今諏佐今
君が、いつの日にか
心からそう言ってくれるように。
偽りのないその言葉を、形取れるひとになれるように。
これは、一つの我が侭だ。
二年前 五月某日
「六月なんか嫌いや」
口が滑ったという自覚はあった。
それでも取り繕おうなどと思わなかったのは相手が諏佐であったことと、
その言葉が嘘なんかではなかったからだ。
「六月なんてなくなってしまえば良えのに」
「…そうか」
その時の声色なんて、もう、覚えていない。
「なぁ、一つ、賭けをさせてくれ―――」
五月某日 午前八時半
「そういえば今年も出たらしいぜ」
「出た?」
後ろを振り返ってきたクラスメイトの言葉に、今吉は首を傾げて鸚鵡返しをする。
「グラウンドの幽霊」
「なんやそれ」
初耳である。
しかし彼の言い方では前から存在しているように聞こえた。
「七不思議ではないんだけどさー比較的新しいみたいだし」
ほう、と相槌を打つ。
この学園にもそういったものが存在していたとは。
在学中に知れて良かった、と今吉は彼の言葉に耳を傾ける。
「俺らも朝練やってるからさ、毎年出くわすんだよ、それに」
「幽霊にか?」
「いや、幽霊には会ったことねぇな」
そう続ける彼は確か陸上部だったと記憶している。
「幽霊が出るのは真夜中で、誰も見たことないらしい」
早速嘘臭くなってきたな、と今吉は思った。
誰も見たことがない、それは怪談のお約束でもあるが、
見たことがないからそれは幽霊だと言うのは論理の飛躍である。
怪談に論理も何もないのかもしれないが。
「毎年この時期になると出るんだよなぁ」
「この時期だけ?」
「そ」
梅雨入り前、と声が潜まる。
「朝グラウンドに行くと、
前の日雨が降った訳でもないのにグラウンドがうっすらと濡れている。
一歩足を踏み入れるとひんやりとした空気が身体を擽り―――」
その瞬間ガラッと教室の扉が開き、彼の肩が揺れたのを今吉は見逃さなかった。
「ほら授業始めるぞー席つけー」
「うお」
それが教師の来襲によるものだと気付いて、慌てて前を向く。
「続きはまたあとでな!」
きりーつ、と授業の号令が掛けられ、一時限目が始まった。
校庭をびしょぬれにする幽霊、なぁ。
クラスメイトの背中を見ながら頭の中で繰り返す。
雨も降っていないのに、と言うが、校庭には人工的に雨を降らせる装置が存在する。
スプリンクラーだ。
その考えに行き着かない程、
このクラスメイトが馬鹿だということはないから(余談だが彼は学年一桁に入る秀才である)、
それが否定されるだけの要素があったということなのだろう。
例えば、と今吉は板書をしながら考える。
スプリンクラーに作動した跡がなかった、とか。
桐皇学園のスプリンクラーは、グラウンド脇にある操作版を使って散水する。
ハイテク感のあるものではなく、使用履歴が残ることもない。
だがしかし、使えば散水口に水は残るし、
開閉時に蓋の上の土を跳ね除けるため、蓋がいつもよりも良く見えるようになる。
そんな不思議現象を放っておくとは考えがたいし、
これを検証した結果の幽霊結論なのだろうと思った。
けれど、言ってしまえばスプリンクラーを使った人間がそういう後始末をしていれば、
これは人間の仕業と言っても無理はない。
更に人間説を否定するとしたら、そんなスプリンクラーを動かすような人間を、
どうして学園側が放っておくのか、ということだろう。
これでも桐皇学園は東京屈指の名門校である。
セキュリティだってそれなりに充実している。
外部犯だと仮定してもそんな不審者を入れるほど警備がザルだとは思えないし、
内部犯と仮定しても、こんな意味不明の悪戯を放っておく意味が分からない。
悪戯ではなく理由がある、という考えは当然存在するが、意味が分からなすぎてお手上げだ。
コキコキッと首を鳴らした。
ひんやりとした空気は朝であるのと、
濡れた土が冷えて冷気を発しているからだろう、と今吉はペンを回す。
あとは幽霊が出る、という噂話から勝手に感じてしまったものなのかもしれない。
思っている以上に人間と言うのは単純である。
「分からんわぁ…」
小さく呟くと、隣の席の諏佐がちらり、とこちらを見やったのが分かった。
なんでもない、と身振りで示して、真面目に黒板を見つめる。
幽霊であると断定は出来ないが、だからと言って人間だという断定が出来る訳でもない。
名探偵ではないのだし、机の上で解決出来ることはそう多くなさそうだ。
しかし、幽霊であれ人間であれ、残る疑問は一つ、だ。
何故、そんなことをするのか?
