第三章 狂人の現神

 うたえ、剣を取れ、その首を捧げよ。蛮族がその手に掴むのは、必ずしも血に塗れた勝利でないことを。
 

第十九話

 鑢族長の屋敷は豪奢ではあったが、それでも真庭とは似ても似つかぬ空気に満ちていた。所狭しと置かれた呪具や、その部屋にこもるような独特の木香が、此処が同じ山脈であることを忘れさせる。
 元はといえば同じ一族だったと聞くが、今はもうそれを語り継ぐ者はいない。麓にある一つの古い国の崩壊、そこから山へも広がった動乱の気配。それが数百年前のこと、とまことしやかにうたわれる程度だ。
 「遠路はるばる良くぞいらっしゃいましたね」
鈴の音のような、今にも消えそうな声だった。背後にある暖炉の焔を背負うような、そして今にも焼き切れてしまいそうな鑢の族長を、鳳凰は凍り付くような瞳で見遣る。
 風が吹いたら死にそうな女だと思った。
 顔つきよりも先に探ってしまったその身体つきも、決して鍛え抜かれているとは言い難かった。鑢の民は真庭よりも高温を好むのだろうか、部屋の火は勢い良く焚かれている。それに照らされた鑢の族長の身体は同じ年頃の娘と差異がないほど、否、それよりももっと華奢に出来ているように見えた。
 狂人鑢として見るだけならば、違和感を覚えるようなことはなかった。怪しげな呪術を使うと聞いてこそあれ、肉弾戦などもってのほかという印象がある。これは鳳凰個人の印象ではなく、真庭全体に蔓延る鑢への侮蔑の情とも言えた。
 しかし、これが鑢族長であるというだけで、その違和感のなさは違和感へと姿を変える。
 稀代の天才、と。その聞こえを知らぬ者などいないだろう。彼女に扱えない武具などなく、また出来ないこともない。そううたわれてしまうほどにこの十年、彼女は天才性を余すことなく周りに見せ付けて来た。
 女なのか、と言うことは簡単だ。だがしかし、この女はその言葉を蹴散らしてこの場に立っているのだ。女の下になど、と言う輩は少なくともこの場にはいないのだろう。例えば旅の者などがそう零したのなら、彼らは揃って言うだろう―――それはお前、彼女を知らないから言えることだ。
 黒の長い髪、強い黒の瞳。彼女は鳳凰のように、鑢特有の色彩を持っては生まれて来なかったようだ。黒い髪も黒い瞳も、どの一族にも満遍なく存在する色彩だ。しかし、長きの戦いの歴史は血を濃くし、その一族特有の色彩というものも存在する。白銀の髪、または赤の髪や、赤の瞳。それが真庭の特徴であるように、鑢も灰の髪、青の瞳と言う特有の色彩を持っていた。
 けれども、鑢の族長はそのどちらも持っていないらしい。それを少々残念に思う反面、さしたる問題ではないと思う心もあった。たとえ、どれだけ美しい女だったとしても。それが何になるとも思えない、それがこの婚礼だ。
 でももしも、と鳳凰は一瞬夢想した。剣を交えることが出来たなら、双方の先代のように、出会ったのが戦場だったならば。生命すべてをその剣のみに賭けて、ただ白い世界の中、打ち合う音だけを聞いて。
 それはまるで、誰かの想いを辿るかのように。



第二十話

 そんな戯れの想いを断ち切り、鳳凰は動いた。腰に掛けた剣を抜き、滑らかな動きで膝をつく。
そして、剣を差し出すように地にへと置いた。その後ろでは侍従と近衛兵もまた、その動作に倣う。
 これが、真庭一族の一礼。最初から、礼を尽くそうとは決めていた。
 「蛮族―――というのが正しいのかしら?」
鳳凰が頭を垂れる先で、鑢の族長がそう呟いたのが聞こえた。火を焚かれているというのに、部屋の中の空気が一瞬で凍る。
 しかし、鳳凰はその顔色を変えることはしなかった。暴言など、元より覚悟のうちである。尤も、暴言というにはあまりに無邪気な声色ではあったが。
 顔を上げ、強い視線を崩さない鳳凰に鑢の族長が何を思ったのかは知れない。彼女は唇の端だけをわざとらしく曲げ、笑みのような形を作った。歪だ、そう思うよりも早く、その今にも砕け散りそうな声が鼓膜を震わせる。
「私は七実です。真庭の族長、お名前を」
名前など知らぬ訳ではあるまい。宿敵と言えど、婚約者なのだから。ただの儀礼でしかない、それが分かっているから鳳凰もまた、冷たい声で返した。
「我は鳳凰」
 「真庭鳳凰さん」
椅子から立ち上がり、七実はその名を呪いのように呼ぶ。
「貴方のその誇りである剣を地に置き、この狂人に屈し、私の夫となる覚悟はありますか」
身体中を痛いほどに走ったそれが緊張であると、気付くのに一瞬を要した。鑢の族長、七実はじっと鳳凰を見据える。
「剣を取っても構わないのですよ」
それはあまりにも露骨な挑発だ。この長かったはずの十年すべてを、無駄にしろと、二つの部族の前で七実は囀る。
 対する鳳凰はその頬に笑みを浮かべていた。先ほどの夢想を現実に出来る口実を見つけたからではない。
「鑢の族長は真庭の別名をお知りでないと見える」
鳳凰を見上げる七実の眉が僅かに動く。未だ跪いたままの鳳凰を、七実はいとも簡単に見下ろす。否、見下す、の方が正しいのかもしれなかった。
「我は真庭、白き山脈に息づく誇り高き雪蟷螂。我が心から刃を向けるのは、愛した人間ただ一人だ」
真っ直ぐに、真っ直ぐに。その凍て付いているであろう心に突き刺さるように、鳳凰は七実を見つめる。
 「…良いでしょう」
永遠にも似た沈黙を破ったのは、本当に可笑しそうな七実の笑い声だった。そのまま鳳凰の眼前まで進んできた七実は、わざとらしくその剣を踏みつける。
「美しいと褒めるには些か険の立つお顔ですね。しかし、迎え入れましょう、我が夫よ」
顎に添えられた指は氷のように冷たかった。決して、慈しむような仕草だったとは言えない。力さえ込められてはいないものの、触れ合っている部分から憎しみが流れ込んでくるような。
「真庭の一族の者に部屋を与え、宴の準備を」
もう一度だけ七実は鳳凰を見下し、
「貴方の部屋は私と同じです。異論はありませんね? 我が夫よ」



