第二章 雪蟷螂の婚礼

 幸福と、呼びたいものが、あると。それだけで私は幸せだろう。
 

第十一話

 忘れたことなどない。
 痩せた掌、それでも威厳を失うことさえ許されないような広い背中。黒々としたその髪も瞳も、何一つ受け継ぐことなどなかったが。
「恒久なる和平の礎に、お前の未来を鑢の狂人に売るよ」
やわらかなその声はいつでも心を抉るような毒気を含んでいた。そういうところのある人だった。ゆるやかに、ゆるやかに他人の心に触れ、そうしてその怒気を搾取するような、そんな人。
 その相手が息子であろうと関係なかった。言葉は聞き飽きた程の毒気を違わずに含んでいて、だがしかし、その時はそれすら分からなくて。自分の何を誘発しようとしているのか、彼が何を願っているのか。
 意味が分かるかな、との問いには素直に分からない、と返した。七つにも満たない幼い子供にそれを理解しろというのは確かに酷だろう。けれど。
「お前にしか出来ない戦だ、鳳凰」
そう言われるのならば、頷く他に何が出来たと言うのだろう。いつか分かるのかもしれない、とそう思った。成長した鳳凰の姿を父は見ることはないだろうが、自分の死した後のことまで的確に予想出来る程、彼は賢しい人間だった。今でこそ何の傷も負わせることはない、その言葉に含まれた毒気も、きっといつの日か鳳凰に牙を剥くのだろう。
 肩を掴むその腕は病魔に蝕まれているとは言え、とても重たかった。その重たさこそが、真庭の生命であると鳳凰は感じる。これこそが、血の重さなのだと。
 真庭のために生き、真庭のために死ぬ。なんてことはない、ただそれだけの話だ。族長の息子として生まれたからではない、生まれ落ちたからこそ、その血に貢献するのは魂に刻まれた使命だと思った。
 和平がどれだけ尊いのか、幼い鳳凰にはそれさえ分からない。蛮族真庭も狂人鑢も、幼い子供にさえ刷り込まれる確執が其処にある。殺戮し、侵略し、蹂躙し、そうして和平を勝ち取る方がその性には合っているようにも思えたし、またその方が正しいことのようにも思えていた。
 しかしそれでもこの身を鑢に売り、その対価に和平を、と眦を下げる父に、鳳凰は一つだけ、静かに問うた。
 「春は―――」
この白い山脈に短い間訪れる、しかしあたたかいとは決して言えないそれは。
「春は、美しいですか」



第十二話

 「―――、か」
鳳凰が微かに呟いたその空気を、隣で鏡を用意していた蟷螂は拾い上げた。
 その瞳と同じように暖炉には静かな火がゆらり揺れている。光差す窓はその所為で白く曇っていた。真庭集落、族長の住まう一際大きな屋敷の、鳳凰の私室である。
「何か言ったか」
「いいや」
鳳凰はゆるく首を振った。
 この十年間。思い出にふけるような暇さえ許されないほど、あまりに苛烈なものだったと思う。しかしそれでも、まるで昨日のことのように克明に思い出せるそれは、まるで瞼の裏に刻み付けられたかのようだった。それはささやかな驚きを鳳凰に与える。それほどまでに、あれは印象深い出来事だったと言うことか。
 幼い記憶を掘り起こしても、それが自分のことだと言うのが鳳凰には些か不思議だった。確かにそれを経験したのは自分であるはずなのに、魂がすうっと自分から離れて、良く似通っている人間のそれを垣間見ているような、そんな気分になるのだ。生々しい感触というのもない訳ではなかったが、それでも両の手で足りるほどだろう。冷めた子供が冷めた大人になった。ただそう片付けてしまうのは楽だけれど。
 目の前に鏡が置かれ、峙つ蟷螂は微かに微笑んだ。
 鏡に映った自身の姿を見て、鳳凰はほう、と一つ瞬きをしてみせた。髪型や衣装、化粧、そして僅かな仕草で、こうも人の雰囲気を変えてみせる蟷螂を、鳳凰は常々不思議だと思っている。それこそ、魔術か何かのようだと。
 鳳凰は婚礼衣装に身を包んでいた。勿論、それは蟷螂の見立てたものである。
「甘い婚礼になどするものか」
着付ける前、蟷螂は静かにそう言った。
「鑢の族長も着飾るだろうが、それでも尚ぬしの方が美しいと言わせるような、高潔の花婿にしてやる。そうやすやすとぬしに触れられてたまるものか。彼女の目を奪い、そして彼女が気圧されるくらいに、きっと」
そのようにすることへの意味や価値を、鳳凰は見出せなかった。しかし、他ならぬ蟷螂が生命さえ賭すのも、と言った具合であるので、黙って爪の先まで好きにさせているだけだ。確かに儀式の時に着飾ることは真庭の伝統であることだし、異なる部族の未来が交わるその栄えある一歩目として、その伝統に力を入れることはなんら可笑しいことではないのかもしれなかったが。それでも確実に、蟷螂の思惑は違うところにある。
 白と赤を基調とした衣装は、この山脈のどの部族の伝統からも外れた珍しいものであった。
「とても、美しい」
満足気な蟷螂のその言葉には、幾ばくかの感嘆も込められているようだった。
「お前がそう言うのならそうなのだろう」
蟷螂の見立てはいつも的確だ。これまでだって何度も鳳凰は儀式の場を経てきている。その度に衣装を見立てたのは蟷螂であった。毎回鳳凰はきっと蟷螂が着た方が似合うだろうに、そう思ってはいたが、いざ着てみると確かに彼が力説する通り、どれも鳳凰が着るからこそ映えるものであった。
 蟷螂が自身の後ろへと回る。うむ、とその声がもう一度満足気に呟いた。
「美しい」
それが何処か悲哀に満ちているのに、鳳凰は気付かなかったふりをした。