六月二日 午前十時
「…あ」
隣の席の諏佐が小さくそう呟いたのを、今吉は聞き逃さなかった。
「どないしたん」
「ノート終わっちまった」
諏佐の机に視線を落とせば、確かにそれは最後のページだ。
「替え持ってるんか?」
「いや、ない」
次の休み時間は購買かな、と言う諏佐に今吉は時間割を思い浮かべる。
三時限目は現国だ、教室移動はないが単語の意味を調べたり、
段落ごとに内容を纏めておくと言う予習がある。
諏佐は頭が良いが、だからと言って十分しかない休み時間でノートを買いに行き、
その予習を粗方終わらせるというのは無理があるだろう。
「じゃあワシんのやるわ。
そろそろ終わるて思て持ってきたんやけど、まだ終わりそうにないからな」
机の中に手を突っ込む今吉に驚いたような目線を寄越してから、
「悪い、助かる」
ふわり、と諏佐は笑った。
この笑みが好きだ、と今吉は思う。
「今度、何か返す」
「あんがとなぁ、ほい」
目当てのものを見つけ、諏佐に差し出した。
「…なんだ、これ」
「かわいーやろ」
そのノートはやたらとファンシーだった。
ピンクを基調とした表紙に、黄色や赤の水玉がポップに舞っている。
文房具メーカーとアイスクリーム屋がコラボして作ったノート。
その情報は諏佐も、クラスの女子の会話から知っているはずだ。
「フォーティーワンとカンバスがコラボしたらしーで」
「…知ってる。
なんでそれをお前が持ってるのかって聞いても良いか?」
「買うたからに決まっとるやろ」
「…それもそうだな」
そういうことじゃない、と顔に書いてあったが、うまい言い方が見つからなかったらしい。
にまにまと笑う今吉に、諏佐はため息を一つ吐く。
「そこ、バスケ部ー。静かにしろー」
「はーい」
「すみません」
教師の声に明るい今吉の返事と静かな諏佐の謝罪が響いた。
諏佐が真新しい一ページ目を捲り、下敷きを差し込んで途中だった計算を続けるのを、
今吉は頬杖をついて愛おしそうに眺める。
「今吉」
「はぁい?」
「諏佐のノートを覗くんじゃない」
「えーでも先生、全く分からんのですよ」
「諏佐ー、隣の奴にノート見せるなー」
「はーい…」
クラスの笑いを少しだけ誘って、数学の授業は続いていった。
六月二日 午前十一時
Kは自分と似ている。
教科書の小説を読み進めながら、今吉はそう思った。
いつか、いつか。
大切な人間に何かさせてしまうのではないかという恐怖。
紛れもない加害意識は自分の中にあるのだろう。
生命を絶つことを選んでしまうほどに、自分を蝕む加害意識。
今もきっと、今吉の中で育っている。
「そういえば皆さん、こんな話を知っていますか」
教師のその言葉にまた始まった、と思う。
「夏目漱石は教師をしていたことがあります。
その時、学生のうちの一人が「I love you」を「我君ヲ愛ス」と訳して持ってきたそうです。
これは間違いではありませんが、漱石はそれを指摘して、
日本人ならば「月が綺麗ですね」で伝わりますよ、と言ったそうです」
有名な話ですよね、と教師は笑った。
その話なら今吉も知っていた。
良く一緒に出されるのは二葉亭四迷だ。
諸説あるところは今は省略するが、彼は同じ言葉を「私、死んでも良いわ」と訳した、と。
こちらの方が今吉は好きである。
自分を全てを尽くして誰かを愛す。
そうなりたいと、願っている。
「明日は満月ですからね。
深夜徘徊はすすめませんが、大切な人と空を見上げるのも良いと思いますよ」
空は繋がっているものですから、とにっこりしてから教師は板書に戻る。
ロマンチックなところもあるのだなぁ、とその背中を見つめた。
満月なんやって、と隣を見やれば、
「…またか」
頬杖をついた諏佐が、舟を漕いでいた。
六月二日 午後八時
「すーさ」
寮の廊下の先に見つけた見知った背中に、今吉は勢いをつけて飛び付いた。
ぐらつくこともなくそれを受け止めて、諏佐は飛び付くのはやめろ、とだけ言う。
風呂に入って来た後なのかその身体は暖かく、ほんのりとシャンプーの香りがした。
「監督の話、終わったのか?」
「おん」
今吉くん、申し訳ないのですが、
