本物は何処にもいない 何かしら用事があって外へ出ていたはずの今吉が、いそいそと研究室に戻ってきた時には大抵よくない―――勿論それは今吉にとってのよくない≠ネのだが―――ことの前触れだった。 「口裂け女、って知っとるか?」 また懐かしい名前を、と諏佐は思う。 「べっこう飴でも作るか?」 「おっ、理系の研究室にでも押しかけるか」 現地調達なのか、ということには誰も突っ込まない。まだこの時間、研究室には生徒がいるはずなのに、彼らにはウキウキルンルンの今吉には首を突っ込んではいけないとでも言い渡されているかのような沈黙である。ちなみにこの時の諏佐の推測は正しかったのだが、別段大切なことでもないのでこの話は置いておく。小堀先生に教室借りに行こ、とスキップでもし出しそうな今吉をとりあえず止めたのは、前に小堀先生から勘弁してくださいという被害届めいたものが提出されて笠松学長にたいへん渋い表情をされたのを思い出したからだった。ついでにそのあと今吉が諏佐が止めなかった、と言ったのも思い出したからだった。 よくない≠アとは諏佐が止める。今吉にそう頼まれたのは遠く昔のことだったけれども、今吉は未だそれを実践し続けているらしい。 大人しく椅子に座った今吉は、でな、と話の続きに戻ったようだった。 「最近この辺に出るんやって」 「へえ」 「諏佐は会うたことある? 口裂け女」 「ないと思う」 「思うて曖昧やなー」 曖昧でも仕方なかった。今吉と一緒にいる時に会ったのであれば覚えていただろうが、彼と一緒ではない時、もっと言えば彼に出会う前となれば何に出会っていたかなんてそもそも興味すら持っていなかったのだから。今も、持っているかと問われれば頷くことは出来ないのだが。 まあええわ、と流されたので恐らく今吉もその辺りは承知しているのだろう。 「諏佐とおったら会えたりせんかな」 ウキウキルンルンのままの今吉は諏佐の机の上から書類を幾つか取り上げると、ふふん、と笑ってみせた。大分機嫌が良いらしい。 「てな訳でこれ出して来るわ!」 そうして出て行った今吉がばたん! と閉めた扉の大きな音に紛れて、後ろの花宮がフラグですね、と言ったのはどうやら諏佐にしか聞こえなかったらしい。 そうして帰路、まだ明るい交差点。 ひと気のない信号待ちの時間に、ふらり、と彼女は現れた。 「ねえ、」 不自然なほど大きなマスクをした、女性。 「わたし、きれい?」 * 「目が、」 今吉が何を言うより先に、開いたのは諏佐の唇だった。 「目が、綺麗ですね。澄んでいて、深い黒が、とても、美しい」 そう褒める言葉を連ねながら、諏佐の脳裏に浮かび上がってきたのはあの飴色だった。こんな沈むような黒よりも、あの美味しそうな飴色の方が、よっぽど。 そう思ったのがいけなかったのだろうか、最初はきょとん、としていた瞳にむらむらと別の色が浮き上がってきた。諏佐だってそれが何か知っている。怒りだ。今吉が口を開くよりも諏佐は真面な回答をしたと思うのだが、お気に召さなかったらしい。そもそもこの回答も今吉から習ったものなのだから仕方ないのかもしれないが。もしかしたら何を答えても怒るタイプという可能性もなきにしもあらずだけれど、今は既に怒っている彼女の対処が先だろう。 さて、と諏佐は悩む。 何を、言ったら良いものか。 諏佐にはこういった、何かに求められる回答というものが苦手だった。それは今吉に教えてもらった人間らしさというものがついぞ反射として実を結ばなかった結果なのかもしれない。勿論、その他多くの人間がそこに思考を挟まないなんてことはないだろうが、諏佐にはその思考を挟む≠ニいう動作を引き出すのにもう一度思考を挟む&K要があるのだ。 「………やねん」 「ん?」 「なんやねん! 目元は褒めたやんか! まだ足りないんか! 美しい言われたいんか! 自意識過剰もほどほどにせぇよ!!」 せっかく考えていたことは、隣で怒鳴りだした今吉によってすべて霧散した。 「ワシなんて一度も美しかったことなんかないわ!」 そんな今吉の台詞を聞きながら、諏佐はああ久しぶりに動く城が観たいな、なんて思う。意外とアニメ好きの今吉に付き合わされて、学生時代徹夜してまでいろいろと見せられたことを思い出す。今吉は何を見ても大体おいおいと泣き出すのだが、諏佐にはその理由がいまいち分からない。 「此処はワシと花宮の居場所や」 まるで。 舞台にでも上がったかのように、今吉は手を広げる。そうして人差し指を、彼女に―――まるで犯人にでもするように突き付けて、 「そない身の程弁えないオンナに渡してたまるかいな」 * 次の瞬間マスクを外し、その裂けた口をがばっと開けて距離を詰めてきた彼女に、今吉はポマードポマードポマード! と叫んで事なきを得た。 「はー…ポマード効くんや…」 「ポマード」 「なんか、口裂け女の手術失敗したお医者さん。アレがポマード臭かったから、っちゅう話やで。一説やからあんま信じてなかったんやけど」 信じてなかったのに喧嘩を売ったのかと思うが突っ込まない。 「あー、でもべっこう飴とかも試してみたかったわ〜。百メートル三秒とかも、聞いてみたかったし…」 「試したら良いんじゃないのか」 「いややわ。もう会いとうないわ」 あんなんだとは思わんかった、と今吉が言っている間に信号が変わる。通りゃんせが流れ出す。 「でもほんまに諏佐とおったら会える、なんてなあ」 にこにこと笑う今吉は嬉しそうだった。 だから、諏佐は本当はその逆なのだということを言わないでいた。 20180223 |