黒猫のいない壁
「ね〜今吉〜。明日、暇ぁ?」
「暇やけど…どうしたん、春日」
とある年の暮れも近い冬の日のこと。
寒い大学の教室で今吉は友人の誘いに首を傾げた。
「あ、もしかしてクリスマスぼっちやった人らでお疲れさんパーティーでもやるんか?」
「今年はその予定はないけどねぃ〜。
まぁ、用事がすんだら一杯ぐらい奢るのはやぶさかじゃあないーかな〜」
きゃらきゃらと柔和な笑みを浮かべて春日は続ける。
「ホントのところ、用があるのは諏佐の方なんだけどねぃ」
オレが誘っても、諏佐は来てくれないっしょ、と笑う春日に苦笑するしか出来ない。
諏佐のそういったところは、出会って八年目になる今吉でもどうにも出来なかったところだ。
恵まれているのか、諏佐の周りにはそういった点を許容する人間ばかりが集まるので、
今まで普通にやって来れてはいるのだが。
常に隣にいることを自分のために選択した今吉でも、時折頭を抱えたくなることがある。
「なるほどな、諏佐か。ほんならワシに声掛けた方が早いわな」
「悪いね〜伝書鳩扱いしちまって」
「別に良えよ、慣れとるし。で、どんな用事なん?」
「んーとね…」
今住んでいる家の騒音があまりに酷いので、春日は引っ越しを考えていたらしい。
そこで不動産屋に行ったところ、とある一軒家を紹介された。
一人暮らしの学生に一軒家なんて、と思ったが、それがかなり安い。
もしかして、これは何かあるんじゃないのか、と思い、
とりあえず考えさせてくださいと言って帰って来たのだと言う。
「そん時に資料のコピーももろたけどな、ほんまにふっつーの家に見えるんよ。
別に事故物件でもなさそうやし、中はきれーやし。
まぁ実物見ぃひんとその辺は分からんかもしれんけど。
写真みる限りではそれっぽいモンも映っとらんしなー」
ま、でも、面白そうやん?
そう首を傾げる今吉に、
どちらかと言えば小さな洋館に見える、と諏佐はぼんやり資料を眺めていた。
「ということで、明日二時に駅に集合な」
「ああ、分かった」
「しっかしまぁ、春日もこういうん好きやったとは知らんかったわー」
電車に揺られること四十五分。
「特別、って訳でもないんだけどね〜。
此処までそれっぽいものが目の前にぶら下がってると、流石に好奇心がうずくだろぃ?」
「それもそうやな!」
はしゃぐ今吉と春日を横目に諏佐は吐いた息が白く染まっていくのを眺めていた。
今日も寒い。
「そや、不動産の人は来とらんようやけど、事前に許可は取ったんか?」
「それについては大丈夫〜ほら」
春日が冬の陽射しに透かしてみせたのは銀色の鍵。
「内見にすら同行したくないってことなんかねぃ」
鍵だけ渡して好きなときに見に行ってください、だって。
春日が唇を吊り上げてみせると、つられるように今吉も同じ顔をしてみせた。
目的の家までそう時間は掛からなかった。
前もって写真で見た通り、赤茶を基調としたシックなデザイン。
一軒家、というよりも小さな洋館、という前日に抱いた感想そのままに、
その家は住宅街に鎮座していた。
「とりあえず、家入ってみる前に情報収集とかしてみん?」
「あっそれ良いねぇ」
楽しそうに、楽しそうに笑う二人に、諏佐は好きにしろ、とだけ小さく言った。
「あのー。すみませーん」
春日と今吉がにこやかに人に近付いていくのを諏佐はぼんやりと見ていた。
風が冷たい。
マフラーちゃんとして来てよかった、と思う。
三十代後半、と言ったところだろうか。
その年の頃の女性で、如何にも主婦、といった人間を捕まえている辺り、
二人ともがっちり情報…というか噂話を仕入れるつもりなのだろう。
「面白いこと聞けたでー」
暫くして二人が戻って来た。
「あの家、前はとある家族が三人で住んでたんやって。
父親と母親と一人息子な。普通に仲良い家族やったって話や」
「でもねぃ、あるクリスマスに父親が失踪して、
母親と息子は隠れるようにしてあの家を去ったんだって〜」
「サンタクロースが一家に運んできたのは悲劇やったとかなぁ」
「まったく報われないよねぇ」
「失踪からの引っ越しもなかなかアレやけどな、
それに加えて、その一人息子は父親が違ういう噂もあったんやって」
「それから学校の先生から虐待の疑いが…って噂も」
「ま、どんどん話膨れたっちゅーのもあるとは思うけどな」
「泥沼の香りがするだろぃ?」
代わる代わる語る二人。
まさにそれっぽい噂話を仕込んできてテンションを上げているようだったが、
諏佐は曖昧に笑うだけに留めておいた。
