第一章 蛮族の戦うた

 ならばお前の幸せは、一体全体誰が願うというのだろう。
 

第四話

 白い山脈に息づくのは、総じて古い民であった。縦横無尽に氷嵐の吹き荒れるその地に、集落を持てる程の土地は多くないが、それでも独自の文化を持つ部族が、いくつも点在している。過酷なその環境故か、彼らの気性は似たように荒い。争いが起これば、彼らが普段獣を狩るのに使っている刃は、いとも容易く人に向けられる。
 人とて、獣だ。
 そうであれと、願うかのように。
 山脈が冬の吐息にその身を閉ざす季節、その片隅で切り結ぶ二つの部族。
「退(しりぞ)くな!」
そう声を上げたのは片方の族長である。長く伸びたたっぷりとした黒髪は、その身に纏う白と黒の装束に良く映える。女のようだった。しかし、それが油断の元にもならない程、その様は壮絶だ。
「一歩たりとも退くことは許さない!!」
それをもう片方の族長は余裕の笑みを持って見ていた。長く伸びた金の髪を鎧の外へと流してはいるが、こちらは男のようだった。対する女族長よりかは小柄だが、それでも歴戦の戦士であることが一目で分かる。
 その争いは私怨が発端であった。小さな一族同士のその争いを止める者はおらず、冬の到来と共に死力戦へと突入していた。今こそ晴れ渡ってはいるが、凍土に積もるは白い雪。その深さこそが冬の力であり、その中で人はいっそう死というものを間近に感じる。降り注ぐ矢尻に人は倒れ、その赤い血は鮮やかに散る。そして、大地から隔絶されるように凍ったそれは、春の訪れと共にまた山脈を穢していくのだろう。
 それを分かっていても、人は剣を下ろさない。死は虚しさと沈黙。血の齎す興奮に、我を忘れるようにその斬撃を。きっと、それはある種の幸福だ。
 双方の部族の長が刃をあわせ、その生命を賭けようとしていた、その時。
 水を差したのは、高らかな音。
 張った獣の皮を叩くことで生まれるその音楽に乗り、その神聖なる戦場に第三の装束を纏った戦士が降り立つ。闖入者たちは驚く程の手だれであり、何者、と問う暇もなく双方の部族を雪に叩きつける。勿論、殺さぬように手加減をして、だ。
 霞んだ彼らの視界に、闖入者たちの部族の紋章ははっきりと映らない。それでもしかし、その獲物が何よりも、戦士たちの出自を明らかにしていた。
 二刀一対の刀。
 それをもってして、また奥から一人、躍り出る影。仮面をつけたその影は未だ刃を交えたままの二人の族長の元へ、迷いなく斬りかかる。
「真庭…!!」
叫び呼んだのは、どちらの声だったか。