個人面談が今吉くんだけ終わってなくて、私が代理を頼まれていたんです。
今の今まで忘れていたんですけれども。
明日までにデータを纏めないといけないらしいので、
疲れている所悪いのですが、三十分くらい時間を頂けませんか。
顧問であり監督でもある原澤が、
彼に似合わぬそんな無計画な台詞を吐いたのは一時間程前のことだった。
本当に申し訳なさそうな彼の表情に文句を言う気にはならず、
言われるままに面談を済ませ、寮に帰って来た時には諏佐はもう部屋にいなかった。
「帰ってきて直ぐ風呂行ったん?」
そうだとしたら長すぎるな、と思いながら問う。
「いや、課題やってた。風呂はそれから」
「そうか」
待っててくれても良かったんに、とわざとらしく膨れて見せると、
その前に課題終わっちまったからな、と返された。
二人並んで部屋までの道を歩く。
「明日何の日か知っとる?」
「お前の誕生日だろ」
諏佐がお風呂セットの入った袋を持ち直した。
がさり、と重そうな音がする。
恋人の誕生日くらい覚えてる、と優しげな目をする諏佐を、今吉は満足そうに見つめた。
「何か欲しいものとかあるのか?」
今吉の問いに何か意味があると思ったのか、諏佐が問うて来た。
今吉としてはただ確認したかっただけなのだが、そう言われると考えてしまう。
「んー…特に欲しいモンはないけど…」
瞬間、今吉の脳裏に小さな願いが煌いた。
そんなこと、と言われるかもしれないような小さな願い。
妖怪サトリとまで言われる自分には少し不似合いかもしれない、可愛らしいもの。
「…なぁ、一つ我が侭言うて良え?」
「聞くだけ聞こう」
「明日、諏佐に一番におめでとうて言われたいんやけど」
お安い御用だ、とそういう顔をした諏佐は勿体つけるように瞳を弛める。
「間に合ったらな」
可愛い後輩が朝イチで言いに来ないとも限らないだろ?
そう笑う諏佐に、それもそうやなぁ、と返した。
おやすみ、と小さく交わして、それぞれの部屋へと入っていく。
「諏佐」
扉の向こうへその背中が消える前に呼び掛けた。
「今日はぐっすり眠れそか?」
「何でだ?」
「最近良う授業中に舟漕いでるやん。
諏佐は頭良えけど、授業聞いといた方が良えこともあるやろ?」
「なんだ、バレてたのか」
気をつけるよ、と諏佐は軽く手を上げた。
ぱたり、という扉の閉まる音が、やけに耳についたような気がした。
六月三日 午前六時
けたたましく鳴り響く目覚まし時計を黙らせて、顔を洗って着替える。
前日のうちに用意しておいた鞄を持って部屋を出ると、
諏佐の部屋の扉もタイミングを合わせたように開いた。
おはよう、と言葉を交わして肩を並べて階段へ向かう。
「ああ、そういえば、誕生日おめでとう」
「あんがとさん」
「ちゃんと一番に言えたか?」
「もちろんやで」
良かった、と目を細める諏佐に、今吉はこの我が侭は正解だったな、と思った。
諏佐は今吉にいろんなものをくれようとする。
それは形のあるものに限らない。
そしてそれを思う通りに与えられた時の諏佐の表情が、今吉はとても好きだ。
無用心に他人に心を明け渡すような、そんな無防備な表情が、とても、好きだ。
例えそれが今吉を蝕むものであっても、諏佐は今吉が望むのならそれをくれる。
そういう馬鹿正直で素直なところも好ましいと思っていた。
体育館に着くと、若松がぱあ、と顔を輝かせて駆けてくる。
「キャプテン!誕生日おめでとうございます!!」
朝の挨拶よりも先に告げられたその言葉に少しだけ目を丸くして、笑顔でありがとな、と返す。
鉛のように重くなっていく胸のことは、気にしないふりをした。
「若松は自分の誕生日みたいにテンション高いなぁ」
「そりゃあキャプテンの誕生日ですからね!嬉しいですもん」
にっかーと笑った顔に気圧される。
「そ、か」
うまい言葉が見つからない。
口ごもった今吉に気付いたのか、諏佐が横から練習はじめないのか、と口を出した。
若松は慌てたように返事をして走っていく。
「オレらも早く用意しないとな」
ぽん、と頭を一撫でし、ボールの籠の方へ向かう。
ほら、言っただろ?