第二十一話

 はらわたが煮えくり返るとはまさにこのことだ、と蟷螂は思っていた。
 鑢の宴は盛大ではあったが、それでも尚茶番のような白々しさが拭えていない。この場にいる誰一人として、心からこの婚礼を祝福しようなどという能天気な思考は持ち合わせていないようだ。蟷螂とてそうであるとは言いがたいが、せめて白々しさを感じさせないくらいのふりくらいはしてみせろと、そう思ってしまう。
 臓腑を焼くような不快さだと思った。酔いの回った男の誘いや、女の熱い視線を振り切り廊下へと出る。あの女、と蟷螂は息を吐いた。頭を過ぎるその姿は、再び蟷螂の怒りの線をふつふつと刺激していく。
 先入観など抜きに考えることは出来ないと、そう思っていた。しかしそれを自覚していても尚、鑢の族長は蟷螂にとって不愉快な人間であることに違いはない。
 彼女は鳳凰を愛してなどいない。
 もとより愛情を強要するつもりなどなかった。足りない分は蟷螂と、蟷螂としては認めるのは少々癇に障るのだが右衛門左衛門と、埋めていけば良いとまで思っていた。鳳凰だって、彼女を愛してはいないし、これから愛するつもりもないのだろう。この婚礼は愛になど基づけない。それを考えたらもしかして、これは神に背く行為でさえあるのかもしれなかった。
 そう鳳凰も考えていたのか。彼はこの婚礼を戦だと言った。彼の、ひとり戦なのだと。儀礼でしか剣を持つことがない蟷螂だけれど、この戦は必ず力になれることがあると信じていた。きっと、それは鳳凰の影として、というよりかは、一人の男として、になるのだろうが。しかしその思惑も封じるように、鳳凰は誰の手も借りることなくその身一つで戦地へと赴いた。寝所が、真実の意味で戦地であるなどと。それは男であれ女であれ、地獄ではないのか。
 長い毛皮の敷かれた廊下の奥。その離れが七実の寝室であり、先ほどからは鳳凰の寝室にもなった。
 重たく憚るその扉をぎっと睨みつけようとして、視界をかすったそれに、蟷螂は怪訝な顔をする。ひやり、と生命の火を消しにかかるような冷たい廊下の隅。木から掘り出された不気味な像のすぐ下に、同じく置物のように膝を抱えている男。その陰気な姿を見間違えることはない。
「…右衛門左衛門」
一人になりたかったのに、という気持ちと、格好の餌食を見つけた、という気持ちが混ざり合っていた。
 蟷螂が近付いてもその影は動かない。
「…馬鹿だな」
傍らに転がる強い酒の瓶を見咎め、蟷螂は呟く。壁に肩を預けて彼を見下ろすその目は、呆れの色をしていた。胸を焦がすような憎悪は痛みと悲しみに形を変え始めている。ずん、とそれがいつか血となり肉となることを蟷螂は知っていた。
「酒も飲めないくせをして」
拾った瓶にそのまま口をつける。不作法な仕草だとは思ったが、止める者はいない。山脈の民であるが故に酒への耐性は強く、こうして飲んだところで死にはしないだろう。
 ずきり、と再認識させるように胸が痛んだ。
「今夜くらいは私も馬鹿になろうか…」
冷たく白い夜だった。風も止んだその夜は、確かに何かの幕開けだったのだ。



第二十二話

 「くつろいでくださいな」
そう言いながら七実は傍らの盃を煽った。ほんのりとその頬に赤みが差し、その中身が強いアルコールであることを知る。
 彼女の後を粛々と、まるでそれこそ下女のようについてきていた鳳凰は、豪奢な寝室の扉の近くに立ち尽くしていた。
「どうしました、くつろぎなさいと言っているのですよ」
鑢の族長はその言葉を本気で言っているらしい。その白い唇から吐き出す言葉すべてが命令であるなどと、鑢の一族は皆そうなのか、それともこれは女の身である彼女が鳳凰よりも上に立とうとして講じた策であるのか。鳳凰は心の中で毒づいたが、流石と言うべきかそれは言葉にも顔色にも現れない。
「…蝋で出来たような方ですね、真庭さん」
退屈だとありありと書かれた表情で七実は言う。
「それとも何でしょう、緊張で声も出ないのですか? 蛮族の族長というからにはこういったことにはお慣れでしょうと思っていたのですが。女々しい繊細さは私よりも持ち合わせているということでしょうか」
再びの挑発にも鳳凰は言葉を返さない。
「…つまらないですね」
むっと眉を潜めた七実は其処にお座りなさい、と寝台を指差した。豪奢な部屋の造りとは反対に、至って簡素に作られた寝台。七実はあまり此処では寝ていないのではないかと、そう思う程に使った形跡が見られない。鳳凰はその言葉に従う。七実に背を向けることなく行われたその動作は、決して優雅とは言えず、まるで戦の前かと思うような機敏なものだった。
 「何か、言ってみてくださいな」
盃を尚も傾ける七実の言葉に鳳凰は一瞬考えこんで、そうしてからその形の良い唇を開く。
「北の関所の開放を婚礼までに済まさねばならぬな。検問はもはや両族に不要なものだ、兵を立てる必要もなくなるだろう」
「政治の話ですか」
くすくすと楽しそうに笑ってみせた七実が、本当にそのような反応をしているのではないことくらい、分かる。
「寝所に政治の話を持ち込むなんて、気のきかないお方ですね。そんなことをして何が楽しいのですか?」
答えなど簡単だ。楽しむことに意味など見出だせない、ただそれだけ。けれどもその答えはあまりにも地雷だと分かっているから、口には出さない。またじっと口を閉ざすことにだけ努めることにした。義姉から受け継いだ多くの話術も、今此処で使う意味がないと思っていた。
 鳳凰の使命は鑢の縁付くこと、それだけなのだ。それ以上のこと、例えば今あるこの状況、七実と寝所で楽しむなんてことは、正直どうでも良いことなのだ。
 また蝋で封をしたように押し黙った鳳凰に期待などしていなかったのか、七実はつまらない方ですね、見込み違いでしょうかと吐いた。それに対しても鳳凰を何を言うこともなく、また七実も何か返って来るとは思っていなかったらしく、そのまま言葉を続ける。
「真庭は随分と小さな馬車で来たものですね」
「二つ山を越えるためだけに、どれほどの兵がいると?」
鳳凰の言葉の裏側を読み落とすなんて真似を、七実はしなかった。それ故に笑う。しかしそれはひどく歪んだものであり、鳳凰には嘲笑としてしか受け取れなかった。
 甘い、と。そう嘲るような笑みだと。鳳凰にはそれが何処か春を希う自分に重なるようで、一つ深い息を吐きたくなった。