第五話

 真庭。
 それは山脈の中でも一際古い民の名だ。諸手の曲刀を自由自在に、まるで生命を狩るためだけに生まれてきたかのように操る蛮族。彼らのことを知らぬ者はこの山脈にいない。
 真庭の戦士は舞うようななめらかさで二人の族長の獲物を弾き飛ばした。そのあまりの見事さに、見ていた者は息を飲む。
 それが合図であったかのように、その場を見下ろすことの出来る丘に立つ影があった。美しい装束を身にまとった若い男だった。防寒を兼ねた幾重ものフードに頭部を覆われながらも、その一括りに結ばれている黒々としたたなびく長い髪が、雪原の白に良く映える。全体としてほっそりとしたその印象が、漂う美しさに輪をかけているようだった。
 その隣には目を見張る程に赤い髪をした男がこちらを凝視していた。しゃんと伸ばされた背と、その顔面に張り付いた奇妙な仮面が、その男の異様さを強めているような気さえした。
 彼らの傍らで鳴る太鼓の音は、真庭の戦うたであるらしい。
 「鎮まれ」
美しいその男の口から放たれた言葉は、ぞっとする程に力を持っていた。決して大きな声ではないのに、脊髄を、本能を、直接に叩くような。知らぬ者など誰がいよう。この男こそ、蛮族、真庭の現族長だ。
「剣を地へ。これ以上山脈に無為の血を流すことは許されぬ。真庭の剣に賭けて、此処に調停を申し入れよう。この戦、山脈の雪蟷螂、真庭が預かる」
りん、とした声だった。
 真庭一族はこの山脈の中でも強い力を持っていた。十年前に結ばれた協定により、彼らは長い間身をおいていた戦場から離れ、和平へと尽力し、他の部族へと刃を向けることはなくなったが。それでも尚、蛮族の名も力も消えることなく、今まさに対峙している二つの部族にも、高揚よりも先に畏れが立つ程だ。
 しかし、女族長の方は違ったらしい。強く唇を噛み締め、地に落ちた剣を素早く拾う。蛮族と言えど、族長は高みの見物を決め込むただの男だ。雪蟷螂の名を冠すに相応しいとは思えない程、荒々しさを持たない男だ。
「射れ―――!!」
叫びは後方の民を呼び戻し、再び矢尻の雨を降らす。狙うは真庭、そのやわな族長。
「私は聞かない! 剣さえ持たぬ小僧の言葉など―――!」
自ら剣を振るい傍らの戦士に斬りかかる。 が、それはいとも簡単に受け止められ、次の一撃では彼女のももをも裂いた。衝撃に崩れるその身体を抑えこまれ、戦士に顔を覗きこまれる。
「―――剣が、なんだと?」
その囁きはあまりに美麗であった。深く、冷たい。そう後から襲ってくるその声の余韻に、彼女は目を見開く。
 視界の端には丘が映っていた。其処に佇む族長へと降り注いだ矢は、隣の赤い男がすべてたたき落としたようだった。青白い顔でこちらを見据えるその顔と対比するように、仮面の戦士がその仮面を微かにずらす。
 戦士は男だった。女族長は再び目を見開く。
 別段、男の戦士が珍しい訳ではない。こうして彼女は女だてらの族長の座についているものの、恐らくそちらの方が珍しいのだろう。そういうことに驚いたのではないのだ。
 仮面の隙間から、黒々とした髪が一房落ちる。良く見れば元は白銀をしているのか、上の方の色が僅かに違うように見えた。
「剣でしか納得出来ぬと言うのなら、気の済むまで受けて立とう」
焔のような瞳だと、今にも灼かれそうだと、そう思う。
「ゆき…かまきり…」
その声に確かな畏怖を重ねながら。
「―――如何にも。我が、真庭族長」
丘に立つ男と瓜二つの容貌をした、曲刀の戦士。重々しく、それが誇りであるかと言うように、その名を告げる。
「名を、鳳凰。―――異論は、あるか」



第六話

 冬は耐え忍ぶ季節だ。そこに暮らす人々の娯楽は多くある訳ではない。その代わり、とでも言うように、吹雪が止んで束の間の休息が約束されれば、真庭の民は決まって剣戟の音を響かせていた。
 立ち上がれ! 真庭の戦士! この熱が我が生命! この血こそが、真庭の宝!!
 高らかに戦いのうたを歌うその中心では、二人の男が向き合っていた。人だかりのその中心で、一際大きな歓声のあと、勝者が剣を掲げる。敗者は雪の上を引きずられていくが、苦々しい口元にも確かな笑みが浮かんでいた。これから、手当てを受けるのだろう。
 生命の取り合いではない。彼らにとって、戦いこそが最大の娯楽なのだ。
 それは単純な勝ち抜き勝負であった。向かう者がいなくなったところでその者の優勝が決まる。
次の挑戦者は、と待つ人々だったが、一人が遠く歩く一行を見つけて声をあげると、次々とその声に続いて歓声が上がる。
「鳳凰さまだ!」
振り返った先にあったのは豪奢な雪馬車。それが誰のものであるのか、真庭では幼い子供ですらそれを言えるだろう。一族を束ねる族長、その人専用のもの。
「戦ですかね…鑢、でしょうか」
逸る心があるのか、背の高い若者がそう、何処か不安げに呟くと、傍らでそれに首を振る者がある。
「出雲と鎖縛が揉めてただろ。その調停だって話だ」
「調停、ですか?」
きょとり、とした目がその小さな男を見遣る。
「あれは私闘もいいところな争いと聞きましたが…。族長が間に入るほどのものでもないのでは?」
戦いたい者は戦わせておけば良い。実に蛮族と呼ばれるに相応しい、戦の民らしい考えだった。しかし、男はため息を噛み殺すようにして息を吐く。
「そういう訳にも…いかねぇんだろうよ」
 ゆっくりと進む雪馬車の扉が内側から開くと、滑り出てきたのは一人の戦士。鮮やかな赤い髪をした男だった。
「…鳳凰さま」
小さな男に峙つ艶っぽい女が呼んだその名は、赤い戦士の名ではなく、その奥に微かに見えた男のものだ。真庭の頂点に立つその男。美しい、と。その言葉に尽きるだろう。真庭の民たちは総じてその強さを知っているが故に、躊躇うことなく感嘆を向ける。
 「…鳳凰さま」
けれども二度目、その名を呼んだ女の声には、僅かばかりの苦味が混じっていた。その意味が分かっている若者も小さな男も、目に力を込めて族長の姿を見つめる。言葉を探すような沈黙が流れた。その沈黙を破った切なげな声は、やはり女のものだった。
「和平の為とは言え、本当にあんな死人狂いの鑢なんかに、御身を売っちゃうのね…」



