞書は見ていないから確かなことは言えないが、三十年近く生きてきてその中で知っているそれなりに日常会話で使う言葉だ、大幅に意味を取り違えていることはないだろう。
「ああ、引っ越す」
山崎は神妙な面持ちでもう一度言った。その表情に古橋はそうか、と返すことしか出来なかった。山崎が真剣なのが良く分かったから、それ以上言うことが出来なかった。
 「部屋、見るか?」
言葉を探していると山崎が沈黙を繋ぐように言う。とりあえず、と言ったように古橋は頷いた。驚いた、というのが今のところは一番だ。繰り返すがそれは本当に突然のことで、それ以外の感情が湧いてこない。ほら、と山崎が渡してきた冊子を受け取る。
 その部屋は、とても綺麗だった。駅から徒歩五分の家族向けマンション。山崎の今の稼ぎならば楽に、とは言わなくてもそれなりの余裕を持って買えるだろう。それを古橋は知っている。何を血迷ったのかこの男は口座等の全権を古橋に渡してあるのだ。馬鹿か。故に古橋は山崎の稼ぎを事細かに知っているし、剰え其処から小遣いという形で山崎に金を渡したり、管理は殆ど古橋の仕事だ。持ち逃げされたらどうするつもりだろう、そんなことはしないが。
 話は逸れたが、山崎がマンションを買うということは非常に現実的な判断で、寧ろ今までこのボロくさくて狭いアパートに二人でぎゅうぎゅうと暮らしていたのは、このためかと一瞬で理解出来る程だったのだ。故に、古橋は何を言うこともしなかった。
 それに。
 引越しの準備を着々と進めていく山崎は、とても楽しそうに見えた。古橋とて仮にも今現在はこの男の恋人なのだ、何を思っているかくらい、大体の予想がつく。それでなくても、分かりやすい人間なのだ、山崎は。隠しもせずにうきうきと荷物をまとめる姿を見れば、答え合わせなど最早必要ない。
 古橋は息をつく。
 これが、山崎の幸せであるのなら、それで文句などないのだ。
 だから、古橋は逃走することにした。立つ鳥後を濁さず、それを実行するかのように、素早く、何も残さずに。
 まるで、それが自分の最後の使命だとでも言うように。



 花宮は視線の端を掠めたその人影を無視することなど出来なかった。走る、はしる。これは自分のためだと言い聞かせて。社会の波にもまれて厭世的な部分が削れたのだとか、人を想うなんて気持ちが育ったのだとか、そんな生ぬるい話ではないと。有り体に言えばあまりにも―――憐れだったから、それに他ならないのだ、と。

まるでだめな二人の話(未来) 

 「…古橋ッ!!」
雑踏の中で自分を呼ぶ声に、思わず振り返ってしまったのが間違いだった。自分の中に植え付けられた反射のようなものが、あの三年間すべてを支配していたと言っても過言ではないその声が、古橋を振り向かせるに至ったのであったが、古橋にしてみればその振り返ってしまったという結果のみが間違いだと言う他に何もない。
「はな、みや」
これが瀬戸や原であったのなら。事情を知らないであろう二人ならば街で見かけたところで古橋を追っては来ないだろう。例え追って来たとしても逃げられる自信がある。
 しかし、花宮はだめだ。
 確かに高校の三年間のあれは、古橋自身が望んだものではあったが。それでも花宮には絶対的な権限があって、それを優先するのはたった三年で拭えない程に染み付いている。
「久しぶり、だな」
「久しぶり」
時間、あるよな。そう言って掴まれた腕を、振り払うことなど出来るはずがなかった。

