アノミー:今花
殺さない理由がなくなった
(本当に、なくなった?)
*首絞め描写有り
*付き合ってない
夜更けの街を歩いて行く。
東京の空は歪んでいて、月が辛うじて見える程度。
星の光も見えないような、そんな暗い駅までの道を踏みしめている。
駅の改札。
走るように駆け抜けていくサラリーマンを横目に、たらたらとスイカをタッチする。
駆け込み乗車はご遠慮ください、その声を横目に階段の始まりに立った。
視界の底の方で電車の扉が閉まった。
がたん、と動き出す芋虫のような車体を眺めながら階段を降りていく。
未だ人がごちゃごちゃしているホームで、
電車は終了しました、と光る掲示板をぼやっと眺める。
始発まで五時間程。
何処か二十四時間営業の店にでも入って時間を潰せばあっという間に過ぎてしまうだろう。
ふと、視線を感じた。
「…何だ、アンタか」
「先輩に向かってその言い草はないやろ」
振り向いた先の見知った妖怪に息を吐く。
「…アンタ、家一駅先じゃなかったか」
「そやで。終電逃したんなら来るか?」
頷く。
知りもしない人間が犇めく場所で五時間を潰すよりは、
それなりに知っている人間の家に行った方が良い。
考えるまでもないことだった。
「楽園って存在すると思いますか」
眼鏡をしていない顔がその細い瞳をいっそうに細めてこちらを見やる。
恋人でもないこの人と肌を重ねるのにはもう慣れた。
本来その用途ではない場所を解して、女のように喘ぐことも、笑うことも、慣れた。
自分と同じように熱をもったそれを、ゆっくりゆっくりと飲み込んで、
一息吐いて瞼の裏に浮かんできたのは此処へ来るまでに通ってきた夜の光だった。
あれも一つの楽園だ。
どうしようもなくこの人と、こんなことになっているのが証明だ。
「楽園?」
「ええ、楽園」
「なんや花宮、今日はやたらメルヘンチックやなぁ」
「うるせぇ」
べちり、と目の前の胸板を手の平で叩く。
バスケから離れて時間の経つそれは、学生時代のような硬さはない。
はやく答えろ、との意味を込めて手の平を押し付けた。
心臓が鼓動するのが伝わってきた。
「んー…そうやなぁ」
少しだけ悩んだあと、
「ワシにとっての楽園は、此処やから。
それ考えたらあるってことになるけどな」
「な、」
んだよそれ。
口の中がからからに渇いていくような気さえした。
自分じゃないその一部分だけを残して、身体中が冷えきっていくような。
実際にはそんなことはなくて、そこいらの浅ましい人間たちと、
あのネオンの街に群がる虫たちと同じように、欲に忠実なそこは熱を保ち続けていた。
言葉が出ない、とでも言うように唇を微かに動かしたのに気付いたのか、
聞いてもいないのに解説が飛び出してくる。
「花宮がいて、こういうこと出来て、それってもう愛やん?
愛があるって、もうそれは、楽園やないの?」
勢いに任せるようにその首に手を掛けた。
そしてそのまま押し倒す。
繋がったままの箇所がぎちり、と軋んだ。
自分の下のその表情はいつもの如く澄ましたままで、それがやけにしっくり来た。
「…アンタの、」
ぐ、と力を込めれば目のあたりから徐々に朱に染まっていく。
「アンタの言う愛って何なんですか」
真っ直ぐでたまらない程の憎悪、馬鹿みたいな尊敬、
そんなものは数えきれない程向けられてきた。
でもその中に、愛はあったのか。
そう問われたら花宮は口を噤むしかない。
花宮は知らない。
その単語が何を、どういったものを、指し示すのか。
そういう人によって大幅に解釈の異なるものは、とても、苦手だ。
そうやなぁ、とその唇を猫のように弛ませて、
「単純なもの、やないの」
たんじゅん、と口の中で繰り返す。
「人にやられて嫌なことは人にするな、って言うやん?
それってやったこと返って来るからやろ」
お前はそんなんお構いなしやったみたいやけどな。
その言葉が差すのは中学から高校時代、コートで花宮がしていたこと。
悪童と、その名がつく切欠になった馬鹿みたいなお遊び。
「其処に介在する理由ってモンを、まとめて言ったのが愛なんやない」
妙に掠れていた声はどんどんいつも通りのそれに戻っていった。
そんなにきれいなもんやないよ、慰めの色をした声が耳元に滑りこむ。
認めるくらいに、あばずれで尻軽なもんや。
それに腹が立って頭突くように頭を下げた。
がぶり、と肩口に歯を立てる。
それを振りほどくでもなく、痛いわぁ、と笑っただけだった。
あまりに馬鹿馬鹿しいと思った。
許すだの許されるだの、そんなものはとっくの昔に決まっていたことだった。
基準になる価値観も何もかも全部嘘の代物でしかなくて、
そうやってきれいにしていったら手元には何も残らなくて。
単純で、特別なんて、ああなんてそれは。
首に添えた手はとっくに緩んでいた。
そこから抜けだした身体が慈しむように抱きしめてくる。
「いたいです」
まるで、泣きそうな子供のようだ、と思った。
自分で思ったのだから、自分を抱きしめているこの人も同じことを思っているに違いなかった。
「花宮のそれは、複雑やなぁ」
嘲るでもなく、憐れむでもなく、淡々と事実を述べるような声だった。
「でもほら、救えるものもあるんやで?」
くくく、と喉が震えるのが振動で分かる。
痛がっているのはきっと、この人の方だとも分かっていた。
「なぁ、花宮?」
分かっていて、その言葉が吐き出せない。
たった五文字、心なんてものがあるなら、それを底から曝け出すような言葉。
「ワシのこと、救ってえな」
それはオレの台詞だ、そんな簡単なことも言えないまま、
応えるようにその背中に爪を立てるしかなかった。
image song「アノミー」amazarashi
20130322