第七話

 調停を終え、真庭の集落まで辿り着いたその雪馬車の中には、外の戦士たちの言う通りに族長、鳳凰の姿があった。馬車の内装はその地位にふさわしく豪奢である。その椅子に、族長は腰掛けていた。その頭部はやはり厚くフードで覆われているものの、その面(おもて)に仮面はなく、途中から不自然に黒へと変わるその髪も、ゆるく編まれている。
 その隣に腰を下ろしているのは侍従であった。粛々と族長に寄り添う彼は、首元で少しはねる黒の髪をしている。
「良かった、このまま崩れずにすみそうだ」
その言葉は侍従に似つかわしくない程、崩れた口調だった。青年が見ていたのは遠い空。冬の盛りにはまだ間はあるが、吹雪に巻き込まれれば立ち往生は必須だ。
「屋敷が見えて来たぞ。予定よりも二日早い帰還、何よりだ」
うんうん、と褒め称えるようなその言葉のそこかしこには刺が感じられた。族長は少しばかりの沈黙のあとに、低く囁く。
「…皆のおかげだ」
「いや」
その答えは予測済みだったようだ。振り返った青年は満面の笑みである。だがしかし、それは先程の言葉と同様、刺に満ちあふれている。
「ぬしの、素晴らしい、奇策の、おかげだ」
一息ひといき、馬鹿丁寧に区切られた文節にも。刺と同じくらいにそこに溢れる敬意も感じる口調ではあったが、それでも詰る響きから感じる親密さの方が断然大きいだろう。
 真庭族長は答えない。それすらも予測していたというように、眉尻を落としたのは青年の方だった。
「異論があるわけではない。ぬしの剣の腕は誰よりも信頼している。だがな、やはりあのやり方は良い気分はせぬものだ」
替え玉を立て、自らは渦中へと飛び込む。勝機がなければまず通らない作戦ではあるが、それが万全であるなどと誰も言えない。
 鳳凰は僅かに息を吐くと、被っていたフードを脱ぐ。静かに振られたその首を、窓からの陽射しが照らし出した。
 不自然に途中から黒になるその白銀の髪は、染料によるものであるようだった。瞼の上には紅色の線を引いた、特徴的な化粧が施されていた。それがきめ細やかな肌や、陶器のような表情、そして何よりも対面した人間に印象深く残るであろう、焔のように燃える瞳を際立たせている。
「悪かった。結局蟷螂も危険に晒した」
そういうことではないのだと、蟷螂と呼ばれた侍従は主である鳳凰を覗き込むように言う。
「私のことなど。危険に晒されるのが、私の役目だ」
低く囁かれたそれは、何処までも鳳凰のそれに似ていた。声色だけではない。そう思って眺めてみると、二人はひどく似通っていた。
 髪の色や目の色、そういう生まれ持った違うものさえ、同一になり得てしまいそうな程に。