第二十三話

 「それにしても、貴方の側近は随分お粗末ですね。鑢の兵でもあれほど覇気のない者はいないでしょう。真庭の者は豪傑だと聞いていましたが…族長やその周辺が腑抜けているだけでしょうか?」
鳳凰もまた腑抜けであると言われたにも関わらず、やはり鳳凰は何を答えるでもなく七実を見つめていた。此処まで心を打たない人間の言葉というものがあるのだと、些かの驚きと共に鳳凰はいた。しかし、七実の言葉の一部―――勿論右衛門左衛門のことには、心の中で大きく頷いてみせる。それを表情に出すことはしなかったが。そんな鳳凰の反応を求めているのか、ただの暇つぶしなのかは知らないが、七実は尚も言葉を続けた。
「侍従だというあの方は、貴方の影ですね」
疑問符さえつかないそれに、僅かに鳳凰の目元が動く。それを七実は見逃さなかった。
「私が知らないとでも? 先代の真庭は随分過保護なのですね。あの影も…髪を短くして別人を装っているつもりなのでしょうけれども」
残念ながら意味などありません、と嘲笑うというよりかは、幼い子供が無邪気に間違いを指摘するような要領で七実は続ける。
「婚礼にまで替え玉を使ってくるかとも思っていましたが、流石にそれはありませんでしたね。単純な嗜好で言うならば、あちらの殿方の方が私のそれには合っていそうではありますが」
揶揄を隠すつもりもないのだろう。尚も七実は続ける。
「それにしても随分子飼いにしたものですね。あの方、私を射殺さんばかりに睨みつけていましたよ?」
無駄なことなのに、と言わんばかりのその言葉に、自然と瞳が冷えていくのを鳳凰は感じていた。右衛門左衛門のことは罵詈雑言を尽くされようと同意出来るというのに、生命まで掛けてくれている蟷螂のことになると、いとも簡単に耐えられなくなるようだ。焔のように冷え切って自分を射抜くその視線に、七実は悪くないと笑う。盃を置き、鳳凰の元へ歩み寄ると、その髪を一撫でした。
 耳元に落ちた声は、妙に掠れていた。
「一切の欲情の片鱗すら見せられないとなると、女は自信を喪失するものですよ?」
衝撃、だった。この細腕の何処にそんな力が眠っていたのかと思う程に。しかしそれも一瞬であり、白いシーツに紛れるように鳳凰の長い髪が広がった。背中に痛みはない。目も閉じることはなかった。間近にかち合うその沼のような瞳を見つめながら、縋るような腕に両手首を縫い付けられ、そのまま唇を奪われる。
 ―――無味だ。
 鳳凰が思うことが出来たのはそれだけだった。
「抵抗しないのですか」
それはこちらの台詞だ、と薄明かりの中で思う。誘うようにというには乱暴に、嬲るようにと言うには泣きそうに、七実は鳳凰の首筋に噛み付く。
「どうしたのです、雪蟷螂の名は飾りですか」
裂くように剥き出しにされた肩にも同じように七実は舌を這わせた。子犬がじゃれるようなそんな動きに、けれどものしかかる存在の重たさに、鳳凰はそっと目を閉じた。時折感じる刺すような痛みも気にならなかった。
 恐怖も、屈辱も、感じない。
 閉じた瞼の上に接吻けが落ちた。その瞬間に、すべての動きが止まった。
「―――それが貴方の接吻けですか、真庭鳳凰」
その声は掠れてすらいなかった。最初からこうなることを予期していたかのように、真っ直ぐに、笑みさえ浮かべることの出来る余裕。
 ぼんやりと薄い明かりに照らされた七実の首筋は、宛てがわれた鳳凰の懐剣によって薄くその肌を裂いていた。流れる血がそのまま伝って来て、鳳凰の指を濡らしていく。
「まさか。鑢の流儀に合わせてみただけだ」
答える彼の急所にもまた、七実の鋭い刃が狙いを定めている。僅かな殺気でさえ、鳳凰が見逃すはずもなかった。
「初夜に持ち出すにしては野蛮過ぎる一物だな」
殺気は隠さない。隠す必要などない。冷たく言い放った鳳凰に、七実は笑う。
「惜しいですね」
深い、それが愛しさだと嘯かれれば信じてしまいそうに深い言葉だった。
「真庭鳳凰さん。貴方は私の想像よりも腹立たしく、そして愉快な方でした」
刻み付けるかのように、七実はもう一度鳳凰の名を呼ぶ。
「ですが、此処で死になさい。蛮族真庭よ」
痛々しい、その声を、
「新たな戦の始まりに、貴方の首を貰い受けます」
宣言と呼んで、良かったのだろうか。



第二十四話

 右衛門左衛門の酒を飲み終えたところで、蟷螂は一度部屋へと戻った。ついでに持参していた瓶とカップを持って右衛門左衛門のところへと戻って来る。白樺のこぶで出来たおおぶりのカップは昔、鳳凰に贈られたものだ。山脈の伝統的な工芸品であるそれは、酒を注げば独特の木香が味わいを深めてくれる。
 右衛門左衛門は相変わらずだった。起きているのか眠っているのかも分からない姿で、冷たい廊下の隅にうずくまっている。蟷螂は何故かその姿から、寒さに怯える小さな子供を連想した。近衛兵長になってすぐ、流石に髪はどうにか出来ないのかと零したのは鳳凰だ。その一言のお陰で今は彼の髪が乱れているのを見たことがない程であるが、それでもその顔は奇妙な仮面で覆われたままで、表情は見えない。それに理由があると知っている人間は、どれほどいるのだろう。自分と、それから。きっと、鳳凰、も。
 息を吐きながら、蟷螂は昔に思いを馳せていた。少し熱の回った頭で揺蕩う過去は心地好い。
 右衛門左衛門を初めて見た日のこと。蟷螂はその時の戦慄きを、きっと今後忘れることはないのだろう。
 新しく近衛兵長に名乗り出たのが若い男だと言うことは、蟷螂の耳にも入ってきた。彼は鳳凰を守り、そして時にはその影である自分を守るのだろう。そう自分に関わる部分があったからではないが、蟷螂はその男にあらゆる方向からの期待を寄せた。能力は勿論のこと、その人間性や容貌にまでも。あの美しい主の傍に仕えようという者はきっとそれなりに、秀でたものを持っているのだろう。そんなふうに心を踊らせていた蟷螂は、紹介を受けたその時、失望した。
 あまりにそれは深い失望だったので、絶望と言い換えることさえ出来るようだった。その表現は誇張ではない。それほどまでに、彼は蟷螂の期待を裏切る人間だった。
 まずは容貌だ。何処が若いというのか、と蟷螂は胸の内で毒づいた。男であるというのも辛うじて判別出来る程度で、戦士と言うにも覇気すら感じず、鳳凰と同じ空気を吸うことすら許しがたいと思うほどだった。
 近衛兵になるため、彼は幾人もの真庭を倒してその場所に立っていた。その頂点というべき場所、鳳凰の前に彼が立った時、鳳凰は当然と言うように彼に剣を向けた。
 誰よりも真庭らしい真庭、それが鳳凰。だからこそ、自分の生命を、そして蟷螂の生命を預けるであろう彼の力量を、自ら推し量ろうとした。
 しかし、右衛門左衛門はその剣を受け止めることも、ましてや剣を抜くことすら、ただ鳳凰を前にして額を地から離すことさえしなかった。
『剣を、取れ』
あれは苛立ちだったのだろうか。鳳凰が静かに尋ねていた。
 返す言葉はあまりにもくぐもっていて、聞き取りにくかった。
『鳳凰、真庭の鳳凰よ。私はお前に向ける剣など持ち合わせてはいない』
一族の長たる鳳凰に向かってお前などと、不敬だと憤ろうとした蟷螂を、鳳凰は制する。
『お前の剣はいつ、いかなる時も私の皮と肉。血と骨にて受けてやる』
 この時蟷螂は鳳凰の後方にいた。だから、彼がその言葉にどんな反応を示したのか、知らない。
 鳳凰は何も答えなかった。