 近くの喫茶店に連れ込まれ、コーヒーを頼んで一段落。
「なんで山崎から逃げたんだ」
その言葉に、責める色合いはなかった。本当に、分からないから教えて欲しいのだと、そう言われているようで。ぐ、と古橋は手を握る。
「オレは…オレは、山崎を解放してやらないといけなかったんだ」
「うん」
「それはきっといつか来ることで…ただ、オレは切欠があったから行動に移した」
「それが引越しだったってのか」
広い部屋。それを思い出してきゅっと唇を引き結ぶ。綺麗な部屋だった。きっと二人で住むには広すぎるほどだろう。ああ、と思った。
「山崎があの家を出て、一緒に暮らしたいと思える人がいるというのなら、それで良いと思ったんだ」
何処か不器用なあの男を支えられるのは自分一人であれば良いと願っていた。けれど、そうはなれないことも何処かで分かっていて。だから山崎がこの関係をやめたいとそう言うのなら、それがいつでも黙って応じよう、と。
「終わりが来たって、ただそれだけのことだったんだ。山崎があれだけ楽しそうにしてたんだから、きっと大丈夫だろう、って」
「…古橋?」
花宮が怪訝そうに声を掛ける。
「お前、何の話をしてるんだ?」
「何って、」
「あの部屋は、お前のために買ったものだろ?」
 頭を、鈍器で殴られたような心地がした。
 「だって、」
接続が正しくないだとか、今は気にする余裕もない。
「だって、あれは、山崎が恋人と暮らすために買った部屋で、」
そう思ったからこそ古橋はあんな行動を起こしたのだ。何も言わずに姿を消すなんて、そんなことを。自分がいたら山崎の未来を邪魔してしまう。あの顔に似合わずひどく誠実な男は、古橋が視界にちらつくことで、要らぬ罪悪感すら抱いてしまうのだろう。それは、だめだと。そう思ったから。
「その恋人っていうのはお前だろ?」
花宮の、言葉が。
 信じられなくて。
 「…そん、な、こと」
「じゃあなんで山崎は俺ンとこに来たんだよ」
苛々と花宮が言葉を紡ぐ。それらがつぶさに古橋の胸を抉って行く。
「泣きそうな面して、お前がいなくなった、何か知らないかって。迷子になった子供みたいに、寄る辺なさそうに」
眉尻を下げたその姿は、いとも簡単に浮かび上がる。途方に暮れた、そんな表情。未だ反射的に想像出来る程、古橋は山崎を忘れられていない。
「どう考えてもお前のために買ったマンションだろ」
そんな、彼が。
「山崎はまだ待ってるぞ」
自分を。
 「会わないのか」
「…会えない、だろ」
こんなに、自分勝手な行動をしたあとなのに。それなのに花宮は古橋にあそこに帰れと言うのか。
 なんて、ひどい。
 「…そうか」
花宮はそれだけを言って手元のコーヒーを啜った。古橋も同じようにコップを持ち上げる。
 入れすぎた砂糖が喉にしみた。



まるでだめな二人の話(過去) 

 その部屋を最初見た時空っぽだと思った。けれどその空っぽさも二人でなら埋めていけるなんて、どうして夢見たのだろう。
 古橋が目の前から姿を消してからも、その部屋を手放すことなど山崎には出来なかった。もしも、古橋が帰って来ようと思ってくれたら。そう思う心がそうさせていることは誰に言われるまでもなく分かっていた。
 女々しいと笑われるかもしれない。けれど山崎には古橋との思い出を、痕跡を、捨てることなど、捨てて新たに人生を歩むことなど考えられなかった。
「…古橋はそうじゃないのかもしれないな」
古橋はすべてを忘れて自由に生きているのかもしれない。彼は存外強い人間だったから。けれど、山崎は。
「出来ねぇよ…」
 二人で選んだカーテン。派手すぎるそれは古橋の趣味だ。何とか説得していくつかあった色の中でも一番に落ち着いて見える緑にしたが、それでも派手派手しいのが隠せない。
 ガラス製の重たい机だって二人で選んだものだ。板部分の下が見えるなんてわくわくしないか―――そう言ったのは古橋だ。透けて見えるその下には簡素なラックがついていて、古橋の集めていた食玩が可愛らしく並んでいる。
 食器棚を開けば常に二セット揃っている食器たちが仲良く並んでいる。基本的に山崎のものが青で、古橋のものが緑。勿論例外はあるが。最近では青の方しか使ってはいないが、緑の方が奥へしまわれるということもない。
 冷蔵庫を開けてみれば、“よく振る”とミミズののたくったような文字の注意書き。料理があまり得意ではない中で、ドレッシングだけはやたら張り切って作っていた古橋。もう中身はとっくに使いきってしまったけれど、洗った瓶を捨てることも、ましてやそのラベルを剥がすことさえ出来なかった。
 生活の至る所に見つかる、古橋の痕跡。今はもう古橋がいないことをわざわざ主張するようなそれは、山崎をひどく苦しめるはずなのに。
 何ひとつ、捨てることが出来ない。
 前の家にあったものはすべてこの部屋に運び込んだ。それらは古橋の部屋になるはずだった其処に丁寧に並べられていて、古橋がいないというこの事実を可笑しいとまで感じさせてくれる。
 古橋との関係を知っている人間は決して少ないとは言えなかった。そのうちの何人かは憔悴する山崎を見て、忘れてしまえと言った。お前は良い奴だよ、そんなお前を捨てた古橋なんか、忘れてしまえ、と。山崎を思った言葉なのは良く分かっていた。そうした方が精神衛生上もきっと良いのだと、これからの人生にも、山崎弘としての今後にも、良いのだと分かっていたのに。
 忘れられない、忘れられる訳ない。
 「…どこ、いったんだよ…」
情けなく震える声に答えるものはない。
「こうじろう…」
 ああ、どうして。せめて納得出来る理由の一つや二つ、あれば良かったのに。