第八話

 真庭族長、鳳凰と、その侍従、蟷螂。二人の間に血の繋がりはない。同じ一族に生を受けた以上、辿ればその交わりを見つけることは出来るのかもしれないが、別段近しい血縁関係があるわけではなかった。故にその相似は偶然ではない。蟷螂は、そうなるために育てられた。
 蟷螂は真庭族長、鳳凰専属の影武者だ。
 生命が晒される危険な仕事である。そのために、蟷螂は幼い頃に族長の屋敷へと連れて来られた。生まれは元からなかったものになり、蟷螂という名前さえ、鳳凰がつけたものだ。瓜二つとなるように。そうして育てられた二人の大きな差異は、その髪色くらいだった。
 白銀にたなびくその雪のような髪を持つ鳳凰と、夜を克明に刻み込んだような髪を持つ蟷螂。
 その差異をなきものにするため、鳳凰は幼い頃から染料でその髪を染めていた。白の方が黒へと染めやすいから、ただそれだけの理由だった。
 替え玉を立てるのは風習と言って良いものではあったが、だからと言ってすべての族長の影武者がこうも瓜二つであった訳ではない。先代の族長の替え玉は、性別も体格も違う実の娘であった。
 しかし、鳳凰にはそうせねばならない理由があった。近衛兵を立て、自ら剣を取り、戦い、勝ち抜き、まだその上で公務にあたり、身代わりを立てねばならない、その理由が。
 けれど、いくら似ていると言えども人間は同一にはなれない。並べて見ればどちらがどちらかなんて、聞くまでもないことだった。
 「尤も」
にこり、と笑みを浮かべながら蟷螂は鳳凰の隣へ腰を下ろす。ひだまりのようだと、いつも鳳凰は思う。無邪気と言うには蟷螂は冷静な人間だったが、その性質こそが二人を隔てる確かなものだろう。
「私が危険だったのは、この馬鹿がぬしの方しか見ていなかった所為だがな」
たん、と踏み降ろされた防寒靴。
 彼が狙ったのは、その馬鹿の足である。気配こそなく、まるで空気のようにその場に溶け込む人影がもう一つ、この馬車内にはあった。冬眠中の熊のようだと、蟷螂は何度も思っている。
 奇妙な仮面をした者だった。死しているかのように動きの少ない者だったが、そのくっきりした赤の髪だけが、異様にその者が生きているのだと知らせていて違和感すら覚える。
 蟷螂の下ろした足はあっけなく空を切った。最小限の素早い動きで躱されていた。
 元より、蟷螂とてその攻撃が当たると思っていた訳ではない。だがわざとらしくその顔に渋面を貼り付けると、
「…右衛門左衛門のくせに」
そう、八つ当たりのように呟いた。隅の影は答えない。
 男の名は右衛門左衛門と言った。彼について知っていることは少ない。幾つであるのか、どういった生い立ちであるのか、真庭の民で知る者はいないだろう。真庭であると自称こそすれ、それさえ真偽は定かではない。
 族長鳳凰が自分専用の近衛兵として異例とも言える抜擢をした時も、真庭の戦士の反感は大きかった。蟷螂も反対した内の一人である。そして、今も納得していない者は多い。
 その所為か、蟷螂のように声を掛けることさえ稀だ。真庭の民は彼を空気のように扱い、彼もまたそれに応えるように空気であった。呼吸さえ。空気に融かしてしまうように。
 「…確かに」
鳳凰は軽く目をとじると、静かな声で告げる。
「確かに動きが悪かったな、右衛門左衛門。鍛錬を怠けて腕を落とすなど、許されぬと思え」
「…はい」
声はすぐさま返って来た。雪解け水のような、穏やかな声だった。それと同時に低頭する。
 その仕草に蟷螂は不機嫌そうな表情を隠さず、右衛門左衛門のくせに、と再度呟いた。
「私は鳳凰と大切な話がある。右衛門左衛門は外だ、外」
しっしと動物にやるように手で追い払う動作をすると、彼は後ろの扉を開いて自ら出て行く。その様を見届けてから、蟷螂ははぁ、と大きなため息を吐いた。