第二十五話

 凍るような空気の中、金属同士のぶつかる小さな音がする。鳳凰が刀をおさめた音だった。彼は地を這う右衛門左衛門の隣を毅然と歩き去りながら、言葉をひとつ、落としていった。
『真庭の血は剣の錆にするには惜しい。…大切に、扱え』
右衛門左衛門は頭をあげなかった。それがまるで蟷螂には、祈りでも捧げているように見えた。
 泣いているのかもしれないと、そうとも思った。それ以上、思うことはなかった。
 それから彼は鳳凰の、そしてそれと同時に蟷螂の傍に控えることとなった。
 彼が剣を振るうのは鳳凰の身に危険が及んだ時だけだった。力を競い会うような場には出てこず、その実力は結局のところ闇の中だった。ただ、気配を消すことだけには長けており、音を立てず、ましてや言葉を発することもしない彼を、周囲は自然と空気のように認識しなくなっていった。それは蟷螂も同じだった。けれど、しばらくしたのち。
 初めて、蟷螂は彼に尋ねられた。
 『…何故』
鳳凰のいない屋敷の中。蟷螂の背後に立つ右衛門左衛門の声はぼそぼそと、まるでうめきのようだった。その耳障りな声に軽蔑するように視線を投げかけたが、右衛門左衛門はその冷たさに臆することもなくその先を続けた。
『何故、鳳凰のことを、君主と?』
片眉だけを器用にあげて、蟷螂は唇の端を噛んだ。
 答える義理などなかった。これまで誰に語ったこともない、蟷螂の胸の内を明かすようなことだったのだから。他人との共有などいらない、共有出来るなどと思ってはいない。
 だから、何故その時それが口をついて出て行ったのか、正直なところ蟷螂には分からない。どうせ理解など出来ないと、そう思ったからか、それとも。
『あやつが私の唯一の主だからだ』
にこりともしなかった。
『一族だからとか、族長だからとか、そんなことはどうでも良い。あやつは真庭の族長ではないのだ、私たちが祀り上げて良いものではない。…あやつは、私だけの………絶対唯一の、君主だ』
右衛門左衛門へ向けた言葉にはならなかった。心に決めていたその言葉は、誰よりも蟷螂自身に良く響いた。
 いつの間にか下げていた視線を上げたところで、蟷螂は目を見張った。右衛門左衛門はただ静かに息を吐いていた。怯えも、媚びるような笑みもなく、ただ静かに、
『素晴らしい』
その呟くが、あまりに深かったから。
 分かってしまったのだ。右衛門左衛門は人間として、男性として、様々に欠落している存在だ。けれども、鳳凰に対する忠誠だけは。これまでに彼の前に現れたどの戦士よりも、純粋でそれでいて強く、そう、何よりも自分に近いものだと認識出来た。
 そうして蟷螂と右衛門左衛門は、同士となった。



第二十六話

 酒瓶を揺らしながら、回想から舞い戻る。閉じていた目を開けても、蟷螂はやはり憮然とした表情のままだった。
 「そんなに沈むくらいなら、此処まで来なければよかったではないか」
隣で俯く右衛門左衛門は置物のようだった。呼吸さえ、蟷螂には聞き取れない。死んでいようが今まで通り空気になっているだけだろうが、それは蟷螂の機嫌を更に損ねていく。
「それか、想いを告げて攫って逃げたら良かったのだ。そうして、あやつに八つ裂きにされてしまえば」
右衛門左衛門から鳳凰へと向く感情が、まさか忠誠のみであるとは蟷螂は思わなかった。鳳凰以外は目に入らないと言うような彼のその感情に、名前を付けるような残酷な真似はしなかったけれど。じっとその詰りを聞いていた右衛門左衛門は答えることなく、再度酒瓶を煽り。
「蟷螂こそ」
いやはや全く信じられないことではあるが、反抗して見せた。
 蟷螂が振り返ると、右衛門左衛門は冬が過ぎ去るのを待っている獣のように丸くなっていた。抱えた膝に、自分の額を擦り付ける、そんな動作をしながら、ぼそぼそと続ける。
「…今頃、何人の女が、泣いているか」
はは、と乾いた笑みが漏れた。頬に指をあてゆっくりと瞬きをした後、今度は完璧に笑ってみせる。
「そうだとしたら嬉しいものだな」
それは右衛門左衛門に対する言葉だというのに、珍しく軽口でも自慢でも、強がりでもなかった。だからこそか、彼から漏れたのはため息のような音だった。もしくは、蟷螂に想いを寄せていた真庭の女たちの代わりの嘆息だったのかもしれない。
 美しく儚げに微笑むその表情と、鳳凰に全てを捧げているというその犠牲的な環境は、女たちの母性本能やらをひどく擽るらしかった。
 女遊びというには蟷螂のそれはあまりに軽やかで、だがしかしどうあっても生来の性分のように見えた。背徳と呼ぶに不十分さが残るのは、誰彼構わず誑かしている訳ではないからだろう。
 心を寄せるのはいつだって、蟷螂の方が先なのだ。
 密やかに異性を想い、目が合ったら微笑み、手が触れたら嬉しそうに照れて見せる。それは演技でも何でもなく彼の心の底からの行動だったろう。けれども、彼はその名の由来であろうこの一族の呼び名、雪蟷螂には程遠かった。
 やがて相手が彼に想いを寄せ始める頃。あるいは一つの形が出来上がろうとする頃。
 蟷螂は寄せた波が返るように、静かに身を引いてしまうのだ。
 蟷螂のことを放蕩者と言う者がいなかった訳ではない。しかしそのささやかな倫理観は相手のいる者に惚れることを良しとせず、更には蟷螂が向ける慕情すら、相手に伝わるかどうかの密やかなものだった、そのため、表立って彼が誹りを受けているのを見たことはない。勿論、彼をなじるには鳳凰の影としてあまりに優秀であり、その主にも迷惑をかけたことは一度たりともなかったということもあるだろう。また、鳳凰はその軽さを容認していたように思う。
「覚えていてもらえるのなら、それは幸福なことだろう」
だから、心の底から彼を詰りたい人物はきっとこの世にただ一人なのだ。
 蟷螂自身。
 彼自身が、誰よりも自分のことを悪い人間だと思っている。
「けれど、誰ひとりとして共に生きてくれとは言ってくれなかったぞ」
そんな望み、思ったことすらなかたのに、蟷螂はそう笑った。
「…蟷螂」
「冗談だ」
今までできっと一番やわらかいであろう、その笑みを向けた、その時。
 がしゃん、と触れている地面に響く、重い音を聞いた気がした。



