好きなのにね 山古

 手を。
 振り払うことをしなかったのは一度でもそれに頷いたからだとか、そういう義務感からではない。ただこいつを、拒絶するのは違うと思った、それだけだ。
「…古橋」
ああ、と思う。
 そんな、胸がいっぱいになるような声で呼ばないでくれ。



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***

愛してくれなくてもいいの 山古

 さつまいもが食べたい、と言った。それは休み時間の喧騒に消えることなく向かい側の男に届いたらしい。
「焼き芋すっか」
「する」
「じゃあ日曜な」
これついでに返しに行くからもう移動しようぜ。
 借りたらしいラノベの、その主人公の媚びるような目線に勝った気になった。



さつまいも、ラノベ、休み時間
ライトレ

***

約0.08m3の安全領域 山古

 水音のする浴室。山崎の長い脚がバタついて浴槽を擦るのを、古橋はその首に手をかけながら眺めていた。苦しいのか睨み付ける目元には力がなく代わりに涙が零れている。幾ら体格に差があると言ってもこんな狭い場所で馬乗りになられては山崎に勝ち目などない。ついでに言ってしまえば山崎の腕も古橋の身体の下だ。現時点で山崎に対抗策はほぼないと言って良い。掃除の途中だった蛇口からは未だ水が流れてていて、また浴槽を満たし始めていた。どうやら栓が何かの拍子に嵌ったらしい。
「ふるっは、し、」
喘ぎの隙間から呼ばれる名前に、全身全霊が篭っているようで愛おしい。ぎりぎりと抵抗するように古橋の足首を握っていた掌から少しずつ力が抜けて行くのを感じながら、古橋はじっと山崎を観察していた。水面はもう少しで山崎の厚さ分を満たしてしまう。そうしたら山崎は更に苦しくなるんだろう。暴れれば暴れる程口に水が入って、どんどん呼吸が出来なくなっていく。涙をぼろぼろと落とす眦は赤く染まっていて、とろりとしていて、まるで情事の最中のようだ、とぼんやり思った。実際の情事ではこういった表情をしているのは自分の方であるのだろうが。
 「っふ、う…ッは…ひッ」
そのガタイに似合わない甲高い声で呼ばれて、古橋はやっとその手をのけた。急激に入って来た酸素に咳き込み水面に沈みかねない山崎の首の下に腕を入れ、起こして抱きかかえる。げほごほと必死に呼吸をする山崎はされるがままに古橋に寄り掛かった。水に濡れてぺったりとした橙の髪が古橋の胸までも濡らしていく。
「山崎」
大きく上下するその背中を申し訳程度に擦りながら古橋は呼び掛けた。
「苦しかったか」
「…ったり、まえ、だろ」
けほ、と一度咳き込んでから何とか山崎が声を発する。それでも怠さが残っているのだろう、その身体は古橋に寄りかかったままだ。
「なん、で、そーじ…してたのに。くび、しめられ、なきゃ…いけ、ね、ン、だよ」
「なんとなく」
「…あ?」
掠れて更に凄みの出た声が胸の辺りから返って来る。
「山崎は、何処まで許してくれるんだろうか、って、気になったから」
「んだよ、それ…」
抗議のつもりかぐり、と側頭部を押し付けられた。
「オレが、ゆるす、の、わかってやってん、だろ」
ああ、これだから。背中にあった手を伸ばして抱き締める。
「…山崎は、馬鹿だ」
「…んなの、こーこーん、ときから、わかってるだろ」
それに返すようにゆるゆると服の端が握られるのさえ、ひどく愛おしいと思った。



