「おにーさーん」
吹きすさぶ風がマフラーの隙間に入って来る。真庭蟷螂は家路を急いでいた。残業なんてものは珍しくもなんともないし、家に帰ってやらなければならないこともないのだが、だからと言ってこの寒い中、のんびりと歩くのは好ましくない。
「お兄さん、そこのスーツ着た貴方ですよー」
「…私のことか」
蟷螂は振り向いた。
 最初に目についたのは、その顔を半分以上隠す前髪だった。瞳など完全に隠れてしまっていて、どういう容貌をしているのかイマイチ分からない。それからすぐに全体像が目に入った。まず思ったのは、とても大きな男だ、と言うこと。今がした通り過ぎた道に、一人の人間がしゃがみこんでこちらを見上げていた。一つに括られた長い髪や、醸し出す甘ったるい空気がどことなく女めいてはいたが、その体つきや道端にしゃがんでいるその格好から、どうやら男らしいと判断する。首元のもふもふとした黄色のマフラーがとても温かそうだ。
「僕を拾いませんか?」
「拾わない」
「そんなぁ。もっと迷ってくださいよ」
蟷螂がにべもなく断っても、男はにこにこと笑うだけだ。
「今晩の宿が全然見つからなくて、僕、とっても困ってるんです」
「家に帰ったら良いだろう」
変な奴に声を掛けられてしまった、と思った。
「そうは言いましても、ちょっと複雑な家庭事情で。今は週末のプチ家出みたいな感じです。まぁ別に仲が悪いとかじゃないんですけど」
「友達の家にでも行けば良いだろう」
「もうこんな時間ですし、申し訳ないじゃないですか」
既に終電も過ぎていて、確かに人の家を訪ねるには非常識な時間ではある。
が、
「私には申し訳ないと思わないのか」
それは蟷螂にとっても同じことだ。この男が知らない人間である分、それは更に理不尽な迷惑として感じられるようにも思う。しかし人好きのする表情で見上げられては、このまま捨て置くのも可哀想に感じるのもまた事実なのだ。
「…一晩だけだ」
「わーい!」
蟷螂が諦めて息を吐くと、男は喜色の声を上げて立ち上がった。嬉しそうに纏わりついてくる男を軽く払いのけながらまた家路を辿る。
 とある寒い冬の日の夜、変な男を拾った。



20130628



 

 ちゃぷん、と湯船に沈みながら蜜蜂は息を吐いた。
 本当に今日は野宿を覚悟をしていたのだ。親切な人間に拾ってもらえたのは本当に運が良い。人に―――特に女に好かれる性質だという自覚はあったが、あんな夜更けでは一人で出歩いている引っ掛けやすい女などそうそういるものでもない。だから、今夜は本当に運が良かったのだ。
 蜜蜂を拾ったオールバックの目つきが悪い男は蟷螂と名乗った。彼についてやってきた部屋は小奇麗なマンションで、オートロック機能やその内廊下の様子から、どうにも高そうな雰囲気が伺える。通された部屋も簡素ではあるが広く、他にも部屋が幾つかあるようだった。男がちょっと待ってろ、とだけ残し奥の部屋へ入っていくと、蜜蜂は居間の真ん中にあるソファに恐る恐る腰を下ろした。なめらかな手触りのそれは沈みすぎる程柔らかい訳でもなく、かと言って物足りないと感じる程硬くもなく、丁度良くて心地好い。これもまた高そうだ、なんて思いながら部屋を見回す。他の部屋があるであろう扉のある方とは逆には、カウンター付きの台所があった。どうやらそれなりに使っているようだ、と見る。顔もそこそこ、良いマンションに一人暮らしで、知らない人間を深夜に拾う程度の優しさは持ち合わせていて、どうやら料理も出来そうだ。
「…モテそうですね」
それは、素直な感想だった。
 しかし、男が居間に戻ってきてから風呂場に追い払われるまでは速かった。正直何の会話もしていないに等しい。蟷螂と名乗った彼がどういった人間なのか、なんとなくの考察しか出来ない状態である。こうも交流を拒まれると、断然気になってくるのが人間というものだ。
 ふう、と息を吐く。
「考えてても、仕方ないか」
知りたいと思うのなら、知れるようにすれば良い。
「…よし」
立ち上がる。結わえあげていた長い髪が、ざん、と揺れた。