第十三話

 蟷螂は髪型と髪飾りについて悩んでいるようだった。
「髪は当日でも良いのではないか?」
そう呟いたのは、何も人形のように大人しくしているのが退屈だったからではない。
「我はお前を信頼してる。お前が考えるものならまず間違いはないだろうよ」
この衣装にしてもそうである。これまでもそうであったが、蟷螂の見立てに間違いはないだろうし、それにこの蟷螂の力の入れようを見れば、間違いなど天が落ちようとないような気がした。しかし蟷螂はその手を止めることなく、小さくばかもの、と呟いた。
「私が見たいのだ」
はっきりした声である。
「婚礼の日に着飾るのは婚礼の相手、つまり鑢の族長のためだろう。美しく立つおぬしを見れば見るほど腹しか立たないだろうからな。だから、今日くらいは私の我が侭に付き合え」
あっけらかんとした口調ではあったが、そこに隠れる押し殺された感情に気付けない程鈍くはなかった。鏡を覗いたところで自分自身が邪魔で蟷螂の表情は見えない。冷血とまでうたわれることのある鳳凰だったが、幼い時分より片時も離れず寄り添ってくれていたこの影武者にはひどく甘かった。
 初めて連れて来られた日から鳳凰に忠誠を誓い、何度もその身を危険に晒して。剣の持ち方すら知らぬ平和な男を、いつか殺してしまうのではないかと思っていた。蟷螂の立ち回りは完璧だった。鳳凰を育てた屋敷の者さえ二人の区別がつかなくなる程に、それは完璧だった。だがそれ故に危険は高まったとも言える。だからこそ、これまで鳳凰の分身として彼を助けた蟷螂に、感謝よりももっと深い情を抱くのは当たり前のことのように思えた。
「蟷螂」
「なんだ、痛むか」
髪を弄るのをやめ、覗きこんで来るのを確認して目を伏せる。
「十日後には鑢の集落に輿入れだ」
まずしたのは、事実の確認である。
「我は鑢の族長に縁付く」
それは急な話でもなんでもなかった。勿論、鳳凰の意志でもなかったが。
 この白い山脈では戦が絶えなかった。真庭一族と鑢一族。刃しか交えたことのなかったこの二つの族長が、和平の証に、と迎える婚礼は十年前から決まっていたことだ。先代たちの間でどんな遣り取りがあったかまでは知らないが、それは男である真庭一族の当時族長の息子、現族長の真庭鳳凰が、女である鑢一族の当時族長の従妹、現族長の鑢七実の元へ縁付くという、この山脈ではそれなりに異例の取り決めを以って結ばれたもの。勿論入婿という習わしが今までにない訳ではなかったが、それでも女が嫁ぐ、というのが一般的であり、当時は物議をかもしたのだと言う。十年後には族長になるべきその者たちに、何故そんなまどろっこしい真似を、と。鳳凰とて気にならなかったと言えば嘘にはなるが、幼い身としては既に決められた未来がどうであろうと、些細なことのような気がしていた。
 三十年。それほど長く大きな戦の終わりには、十年という年月が必要だった。
 この婚礼を迎えるため、二つの部族は停戦を保った。時は満ちた。そういうことなのだろう。
 「…そうだな」
俯いて吐息のように返す蟷螂は、どう見ても婚礼を喜んでいる表情ではない。しかし、彼にこの婚礼について異を唱える権利などないのだ。彼はただ多少の個性を許された影でしかない。その言葉遣いから彼のことを鳳凰と対等だと思う人間もいない訳でもないが、それでも一度たりとして、蟷螂はその一線を越えたことがない。越えてみたところで何にもなりはしないのだろう、そう鳳凰は思っている。一度くらい、越えてみても良かったのに、とそうとも。