睨む、涙、浴槽
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***

僕に全てを委ねる君の危うい甘さ 山古

 「やめとけって」
話が終わったタイミングで、山崎はオレの目の前にことり、とコーヒーカップを置いた。
「消費者金融ってアレだろ、サラ金。やめとけよ、良い話聞かねぇし」
湯気が立つそれは今しがた山崎が淹れてくれたものだ。良い香りもする。いつの間にこんな技術を身につけたのだろう。高校の時はそもそもコーヒーを淹れてもらったことなどなかったが。
「…だけど銀行は無理だ。もうそれくらいしか残ってない」
「だからって」
「それでも金はいるんだよ」
床に視線を落とす。
 高校卒業、大学進学、大学卒業。時を経ても交流のあったあの五人の中で、今や一番稼いでいるのは山崎だった。あの頃の自分たちにそれを話したところで誰が信じるだろう。山崎自身でさえ笑い飛ばすはずだ。

「幾らいるんだよ」
顔を上げる。
「お前になら金くらいやるよ」
ずくり、と胸が痛んだ。
 最初は、この言葉が聞けるだけで良かったはずだ。そんなところで金を借りるな、どうしても困るのならオレが貸してやるから。山崎なら自分にそう言ってくれるだろうことはこの長い付き合いで既に分かっていた。けれど、本当にそうしてくれることを望んでいた訳ではない。ただ、嘘でも良いから、気休めで良いから言ってくれれば、それで思いとどまれると思った。余裕のない自分に、山崎のその危うさが歯止めをかけられると思っていた。
 でも、現実は予想よりも甘かった。
 山崎の瞳は胸焼けしそうな程に甘くて、喉が詰まる。目の前にあるはずのコーヒーの香りさえ分からなくなる。山崎は、本気だ。本気で、自分に無償(とはいかないのだろうが)(きっと山崎が無償でと望んでも法が許さない)で金を渡そうとしている。
 それは、ひどく、おそろしい。

 「…山崎の馬鹿」
そう口にして、コーヒーを啜るしか出来なかった。
 苦いはずのコーヒーは、やたらと甘く感じた。



即興小説「コーヒーと消費者金融」

***

我が人に赦す如く我の罪を赦し給え 

 この手が。
 古橋は興奮ともつかない感情を持て余していた。この手が、この手が。この手がやったのだ、と先ほどの試合を思い出す。指示された通り、花宮の言う通り、寸分違わずやってみせた、そういう古橋を花宮は褒めたりはしなかった。そんなことは当たり前だ、此処にいると決めたのならそれくらい出来て当然だ。古橋もそうだと思っていた。だから彼の今に始まった訳ではないそっけない態度には、別段思うことはない。
 しかし、と思う。まだ手は震えていた。恐怖ではない。恐らく一番近いものの名が興奮なのだ、と古橋は思う。会場の、古橋が把握している中できっと一番にひと気のない男子トイレ。しん、と静まり返ったそこで、古橋は荒く息を繰り返す。
 崩れ落ちる身体、瞼の裏に焼き付いている。一瞬遅れた悲鳴、耳の底に沈んでいる。胸がこんなにもどくどくと脈打つことなんて、今までにあっただろうか。自分のことだろうに、古橋にはその感情をどうにかすることが出来ない。だから、誰も来ないであろう場所で一人になって、その波が過ぎ去るのを待つ。
 つもり、だった。
「古橋?」
ひょこ、と覗いたのは見慣れた赤茶色の髪。鶏を連想されるようなそれに、漏れたのは掠れた呼び声だった。
「何してんだよ、花宮が試合後のミーティングするって探してたぞ」
水道の前で手をつく古橋に思うところがあったのか、その声の最後の方は途切れ途切れになる。
「…具合、悪いのか?」
「やまざき」
「具合悪いなら、」
救護室に、と言うつもりだったのだろうか。それとも花宮に連絡、だろうか。まさかあの役に立たない監督に相談、なんてことではあるまい。その様相から馬鹿扱いされることはあるが、山崎はそこそこに賢い男だ。
「やまざき」
先ほどからその名を紡ぐ度、妙に熱がこもっていくのを感じていた。どうしようもない、この感情を情欲にでも変えるつもりなのか。浅ましさに笑みさえ漏れる。
 幼子のように、それだけしか憶えていないように名前を繰り返す古橋に、山崎は一つだけため息を吐いて見せた。呆れられたか、手に負えないと判断したか、此処に置いて行かれるのか、一瞬にして胸の内を不安が走って行く。
「大丈夫だ」
次の瞬間、ぽん、と感じたのは掌のぬくもりだった。
「大丈夫だよ」
小さな子供をあやすように、その掌が古橋の頭を撫ぜる。
 深く、息を吐き出すことが出来た。そこで初めて、浅い呼吸を繰り返していたことを知る。
「…やまざき」
「大丈夫だって言ってるだろ」
「オレ、は、」
「大丈夫だってば」
呪文のように繰り返される大丈夫、に収まりのつかなかった感情が冷まされていくのを感じた。
「周りが何て言おうと、俺はお前を許すよ。
正しいとはいえなくても、あれが俺たちのやり方だ。誰にも邪魔はさせねーよ」
 山崎の言葉の一つひとつが浸透していくようだった。
 ああ、ほんとうは。目を閉じる。
 ほんとうは、誰かを傷付けることが、こわかった。



