故郷 桐皇大学の諏佐佳典教授の研究室に休暇のお知らせが貼られたその日の昼のことだった。 「え、京都?」 高尾が声を上げる。 「いいなぁ、今回は講義とかじゃないんですよね?」 「ああ、完全なる休暇や」 「わー京都。いいなぁ、オレ、ああいう町好きなんですよ」 「あー高尾くん好きそうやなぁ、古き良き町並み」 前々から決まっていたことであったし、生徒は皆知っているはずだが、研究室の一員でない高尾には寝耳に水な話だったのだろう。そもそも彼がこの研究室に顔を出すのは今吉の話し相手になるためであって(この言い方は少し語弊を生むだろうが)、勉強をするためではない。 「お土産はソーダ味の生八ツ橋でお願いします!!」 楽しそうに、そして真剣にそう言った生徒に、今吉はそれが東京駅の近くで買えてしまうことを言いそびれた。 今回の旅行の目的はまあ大雑把に言うのならば今吉の帰省である。帰省、と言っても父親の都合で中学からこちらに転校してきた今吉にはあちらが故郷という思いは薄く、他に言って回っているようにただの旅行として捉えている側面が多い。特別な理由があって帰る訳でもないし、諏佐くんも連れていらっしゃい、と言われてしまえば最早それはいつもの旅行と何ら変わらなかった。 「多分変なことも起こらへんしなあ」 生家の周りにそれらしいものがないことを今吉は知っている。知っているからこちらに来てからわくわくし通しなのだ。それでこちらに残っているのだと言っても過言ではない。 わくわくする人生を知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。きっと戻れば、もう今吉翔一ではいられなくなる。それくらいに諏佐と出会ってからの生活は楽しかった。元々今吉は好奇心旺盛な子供だったけれども諏佐にあって、それが劇的に変化したのだろう。両親も息子の一番の友人である諏佐のことは知っていて、諏佐の両親が事故で亡くなったあともまた、いろいろ気にかけていたのだ。息子とは対照的な友人に何か思うことがあったのもあるのだろう。兎も角今吉の両親はどうにも心配な息子についていってくれる友人のことを大層大切にしていたし、それは大人になった今でも変わらないのだった。 新幹線の中ではやることもない。今回は仕事もちゃんと終わらせて来たし、諏佐も持ってきた本を読み終わってしまったみたいで外をぼんやり眺めている。その隣で今吉はいそいそと鞄からポテトチップスの袋を取り出していた。これで三袋目だ。それを、諏佐の大きな手がひょいと取り上げる。 「食べ過ぎだ」 こうして諏佐が今吉の行動に口出ししてくることは珍しい、とても珍しい。それこそ今吉に危険が迫っていなければないような出来事だ。まるでこれは人間みたいだ! ―――と今吉は感動したが、それとこれとは違う。 「本人の意思を尊重すべきやろ!?」 ポテトチップスは正義だ。しかもたった今取り出したのはしじみ味噌汁味で、東京限定の代物だ。今日発売された新商品で、買いに走らなければこの旅が終わるまでに今吉はこれを口にすることは出来なかった。それを目の前で、しかも食べようと出したところを取り上げられるなど! 相手が諏佐でも許されることではない。 「諏佐」 「健康診断がまずいんじゃなかったのか」 「それはそれ、これはこれや」 「お前は食べすぎになったら止めてくれと言った」 確かに言った。 「ぬおお…過去の自分が憎くてしゃあない…」 「………これは取り上げておいて良いんだな?」 「しゃあないわ。ワシの敗けや。でもあとで食わせて」 「あとでな」 そんな遣り取りをしていたら京都になんてすぐに着いた。 * 今吉の両親に挨拶をして、祖父に挨拶をして、諏佐には面識はないだろう祖母の墓参りをして。それは本当になんてことのない行動だった、日常と言い換えても良いかもしれない。今吉にとって刺激的なものは何もない、諏佐のいる中学に転校してくる前の穏やかなもの。穏やかなことが悪いと言いたい訳ではないが、今吉にとっては苦痛とも言えるものだった。 と、退屈さが頂点に達したところで、今吉は切り出す。 「なあ、諏佐」 「何だ」 「そう言えば、マルちゃんて近くの神社から来た言うてたよなあ」 「ああ。言っていたな」 「ワシな、お前にそれ聞いてからすぐ周りの神社調べたんやけど、中ガッコの周りに稲荷系の神社ってなかったんよ」 「そうだったか?」 「それこそ虱潰しに調べたんやから間違いない」 「お前がそう言うんならそうなんだろうな」 今吉は思う。 ―――ああ、諏佐は答えを知っている。 それを言わないのは、今吉の安全を考えているのか、それともただ単に面倒だからか。どちらなのか情報の足りない今吉には分からない。そもそもそういうことは探偵役である諏佐に任せているので、今吉の役割を書き出すのならばそれは質問をする、その一点に尽きるのだ。いや、そもそも探偵役というのも今吉が決めているだけであって、他には影響を及ぼさないものだけれども。 「でな? じゃあ転校するより前にマルちゃんはワシのとこ来たんやないかって思うたんよ」 「へえ」 「で、思い出したんやけど、転校前にワシは地元で一番おっきな神社にお参りしに行ってな。まあ、土地離れますがよろしくお願いします、みたいなの。そこ、稲荷系の神社なんよ」 「ふうん」 相槌が単調になってきた。諏佐が諦めている合図だ。 「なあ、すさ」 だから今吉はいつもの声で言う。 「その神社、行こ?」 神社は歩きで行ける距離だった。だからそのまま最低限のものだけ持って家を出る。途中で、隣の家に住む同級生に会った。久しぶりだな、と声を掛けられて初めて彼に気付く。 「久しぶり」 昔からこんな人間だった。影が薄い、とでも言えば良いのか。なんとなく、苦手。それが相手にも分かっているのだろう、もしくは相手もそう思っていたのだろう、だから昔から顔を知っているくらいだった。同級生とは言っても学区ごとに帰る時くらいしか一緒にならなかったし、会話もしたかどうか覚えていないほどだ。でもどうして話し掛けてきたのか。 彼の視線が少し居心地が悪そうに諏佐に向いていたから、その理由を察する。どうやら諏佐の方が先に彼に気付いて、今吉に話し掛けざるを得なくなったのだろう。ご愁傷様である。嫌いなら、話し掛けなくても良かっただろうに、彼はそういうことをものすごく気にするようだった。 「最近、どうや?」 とりあえず世間話を振ってみる。隣の家のことはなんとなく聞いていたから、態々本人に聞くこともないのだろうが。 「どうも何も、本家の爺さんが入院したって親戚中てんやわんやだよ。金の話ばっかで肩が凝りそうだ」 「そない他人事みたいに」 「他人事だろ。実際俺はこの家とは血の繋がりないし、な。何でお前が此処にいるんだの目線メンドーでこうやって散歩してんだ」 方言に染まらず標準語で話し続ける彼は、同級生からも浮いていたと思い出す。浮いていたが、持ち前の影の薄さで大事に繋がらずに済んでいたような気もする。 「ふうん、大変やな」 「そうかもな」 そう言ったら彼は少し楽しそうに笑った。 昔から、彼の沸点は分からない。 神社に行くと言ったら嫌な顔をされた。今吉としてはまあ久々に会ったのだから誘っても良いと思ったのだが、どうしても嫌なようだったのでそれ以上は言わないでおいた。ちなみに神社と言えばこの辺りでは通じる。他にも神社はあるのだが、他の神社はちゃんと名前を冠して言うからだ。何故なのだろう、と今更ながらに思ったが、これは流石の諏佐でも分からなそうだ。 そうして同級生と分かれてやってきた神社。山一つが神社の敷地となっている其処の参道で、今吉は鳥居を指差した。 「諏佐、これ読めるか?」 「読めない」 「…ちょっとは考えて欲しかったんやけど」 鳥居の所に掲げられている文字は〝会有〟。カイユウ、カイユ、アイウ、エウ…幾つか候補は思いつくだろうが、今吉がこうして問うた時点でそういう読み方でないことを察したのだろう。諏佐の頭の良いところは認めるが、こういう時に少し寂しさを感じる。 「此処、カイリ神社言うねん」 諦めて答えを言う。あまり長引かせても諏佐の心は離れていってしまうばかりだ。それに、元々諏佐の興味というのは移りやすい。その波に乗って、今吉からも興味を移してしまわれたら困る。字面から連想出来る通り、縁結びで有名や、と続けて説明すると、諏佐は違うことを考えているような顔をした。 「諏佐?」 「いや、どちらかと言えば縁切り寺みたいな名前だと思って」 「ああ。言われてみれば確かに」 幼い頃は考えたこともなかった。そもそも幼い頃は漢字の意味など知らないのだし、この神社の名前の不思議さに気付くのは諏佐のように成長してからこの地を訪れた人間だけなのかもしれない。 入った先は記憶と違わず、普通の他にあるような稲荷神社だった。お稲荷さんのパックが美味しいと有名で、よく買ってもらって食べたことを思い出す。 「普通やなあ」 「そうだな」 何かあると思ったのに、という今吉の呟きを諏佐はスルーすることにしたらしい。