ちらりと今吉を見やった諏佐の瞳が、そう言った気がした。
六月三日 午前八時
「あんなに誕生日祝われるとは思わんかったわー」
教室に着くと、内緒話をするように小さく、今吉が吐いた。
朝練の合間に部員の殆どが今吉に祝いの言葉を告げて来た。
その中にはあの青峰もいたのだから驚きだ。
いつも通りに朝練に参加した訳ではなく、顔を出しただけだったのだが。
「それくらい人望があるってことだろ。良かったな、キャプテン」
「まー喜ばしいことなんやろうな。でもちょっと疲れてもーたわ」
眉根が自然と下がってしまう。
どうしても慣れないということは、諏佐にも言っていない。
「そりゃあれだけ言われればな」
今吉から見れば全くの善人であり、無垢な諏佐には知られたくない。
こんな日に、ぐるぐると黒い感情に囚われている自分のことなんて。
「諏佐、鹿山が呼んでる」
クラスメイトの声に顔を上あげれば、扉のところにいたのは隣のクラスの生徒。
同じバスケ部の鹿山だが、諏佐に何か用だろうか。
「おう、悪いな、持ってきてもらって」
「いやいや、いつもテスト前助けてもらってるし。
これくらいお安い御用ですよ〜」
諏佐の手に一冊のノートが渡されるのを今吉は席から見ている。
「でも意外だよなぁ。
諏佐でも課題忘れることなんてあるんだな」
「オレだって人間だからな」
「でもオレが知る限り初めてだよ」
「そうだったか?」
少し言葉を交わしたあと、鹿山がじゃ、と手をあげた。
「四時限目には返す!」
「頼んだぞー!」
席に戻ってきた諏佐に話し掛ける。
「諏佐、課題忘れたん?」
「ああ、やったにはやったんだがノートを忘れてな」
何でもないことのようにそう言った諏佐に、今吉はふぅん、とだけ返す。
「鹿山頭良えもんな」
「それもあるけど、鹿山のノート綺麗なんだよ」
朝練の時に頼んだんだよ、とノートを広げ、解き方をプリントにメモしていく諏佐。
二時限目の数学に間に合わせるためには、全て解くよりもその方が効率が良いのだろう。
「まぁ、頑張ってな」
「ああ、間に合わせる。今日当たるしな」
一心不乱にプリントへ向かう諏佐をしばらく眺めてから自分の予習に戻る。
昨日諏佐に渡したピンクのノートがプリント束の下から覗いていたのを、
今吉は見逃さなかった。
六月三日 午後十二時半
悪い、ちょっと先生に呼ばれてるから、一人で食べていてくれ。
そう言われた今吉は、一人でパンをかじっていた。
ぼんやりと考え事をしながら食べるパンは何の味なのかイマイチ分からない。
諏佐は人が思うよりもものぐさだ。
予習復習を欠かさず課題もそれなりにしっかりこなし、成績も殆ど一桁。
そんな外面だけを見ていると、生真面目という印象を受ける。
確かにそれは間違っていない。
几帳面な一面もあることだし、生真面目というのも強ち間違いではない。