即興二次
「素朴な許し」

***

パイロットフィッシュの欷泣 

 その箱庭で山崎が受け持つ役目というのは、他との橋渡し、つまるところのその小さな世界に住み続けることで彼らが死んでしまうことがないように、その環境を維持し続けるための、言わば犠牲だった。けれどもそれは強いられたものではなく、ただ単に面白そうなことを企んでいる花宮に一枚噛ませてもらえば、そこそこ楽しい青春が送れるのだろうと、そういった興味本位のものから山崎自身が希望したものである。
 花宮の作り上げた箱庭は完璧という言葉に近いものだったと思う。喧嘩だけはやたらめったら強い原に、何処にも芯がないように靭やかに花宮に従う古橋、花宮には敵わないものの頭の良い瀬戸。その他花宮の使える駒が続々と彼の手元に集っていくのを、その隣で黙って見ているのは楽しかったし、小さな箱庭の中にまた更に小さな王国を築き上げているような彼らが、同時にとても愛おしく思えたのを覚えている。
 そう、難しい感情じゃない、山崎はそう思っていた。何かしら欠けている彼らのために、何か自分の出来ることを。それはただのありきたりな偽善の心で、その元になる好奇心は決して可笑しいことではない。彼らにとって山崎とは普通の人間の代表のような存在らしく、どうして此処にいるのかと目で問われることも数度ではなかったが。山崎は自身の意義について説明したことはなかった。それは問われなかったことと、恐らく話したところで理解は得られないと思っていたからだ。
 そもそも、彼らの真ん中に佇む花宮、彼が理解出来ないとそう言うのだ。それならば彼を信奉するように取り囲む彼らにとっても、同じようなものなのだろう。
 それを哀しいと思ったことはない。苦しいと感じたこともない。花宮の箱庭の庭師のように、ひっそりとその存在の存続に一役買う。誰も知らないところで咲くことを望んだ岸壁の花のように、そう表現したらあまりに気障ではあるが、きっと、そんなふうに。影ながら、というのはとても楽で、それでも同時に絶対的にそこに参加しているというものがあるのだから、心地が好かった。
 心地が好かった、のに。
 やまざき、と掠れた声で呼ぶ目前の人物に山崎は首を振った。
「だめ、か」
芯などないと、そう思っていた。花宮がいなければ生きていけない、そう思っていた。だからこそ、山崎はそれに沿うようにやってきたと言うのに。
「ふるはし」
「だめか、山崎」
咎めるように呼んだ名前も遮られる。
「オレは、オレはお前が好きなんだ、山崎。花宮じゃない、お前が好きなんだ。花宮は尊敬しているけれど、それだけだ。花宮は、」
 いなくても、いきてゆける。
 そう耳に懇願が流し込まれた瞬間、今まで必死で守ってきた世界が崩れていくような気がした。きっと最初からボロボロだった、花宮ならそういうだろうか。それでも、ああ、どうしてだろう。大切な世界を壊した、あまりにひどい裏切りだと言うのに。
 縋りたいと希うようなこの腕を、振り払うことなど出来ないのだ。



