生命の色を知っているか。
 古く、激情を持つその名を知っているか。
 表情豊かな剣の舞、滾るその血は焔よりも燃え盛る。熟れた果実のような唇に、良く似合うのは舌舐めずり。
 それは愛した者を喰らうという一族。極彩に輝くその生命を、雪に灼けつくその激情を、人々はその蛮族を蔑み、畏怖の対象とする。

 ―――曰く、雪蟷螂。










プロローグ 白い絶望

 涙すら凍るこの山脈で。絶望にお前を、くれてなど、やらない。
 

第一話

 その地では、絶望は白い色をしている。
 冬に空から降るものと言って、人は何を思い浮かべるのだろう。雪、だろうか。だがしかし視界を遮るようなその世界は、雪によって作られているのではなかった。ともすれば皮膚を貫いてその下へ潜り込んでしまいそうな程小さい、雪氷の嵐。自重に逆らわず落下するだけでなく、方向さえ無視する風に煽られ吹き上がることもある。そんな土地を、そこら一帯の中でも特に寒さの厳しい凍土の山間を、一人の少年が足を引きずるように歩いていた。幾重にも毛布をまとったようなそれはぼろぼろであり、しかし防寒具としての役目は放棄していないようだ。だが手袋の先は破けており、剥き出しになった指先は赤さを通り越し黒ずんでしまっている。
 白い地獄だ、と少年は思った。天を仰ぐその虚ろな瞳の弱々しい光は、その果てない空に飲み込まれる。この土地は夜でさえ白い。雪に塗れた大地が僅かな光さえも映し、それがすべてを白く染めている。少年は、その白さこそがこの地での闇だと思う。
 疲弊の理由は考えるまでもなかった。山脈の大地と同じだ、受け継がれる長い長い戦。それはただぎりぎりと、その肌を削っていく。
 一際強い風に、彼のやっとのことで立っていた膝が折れた。倒れ込んだ凍土は剣山のようで、頭は重く、視界は揺らぐばかりだ。もうだめだ、諦めよりも白く濁った思考だった。もう、眠ってしまいたい。混濁した意識の中でふと母の姿が見えたような気がした。微かに唇が動いて、母の名を呼ぶ―――呼んだつもりになっただけだ。母の名も、父の声も、記憶から零れ落ちて、きっと春になれば消えてしまう。最後に見た母の姿が、少年の記憶を蝕んでいく。自分に刃を向けた、その姿。思うことはただ一つしかないというのに。
 ―――どうして、殺してくれなかったんだ。
 衣服の奥には微かに残り香がこもっていた。それだけが、記憶よりも確かに誰かに抱きしめられたことがあるのだと叫んでいる。しかし、それに何の意味があると言うのだ。この真っ白な世界で、何を。潰れかけた両目の瞼の傷は、まだ新しくじくじくと熱を持っていた。目を開くのも、閉じるのも苦痛で仕方ない。
 ぴゅう、と細い笛が鳴るような風に交じり、動物の蹄の音を聞く。それが現実なのか幻なのか、もう少年には分からない。しゃりしゃり、とそれは氷片が踏まれる独特の音だった。獣か、と少年は思う。例え獣だろうと、寧ろ獣の方が良い、とも思った。生きても地獄、死しても地獄なら、一瞬でも早く楽になる方がマシだろう。
 揺らぐ視界にあまりに不躾に入ってきたのは、小さな防寒靴のつま先だった。一瞬、世界が凍ったように感じた。けたたましい程のその氷雪の嵐さえ、凍り付いたように。だからだろう、冷え切った空気を肺の空気全部で叩くようなその声は、あまりに鮮明に少年の耳を打ち付ける。
 「生きているか」
 驚いたのは、それが子供の声だったことだ。少年と同じくらいの年の頃なのだろうか、硬く凛と保っているのであろう声は、それでも震えて潤み、幼さを感じさせる。生きているのか、死んでいるのか。少年にもどちらが真なのか分からなかった。しかしその声にまるで応えでもするかのように、手首が痙攣するように微かに動いた。



