暴力なんて日常茶飯事で、特に大してとんでもないことだとは思っていなかった。その日も叩かれ殴られ蹴られ、よろよろと水汲みに出る。彼らがあたしを傷付けるのにはどうやら意味があるらしかった。幼くて馬鹿で学もなかったあたしにはイマイチ理解出来なかったけれど。どうやらあたしが悪いらしいのだけは分かった。あたしが悪いのなら仕方ない、そう思い込んで毎日を過ごしていたのに。 「傷だらけだなぁ、嬢ちゃん」 それは突然、本当に突然現れた。ぐりぐりとした黒い目が印象的なそこそこ背の高い男。不自然な高さの声がやたら耳につく。 「卑怯卑劣が売りの忍びだってそんなことしねーぜ?」 きゃはきゃは! と笑う男を、あたしは首を傾げて見上げる。 「…これって、可笑しいの?」 「可笑しいも可笑しい、本当に人間なのか疑いたくなっちまう程だぜ」 まぁ人間なんだろうな、笑っちゃうけど、男は続けた。そうか、可笑しいのか、そう思いながらあたしは男を観察する。袖が切り落とされた服を着ていて、全身に鎖を巻きつけているその男は正直とても目立つ。それと同時に、普通の人間ではないのだろうと、男の言う可笑しい環境に置かれながらも鈍ってなかったあたしの本能が告げていた。この男は忍び、と言ったか。その名称を聞くのは今日が初めてだけれども、では彼もまた、そうなのか。天をつくように逆だった黒髪と、にぃ、と口元が裂けるかと思う程の笑み。どれもこれも、見たことのないものだ。 「嬢ちゃんはそれ、可笑しいと思ってねーの?」 「…うん」 あたしにとって世界とは彼らだけだったから。どうやら周りの人は彼らのような人のことを父さん母さんと呼ぶらしいけれど、あたしにそれは許されてなかったから、彼らは違うんだろうと思っていた。でもそれでも、あたしの世界は彼らしかいないのだ。 「でも痛いだろ?」 「うん」 「痛いの嫌じゃないのか?」 その問いにあたしは黙り込んでしまう。そりゃあ、嫌に決まっている。でも、彼らがそれが当たり前だと言うのなら、仕方ないんじゃ、 「さっきも言ったけどな、それは可笑しいんだ。嬢ちゃんが嫌なら嫌って言えよ。…あいつらには言わないからさ」 あいつら、という単語であたしは彼が、この傷が彼らによるものだと分かっていると知った。息を飲む。 今まで、そんなことを言う人はいなかったのだ。 隣の家のおばさんも、二つ隣の爺さんも、あたしを見ても何も言わなかったし、寧ろぐつぐつと燃える鍋底みたいな目であたしを見ていたように思う。可笑しいだなんて、痛いのが嫌だなんて、あたしだけが思っていることなんだと。だから、これは言ってはいけないことなんだと。ずっと、堪えて来た、のに。 「…嫌、だ」 一度堰を切った言葉は止まらなかった。 「嫌に決まってる…! 痛くて、堪らなくて、でもあの人たちはあたしをどろどろとした目でしか見ない! ずっとずっと煮え滾ってる窯のような目であたしを見るんだ。なんで生きてるって、そういう目で!」 「うん」 「殴られて、地べたに這いつくばったあたしに、塵芥(ごみ)は土でも食べてなさいって、出来もしないことを言う。あたしは、あたしは人間なのに! 同じ生き物なのに、とても汚いものを見る目をする! あたしはっ、あたしは…!!」 しかし学のないあたしにこの憤りを表す語彙力がそうある訳ではなく、それはすぐに失速する。 「あたしは…」 あたしは、何だというのだろう。 「なぁ、嬢ちゃん」 黙り込んだあたしに、男は声を掛けた。 「おれと来るか?」 顔を上げる。一瞬言葉の意味が分からなくて、男の顔をまじまじと見てしまった。今にも零れ落ちそうな黒目はきらきらとしていて、どうやら嘘ではなさそうだと思う。彼らはあたしに対してたくさん嘘を吐いたけれど、そういう時はきまってにやにやと嫌な笑みを浮かべていたから。あたしは嫌でも覚えてしまったのだ(振り返ってみると忍びである彼が、そんな表情だけで嘘を見破られるようなヘマなどするはずがないのだけれど、この時のあたしは忍びについて良く知らなかったので、そんなふうに思ったのだ! とてもおめでたい!)。 「なぁ」 男はもう一度あたしに呼びかける。 