恐らく何も―――今吉の喜ぶようなものは何もないのだろうと、そう予想していた。
そして、その予想がそのまま現実になることを願っていた。
一歩足を踏み入れた瞬間、諏佐は盛大に顔を歪ませた。
「諏佐がそんな顔するってことはやっぱ此処だめなんだねぃ」
あはは、と笑う春日にも、
その向こうはあっちゃーと顔を顰めてみせる今吉にも目をくれず、諏佐はぐるりと玄関を見渡す。
そしてその根源におおよそのアタリを付けると、一度ゆっくり目を瞬いて、はぁ、と息を吐いた。
誤魔化すように鼻をいじる。
鼻血も出ていないのにキーゼルバッハ部位を揉むように押すのは、
なんだかちぐはぐな感じがして可笑しかった。
とりあえず家の中を探検したい!という二人についていく。
一軒家と言えどもそこまで広くはない。
二階も一応ぐるりと回ったが、特に二人の興味をそそるものはなかったようだ。
そして、一行は一階のリビングにやって来た。
「此処、諏佐入るの嫌なん?」
にやぁ、と楽しそうに頬を緩ませた今吉が聞いてくる。
どんな奇妙なものがあるのだろう、と考えているのは手に取るように分かるが、
恐らく今吉の期待するようなものはないだろう。
勢い良くリビングの扉を開け放った今吉は、案の定残念そうな顔をした。
「なんも可笑しいとこあらへんやん…」
その後ろから覗いた春日も同じ顔をする。
「ほんと〜だ。諏佐、何処が駄目なの?」
問われてすん、と一度鼻を鳴らした。
不快感に眉の間の皺が深まる。
「そこの壁、だな」
「此処か?」
今吉と春日がさわさわと諏佐の指した周辺の壁を調べると、
どうも其処だけ張り替えた痕があるようだった。
「これ、流石に剥がすのはまずいよねぃ」
春日がこんこん、と壁をノックする。
その横で今吉が少し離れた場所をノックして、音が違うのを確かめていた。
「なんやがっつりコンクリでも流し込んであるんかな」
めっちゃ硬い音しとらん?と今吉は唇を歪める。
「黒猫とか奥さんとか埋まっとるんちゃうよな」
「………」
「…すさぁ、何か言うて」
「ん?ああ、黒猫も奥さんも埋まってないと思うがな」
奥さんは息子と引っ越して行ったんだろ、と言えば、それもそうやな、と返って来る。
春日の方はと言えば少し考え込んでいるようだった。
何も言わずにリビングの扉に手を掛ける。
「諏佐?何処行くん?」
「外」
もう中は粗方見ただろ、そのまま帰るぞ、と振り返りもしない諏佐に、
今吉も春日も、楽しそうにハイハイ〜と付いて行った。
家から出て、もう来ないからと鍵を閉めて。
三人は家についている小さな庭へ出る。
「中になかったもの、あるだろ」
「ん?」
すっと諏佐が見上げた先を、今吉も春日もじっと見ていた。
空。
いや、この場合屋根、だろうか。
「あ、オレ分かっちった〜煙突、だろぃ?」
「ああ、正確に言えば暖炉、だな」
「それが…あの壁ン中のものの正体か?」
「まぁ、そうだな」
用は済んだとばかりに諏佐が手をぱんぱん、と叩く。
「不動産屋はこのことを知らないんだろうな」
ただ、買い手がつかないから焦っているだけだろう。
木戸に手をかければ、そういうもんか、という顔をした二人がついてくるのが分かった。
この家にはきっと、もう二度と来ないのだろう。
これ以上は面倒だった。
恨むなら自分を恨んでくれ、とそっと思った。
「ねぇ、諏佐」
春日が口を開く。
呼ばれた諏佐はゆっくりと動かしていた脚を止めた。
「今吉が黒猫って言った時、否定が部分的だったのはわざと、だろぃ?」
その声は小さくて、前を行く今吉には届いていないらしい。
「今吉も分かってない訳じゃないんだろぃ?
なんで、あんな真実に触れないみたいな真似…」
「…さぁな」
それには答えるつもりはなかった。
きっと今吉のことは今吉以外では諏佐が一番分かっている。
今吉が諏佐のことを諏佐以外で一番分かっているように。
しかしそれを、他に流してやるほど諏佐はお人好しではなかったし、
そういうものは守られるべき秘密に類するのだと、この短くない付き合いで学ばされている。
「諏佐ー春日ー!」
立ち止まっていたこちらに気付いたらしく、少し離れた場所から今吉が呼んだ。
「立ち止まっとらんで、はよ美味しい酒でも飲みいこー」
「ちょっと今吉、それオレの奢りだろぃ。ハードルあげないで」
「オレも美味しい酒が飲みたい」
「諏佐もこういう時だけ素直に反応しないのー!」
再び戻ってきた最初と同じはしゃいだ空気に、珍しく諏佐は笑みを零した。
美味しい酒が飲めたら、今日のことはすっかり忘れてしまえそうだと、そう思った。
20131226