第二十七話

 はっと息を潜めてその先の物の倒れる音、割れる音に耳を澄ませていた蟷螂より、右衛門左衛門の方が速かった。彼が一目散に向かっていったその扉に、蟷螂は慌てて悲鳴のような声があげる。
「右衛門左衛門…!」
だめだ、と言おうとした。
 しかしもう右衛門左衛門との距離は歴然で、きっと声は届くのだろうが、彼が止まることはないだろうと分かった。分かったからこそ、舌打ちをしてその背中を追いかける。
 視線の先で右衛門左衛門はその厚い扉に耳を付け、激しいノックを数度。そして、応えのないことにしびれを切らしたのか、
「右衛門左衛門、何を…!」
その肩に蟷螂が触れるより前に、右衛門左衛門は鍵のかかっていなかったその扉を押し開き、中へと転がり込んでいた。
 そう。あろうことか、鑢の族長、その寝室へと。
 中に見えるのは薄い灯りだけだった。その中には鳳凰と七実がいるはずだ。婚礼を前にした男女がすることが寝所ですること、それが分からない右衛門左衛門ではなかろうに。そんな中へ割り込むなどと無礼を働いて、右衛門左衛門が無事ですむどころか、もしかしたらこの婚礼自体がだめになってしまう可能性さえあるだろうに。
 そんなことにでもなれば、二つの部族は。なにより、鳳凰は。
 絶望的な気分で扉にすがり、ふらふらと中に足を踏み入れた蟷螂は、息を止めた。凍る山に、突如として晒されたようだった。声の出し方すら忘れてしまったように。
 雪、とまず最初の瞬間そう思った。
 寝所にふわふわと舞い散る白いもの。それが舞い上がる雪のように見えた。しかし、それは幻覚だ。蟷螂の目に映ったのは、もっとやわらかく大きい、鳥の羽根。
 切り裂かれた、寝具の中身。
 倒れたテーブル、割れた飾りグラス。右衛門左衛門の銀の刃はこの薄らぐらい部屋の中でも確かに輝いていた。真庭に珍しい短刀、それが目の端に映っただけで分かるくらいには、蟷螂は彼のことを認めている。戦場以外で滅多にひと目には晒されないその指は長さが不揃いだ。まだ手が育ちきる前に、冷たさに神経を屠られた所為だと聞いている。その異形と化した手に、一体となるようにくくられた刃。
 それを受けているのは鑢の族長だった。華奢な身体でその一筋をものともせず、涼しい顔で受けている。
 本当は、それよりも先に蟷螂の視線を奪ったものがあった。しかしどうあっても、蟷螂はそれを信じたくなかった。
 足元に倒れる、美しい肢体。
 彼の主、真庭鳳凰。



第二十八話

 砂糖菓子のように散らばった紅、それを彩るように落ちている特徴的な色の髪。息を吸えたことも奇跡に近いだろう。そうして止めた息で、絶叫せんとする心を抑え込んだ。蟷螂、と良く知った声が耳から染み渡るのを待って息を吐く。
「蟷螂、扉を閉めろ」
 ゆっくりと身体を持ち上げるのは鳳凰だった。首筋に薄い傷は認められたが、幸いにもその血は既に止まっている。片頬にかかる髪は不揃いで、蟷螂は呆然と、無残だ、と思った。
 鳳凰は乱れた夜着を直そうともせず、今度は奥の二人を見上げた。
「右衛門左衛門」
婚約者ではなく、近衛兵の名を呼ぶのが彼らしいと思った。右衛門左衛門はぎりりと歯を食いしばらせて、短剣を七実へと押し付けていた。七実も彼の動きを伺っているのだろう、その眉は微動だにしない。
「右衛門左衛門、我の声が聞こえないか」
剣をおさめる様子がないと分かったのだろう、鳳凰はもう一度繰り返した。
「剣をおさめて我の後ろに控えろ。いつまで我を倒れたままにしておく気だ?」
微かな笑いが込められていたのは、鳳凰なりの気遣いだろう。
 その言葉に右衛門左衛門は歯を軋ませ、やっと七実の剣を弾く。乱暴なその動作に七実は歪んだ笑みを呈し、右衛門左衛門が鳳凰を助け起こす様を眺めていた。
「良く調教の出来た犬ですこと」
そこで初めて、蟷螂は自分がまた長く息を止めていたことに気付く。薄く長く、自身を落ち着けるように息を吐きながら、そっと後ろ手に扉を閉めると鳳凰の背後に忍び寄った。
 七実は蟷螂を視界に入れ、嘲笑の色をにじませる。しかし、畏れなど感じなかった。ただ、鳳凰の白い肌に浮かび上がるその薄い傷が何よりも鮮やかに。
―――殺してやりたい。
視線だけで相手を殺せるのならば、と蟷螂は願った。
 自分の上着を鳳凰に掛けると、彼はそれを受け取った。右衛門左衛門は俯いてその横に控えている。小刻みに震える拳が、彼にも激情のあったことを語っていた。彼もまた、雪蟷螂なのだと、そう初めて見たような気がした。
 このまま、引けるものか。蟷螂は真っ直ぐに七実を見つめる。
「…弁解を。鑢族長」
絞り出した声は怒りに震えていた。
 七実は確かに鳳凰の婚約者だ。今は既に死してはいるが、両者の父親がそう取り決め、鳳凰が受け入れた事柄。だからこそ蟷螂は反論する手立てを持ちはしないし、反論するつもりもない。
 けれど、七実は鳳凰に牙を剥いた。言い逃れなど出来ない、と蟷螂は自分に言い聞かせる。
 「初夜にとんだ邪魔が入ったものですね」
わざとらしいため息。青ざめた蟷螂の顔が強く歪む。
「蟷螂」
鳳凰が名を読んでくれなければ、何を口走っていたか知れなかった。それが行き過ぎの行為であると、分からない蟷螂ではない。
 鳳凰の横顔はあまりに静かだった。怒りをにじませることもなく、無防備とも言える危うさで踏み出す。
「戯れであったというのなら、我の方からも謝罪しよう。我も興が乗ってしまった」
事態をおさめるつもりなのは一目瞭然だった。それ故に蟷螂の胸は焦れる。人の好みは千差万別であれど、あんなふうに血が流れるものが、戯れ、だなんて。右衛門左衛門もまた、握った拳に力を込めたのが、隠そうともしない震えで分かった。
 七実はその言葉に笑った。笑って、吐き捨てるように答えた。
「いいえ? 私は初めから貴方を殺すつもりでした」
彼女にとって、それは愉快な予定であるようだった。
「今もそれは変わりません…真庭の族長どの。仕切り直しますか? それともその、」
くい、と顎で示されたのは右衛門左衛門。
「忠犬の近衛兵が先に相手になりますか?」
確かな嘲りをもってして問われた言葉に、鳳凰は静かに鍛錬の相手なら幾らでも、と返す。それが気に入らないとでも言うように、七実は顔を歪めて見せる。初めて見せた、彼女の嘲笑以外の表情だった。
「平和主義かと思えば、そうでもないのですね。蛮族の血気だけはあると、褒め称えるべきですか? 私は豪傑と嘲るべきか阿呆だと呆れるべきか、非常に迷いますが」
興が削がれました、と七実は椅子を拾い上げると座る。
「真剣を取らないのならば真庭へと逃げ帰りなさい、雪蟷螂の族長よ。私は貴方の首を氷雪に晒し、開戦の狼煙とするつもりでしたが…馬鹿というのは素晴らしいですね。やる気がなくなってしまいました。けれども…そうですね、貴方の髪を切り、肌に刃(は)を入れました。それも、この鑢の族長七実、自ら。充分でしょう」
朗々とつまらない物語でも語るように、その唇は静かに紡ぐ。
「一族郎党引き連れて、正面切って戦に来なさいな」
「婚礼を破談にすると?」
「まだそんな呆けたことを言うのですね」
ぞっとするほど、冷たい声。
「開戦ですよ、戦をする気がないなんて、言いませんよね?」
昏い眸。同じものを知っているだろうと、語りかけてくるような。
「侵略と蹂躙が嫌ならば―――いえ、嫌でないということなんてないのでしょうけれども。山脈にその血を晒しなさい、真庭の野蛮人たち」