第十四話

 鏡越しに視線は、蟷螂にじっと注がれている。
「我は鑢の夫となる。それは、鑢が真庭の妻になると言い換えることも出来るだろう。一度婚礼さえあげてしまえば、我の危険も格段に減る」
族長としての価値がなくなると、そう言ってしまう方が分かりやすいはずだった。しかしそれを止めたのは、心の奥底に僅かながら残っている、この愛おしい影を気遣う心だったのだろう。
 縁付く先は長らく宿敵として相対していた鑢の元だ。その族長、仮にも妻になる女のことは、会ったことさえないがそれでも噂は舞い込んでくる。言葉を交わし、心を通わせる必要などないと、そう思っていることも事実だ。しかしそれ以上に、彼女とそうあれる期待などもとよりしていない。否、出来ないと言う方が正しいだろうか。
 愛し合おう、など。
 婚礼をあげること。それが鳳凰にとっての一番大切な使命である。そのためだけに族長になったと言い換えても、なんら不自然のないほどに。
 そして今。その使命はひと月を切って、目前に迫っている。
 鳳凰には一つだけ、その日が来る前に、きっとそれはぎりぎりになってしまうのであろうが、言おうと決めていた言葉があった。
 「お前に、暇(いとま)を与えようと思う」
ばっと上げられた蟷螂の顔は感情が凍り付いていた。凍り付いているものが何なのか、鳳凰に知る術はないけれど、それでも極力瞳の光が和らぐように彼を見つめ、続ける。
「我は鑢と、真庭の鳳凰となる。だから、お前はもう自由になって良いのだ」
蟷螂のように笑うことはついぞ出来なかった。そう望んだことがなかったのは、恐らく蟷螂が傍にいる安心感もあったのだろう。この愛らしい存在が、鳳凰を如何ほどに癒したのかきっと彼は知らない。でも、だからこそ、鳳凰は蟷螂を解き放たねばならないのだ。
 名前を捨て。家族を捨て。鳳凰の元に何もかも取り上げられて連れてこられた子供。
 もう充分だと言えるほど、言ってもお釣りが来るほど、彼は生命を賭けてくれた。それに報いるには、その笑顔を消さないためには、鳳凰の手元から離してしまうのが一番だ。この使命を果たせば生命の危険がなくなるというのは建前だ。殺さずにすんだこの平和な男を、鳳凰はこれ以上ない安全地帯に置いてやりたい。それは、偽善だろうか。罪悪感だろうか。
 「真庭の民として、一生を不自由しないだけの後ろ盾は用意しよう」
心が、胸の奥で凍て付くこの心が、余すことなく伝わるように。
「…長い間、世話になった」
震える指先を、血に塗れさせることのないように。