「反逆の熱帯魚」
即興二次

***

なつのまぼろし 

 カレンダーにでかでかと、赤いマジックでぐるりと目立つように印を付けられたその日付が、もうすぐそこまで迫っていることを古橋は分かっていた。
 夏の真ん中の日。
 その日のことを約束したのは、冬の真ん中の日のことだった。古橋の家で一緒に夕食を食べたあと、つけっぱなしになっていたテレビ。
『………を此処で見た者は幸せになれるという言い伝えがあり…』
へぇ、と先に呟いたのは山崎だった。
「此処、そんな遠くないよな」
「興味あるのか?」
「興味ってほどでもねーけど。近いとちょっと気になるよな」
ココアの入ったお揃いのマグカップを、両手で持つような動作が可愛らしいなんて思っていた。思っていたが言うと怒るだろうことは請け合いなので、恐らくそのあとにお前の方が可愛いだろ、と少しばかり頬を染めながら言うのだろうことまで想像がついても、それを口にすることはしなかった。
「オレは、興味あるぞ」
そう呟いてみたのはただの気まぐれだった。どういう言葉が返って来るだろうか、そんな。
 私のこと好き? そう聞く、女のように。
 ぱちり、とその目が瞬くのを見ていた。それからそれがふっと緩んで、
「じゃあ行くか」
そう、山崎は言った。
「いや、今の時期は見れないと思うが」
「そーだな。行くなら夏か?」
「山崎、今は冬なんだが…」
「わーってるよ。忘れなきゃいいだけだろ」
 それで付けられた赤い丸。残り一枚になった月めくりの下に掛けてあった新しいカレンダーに、無遠慮とも言える力強さでぐりぐりと印される。
「半年も先のことだぞ」
「だから印してんだろ」
「山崎は案外忘れっぽいからな」
「うるせー自覚はあるわ」
 そんな日のことを。果たされないであろう約束のことを、今もまだ、良く覚えている。

 暑い、日のことだった。
 赤い丸を付けられたその日、古橋は一人でふらりと、その場所までやってきていた。あのテレビも一応は効果があったのか、比較的新しい喫茶店がそこに建っている。山の中に不似合いなパラソルが、取ってつけたような机と椅子のセットにさしかけられていた。
 みんみんみんみん、蝉の声が耳の底まで響いている。来ない、来ない、そう念じながらメロンソーダのグラスを見つめる。中の氷が溶けてからん、音を立ててストローがぐりん、と回った。
 氷に反射する光が眩しくて、その源はどんなに眩しいんだろうと思った。眩しいものでこの目が潰れるなんて幻想は抱いてはいないけれど。
 そうなれば良いのに。そう思った先で。
「………よお」
久しぶり、と続ける僅かに上がった口角に、思わず視界が歪む。
「って、オイ、なんでそんな顔すんだよ」
「うるさい」
「なんなんだよもー…忘れるなっつったのお前だろ」
「だって、」
もう、来ない、かと。
 そう呟いたら思うところがあったのか、片眉が器用に上がってから視線が逸らされた。それから、あーだのうーだの、意味のない音節が繰り返される。
「だって言ってただろ、見たいって。なんだっけその、幸せのナントカ」
「ナントカって」
「忘れた。俺にとってはお前が行きたがってたってとこだけしか重要じゃねーんだよ」
その言葉に目尻の辺りを乱暴に拭った。そして立ち上がる。
 目の前では山崎がやはり困った顔をしていた。
「…悪かったよ」
「それは、この間の喧嘩に対する謝罪ととって良いのか」
「ああ」
「………オレも、悪かった」
同時に吹き出す。
「もっと早く謝ってればよかったな」
「そうだな」
「そうすれば、お前にそんな顔させることもなかった」
「これはもう気にしなくて良い」
 まだ何か言いたそうな唇に、自分のものを押し付ける。みんみんみんみん、と蝉の声が降り注ぐ中、炎天下。周りに人はいない。テレビの効果で一時期は人が増えたようだったが、こんな暑い中好き好んで山登りをする人間は少ない。喫茶店の店主は中で涼みながらテレビを見ている。
「早く行くぞ。暑い」
「はいはい」
繋がれた手はそのままに歩き出す。
 しあわせ、なんて。
 もう充分だなんて、言うのがもったいなかった。