「一緒に行こうぜ」 差し出された手を取らない理由など、何処にもなかった。 * 繋いだ手はあたしのものより一回りも二回りも大きくて、そしてとてもあたたかくて驚いた。 「お前、名前は?」 「…ない」 彼らは一度もそんなもので呼んだことはない。昔はあったのか、彼らのところに来る前のことは覚えていないので分からないけれど。 「じゃあコウな」 男はにぃ、と笑って空いている方の手であたしの頭を撫ぜた。 「おれが真庭蝙蝠だから、そっからとってコウ。お揃いだ」 「こう、もり?」 それは、動物の名前ではなかったか。森の近いこの村では、時折見る、空を飛ぶ獣の名前。 「そ、おもしれー名前だろ? まぁこれは代々受け継がれる名前だから、役職名っぽいとこもあるけどよ。でも里の仲間もみんな、おれのことをそう呼ぶから」 だからお前もそう呼んでくれよ、と蝙蝠は言う。役職名と言うと、将軍さまとか藩主さまとかと同じということだろうか。もしかして、蝙蝠はとてもえらい人なのだろうか。首を傾げる。あたしの反応がイマイチだったのが気になったのか、蝙蝠はハの字にしてこちらを覗きこんできた。 「コウって名前は嫌か?」 「ううん、素敵だと思う」 蝙蝠はお揃い、と言った。あたしをあの、彼曰く可笑しなところから連れ出してくれる人と、お揃い。それはとても素敵なことのように感じた。よっし、と蝙蝠が顔を綻ばせる。 「お前の名前は今日からコウだ!」 抱き上げられた。 「ってお前軽すぎ! うちの里も結構貧困してる方だけど、お前はほんとに軽いな…」 ひょい、と効果音の付きそうな程、それはいとも簡単に行われた。確かにあたしは太っているとは言えないような体型ではあるが(だってそもそもこんな辺鄙なところにある村が裕福であるはずがないのだ!)(そして其処で虐げられていたあたしが、満足に太っていられるはずなど!)、それでもその身体分の重さはあるはずなのだ。だから、こうして軽々と持ち上げることの出来る蝙蝠はすごいと思う。軽い軽いとあたしを空に掲げたままの蝙蝠を、そんな高いところからじっと見下ろして、その黒い髪や黒い瞳を十分に見た時、せり上がってきたのは不安だった。 「あ、あたしが、」 声が震える。 「あたしが、気持ち悪く、ないの」 彼らがあたしを傷付ける時に良く言っていた言葉だ。気持ち悪い、気持ち悪い、そんな髪をして、そんな目をして―――いくら言われたかなんて覚えてないけれど、言われたことは忘れていない。 「お前が?」 「この、髪、とか、目とか」 「何で?」 きょとん、とした瞳がぱしりぱしりと瞬いた。 「この白い髪は雪みたいだし、その濃い青の目だって星空みたいで綺麗だぜ?」 きれい。その言葉が胸の中できらめく。 気付いた時から既にこの色だった髪や瞳のことは、自分では気持ち悪いとは思っていなかったけれど。それでも周りと違うこれを好きになれなかったし、ましてや綺麗などとは思えなかったのだ。周りと違うものは異端として弾かれる。幼いながらに人と同じであることがそれなりに角を立てずに生きる方法なのだと、それくらいは分かってしまっていたから。だからこそ、人と同じであれないこの髪も瞳も、なければいいのにと思っていた。 けれど、蝙蝠はこれを綺麗だと言ってくれた。きらめきの落ちたところから胸がざわざわと騒ぐ。 あたしは、こういう時に何と言えば良いのか知らない。 「…ねぇ、蝙蝠」 「なんだ?」 一度きゅっと唇を噛み締める。 「こういう時、なんて言えば、この気持ちを表現出来るのかな」 蝙蝠は笑った。最初に見たような裂けるような笑みではなく、春の花のような、やわらかで優しい笑顔だった。 「あってるかどうかは分かんねーけど、おれだったらありがとう、って言うかな」 「…そう」 もう一度、じっと蝙蝠の目を見つめる。この胸のざわめきを、すべて言葉にするように。 「あり、がとう」 「どういたしまして」 * 「蝙蝠は何をしている人なの?」 里の近くまではおれが運んでやるからよ、と言った蝙蝠はあたしを横抱きで抱えると、口をちゃーんと閉じてろーと前置きしてからそれはもうとんでもない速さで走り出した。