第十五話

 わな、と震える唇を、鳳凰は最初、歓喜なのだと思った。言葉が消えてしまうというかのように息を吸っては吐いて、蟷螂はやっと首を振り、ゆるゆると肩の力を抜く。
 そして一度ぎゅ、とその薄い唇を噛み締めると、意を決したように顔を上げた。
 その頬を彩るのは極彩の微笑み。美しいそれをもってして、彼は静かに目を細め、言う。
「では、今すぐ解雇するが良い。この屋敷の門をくぐり直し、侍女頭の前で膝を付いて見習いの一人に加えてもらうわ」
冗談のような軽い口調だった。それでも鳳凰を射抜く瞳は深く、真実だ。蟷螂は尚も軽い口調でああそれとも、と言い直す。
「鑢の屋敷に仕えた方が良いか。今すぐ鑢のご婦人に色仕掛けをして来よう、問題ない。十日もあればお前より先に婚礼くらいあげられる」
激しく倫理を外れる台詞ではあったが、きっぱりと言い切ったその口調はとても強い。鳳凰は眉尻を器用に片方だけ下げてみせると、吐息に包めて言葉を落とした。
「お前が言うと洒落にならん」
生真面目で真正直でひたむき。そう外見から浮かぶ印象を、鳳凰は間違っていないと思う。しかし、決してある面では品行方正とは言いがたいことも知っている。
 蟷螂は膝をつき、鳳凰の手をとった。
「私は、ぬしに嘘など吐かない」
美しく滑らかな掌だと思う。鳳凰のように剣を振りすぎて固くなったりなどしていない、やわらかな掌だ。この山脈に住まう人々は寒さのために手など晒しはしないが、もしも彼がこれを晒せば鳳凰との違いが明白すぎて、影の役割など果たせなかったであろう。
 美しい人間だと、鳳凰はそう思っていた。こんなにも自分と近いつくりをしているというのに、そのきりとした冬の風のような内面が、彼を内側から輝かせている。
 稀有な青年だと思った。だからこそ解き放たねばならないと、そう強く思うのに。
 きっと、手放すことは出来ないのだ。
 「…鑢まで、ついてくるか」
「もとよりそのつもりだ。そのつもりでなかったことなどないわ」
呆れたように片眉をあげ、蟷螂は鳳凰を見遣る。
「そうか」
目を伏せたまま頷いた。それ以上はもう、無駄であろう。充分と言い換えても良かった。その短い言葉だけで、蟷螂の意思がどれだけ固いものか分かるのだから。
 鑢での暮らしは真庭でのように楽とはいかないのだろう。仮にも長らく宿敵として生きてきた一族の場所なのである。しかし、それでも鳳凰は鳳凰として立つだけと決めていた。恐らくそれと同じように、蟷螂が蟷螂として立つことこそが、鳳凰の傍にあることだと、彼は思ってくれているのだろう。
 じんわりと胸に滲むものはあたたかく、確かなそれを持って鑢に行けることは、この上なく素晴らしいことのように思えた。