しかし、可能な限り置き勉をしようとしたり、
全教科、提出以外のノートは一緒くたにして取っているのを見ていると、
どうしてもそれだけだとは思えないのだった。
後輩はどうもその外面に騙されている者が多いようだ。
きっと本人には騙すつもりなんてないのだろうが。
そういう諏佐の人間性を踏まえて先ほどの光景を考え直すと、
なにやら納得のいかないところが幾つか出て来る。
先ほどの数学の課題はプリントで出されたものだった。
諏佐はいつも、それをノートに写す。
プリントにそのまま書くことはしない。
けれど今日は直接記入していた。
違和感一つ目。
諏佐は提出するノート以外は全て一冊でまかなっている。
数学は授業中に黒板に問題を解かされたりはするが、提出ということはない。
よって、やるとしたらその一冊が使われたはずである。
諏佐はそれを忘れたと言った。
しかし、その一冊である昨日今吉が渡した特徴的なノートは諏佐の机にあった。
違和感二つ目。
昨晩諏佐は寮の廊下で会った時、課題は終わったと言った。
今日もやったけれど忘れた、と言っている。
でもそれでは今まで諏佐が狂わせずに保っていた彼のルールが、全て崩れることになる。
違和感三つ目。
そしてその違和感を全て認めるとなると、諏佐が今吉に嘘を吐いたことになる。
一体、何のために?
「今吉」
呼び声に思考を中断させて顔をあげる。
「今吉今日誕生日なんだって?」
何処から聞きつけたのか、クラスメイトが机に置いたのは飴の袋。
開封済みである。
「おめでと」
「あんがとさん。ってこれ、なんやねん、食いかけか」
「そ、食いかけ。中覗いてみろよ」
言われるままに覗くと、中にはその飴以外にも色とりどりのお菓子。
「少ないけど、クラスのやつらからのプレゼントだ」
大事に食えよ?とウィンクする彼は、そういえば文化祭の実行委員だとか、
クラスの中心に立つことが多い人間だと思い出す。
「…ああ」
にこり、と笑みを捻り出す。
ああ、分からないことばかりだ。
六月三日 午後三時
結局諏佐が戻って来たのは昼休みが終わるぎりぎりで、
午後の授業も教室が違うため、その違和感について聞くことは出来なかった。
ホームルームが終わって呼び止めようとすれば、
職員室に寄らないといけないから、と諏佐は教室を飛び出して行く。
「…はぁ」
大きなため息が出たのも無理はないと思う。
クラスメイトと他愛のない会話をしてから部室へ向かうと、
そこには職員室に寄ると言った諏佐の姿がもうあった。
若松と何やら話している。
何となく、身を隠してしまった。
「諏佐さん、本気ですか?」
「ああ」
「でも、今吉さん気付くでしょう」
「そうだろうな」
「それなら、」
「でも、ギリギリまで秘密にしておきたいんだ。
成功するかどうかも分からないから」
何の話だ、何の話をしている?