まるでだめな二人の話(進展) 

 ふるはし、とその声が耳に入ると同時に、腕を掴まれた。振り返らずともその主が分かる。
 忘れたことなど、なかった。毎日毎日、夢にまで出てきて古橋を呼ぶ声。
 花宮だ、と反射のように思った。花宮が、山崎に話したのだと。確かに古橋は口止めしなかったが、だからと言って山崎がこうして来てくれることを望んでいた訳ではないのだ―――恐らく。
 まさか、望んでいたなんて。
 本当にそうだとしたら、古橋はあまりに自分本位過ぎるだろう。
「花宮に、聞いた」
言葉は予想通りだった。
「もどってこいよ、ふるはし」
迷子になった子供みたいな、という花宮の言葉が浮かんできた。確かに、そう見えた。ふるえる、ふるえる声。行き場を失った感情がぐるぐるぐるぐる、古橋の耳から喉の奥へと滑り込んで来て、つん、と痛みが走った。
「…戻れない」
そう返したところで山崎が素直にその手を離すことはないと分かっていた。
 案の定、古橋の望みとは逆に力が込められる。じゃあ、と掠れた声がした。
「じゃあ戻って来るんじゃなくて良いから、また一から始めるで、良いから…」
 懇願。声だけではない、古橋の腕を掴んでいる手も、ひやりとしながら震えている。緊張しているのだ、それが分かった。
「おまえじゃないとだめだ、こうじろう」
 ああ、と脳髄から歓喜の震えが伝ってくる。ここまで―――ここまで。過去に、求められたことがあっただろうか。過去だけでない、現在、そしてこれからの未来、こういったことがあるのだろうか。その答えを出すのは容易い。否、ないのだろう。これはたった一度、巡りあう運命のようなものだ。たった一人、ここまで愛してくれる人間が、世界に二人といるはずない。それが山崎なのだから、これを幸せと言わずして何と言えというのだろう。
「…オレ、は」
乾いた唇に唾液をなじませる。むぐ、とささくれ立った皮が少し動いた。
「オレは、山崎の人生に、責任が持てない」
 言ってしまったら、そのあとは洪水のようだった。
「ここまで来て何を、と思うかもしれないが、持てないんだ。オレばかり幸せで、幸せすぎて、いつか終わるって思っていないとやっていけないくらいで。山崎は、山崎はいつか…いつかちゃんと、女を好きになるんだと思ってた。その方が良いって思ってたし、今も思ってる。その方が山崎にとって真面な幸せなんだって、そう思ってる」
「でも、」
「山崎はオレの欲しい言葉を、絶対にくれる。でも、今はだめだ、だめなんだ。オレは…オレは。お前に甘やかされすぎている。でも、それは、だめだ」
 顔を上げる。泣きそうな瞳と目が合う。
 ああ、と思った。ああ、だめだ。
 なのに。
「だめ、なのに…」
 ぷくり、と下眼瞼の外側にまあるいたまが生まれる。
「オレは、お前がすきだ」
はじけた球体は頬の丸みに沿って落ちていった。
「すきなんだ、山崎、すきなんだ…好きで好きでどうしようもなくて、離れたいのに、それでも好きでたまらなくて、お前と、」
 今度は古橋が山崎の腕を掴む番だった。そのまま引き寄せる。
「お前と、一緒にいたい…!」
「…ばか」
小さく吐かれたのは悪態だった。
 そっと、腕が背中へと回る。
「おせえよ」
「ああ」
「強情っ張り」
「ああ、」
「自分勝手」
「ああ…ッ!」
 ぎゅうと、息の根を止めに来るかのような容赦のない抱擁が、こんなにも嬉しい、なんて。
「もう、もうッ、お前のところからいなくなったり、しない」
「聞こえねーよ」
 少しだけ、腕が緩められて向き直る。
「…ッ、オレを、幸せにしてくれ」
「ばーか、ずっとそのつもりだったっつーの。任せろ」
 数年ぶりのキスは、ひどく塩辛かった。



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