第二十九話

 目は口ほどにものを言う。誘惑と言って良いほどの殺気に、鳳凰は何を思うよりも先に動いていた。向けられた刃を認識するよりも速く、それは最早獣やそういうものと同等だっただろう。
 寝所まで懐剣を持ち込んだのはただの習慣であったが、それでも予感がなかったと言えば嘘になる。だからこそ右衛門左衛門に待機を命じていた。いつでも踏み込んで来られる準備をと、その時は迷うなと、皆まで言わせずに右衛門左衛門は重苦しく頷いた。
 いつもよりも口数が少ないのは分かっていたが、鳳凰は敢えて触れなかった。この想いは汲んではいけない、そう思っていたから、気に留めておいてもらえれば良い、とだけ言って会話を切り上げた。
 そして懸念は現実となり、本来戦場になるべきではないその場所で、刃は交えられた。
 殺意は予告だった。だから本番はこれからであり、交渉と勝負はそこでものをいうと、そうも思っていた。愛だろうが憎しみだろうがどうだって良い、婚礼だけは、果たされなければならない。
 殺されることも、殺すことも赦されない、と。
 鳳凰にとってこの戦は、そういう形をしていた。
「鑢七実」
激昂とは言えないだろう。凍りついた湖面のようにまっ平らな声で、鳳凰は呼ぶ。
「この婚礼は我の意思ではない、同時にまた、お前の意思でもない」
確認のためになぞられた事実に、七実は大した反応も見せなかった。
「しかし反故には出来ない。かつて我の父、そしてお前の従兄妹が、血と血でもって交わした約定だ。お前は、尊き先代の顔に泥を塗るつもりか」
情に訴えるなど出来る訳がない、そんなつもりはない。だから、鳳凰は七実の誇りに問うた。
「戦の終結。それは鑢にしても、先代の悲願のはずであろう」
 確かに、と七実は頷いた。
「この婚礼は先代の悲願でした」
しかし、その口調は確たる過去を示す。
「ですが時代も人も、時と共に移ろうものです。私も貴方も、先代ではありませんよ」
「我とお前の話をしたつもりはない。…先代を、貶めるつもりか」
「先代を、貶める?」
七実は笑った。こらえきれない、と言ったような笑い方だった。
「まさか真庭の口からそんな言葉が聞けるなんて。想定外でしたね」
次いで向けられたのは、侮辱の目線。
 「鑢の誇りを蹂躙した、蛮族の口、から」
 ひゅっと、息の詰まるような静かな怒りだった。思いもよらない言葉に鳳凰は眉を顰める。
「どういうことだ?」
確かに鑢と真庭の確執は長きに渡るものではあったが、七実の言葉はそのようなものを指しているようには聞こえなかった。正面切って問うた鳳凰に、まだしらを切るおつもりですか、と七実は笑う。そして頷いて、良いでしょう、と立ち上がった。



第三十話

 七実が向かったのは部屋の奥だった。厳重に鍵が掛けられた、部屋とも見紛う大きな箱が其処にはあった。扉を開くと不思議な香の立ち込め、其処だけがまるでこの世ではないような心地にさせる。七実が大きな布を引くと、薄闇に姿が現れる。祭壇だった。七実の手によって灯りが強まる。
「紹介しましょう」
七実は薄く、うすく笑った。子供が大人に話し掛けるような純真めいた口調で、しかしながらその底に確かに澱んだもののあるような口調で。
「先代です」
 人の形をしていた。それにすぐさま気付くことが出来なかったのはあるべきものがなかったからだ。誰も悲鳴を飲み込むような真似はしない。ただ、息遣いのみが一瞬消える。その四肢の美しさは見当たらない、それは真庭が特別生というものを尊んでいるからなのかもしれないかった。
「鑢の現人神」
鳳凰の口から呟きが出る。七実がはい、と頷く。
「死人狂いの鑢と詰らなかっただけ、貴方の教養は認めましょう。蛮族真庭」
 彼らの信仰は特殊だ。呪いも祈祷もすべて鑢のものだった。それが一番色濃く出るのが人間の死後というだけの話だ。死体を保存し、祭壇を与え、その木乃伊が神の宿るものであるとしたのだ。それは永遠生と呼ばれ、完全体が叶わぬのであれば首だけでも、と鑢は戦友の死体から首を刈り取るのだ。その姿を死神と呼んだ真庭は少なくない。
 受け入れるつもりだった、と鳳凰はぼんやり思っていた。否、恐らくそれが完全体であったなら、完全ではなくとも首だけであったと言うのなら、それでも鳳凰は飲み込んで見せただろう。信仰を、生き様を、互いに飲み込み合うこと。それこそがこの山脈に鳳凰たちが与えられた使命だと思っていたのだから。
 七実が見せた神は、違った。
 神に、首はなかった。
「先代の永遠生は穢されました」
七実は静かに言う。その最中に鳳凰はその穢されたという永遠生をとっくりと眺めていた。美しいとは決して思えぬ、しかし信仰を知っているからか、それがただの死体とも思うことは出来なかった。永遠生が掻き抱くようにしているのは枯れ枝かと思ったが、五股に別れたそれは指だろう。腕だ。
「賊が入り、首を持ち去ったのです。意味は、分かりますね? いえ、分からないのでしょうか…蛮族真庭。この暴虐を、鑢が許すことが出来るなどとお思いで? いえ、思わないでしょう」
 鳳凰から七実の感情は見えない。
 怒っているのか、それも通り過ぎた蔑みなのか。
 ただ、鳳凰に返せるのは一つだけだ。
「その賊が真庭であると?」
怒りなど、沸かない。鳳凰には七実の、鑢の怒りの諸元に寄り添うことが出来ない。だから、七実の展開させたい方向へと物分りの良いふりをする。
「他に何がありますか」
「言いがかりだ」
 声を上げたのは蟷螂だった。恐れも何もかも知っているだろうに、蟷螂は鳳凰の影として確実に相手の喉元を狙う。
 殺したこともないくせに、殺すことなど好んでいないくせに。
 いつだって蟷螂はそれとて自分の仕事であると言った様相で立つのだ。
「何処にそんな証拠がある」
「証拠など。本当にあるとでも思っているのですか? いえ、思っていないのでしょう。影さん、今、この時であることが何よりの証明だと、貴方も分かっているのでは?」
七実の言う通りだった。
 和平が結ばれようとしている今この時。今この時に永遠生を冒涜するものが現れたと言うのであれば、それは人の波による歴史となるだろう。何が真実なのかなど、どうでも良いのだ。それこそ、賊が鑢のものであったとしても。互いに互いを殺すための刃を未だ手放していない真庭と鑢には、火種があれば充分だ。燃え尽きてからでは何も分からないのだから。
 山脈が赤く染まる苦痛を知っている。繰り返さない春のことを知っている。燃えたあとに残るのが山脈だけで、人間の営みなど幾らも残らない。幾ら鑢が信じていようとも、真庭の血が叫ぶのだ。死の向こうに訪れる永遠などない。