それほどまでに此処には何かあるのだろうか。一見、何もないように見えるが。それとも今吉の期待のしすぎなのだろうか? 「…あれ」 社殿への参拝を済ませて奥宮の場所を確認する。奥宮に向かうには二つのルートがあった。山の道と、階段の整備された方。諏佐の反応を見ながら考えている途中、やけに若い神主を見かけた。温かい陽射しのような髪をしている。彼は掃き掃除をしていた。 「バイトさんやろか」 「さあ」 「聞いてみる?」 「あら、あの子のことが気になる?」 話に入ってきたのは他の人間だった。黒髪の神主。 「気になるっちゅーか、若いやろ。此処、バイトとか雇わんって昔聞いてたから、変わったんかなって」 「お兄さん地元の人かしら?」 「昔此処に住んでたんよ」 「へえ」 話に入ってきた神主は実渕と名乗った。 「あの子はそうね、次の宮司さん、ってところかしら」 「跡継ぎさんなん?」 「そうね、似たようなもの。今の宮司さんには子供がないけれど、うちは世襲に似た形を取っているから。実質的にこのカイリ神社を受け継ぐ人よ。修行も兼ねてうちで預かっているの」 「学生さんなん?」 「まあ、似たようなものじゃないかしら」 ふふ、と実渕は微笑んで、奥宮へ向かうの? と聞いてきた。 「そのつもりやけど」 「なら今日はこっちの道の方が良いわ」 今日は晴れているから、と実渕は言う。どうやら整備された道は天気が悪くても奥宮に行けるようにと、後から付けられたものなのだという。 「そこまで急な道でもないし、なら出来たら正式な参道で行って欲しいでしょ」 ウィンクした実渕に、それもそうかと今吉は頷いた。 うちのお稲荷さん、美味しいって有名なの。良かったら貰っていって。有難くお稲荷さんを頂戴して、奥宮へと向かう。 「なーんか、なあ」 センサーに引っかかった。今吉の、きな臭いことに首を突っ込むためのセンサーが作動している。 対象は先程の実渕。お稲荷さんが有名なのは今吉も知っているし、少し崩れているから商品には出来ないと、それをくれるのも別におかしくはない。ならば、先程の宮司候補というのが引っかかるのだろうか。そんなことを思いながら諏佐を見遣る。 「彼女は別に嘘は吐いていないよ。ただ、本当のことを言っていないだけだ」 諏佐はすぐに返してくれた。 嘘ではない。 でも、本当でもない。 面倒なところだな、と思って次の言葉を吐く。 「諏佐、実渕サンは喋り方こそああやけど、言うまでもなく男性やで」 「本人の意思を尊重すべき、なんじゃなかったのか?」 「ああ、実行してたんやな、それ…まぁ良えわ」 通じるし、と今吉は口を尖らせた。 参道と言っても山だが、だからと言ってそんなに急な道という訳でもない。実渕の言った通りだった。ゆるやかな傾斜をゆるゆると進んでいく。そして、あと少しで奥宮につく、という時。 諏佐が唐突に進行方向を変えた。 「ちょ、諏佐!? そこ立入禁止やで!」 「そうだな」 「そうだなってしれっと入ってくなや!」 「マルちゃんがこっちだって言っている」 そう言ってすたすたと立ち入り禁止の場所へと進んでいく諏佐に、今吉は珍しくぽかん、としていた。していたがすぐに我に返って駆け出す。 既に五メートル以上先へ行ってしまった諏佐の背中を追い掛けながら、今吉は至極当然のツッコミをやっとしたのだった。 「〝こっち〟て。何がや」 * 立ち入り禁止の札を乗り越えた先には一応道があった。 「怒られるんやないか」 今吉がこんなことを言うなんて珍しいが、諏佐は律儀にそんなことを突っ込んでくれない。そもそも気にしていないかもしれない。考え事をしていると引き離されそうなので、その背中にぴったりとついていく。山道と言っても参道で舗装されている道とは違う、完全にこれは山の管理者が山を管理するために使う道だ。よってそこまで舗装されている訳でもないし、人間が踏み固めたものが道になっている、くらいの暴力的な道だ。柵もないためうっかりしていると滑り落ちそうである。こんなところで滑ったらそのまま帰ってこれそうにない。 「さあどうだろうな」 諏佐はそのまま進んでいく。今吉には見えないがマルちゃんがどうやら諏佐を先導しているらしい。 そして、道が終わるところで諏佐は立ち止まった。行き止まりやん―――そう言おうとしたところで今吉は、隣に諏佐がいないことに気付く。振り返る。自分だけが歩いている。知らないうちに。諏佐が遠く、遠くで立ち止まっている。 「ああ、君か」 目を見張るほどの赤。