第十六話

 満足気に頷いてもう一度顔を上げれば、鏡の中の蟷螂は不満気な顔をしていた。
「影武者に暇を、とぬしは言うが…。近衛兵には暇は必要ないのか?」
複雑な顔で、皮肉っぽい笑みを浮かべながら蟷螂は呟く。
「右衛門左衛門のことか?」
「そうだ」
自分のみが何故、と言いたげなその表情を横目に、鳳凰は考え込むように口元に指を当てる。どうしてだろう。右衛門左衛門を解雇しようなどと、一度も考えたこともなかった。
「つれて行く訳ではない」
そう言葉にしてみて初めて気付く。
「あれは、ついて来るだけだ」
あまりに、当然のことと思っていたことに。
 何を言おうと、今にも死にそうなあの近衛兵は鳳凰についてくるのだと、蟷螂のように傍にいて欲しいと願うまでもなく、恐らく鳳凰が今よりももっと邪険に扱い、何処かへ失せろと命じたとしても。あの男はひっそりとただ空気のように鳳凰についてくるだけなのだと、鳳凰も、そして間違いなく蟷螂だって知っているのだ。
 その言葉を予想していたかのように、蟷螂は盛大にため息を吐いた。
「…ぬしは、男運が悪すぎるな」
私も含めて。そう憂うように呟いた蟷螂に、鳳凰は愉快な気分で頷いた。ついでにきっと、女運もないのだろうと鳳凰は思う。それは婚礼を前にした者に言う言葉ではないだろうが、蟷螂も思っていることだろう。
 族長として立っていたことも勿論あるだろうが、それでも女を知っているとは言いがたい。この真庭で女と交わした交歓など、剣でのそれだけだ。ただひたすら、婚礼のためだけに走ってきた十年間だったと言えば聞こえは良いのかもしれないが、同じ生活を強いていた蟷螂にはそういった経験が備わっているのを鑑みれば、単に鳳凰がそういったものに興味も意味も見出せなかっただけとなるのだろう。
 宿敵が運命の人である可能性も皆無ではない。しかし期待は出来そうになかった。それでも仕方ないと思うのと同時に、それで良いと思う心もある。出会いばかりが運命ではないし、愛し合うばかりが運命でもない。代償のように得たこの強い剣が、愛らしい影が、空気のような側近が、必ず鳳凰を支えてくれる。
 そう揺蕩う思考に身を任せる鳳凰を、蟷螂はじっと見つめていた。
「…自分に幸福が不似合いなどと思ってはいないだろうな」
「まさか」
反射のように言葉が出た。そのような問いかけが出て来ることに対する、驚きや疑問すらなかった。唇を滑り落ちたその言葉は限りなく自然で、窓から差し込む日差しに目を細めるような。
「成すべきことを成したい、それだけだ」
それこそが幸福なのだと、それは自己暗示ではない。
 蟷螂はゆるゆると髪弄りを再開していた。にこりともせずに、ただはっきりと告げる。
「私には成すべきことなどない。…だから、ぬしには、幸福になってもらう」
悔しげに一瞬、唇を噛んだのも見逃さない。
「方法は、分からないが」
そう囁く。
「充分だ」
鳳凰は瞼をおろして、そう、囁き返した。
 やがて来る婚礼の向こうに春はある。それがまばゆい程の美しければ、と鳳凰は希う。
 もしそうであるならば、その春を、幸福と名付けるために。



第十七話

 冬の吐息は容赦なく強まっていった。それは否応なしに出発の時を連れてくる。双方の一族、そして他、この山脈に生きるすべての部族まで巻き込んだ盛大な婚礼の一月前、鳳凰は輿入れとして鑢の一族の集落へと向かう。
「すまぬな、鳳凰。私も共に行ければ良かったのだが」
天蓋の遮るその向こうから、子供のような、しかしそれにしては深みのある女の声がする。
「…いいえ、とがめどの」
寝台の傍に佇み、その名前を呼んだ。
「長きに渡り、大使として鑢との交渉をお任せ致しました。どうぞ暫くは、身体をお休めください」
 鳳凰はその女を何と呼べば良いのか、未だ正解を知らない。関係を正しく言うのならば、腹違いの姉、なのだろう。しかし姉と呼ぶには彼らの年は親子程にも離れていて、その違和感を拭うことは出来ない。彼女は先代の一人目の妻の娘だった。早くに出来た子だったらしい彼女を残し、真庭の戦士であった彼女の母は戦に倒れた。十幾年かして、先代は二人目の妻と輿入れをした。そうして出来たのが鳳凰である。
 とがめは戦士ではなかった。鳳凰にとっては育ての親とも言える彼女は、それと同時に厳しい師ではあったが、彼女自身が剣を取ることはついぞなかった。しかしそれでもかつてとがめは、父である族長と共に山脈を駆け抜け、氷の戦も末期の一番苛烈な時代を生き抜いた一人である。
 武力よりも、知を。否、知、のみを。
 男女厭わず剣を取ることで有名な真庭の一族で、そうして戦う非力な彼女は異端であり、しかしそれでも名高い。彼女は戦場で当時の鑢族長とも相対したと言う。人の心を持たないと言う、当時の鑢族長、と。
 もしも彼女がその智謀知略を以ってして鑢族長を倒していたら。二つの部族の婚礼による統合などなかったであろうし、真庭が鑢を征服していた可能性さえあっただろう。しかしそうなることはなく、彼女は其処で歴然とした敗北を刻んだのである。生命を落とすまではいかなかったものの、身体の一部分を失うまでして。
 族長の座につくことがなかったのは彼女のその戦い方故ではあろうが、それでも欠落した身体では人々を統治することなど、と思うところもあったのだろう。それに、彼女のその姿を見る度に、民の鑢への反感が強まるのは明らかであったのだから。
 剣を持たずとも、その腕は一級の剣士と何ら遜色はなかったであろう。純粋な力でない分、族長という地位には向いていたのかもしれない。戦の時代であったならば、片腕を失ったその状態でも彼女は族長になれただろう。
 しかし、山脈全体に吹いていたのは紛れもない和平の風だった。
 彼女の本心など誰も知ることはない。ただ彼女は伴侶も得ず、子を持つこともなく、腹違いの弟である鳳凰に、ただひたすらに智謀知略を教え込んだ。族長の座を継いだ鳳凰にとって、必ずそれが役立つときが来るというように。