第三十一話

 剣を取らないのですか、と七実は言った。その掠れる声は鳳凰に己のものを思い出させた。
―――春は、美しいですか。
似ているのだ、と思った。同じとは思えなかった。七実となら、もしくは。捨てたはずの憧憬や期待が蘇る。そのようなものは戦場に不要だと思っていた、決して望むことは出来ないのだと思っていた。それでも、鳳凰は。
 夢を見て良いのだろうか。
 ならば鳳凰が言う言葉は一つだ。
「その首が戻れば、婚姻を進めるのだな」
断定だった。それは七実がそう望んでいるからと思ったからではない、そうするしか道はないと、そう分かっていると思った上での脅しだった。
「我は真庭鳳凰。この婚姻は双方の先代の悲願。この美しい山脈に生き延びるため、我らは互いに互いを犠牲とする。この盟約は血だ、血は我らの誇りだ。我は誇りに賭けて、お前に嘘は吐かん」
不意をつかれたような顔を七実はしなかった。鳳凰ならそう言うであろうと分かっていた顔だった。それは落胆にも似て、素の表情なのかもしれないとすら思わせる。
「真庭の人間が捕まったらどうするのです」
「我がこの手で裁こう」
庇うことはしない。
 この賊が誰であろうとも、十二分にありえることだった。真庭、鑢、その他の人間。どの者を捕まえてもきっと鳳凰は納得するだろう。
「その程度で」
次に聞こえたのは確かなる侮蔑だった。
「真庭の民は我の民であり、貴様の民だ………七実」
 呼んで初めてそこで漸く鳳凰は、先代の木乃伊の抱く腕が戦果であり、とがめの腕であると気付いたのだった。七実の名を呼んで、仮にも別の女を思い出すというのは些か無礼であるようにも感じたが。彼女たちは、似ていない。
「賊は、いつ」
「ひとつきからふたつきの間に」
「捜索はままならなかったのか」
「ままなっていたら貴方にこうして刃を向ける理由が失くなってしまうじゃあないですか」
まるで理由のために嘘を吐いたとでも言わんばかりの口調だったが、鑢の信仰からそのようなことはないのだろう。信仰を穢される、それは何にも勝る侮辱だ。それを自分たちの手で行うなど出来ないから、こうして今火種となっている。
 しかし、七実の口調はそれにしては何処までも他人事だった。
「もう燃やされているかもしれませんね」
怒りはある、なのに―――そこまで考えて首を振る。今はそれは関係のないことだ。
「可能性としては考慮しておく。それでも、我は賊を捕まえよう」
「どうやって」
「盟約の魔女の元へと行く」
お前は行っていないのだろう、と言うと流石に七実の目が見開かれた。
 盟約の魔女というのはひとりの隠者の呼び名だった。何処にも属さない、魔術を操るその者の名を山脈の者は畏怖を込めて魔女と呼ぶ。本当に女であるのか―――聞いた話に寄れば山脈の民と出会った一番最初の者が女だったとか、いろいろと話はあるのだが、兎に角魔女は千里を見通す目を持つとされていた。此処でひとつき調べて答えが出なかったのであれば、行くことを考えるべきだろう。
「…私は魔女など信じていません」
「そうか、奇遇だな。我もだ」
 魔女など、子供の頃に言われた脅し文句でしか知らないだろう。悪い子は魔女のところへと捨ててくるよ―――実際にそうされた者たちが魔女となっていったのかもしれない。
「しかし、先代二人は信じていた」
そうだ、その出自が如何なるものであろうとも、それだけは言える。
「信じていたからこそ、我らは今、向き合っているのだ」
 七実が次に口を開くまでに、誰も喋らなかった。この場で対等なのは鳳凰と七実だけであるので、それは最もなことではあったが。
「…魔女の谷は此処から馬車を走らせても三日掛かります。その間どうしろと」
「我が行く」
「それを私が許すとお思いで?」
「夫に逃げられたのだと嘆くことは許さんぞ」
「貴方に許されるようなことなど、何も。そもそも、貴方が真庭に逃げ帰り兵を率いて来ない保証が何処にありますか」
 信頼など、微塵もない。
 分かっている。だから既に、鳳凰は決めている。
 この話は内密のものだった、七実の言葉からも分かる。鑢に真庭侵攻の意志はない、だからこそ此処で禍根を断ち切るべきなのだ。
「ならば」
方法は一つしかない。
「我は今より出自を失くす」
自ら首の後ろに手を入れ、その長い髪を掴む。
「鳳凰!!」
蟷螂の声は悲鳴に似ていた。不恰好な音で、その髪の未だ黒を残していた部分が床へと落ちていく。
 この山脈で長い髪は力の象徴とも言える。それはすべての部族に共通する認識だ。それを、躊躇いもせず切り落とす、なんて。七実は目を見開き、蟷螂はこの世の終わりを見たかのように真っ青になる。準備を終え戻ってきた右衛門左衛門も、その有様に呆然と立ち尽くした。
 白銀一色となったその髪は、予想よりもとても軽く感ぜられた。清々しさに思わず笑みが漏れる程。
「右衛門左衛門、我の兜を」
開いたままの口をさっと閉じ、右衛門左衛門は鳳凰に兜を渡す。短くなったと言ってもそれは兜に収まりきるものではなかったが、鳳凰の長く、黒い髪のことは有名も有名だ。例え今から向かう先が真庭の集落であろうと、隠しきれる自信があった。
「そんなことで済むとお思いですか?」
 ようやっと七実が上げたのは不満の声。
「此処で貴方の不在を私に隠し通せと…」
途切れた言葉は彼女が思い当たったということを、雄弁に知らしめていた。
「出来るな?」
振り返る必要はない。暴君のようだな、と片隅でのみ自分をなじる。自由を、と一度は囁いたというのに。勿論、それは決して嘘なんかではなかったが。
 衣擦れの音がした。跪いたのだ、と鳳凰には分かる。そうして静かに返って来た言葉は、震えも迷いも一切含んでいなかった。
「仰せのままに」
 期限は二十日。半身のような青年を人質に、鳳凰の戦は歌う者もなく静かに幕を開けた。