その色に、今吉は漸く、此処へは呼ばれてやって来たのだと気付いた。 * 「探さなくて良いの?」 悪戯っ子のような笑みで問いかけが落ちる。 「今吉は此処かへ行ってしまった訳じゃない。すぐそこにいる」 諏佐は機械的にそう返す。 「オレがすべきは、待つことだ」 「そう」 それもそうだね、と影は言った。 「お? お前何してんだ?」 「友人を待っています」 「そりゃ難儀なことだ」 先程の青年に見えた。あの、若い神主。此処を継ぐのだと言う、青年。けれどもその髪から受ける印象がひどく違って見えた。先程の青年は陽射しのように温かい印象を受けたが、こちらは目を見張るほどの鮮烈な赤だ。この色は彼のために存在していると、そんなふうに思うほど。 「警戒しないでください…というのは無理な話でしょうか」 「ええ…割りと無茶やけど別にワシが怪我してない言うことは、マルちゃん怒ってないんやろ? 諏佐と一緒に残ったとも思えんし。諏佐がいないならワシにいろいろ働きかけするもんな」 「…マルちゃん、と呼んでいるんですか」 「ええ、おん。名付けたんは諏佐やけどな」 「その人もお呼びすれば良かった」 そもそも先程の青年であれば今吉と諏佐を先回りしたことになる。参道は一本道だったし、あの行き止まりに至るまでもそうだと思えた。普通に考えれば、それは無理だ。 「でもあの人は呼べませんからね」 「何でや」 「領域というものがあるので」 彼が何を言っているのか分からなかったが、とりあえず名前が分からないのは不便だ。「君のこと、なんて呼んだら良え?」 「では、赤司征十郎と。レオなんかには征ちゃんとも呼ばれます」 「レオ?」 「お知り合いでは? 実渕です」 「そんなシャレオツな名前なんや…実渕サン…」 この事態を諏佐はきっと予想していたのだろう、寧ろマルちゃんから聞いていた、さえある。何も知らなかったのは、何も知らないのは今吉だけ。でも、諏佐は止めなかった。きっと出掛けるまで渋っていたのは単に面倒だったからだ。お稲荷さんで釣ればもっと早く動いたかもしれない。そんなふうに考える今吉に、赤司は微笑む。 「貴方には、この姿は見えないんですね」 「…ワシには、ふっつーの赤司クンしか、見えへんなぁ」 残念やな、と笑ってみせれば、赤司は軽く首を振ってから、その方が良いです、と言った。 「きっと彼も望んでいないでしょうから」 「彼?」 「貴方がマルちゃんと呼んでいる彼です」 その時初めて今吉はマルちゃんが大別すると雄であることを知った。少し残念な気持ちになったのはどうしてだろう。最近読んだライトノベルの所為に違いない。美少女になったマルちゃんが降ってきたりしないかと、そんなことを妄想していたのだ。本当に、少しだけ。 「彼は―――此処にいるべきではないんです」 真っ直ぐな瞳だった。猩々緋と黄金(こがね)に燦めく双眸が、まっすぐに今吉へと落ちてくる。 「此処にいても、彼はしっかりやるでしょう、壊れることもなく、自分の使命をまっとうするでしょう。けれど、それでは駄目なんです。彼が此処にいれば、彼は俺の代わりになろうとする。彼はそういうふうに縛り付けられて良い存在ではない。だから、」 一瞬、躊躇うような間。 「…僕を、よろしく頼みます」 その表情から、今吉は何を読み取ることも出来なかった。ただ、絞りだすようなその声を、裏切ってはいけないと、そういうことだけを思った。 * 「あ、帰って来た」 「早かったな」 「お兄さんお疲れ様」 「アンタも大変だな」 そんな失礼な会話が聞こえて今吉は目を開ける。目の前には諏佐しかいなかった。 「おかえり」 「…ただいまぁ」 気が抜けてそれくらいしか返せない。 「………ええ、結局なんやったの」 「マルちゃんの願い、と言ったところか」 「願い」 「里帰りをしたいとか、里帰りしていろいろしたい、とか」 雑だ。里帰り以外の情報がないに等しい。しかしながら今回は本当に今吉のみに関係する内容だったらしく、どうすることも出来ない諏佐にとっては本当に面倒な案件だったのだろう。付き合ってくれたことに感謝すべきかもしれない。諏佐はいつも今吉に付き合ってくれるけれど、今回は完全に蚊帳の外だったようだから。それを気にする諏佐ではないと、知っているけれど。 「諏佐はそれ、叶えたん?」 「どうだろう。別にお前のためになることではなかったし」 お前に頼まれた分野からは外れるし。 いつもの通りにそう答える諏佐に、今吉はしばらく笑いが止まらなかった。 20180223 |