情報が足りないと叫ぶ灰色の脳細胞を黙らせるように、全身全霊で耳を傾ける。
「これで駄目だったら諦めるしかないからな」
「諏佐さん…」
「さ、練習前にワンオンワンでもやるか?」
連れ立って部室を出て行く二人に、ふーっと詰めていた息を吐いた。
「秘密って、何をやねん…」
ずるずると座り込む。
「…そういや今年はプレゼント、もろてないなぁ…」
寮生活でバスケに心血を注いでいる以上、自由に出来る金などないに等しい。
だから諏佐が今までに今吉にくれたプレゼントはいずれもお金の掛からないものだった。
一年の時は四葉のクローバーのしおり、
二年の時は何処から仕入れたのか馬の蹄鉄。
別にプレゼントがないからと言って拗ねるなんてことはしないが、
今まであったものが今年はないとなると、不安になるのが現実だ。
違和感のこともあって、不安は簡単に増幅していく。
確かに今吉と諏佐は恋人という関係にある。
二年前の今頃、今吉がぽろっと零してしまった言葉に、
諏佐が真剣に返してくれたことからこの関係は始まっていた。
積み重ねてきた時間があるとはいえ、目に見える障害が多いという自覚がある以上、
持っていた自信など、そんな些細なことで揺らいでしまう。
「…すさ」
呟いた自分の声が、やけに寂しく聞こえた。
六月三日 午後七時
「あれ、諏佐は?」
練習が終わり、桃井と打ち合わせをして部室に戻ると、もうそこには諏佐の姿はなかった。
「桜井知らん?」
一番近くにいた桜井に聞いてみる。
「諏佐サンなら天野先生に用がある、って出て行きましたけど…」
「天野先生…?」
天野は桐皇学園の外部講師だ。
主に化学を担当している。
その天野に何の用なのだろうか。
「なぁ」
今吉の声に部室にまだ残っていた部員たちが、肩を強張らせる。
「諏佐が何で最近可笑しいのか、知ってるんとちゃう?」
しん、と静まり返ったその空気が答えだった。
きゅっと目を細める。
「若松」
「い、言えません」
「何でや」
「約束だから、です!」
その頬に申し訳なさをありありと浮かべて、とても苦しそうに若松は言う。
こうなっては若松は決して口を割らないだろう。
「桜井」
標的を変えることにした。
ヒッと悲鳴が漏れたが構わずに続ける。
「お前は、教えてくれるよな?」
大人気ないとは分かっていても、狡い言い方を選んでしまう。
それくらいに切羽詰まっていた。
諏佐が何をしているのか、何を秘密にしているのか、知りたかった。
桜井は泣きそうに顔を歪めてから、やはり苦しそうに首を振る。
「…そうか」
その反応に、聞き出すことは無理だと悟った。
そして、桜井が駄目ならば他の人間でも無理だろう。
お前のが人望あるやないか、と心の中でだけ悪態を吐く。
「でっ、でもっ」
桜井の揺れる瞳が今吉を捉えた。
「今年が最後のチャンスだって、諏佐サン言ってましたから、もう少し…!」
「桜井!」
桜井の零した言葉を慌てて遮ったのは若松だ。
さっと青くなる桜井に、どうやら今のは失言だったらしいと気付く。
今年が、最後のチャンス。
何か引っかかるものがある。
スミマセンスミマセンと連呼する桜井を放って今吉は部室を出た。
諏佐が何かを隠しているのは間違いない。
そして、それを隠し切るつもりがないのも恐らく。
ヒントは出した、あとは辿りつくだけだ、と言わんばかりに散りばめられて。
まだ沈みきっていない陽が地平線をあかく染めていた。
これから世界が終わるような、そんな気さえした。
六月三日 午後九時
諏佐はいつまで経っても寮には戻って来なかった。
寮母にそのことを問うても、
「諏佐くん?
あー…天野先生から遅くなるかも、って連絡は入ってるわ、大丈夫よ」
曖昧な答えしか返ってこない。
心配だから探しにいく、と言っても、
「だめよ、生徒の外出時間はもう終わってるんだから。
大人しく部屋に帰って寝なさい」
あしらわれてしまう。
「…もう、この手しかあらへんな…」
外したカーテンをベランダの柵へ結び、手をかける。
今吉の部屋は二階だ、そう高くはない。
幸いにも下は植え込みだし、今まで培った運動神経を駆使すれば何のことはないはずだ。
「よし、いくで!」
鼓舞するようにぺち、と自分の頬を叩いて、カーテンをぎゅっと握る。
十八年間生きてきて、初めての脱走であった。