第三十二話

 見送りのために蟷螂は右衛門左衛門と共に屋敷の外へと出た。静かな旅立ちだ。真庭の族長である美しい鳳凰の出陣が、このような静かなものであることは、蟷螂にとっては耐え難い事実であった、それでもすぐさま跪くことが出来たのは鳳凰の思考をなぞることが蟷螂の本分であったからだ。鳳凰はこれが誠意だと言った。鳳凰である蟷螂の部分がまったくもってその通りだと言うのに対し、蟷螂である蟷螂の部分はあの美しい髪を裂くことに何の誠意があるのかと憤っていた。
 鳳凰を送り出し、此処に、敵陣と成り果てた鑢に残ることに何を躊躇う必要があるだろう! このために蟷螂は此処までついてきたのだ。この生命は鳳凰のためにあるのだから! 髪を解いて着替えを済ませ、特徴のある化粧を施す。それだけで鳳凰の威厳は蟷螂のものになった。横で一部始終を見ていた七実はその変貌にただため息を吐く。
「ここまで化けるとは」
 最早蟷螂は鳳凰だった。だから先程までのようにその言葉に返すのは睨みではない。鳳凰のように静かな視線で見遣れば、どうにも不可思議な感情が湧いて出る。妙な人間だと、鳳凰の立場に立ってみると蟷螂はそう思った。今まではただ敬愛する主君を奪う憎き女でしかなかったものが、婚約者として見てみるとまた違って見えて来る。
 七実は一体どうしたいのだろう。
 七実とて一族を背負う身だ。多くの同胞を戦で失っているだろう。その喪失で同胞に何が広がるか、繰り返すことの意味を理解しているはずだ。彼女の、意志は、一体。
 何処に。
「留守を頼む」
既に鳳凰は仮面を覆い、誰かも分からぬようになっていた。戦支度を済ませた鳳凰は、あとは出立するだけだ。その最後の時間を蟷螂に残してくれたことを、蟷螂はこれ以上なく嬉しく思う。
 言葉など。
 不要だった。ただ一つ、鳳凰が決めたことであれば蟷螂は沿うだけ。それがどれほど理不尽なものでも蟷螂は理不尽とは思わないだろう。
「苦難ばかり、お前に任せる」
「陛下ほどではない」
思わず困ったような笑みが出た。いたずらをした子供を叱るような心持ちだった。
「私はこの地で、ぬしの代わりに最大限の出来ることをしよう。ぬしもそれが出来ると分かっているのだろう?」
それが蟷螂の誇りだった。何も確認することなく、出来るな? というのはただの遣り取りで、その実鳳凰の心は既に決まっていることが。
「…一つ、だけ」
鳳凰は肯定する代わりに囁くように言った。
「約束をしてくれ」
 だから、約束などと言う聞き慣れない言葉に蟷螂は驚いて顔を跳ね上げたのだ。
「なんなりと」
そのようなものは必要なかった、これまでも、これからも。死ねと言われれば死ねる。言葉にされずとも、蟷螂はそれくらいやってみせる。
「自分の生命よりも我の立場を優先させる必要などない、逃げても構わない。暇(いとま)を与える、その言葉は未だ有効だ」
その言葉に、蟷螂は唇を噛む。
「我なら平気だ」
死ねと言われるよりもそれが非道だと、何故分からない、と心の中でだけ詰る。蟷螂などいなくても良いと、そういうことになるではないか。そんな言葉が欲しいのではない。ぎっと怒りに震える瞼をこじ開け、既に分厚い手袋に包まれた手に自らの手を重ねる。
「平気ではない」
静かな声が出たことに、蟷螂自身驚いた。
「ぬしが戻ってきたらすぐにその髪を整え、髪飾りを用意する必要がある。鑢の者になど任せられるか。私が絶対にしなくてはいけない仕事、だろう?」
沈黙が、鳳凰の反応だった。笑ったのかもしれないと、そうであれと、蟷螂は念じる。
 この小さな頷きこそが、蟷螂の生命のすべてであると、今すぐに理解して欲しかった。そして、その願いはあまりにも過ぎたるものであると、それも分かっていたのだった。



第三十三話

 そうして出立した鳳凰は出立した。一人で。いつもあるべき近衛兵すら置いて。
「右衛門左衛門」
「はい」
「真庭族長を守れ」
その鳳凰の言葉は右衛門左衛門にどれほど重く伸し掛かっただろう。蟷螂は流石にこの犬の反抗が見られるかと思ったものの、右衛門左衛門はただ直立に黙すだけだった。そうして、ああ、これは同じだ、と思う。
 やはり、蟷螂と右衛門左衛門は分かり合えない。
 分かり合えるからこそ、分かり合ってはいけない。
「尊い主人の寝所へ無断での侵入が許されるとでも思っていたのか」
鳳凰の声で蟷螂は言う。右衛門左衛門は静かにその声を受け止めている。
「真庭の近衛兵、族長の近衛兵、右衛門左衛門。お前がそこまで考えなしとは我も思わなんだ」
これは茶番だ。蟷螂と右衛門左衛門がずっと昔から決めていた茶番だった。
「暇(いとま)を取らせる」
 鳳凰は右衛門左衛門を族長の近衛兵だと言った。族長を守るものだと言った。蟷螂からすればその認識が既に間違っている。右衛門左衛門は、この赤い近衛兵は。
 鳳凰のものだった。それ以外にはなかった。
「行け、右衛門左衛門」
申し訳ありません、と掠れた声で右衛門左衛門は言った。それが一体何に対する謝罪なのか、蟷螂にはよく分かっていた。叶うことなら此処で泣き出したい。けれども鳳凰はそれをしないから、蟷螂は静かに言う。
 駆け出して行く右衛門左衛門。鳳凰を乗せた雪馬車はこの雪の中、歩く程度の速さしか出ない。右衛門左衛門であれば追い付ける。そうして怒られてしまえ、と思う。蟷螂に、鳳凰を追うことは出来ない。それが出来る右衛門左衛門が、羨ましくないと言ったら嘘になる。蟷螂にしか鳳凰にはなれない。右衛門左衛門はきっとそれを羨ましくは思わない。
 声なき慟哭だった。鳳凰は、右衛門左衛門を通して蟷螂のそれを聞けば良い。
 右衛門左衛門を見送ることはせずに、屋敷に入ろうと身体を反転させると七実と
目があった。まだいたのか、とすら思う。七実の表情は面白いものだった。腑に落ちない、と顔面全体で語られているようだった。
「あの犬は、貴方の恋人ですか?」
鼻で笑うしかないだろう。きっと鳳凰が問われたとしても同じ仕草で以って応えるだろうが、まさか鳳凰に向けられた言葉ではあるまい。
「まさか。あれは私の、」
同僚、戦友、手の掛かる子供、用いることの出来る言葉はたくさんあったはずなのに。口をついて出た言葉はそのどれでもなく。
「私の、恋敵だ」
七実を見やれば、異国の言葉を聞いたような表情だった。
 理解されることはないだろう。それで構わない、そういうものだ、蟷螂は目を伏せる。
 その瞬間から、彼はもう蟷螂には戻らない。真庭鳳凰の無事の帰還まで、彼は自分を、何よりも優先して守り抜くことを決めたのだ。

***



20190922