蝙蝠の向こうに見える景色が混ざってみえるようになったところで、耐えかねたあたしは目を瞑り、ついたぞーと言う蝙蝠の声に目を開けた時には其処はもう何処とも知れぬ森の中だった。 「攫って来たと思われるよりは、な」 そう言う蝙蝠とあたしは手を繋いで歩いていた。確かに、あたしはあたしの意志で蝙蝠についてきているのだから、誰かに勘違いされてあの村へ返されてしまうなんてことが起こったら嫌だ。そんなことを考えながら蝙蝠を見上げて、ふと冒頭の台詞が出て来たのである。 「あれ、さっき忍者って言わなかったっけか、おれ」 「言ったけれど、あたしは忍者ってなんなのか、良く知らないもの」 貧弱な知識の中であたしが分かることと言えば、忍者はとても強い、ということくらい。少なくとも、あたしの日常をいとも簡単に壊してしまえるくらいには強いというのは、既に分かっていることだけれど。 「そうなのか。そうだな…忍者ってのは、人の依頼で秘密を探ったり、護衛をしたり、それと、これが一番多いけれど、人を殺したりする者、もしくは集団のことだ」 「ひとを、ころす」 繰り返す。すると、蝙蝠はその黒々とした大きな目でじっとあたしを見てきた。 「怖いか?」 こわい。その言葉を繰り返したのは、今度は胸の中でだけだった。 「何故?」 首を傾げる。 「蝙蝠はあたしを救ってくれた人だもの。怖くなんかないよ」 繋がれた手をぎゅっと握る。 蝙蝠の言い方だと人を殺すのは怖いことのようだった。そういえば、五軒先の娘さんが病で亡くなった時は、たくさんの人が涙を流していたと思い出す。涙が悲しい時に流れるものだと言うことくらい、あたしでも知っている。勿論、それだけではないのも知っているが。だから人が死ぬのは悲しいことなんだろう、それを勝手に早めるのは怖いことなのかもしれない。そう思ったら、蝙蝠の手をぎゅっとしたくなったのだ。 「怖くないよ」 繰り返す。蝙蝠がそうしたように、あたしはその目をじっと見てそう言った。 「…そっか」 なら良い、と止まっていた足が再び動き出す。それに引かれるようにしてあたしもまた、歩き出した。なんとなくその横顔が嬉しそうに見えて、きっとそれはあたしの希望的観測だったのだろうけれど、それでもあたしはそれがどうしてかとても嬉しかった。 「ほら、あれが真庭の里だ」 そう言って蝙蝠が指差した先に、あたしは何があるのか正直全く分からなかった。まだ見えないか、そう苦笑した蝙蝠ともう暫く歩くと、見えてきたのは恐らく木で組まれた門。学のないあたしでもそれが立派なものだと分かる。近付いてみると、細々とたくさんの動物が彫られていることに気付いた。 「すごい、ね」 蝙蝠もあるのではないかと視線を走らせてみると、それは真ん中の鳥を象ったもののすぐ側で見つかった。なんだか、居場所がはっきりしているようで、すごい、と感じた。 「さーて、一応鳳凰さまンとこに挨拶行ってくるかー」 「ホウオウ?」 「そ。うちの里の実質的な頭ってとこか?」 「かしら?」 「一番えらい人ってことだ」 「将軍さま?」 「んー…そこまでじゃねーかな」 「村長さん?」 「そう、それだ。村長さん」 そんな人のところへ行って大丈夫なのだろうか。不安はずっとあたしの胸の内に巣食うつもりらしい。まぁいくら蝙蝠が素敵ですごい人だったとしても、あたしはこれまでずっとこの不安を失くす程の所謂可笑しさと言うやつと付き合ってきたのだ。しかも、それとこれから先も付き合っていくのだと、離れることなど出来ないのだと、そう思っていたのだ。それを突然取っ払われてしまって、剥き出しにされた不安が首を擡げない方がどうかしているのだろう。 そんなあたしの胸中を見透かしたかのように、蝙蝠は笑った。 「笑っておけよお前はァ」 わしわしと頭を撫ぜられる。 「可愛いんだからよ、きゃはきゃは!」 すごいな、と思った。例えそれが一瞬だったとしても、すぐに戻ってくるのだとしても、蝙蝠はこんな不安を吹き飛ばしてくれる。 「…うん」 少しだけ、蝙蝠から目を逸らして地面を見つめる。 どうしてか、胸の辺りがぽかぽかとあたたかかった。 20191227 統合 |