https://twitter.com/x_ioroi/status/489420876480143360
魚骨さんより指定8番

***

花のかたちをした約束 

 どん、どん、と耳の底を震わせるような音に顔を上げる。むしっとした空気の中に突っ込んだ頬が、じとり、少し重たくなった気がした。
 宙に放り出された視線が捕らえた夜空は、花が咲いたようだった。
「きれーだな」
隣で山崎が言うのが聞こえる。
「…ああ」
小さなその返答は音に掻き消されたかもしれなかった。 そういえば、近くで花火大会があるのだと原が言っていた、と思い出す。女の子に誘われてたけどこの練習のあとじゃねー。人混みなんて、と笑った原は真っ直ぐ帰ったのだろう。瀬戸や花宮に関しては言うまでもない。彼らが誰かと(もしくは一人ででも)祭りに繰り出す姿は想像出来ない。
「…らい、」
言いかけて、やめた。
 来年も見れたら良いな、なんて。そんな不確定すぎることを言うものではない気がした。来年自分たちは三年だ、それでもこの時期にバスケをやっているかどうか、怪しいところがある。来年は今年大活躍だったキセキの世代の連中も二年になって、きっとまだまだ進化を遂げてくるだろう。花宮の大嫌いな誠凛のこともある。東京都はいつだって激戦区で、その先に駒を進めることを願っている学生犇く中ではあまりにそれは無謀な約束に思えた。
 どん、といっとう大きな音がしてから、その光を頬に受けながら山崎が振り返る。
「なんで言うのやめたんだよ」
拗ねたような口調だと思った。
「来年もインターハイ勝ちゃー冬出れんだろ。
したら練習もあんだろ。花宮がそうそうバスケから離れられる訳もねーし」
ま、そうでなくても、と続く言葉に目を見張る。
「練習なかったらなかったで浴衣着て祭り行こーぜ。別に受験生だからって、勉強漬けになってなきゃいけねーっつう法律もねぇんだからさ」
 ぱらぱらぱら、と花の音がしていた。ひときわ大きなそれに歓声が僅かにだが聞こえた。そろそろ終わりなのだろう。手が差し出される。
「だから、来年も見ような」
 どん、また大きな花が咲く。その音の下で僅かに動いた唇に山崎は満足そうに笑った。手を取る。
 汗ばんだその掌がどれだけ尊いものか、再認識するまでもなく知っていた。



8月7日は山古の日!