第十八話

 鑢への大使という危険な任を自ら引き受けてくれたのも、彼女だった。この十年、彼女が婚礼のため、鳳凰のため以外に何かしているのを見たことがないほど。
 そうしてその大任を終え、あとは日を待つばかりになったこの冬、彼女は初めて臥せることになる。常日頃から自らを弱い弱いと嘲っている彼女ではあったが、それでもこの山脈の冬を乗り越えてきた戦士の一人であるのに、だ。
 数年前、もう年だな、と呟いていた姿を思い出す。つやつやとしたその白銀の髪も、白い肌も何処となく力を失っているように見えて、大使としての仕事は彼女の身体にこたえたのかもしれない、と鳳凰は思っていた。
 「この婚礼、必ず果たしてみせます」
血の繋がった親族に向けるような言葉にするつもりはなかった。とがめは、姉であるより先に尊い師なのだ。彼女の授けた知がなければ鳳凰は此処にはいなかったかもしれないし、彼女がいなければ双方の先代族長の悲願であるこの婚礼そのものが、成り立たなかった可能性さえあるのだ。
「かならず」
誓うように、鳳凰は繰り返す。
「留守を、任せます」
とがめからはしばらく声は返ってこなかった。小さく息を吸う音のあと、やっとのことで深い一言が鳳凰の耳に届く。
「武運を。族長、鳳凰」
その言葉に全身で答えるように、鳳凰は深く頭を垂れた。
 とがめの私室を出た鳳凰の元に、駆け寄る影があった。
「鳳凰さま」
真庭の戦士だった。
「本当に、わしらは参らずとも良いのですか」
旅立つ鳳凰に向けられたのは、そんな言葉。鳳凰はそれを必要ない、と一蹴する。
「婚礼に兵は必要ないだろう」
「しかし」
歴戦の戦士といった、少し年老いた空気を纏う男は顔を顰めた。
「もしも、鑢の輩が鳳凰さまに刃を向けることがあったら」
「…疑心は、何を生む」
静かな風のない夜のように、鳳凰は囁く。
「いたずらに混乱と対立は招くのは良くない。そんなことをして、お前たちは父上に顔向けが出来るのか」
叱責など、欠片も含んでいないような凪いだ声だった。それゆえにその言葉は余すことなく戦士たちに染み渡り、彼らを言葉に詰まらせる。
 鳳凰の父親は勇敢な族長だった。死して十年が経つ今も、真庭の戦士の心の中にその影は生き続けている。
「この婚礼は、父上の悲願なのだ。剣を置き、どうか、祝福に来てはくれまいか。私と鑢の婚礼は二つの部族の―――いや、この山脈すべての未来そのものだ」
戦士たちが唇を噛み締めて頷くのを見届けると、鳳凰はその身を翻した。
 「行くぞ、お前たち」
そう裾をさばけば、傅くのは一人の侍従と一人の近衛兵。戦ではないとはっきり言えなかったのは、出来るだけ真庭の民に嘘は吐きたくなかったからだ。蛮族とさえ呼ばれる真庭の戦士たちは、男も女も関係なく誰もがみな勇敢だ。けれどこれは、彼らの戦ではない。だから、連れてはいけない。この身一つ、あれば戦える。
「これは、我の戦だ」
 それが出陣の合図だった。
 族長鳳凰が真庭の集落を発ち、婚礼のために宿敵鑢へと向かうその日。山脈全体を吹き渡ったのは、息さえ凍らせるような強い吹雪だった。
 それが行く先を阻む苦難の象徴であるのか、それともこの山脈なりの祝福であるのかは、まだ彼らの知るところではない。

***



20130820
20190922 改訂