若松も桜井も、今吉を嫌っているということはないだろう。
寧ろ、慕われているとさえ思っていた。
そして、それは恐らく、自惚れではない。
だから、諏佐の謎行動の理由を隠すことによって、
今吉に何か悪いことがあるという訳ではあるまい。
「言うても、ワシ、脱走してしもうたで、諏佐」
一人呟く。
「これ、反省文避けられんやろ…」
カラカラに乾いた唇を舐め上げる。
ぞわり、と何かが背中を走ったような心地がしていた。
「見つけたで、諏佐」
張り巡らされた緑色のカーテンのようなネットを掻き分け、
その向こうに一人立っている人影に話しかける。
「お前やったんやな、グラウンドの幽霊は」
その足元には地表から出たスプリンクラー。
散水する音が深夜の校庭に響き渡っていた。
「なぁ、諏佐」
一歩、
「何とか言えや」
一歩、答えはない。
「なぁ、諏佐…お前、一体何しようとしてるんや!」
「今吉、あそこだ!あそこ見ろ!!」
突然のはしゃいだ声に、つられるようにしてその指の先を見る。
「…に、じ」
月に照らされた校庭に、少しだけ浮かび上がった、淡い色の虹。
「月虹(げっこう)って言うんだ。原理は昼間で見える虹と一緒。
此処まで作るのに、大分計算とか実験とか、苦労した」
苦労した割りに綺麗には出来なかったけどな、と苦笑する諏佐。
それは事実上の自白だった訳だが、今の今吉にそれを追求する余裕などなかった。
「自然のものなら、もっと月の周りにぼんやり白く円が出来るらしい」
それも見てみたいな、と続ける言葉をただ聞くだけ。
「天野先生に手伝ってもらってたんだ」
この時期だけ、なんていう意味不明な注文を聞いてくれて、本当に助かった。
しん、と一瞬静寂が世界を凍らせたような気がした。
諏佐が息を吸う。
「これを見た人間は幸せになれるらしい」
どくり、と耳の裏で音がした。
なぁ、一つ、賭けをさせてくれ。
脳の奥を揺蕩う記憶が掬い上げられる。
もし、この先の三年間を使って、お前が幸せだって感じさせられたら、オレの勝ち、
感じさせられなかったらお前の勝ち、それで賭けを一つ。
オレが勝ったら、もう、六月が、
「諏佐、お前、」
お前の誕生日のある六月が、
「もしかして、ずっと、」
嫌いだなんて言わないでくれ。
諏佐はただ微笑みを湛えているだけだった。
四葉のクローバー、馬の蹄鉄、そして月虹。
自信がないのは同じだった、だからきっと保険をかけた。
忘れたことなんてない、でもそれが本気だなんて思っていなかった。
全くの善人である諏佐が、ただ吐かずにはいられなかった言葉なのだろうと、
嘘ではないけれども、きっと実現することなど考えてはいないだろう、
そんなその場限りの言葉なのだろうと。
それでも諏佐のその善意があまりにも嬉しくて、
そういうところが好きなのだ、と零してしまったのが全ての始まり。
今吉によって縮められることのなくなった距離を、今度は諏佐が詰めてくる。
なぁ、今吉。
諏佐の声が今吉の耳から滑り込んで、その冷え切った胸を叩く。
お前は、今、しあわせか?
「…諏佐、は、」
「うん」
「ワシが生まれて来て、良かったと思う、か」
きっと、震えていた。
「うん、思うよ。
今吉が生まれて来てくれなきゃ、オレは今吉に会えなかった」
ああ、変わらない、善意塗れの奇麗すぎる言葉。
「ワシな、怖かってん。
何が、とか、具体的には言えんのやけどな、漠然とした不安があったんや」
ずっとずっと何処まで行っても、この身体が空っぽのままで、
満たされることなんか永遠にないような、そんな不安。
「正直、まだ、怖い」
「うん」
「でもな、でも、諏佐がそこまで言うんなら、ちょっと信じたろかって気分になったわ」
「…うん」
いつのまにか強く握り締めていた拳を解く。
「賭けは、お前の勝ちやな」
暗くて良くは見えないけれど、きっと同じ表情をしている。
誤魔化すように諏佐が空を見上げる。
そこにはもう虹はなかった。
スプリンクラーを止めながら難しいんだ、と諏佐は呟いた。
「風向きとか、いろいろ関係するものが多すぎて、
本当、今晩のは奇跡みたいなことだったんだ」
「そう、か」
「でもさ」
今度は指差す。
「ほら、月が綺麗だろ?」
「…な、もっかい言って」
悪戯の色を秘めた潤む瞳が交わる。
「あいしてる」
今吉生誕祭
20130606