 居間に足を踏み入れると、家主はソファで本を読んでいた。
「お風呂、ありがとうございました」
「ああ。…それ、やはり短いな」
彼の目がまず向いたのは蜜蜂の脚だった。寝間着に、と渡されたジャージはやはり思った通りに短かったので、足りない分の丈はまくり上げることで誤魔化してある。
「あー…まぁ、そうですけど。そこまで贅沢言いませんよ」
にこりと笑う。愛想良く。けれど男はその表情には目も向けないで、本を閉じると立ち上がった。
「お風呂ですか?」
「ああ」
「僕はどうしていれば良いんでしょう?」
「…荒らさない程度に自由にしていろ」
何か食べたかったら冷蔵庫でも漁れ、本が読みたかったら本棚があっちにある。そうテキパキと指示を出して、最後に常識の範囲内で、と付け足すとさっさと風呂場へ行ってしまった。
 コミュニケーション作戦、また失敗である。
「手強い、なぁ…」
ぼすり、とソファに沈み込む。天井を見上げながら、蜜蜂は盛大にため息を吐いた。



20130708



 

 思っていたよりも早く、その人は風呂から上がって来た。
「おかえりなさい」
「ああ」
声を掛けながら蜜蜂は彼を観察する。抹茶色をしたその薄い寝間着によって、その線の細さが浮かび上がっていた。先ほどまで全て上げられていた前髪がくてりと垂れ、それがどことなく幼さを醸している。
「うちには来客用の布団はない、だからぬしはソファで寝ろ」
私ももう寝る、とこちらを見もせず歩いて行くのを慌てて追った。
「蟷螂さんはどうするんです?」
「どうもこうも私はベッドで寝る」
「えー僕もそっちが良いですーう」
甘えた声を出しながらその背中に縋り付いた。足が止まる。心の中でだけほっと息を吐くと、そのまま抱き締めた。びくり、と一瞬身体を強張らせられたのを感じたが、気にせず続ける。
「ソファだとやっぱり、狭いじゃないですか」
この家のソファは柔らくはあるが、それでもこの痩躯を余らせてしまう大きさであり、一晩寝るにはベッドの方が好ましいということには変わりない。
「ベッドは一つしかない」
「一緒に寝たら良いじゃないですか」
腕の中に収めたその身体は思ったよりも小さく感じた。蜜蜂が百九十センチはあることを考えるとそれは当たり前なのかもしれなかったが、それでもすっぽりと包み込めたのは予想外と言ったところだろう。
「…いや、それは」
身体の方向はそのままに首だけを撚らせて蜜蜂を見やったその眉間は、困ったように寄せられている。身長差のためにそれは当たり前のように見上げる形になったそれに蜜蜂は笑みを漏らすと、ひどく自然な動作で蟷螂の顎に指を掛けた。
「…からかっているのか」
「まさか」
「では、なんのつもりだ」
「一晩泊めてもらうお礼に気持ち良くしてさしあげようかと」
「…は?」
 こうして知らない人間の家に転がり込むのは初めてではないし、その礼に、と行為の相手をしてやるのもさして珍しいことではない。相手が女であろうと男であろうと、男の場合でもタチであろうとネコであろうと経験があったし、何よりも蜜蜂はこういった気持ちの良い行為が好きだった。
 それに、これならばコミュニケーションをとらざるを得なくなる。元々そういう人間なのか、それとも蜜蜂を警戒してのことなのかは分からないが、人と触れ合うことが好きな蜜蜂からしてみれば、こうも放っておかれるのは気に食わない。
「男は初めてですか? 不安なら挿れなませんから」
ね? と首を傾げる。
「まぁ貴方が望むのなら逆でも良いんですけど」
それでもまぁ、どちらかと言ったら抱く方が好きだ。
 訳が分からない、と言わんばかりにぱちり、瞬かれる瞳を眺めながら顎を持ち上げる。
「大丈夫です、僕、うまいですから」
あまり長くない睫毛が不思議と緑がかっているのが見えた。



20130708



20191227