第九話

 「あやつは変わらんな」
蟷螂は呟く。鳳凰はといえば、別段侍従の暴挙を止めることも咎めることもせずにいた。
「今にも―――死にそうだ」
「それはないから安心しろ」
盗み見た鳳凰の横顔は、ひどく穏やかだ。
「あやつは確かに死にそうではあるが、それでも我やお前を遺して死ぬことはないだろう」
それを許してはいないからな、と続ける。
 確かに、右衛門左衛門の鳳凰への忠誠心は本物だ。しかし、だからと言って近衛兵長に登用する意味は分からない。その地位は忠誠心だけでは務まらないと、多くの人間が思っているだろう。近衛兵長の役割は犬ではないのだ、勿論、忠犬であるに越したことはないが、剣を持たなければそれも意味はない。
 かつて真庭はこの山脈で、とある部族と血で血を洗う戦をしていた。長きに渡り続いたそれは、丁度鳳凰の父の代にて停戦を迎える。何十年も続いた戦の時代は終わったと、人は言うかもしれない。しかし、本当にそうならば、鳳凰に蟷螂のような存在は必要ないだろう。
 戦は尚も終わっていないのだ。完全には、まだ。
 「話は」
急かす意図はなかったが、その言葉で蟷螂ははっと我に返ったらしい。数秒視線を泳がせたのち、とても小さな声で囁くように言われる。
「出雲と鎖縛は、まだ揉めるぞ」
それはこの遠征で間に入った、二つの部族の名前だ。沈黙を催促の代わりにする。
「あの戦は確かに私怨だ。仕掛けたのは出雲。…原因は、出雲族長の親(ちか)しい娘が鎖縛の若者に傷物にされた、と」
鳳凰もそれは知っていた。尤も、あの出雲族長に言わせればあの一族の中で親しくないものなどいないのであろうが。双方の族長の言い分を聞いて、その上で謝罪と和解へと導いたつもりではあるが。
「帰り際、出雲の娘と会うことが出来た。随分と憔悴した様子ではあったが…」
勘だから、聞き流してくれても構わない。蟷螂はそう前置きしてから、しかし確信を持ってその言葉を告げる。
「彼女は今も、鎖縛の若者を想っているぞ」
 剣を持たない蟷螂は、剣を振りかざすことこそがその証と言っても良いようなこの真庭の民の中で良く目立つ。無論、影として彼が本気を出せばそんなものはすぐになくなりはするが、それでも普段の様は浮いていると言っても過言ではない。男でありながら女である―――ような。違和感を孕んでいるはずなのに、あまりに自然な。だからこそ出雲の娘も、彼に対しては安心感を抱いたのだろう。そして、その心が垣間見えるほどまで、言葉を紡いだ。
 人の心はままならないものだと、分かっている。些細なこと、と笑い飛ばすのはこれ以上ない程に簡単なのだろう。しかし、その心は人を殺すまでに育つこともあり得る。
 「…そう、か」
頷いて外を見遣る。
「暫く様子を見るしかないだろうな」
それに蟷螂も頷いて、同じように外を見遣った。
「出雲の族長は…後戻りが出来なくなっているだけに思うが。こうして…真庭が間に入ったことで、彼女の頭も少しは冷えるのではないか」
出雲族長は情が厚い。今回の戦も、それ故に起きたものだと言えた。しかし、彼女も馬鹿ではない。戦で流れる血が、払われる犠牲が、無為なものだと分からないはずがないのだ。
「本心では和解を望んでいるようにも見えた。…私の、希望的観測かもしれないが」
それで良い、と鳳凰は微笑む。希望は何よりも必要だ。蟷螂のように、剣を取らないものならば尚更。
「ひと月もすれば、変わるものもあるかもしれない」
叙情的なその言葉に、蟷螂は苦虫を噛み潰したような顔をした。



第十話

 例え、避けられないものだとしても。珍しいとも言える、心の上澄みを掬ったような言葉。蟷螂はそのような言葉を、鳳凰の口からは聞きたくなかった。
 人の心は変わるものだ、それも、良い方に。そう願わずにはいられない程に劇的な事態は、既に目前に迫っている。この、山脈で。これからひと月もしないうちに、それは起こる。
 「衣装は決まったか」
鳳凰が続けて問う。何処か、楽しんでいるような響きだった。対して蟷螂は複雑な顔で、それでも頬に微笑みを貼り付けて返す。
「ああ。ぬしに似合いの、とても美しいものを」
そうか、と零れたそれに、感傷が欠片ほども含まれているようには聞こえなかった。蟷螂はまた無理をするように笑う。
「だが聞いたことがないな。自分の婚礼衣装を替え玉に合わせるだなんて」
「我には必要がないからな。だが蟷螂はそれなりに好きだろう」
身を飾ることになど興味はない。そんな意味で言った鳳凰に蟷螂は僅かに片眉を上げる。
「ああ、そうだな。着飾ることは真庭の伝統であることだし、私はそれなりにそれを好いている。代わりに婚礼をあげても構わないと思うくらいだ」
きっぱりと、した言葉だった。
 鳳凰は笑わなかった。
 「それは出来ないだろう」
静かに、静かに返って来たその言葉が、余計に蟷螂の胸を抉って行く。悪かった、と非礼を詫びるつもりもないであろう声で蟷螂は呟くと、
「ああ、もう到着するな」
外を見遣ってから目を閉じた。
 胸の痛みは幻影だ。そうでなくてはいけない、と蟷螂は思う。身代わりとして育てられたにも関わらず、彼の苦しみ一つ肩代わりは出来ないのだ。蟷螂の見立てた美しい婚礼衣装は、間違いなく鳳凰に映えるだろう。それは約束しても良い。
 短い春が来る前に、仕えるべき真庭の族長は、真庭の民を背負ったまま宿敵のもとへ縁付くのだ。それはどれほど美しい姿だろう。相手の花嫁を圧倒する程であれば良いと思う。
 悲願だった。これは和平のための第一歩なのだ。分かってはいても蟷螂は、それが鳳凰の幸せであるとは思えない。
 しかしそれでも、鳳凰は行ってしまうのだろう。雪の精霊のように美しい姿で。
 長い戦の終わり。その約束を、果たすために。

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20190922 改訂