***

局所的幸福 

 部活が休みだったその日、ふっと目に入った空き教室に見慣れた後ろ姿を見つけた。
「古橋?」
呼び掛けてみると振り返る。
「なんだ、山崎か。どうしたんだ」
「ちょっとセンセーの頼み聞いて資料運んできた帰り」
「そうか。お疲れ様」
「ドーモ」
足を踏み入れてみても、古橋は嫌な顔をしなかった。
 静かな教室、グラウンドから野球部の声がする。窓際の一番後ろに座っている古橋は、やわらかな光の中にいた。その手には文庫本。
「読書?」
「ああ」
「何読んでんの」
「中原中也だ」
「へえ」
おれあれしか知らないや、汚れちまった…ってやつ、と呟くと、それも入ってるぞ、と返って来た。
 透明のブックカバーでコーティングされた、ややくたびれたように見える本。ちゃんとは見えないが背表紙の辺りに赤いシールがちらりと覗いていたので、恐らく図書室のものなのだろう。
「中原中也すきな訳?」
「特に好きという訳ではなかったが…今読んでいて共感出来るものは多いな、とは思っている」
へえ、と気の抜けた相槌を打つと、古橋の指がそっと頁をなぞった。
「ああ、かれくさをせにしいて、やんわりぬくもっていることは、………」
斜め後ろの窓は開いていた。校舎周回をしているらしい何処かの部活の、掛け声が風に乗って入ってくる。
 もう秋だった。まだ日は昼の様相を呈しているが、すぐに夜になってしまうだろう。今は狭間だ、その曖昧な空間を外の青春の色に、古橋の声が朗々と混じっていく。
「そらのあおが、すこしつめたくみえることは、たばこをすうなぞということは、せかいてきこうふくである」
「そこが共感?」
こくり、と首が縦に振れた。
 前後は知らないが、其処だけ読まれると大層さみしい気分になるな、と山崎は思った。この静かな教室の外、自分たちと隔たれて青く染まる声を聞いているからかもしれなかった。
「煙草なんか吸うなよ」
間違っているだとか、間違っていないとか。そんなものは人によって変わってくる。絶対的な倫理なんかない。
「まだ未成年なんだが」
「成人したら吸うのかよ」
「吸うかもしれない」
「やめとけって」
 お前に煙草はにあわねーよ、そう言った山崎に、古橋が笑った気がした。そうだな、と息が吐かれる。
「幸福なんて、たくさんあるものな」
ぱたん、と本が閉じられた。
 秋の夕暮れ前、そんな曖昧な時間のことだった。



出典「雲」中原中也
にとさんお誕生日おめでとうございました!

***

水中の追跡者 

 ざぶん、と音がした。そんなことを他人事のように思っていたら、遅れて肌を刺すような冷たさがやって来た。ああ、これは死ぬかもしれない。やっぱり他人事のように思いながら、とりあえず腕を動かす。首に巻いたマフラーが水を吸ってゆらりと揺れるのが見えた。
 真冬に川に飛び込むなんて馬鹿なことをやってのけたのは、ただ単純に人に押されたからだった。高さがなかったから即死はなかったものの、真冬の川に突き落とすなんて死んでも良いと思われていなければやられないだろう。
お前たちの所為で、と叫ぶ唇の動きが明瞭に思い浮かぶ。
 こういったことは初めてではない。復讐の権利なんてものの如何を問うつもりはないが、彼らにとっては正当な行動なのだろうと思う。例えば、このまま。そう思ったところで腕を強く引かれた。
「古橋ッ!」
触れた空気はやはり冷たくて頬から凍り付いて行きそうだった。
「大丈夫か!? 息はしてるか!意識はあるか!!」
「…してる、ある、大丈夫だ。…アイツは?」
「俺がそこ飛び降りたらビビって逃げた」
手を引かれるままに岸へと向かう。
「…なぁ」
「何だよ」
「このままでいたいって言ったら、お前はどうする?」
一瞬、音が消えたような気がした。
「オレが、このまま水の底へ沈んで行きたいと言ったら、お前は」
 暖かさは感じなかった。優しさも何も感じられない、もっと言えば痛みのような。
「…お前が本気でそう思ってンなら、」
耳元で聞こえた声は震えていなかった。ずっと覚悟していた、そうとも聞こえた。
「一緒に行ってやンよ」
予想通りの答えに小さく笑みを漏らす。
「何処までも追っかけてくからな。勝手に一人でどっか行ったりすんなよ」
「…ああ」
重たい腕を上げる。そうしてその背中に手を回せば、きっと二人の望むハッピーエンドになるのだ。



http://shindanmaker.com/35731

***

20150708 編集