愛し
KANASHI
美園流介はゆっくりと病室の扉を閉めた。
流依、と名残惜しそうにその名を撫でるのは自分の唇で。
ハッとして抑えたその指先は冷たかった。
愛した人にはもう触れていられない、それを残酷に証明するようなその温度。
「流依」
これが最後だ、と噛みしめるように呼ぶ。
声は、震えてすらいなかった。
それに笑って、ずっとこういう日が来てしまうのだと諦めていた自分に笑って、
「さよなら」
嗤って、踵を返した。
実兄の忘れ形見、
兄と兄嫁が長いことこの家系に息づく呪いのような病気が原因で生命を落としてから、
ずっと手元に置いて育てていた子供。
最初は同情だった、そして憐憫だった。
また、何処かに懺悔の気持ちさえあったのだろう。
もっと早くに気付いていれば。
そうすれば兄は一人で死んで行くという寂しい結果にはなっただろうが、
少なくとも人間のまま生命を終えることが出来たし、
何よりもきっと兄嫁は死なずにすんで、流依も一人になることはなく、
そして、そう、あんな存在など生まれずにすんだ。
その決して美しいとは言えない感情が、いつの間に変わっていったのか、
それは流介自身にも分からない。
いつから、とは自問自答しても答えの出ないものだった。
怯え切って何もかも信じようとしなくて、全てをあの子に押し付けた、そんな狡い子供。
人間でいたい、人間でいたいとずっと泣き叫んでいた子供。
そんな彼女を、一人の女性として見るようになったのは。
この病を研究したいという気持ちに嘘はなかった。
流依のためと言う方がきっと嘘があったけれども、
徐々に彼女の未来を保証してやりたいと思うようになったのは本当だ。
あの子がもう二度と表に出て来ないように、
あわよくばまた、あの愛した流依が表に出て来れるように。
そうなるにはきっと、病が完全に除去される以外に道はないだろうから。
それに縋るように仕事に打ち込んだ。
けれど、理由はそれだけでなかったのも、自分のことだ、流介には分かっていた。
仕事に打ち込めばその思いから少し、距離を置くことが出来ると言うのもあったのだ。
呪いは流介の身体の中にも宿っていて、いつそれが発症するのか分からないのだから。
発症した時に流依が傍にいれば、今までの何もかもを投げ打って流依を殺すだろうと思っていた。
自分以外に流依を救える人間などいないのだと、それはきっと傲慢だったけれど。
それでもあの子に護られ続ける流依を救えるのは自分以外にいなく、
それが出来ないのなら殺してやるのがせめてものの慈悲だと思っていたから。
その、呪いの存在を。
初めて親から教わったのはいつのことだったか。
なんて呪われているのだろう、そう思った。
愛しい者を殺さずにはいられない、なんて。
狂っていると、その言葉の他になんと言ったら良かったのだろう。
一度でも愛してしまえば、身体中の血が沸騰するようで、でも反対にすべては冷え切って行って。
この欠落を埋めたいと願う。
誰にも渡したくない、こんな距離など要らない。
誰かの手に渡ってしまうくらいなら、この手で―――醜い、独占欲。
化け物じみた病がいよいよ人間としての最終段階に入って、
すべての施設の引き渡し、警察関係者への連絡を済ませ、
もうこうなってしまったら、と半分やけくそに流依に会いに行った。
やはりと言うか、迎えたのはあの子の方で。
あの子の方はずっと気付いていたのだろう、そして時折憐れむような視線を送ってきていた。
返事はもらえなかったが、それで良いと思っていた。
あの子の馬鹿馬鹿しい問いかけにも丁寧に答えて、
これですべてを終われると心地好い気分だった。
「愛してるよ」
それはきっと何処までも嘘じみた台詞だった。
あの子にもそれは分かっていて、
だからこその馬鹿馬鹿しい問いかけだったのだと流介にだって分かっている。
けれどどうしても、あの子にだけは分かられたくなかった。
「…君じゃないんだよ」
名前すら知らない、流依に対するものが愛ならば、きっとこちらは憎悪だ。
「さよならだね」
もう思い残すことなどない。
冷えた指先で触れた刃は暖かく感じた。
願わくば、この世界でさいごの声が愛しい名前であるように。
20140226