第二話

 白く眩む視界は、茶色の靴の先のみを認識していた。けれどもそれさえ、ひどく重い瞼が阻もうとしている。金属のようだ、と思った。自分の身体ではないみたいだ。
 「顔をあげろ」
 高圧的、と言うに相応しかった。天から降り注ぐそれはまほろばの鐘のようで、少年はただ眠りたい、と思う。世界と同じく凍り付いたような脳が、すべてを白く染めていく。
「聞こえないのか。顔を、あげろと、言ったのだ!」
突然だった。小さな手が胸ぐらを掴み、少年の上体を引きずり上げる。仰け反るように無理矢理顔が上がり、仕方ない、と言った風体で細い瞳が開かれた。
「あと、百歩進めば助かる。立て。立って、歩け」
声は、少年よりもまだ幼い少年のもの。
 真っ白の一歩手前、と言ったような視界の中で、赤い唇だけが印象的だった。
 幼い少年が降りてきたのはその背後にある雪馬車だろう。それはどう見ても集落から発ったばかりの様子で、幼い少年が一人乗っていたという訳でもなさそうだ。少年を乗せる意志は見て取れない。
 それが救いの手であるとは、少年は思わなかった。恐らく、この幼い少年もそんなつもりでやって来たのではないだろう。けれど苦しみに対して差し伸べられるそれよりも強烈に、幼い少年は言葉を放つ。小さな手で少年の首元を強く掴む、それよりも強く。
「立って、生きるのだ」
鈴の音、と表するのは間違いだと思った。研磨された剣で打ち合うような、鋭い声。それは少年の胸の内までを切り裂く程強烈ではあったが、それでも閉じかけた瞳で声は出さずに、唇だけで吐いた。
「―――いや、だ」
もう、いやだ、と。
「眠らせろ」
安らぎが欲しいと希うのは罪ではないはずだ。飢えも凍えも、生きているからこそ甘受せざるを得ない感覚だ。だからこそ、もうまっぴらだった。生きること以上に、苦しいことなどあるものか。
 ただ、楽になりたい。
 幼い少年が自身の唇を噛む気配がした。苛立ちは憤りのようで、ふいに離された手は見限りのようだった。自重に則って落下した身体が、少年に痛みを伝えて、しかし次の瞬間もう一度引きずり上げられる。ぐい、と無遠慮に掴まれたのは、少年の中で唯一と言って良いほどの、あかく、生命のきらめきのように燃える髪だった。
 そして、少年は初めてその瞳を目にする。
 間近で深く燃えるそれは、比類なき焔のように思えた。その他に表現し得るものなどないような、そんな赤だと思った。思った、時だった。
 噛み付くように唇を奪われた。
 相手の赤さに、嫌というほど熱を感じた。



第三話

 液状化した炎を嚥下したような心地だった。喉の灼ける苦しさに、思わず身体を折って噎せ返る。思い切り吸い込んだ冷気が、灼けた喉に爪を立てていく。
 白い大地に点々と―――唾と、茶色をした液体。醸造されたアルコールだと、経験を以ってして理解する。体内から暖を取る手段だ、珍しいことでもなんでもない。しかし、雪原に散ったのは、口移しで飲まされたそれだけではない。
 赤。
 それは、生命の色だ。じくじくと覚醒を呼び起こす痛みもまた、その証。
 口腔内に広がる鉄の味を噛み締める。幼い少年を見上げるその瞳には光が戻っていた。青。傷の為開き切らないその瞼の奥、それは春の空の色をしていた。
 酒を流し込むついでと言わんばかりに、唇の端を噛み切っていった幼い少年を、異常であるとは思わない。
 雪蟷螂。
 この白い山脈に息づく幾らかの部族の中でも、双頭の一つ。真庭一族の民には異名が存在する。それは嘲りのようであり、畏怖のようであり、愛するものさえ噛み殺す、そんな激情への表しきれない敬意を込めて。
 幼い雪蟷螂の少年は、外套を剥ぎ取ってきっと少年を睨み付ける。その美しい雪のような銀の髪が、風にはためいた。
「目を覚まし、そして立て。その熱が生命、その血こそが真庭の宝である。生きて剣を持て、誇り高き雪蟷螂。絶望にその血を凍らせてはならない」
ただの、儀礼句。真庭の民が戦に向かう前にその族長が朗々と叫ぶ、古き戦士の言葉。果たしてそれは歴戦の戦士のものであるというのに、幼い少年の口から飛び出ることこそを誇りとしているような、そんな輝きすらあった。
「絶望に、その血を凍らせてはならない」
その舌が唇を舐める。少年の血を舐め取るような、そんな仕草もあまりに鮮烈で、度し難い。
 酒が巡る、その所為ではないと思った。湧き上がる熱も感情も、少年は知らない。生まれて初めての―――それ。血の味だけが、心に刻みついた。一生消えることのない、美しい傷跡のように。
 無意識に伸ばした手は取られない。
「我は鳳凰」
取らない代わりに、幼い少年は高らかに名乗り上げる。
「我は真庭鳳凰。絶望に血が凍るなら、我の名を思い出すが良い。憎むべきは我の名だ。生きる道さえないと言うなら、いつかこの生命、奪いに来ても構わぬ」
ぎゅう、と吊り上げられた唇の端は。自分を殺しに来いと、それが本気であることを伝えていた。
「ただし、むざには渡さぬ。この熱、この生命を―――奪いに、来るのなら。相応の人間になっていろ」
生きる理由が欲しいか、と問うこともなかった。
「二度と我の前に、無様な姿を晒すことは許さぬ。その無様な顔も性根も、我が根こそぎ剥いでいく」
押し付けがましい、そうとも取れた。
「我は真庭鳳凰、お前の名は覚えぬ。…お前が、我を、覚えていろ」
そうして雪馬車へと戻っていくその背中に、覚えたのは焦燥だっただろう。感覚も消えかかけていた、肌には傷しかないと言っても良い。そんなぼろぼろの状態で、それでも少年は立ち上がる。
 生まれ落ちたばかりの、獣の赤子のように。
 強く食いしばった口内は、未だ血の味に塗れていた。接吻けの味だ、と少年は思う。
 真庭鳳凰。
 その名をたった一つ、道標のように、もしくは仇のように灼き付けて。踏み出した一歩は、生を辿るためのもの。
 この山脈に人が住み着いてから三百四十七年。三十年という長い年月を駆け抜けた、一つの戦の、停戦の年のことであった。

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20130808
20190922 改訂