それが幸せなら、なんてそんなこと、思うべきではなかったのだ。
私は誰よりもバケモノであったのに。

あの日の呪いを一手に引き受けて、
幸せを求めるのは恐ろしいことなのだと、美園流依を想うのならば、言うべきだったのに。



摂氏八度



「流依」
呼ばれてうっすらと瞼を持ち上げる。
ぼんやりとした視界に、いつもの顔が映った。
ゆるゆると起き上がる。
何か、言わなくては。
そう思うのに、
言葉を紡ぐよりも先にせり上がってきた衝動に、本能的に口を押さえるしか出来なかった。
慌てたように海斗が背中をさすってきた。
けれど、それでどうにかなるものでもない。

その衝動が所謂一番に愛しいと思っている人間に対して起こるということを、流依は知っている。
これもまた、流介があの惨劇のあとに教えてくれた事実だ。
だから、つまり、そういうことなのだろう。
この腹の底から湧き上がるような枯渇感は、父親が何よりも先に母親のもとへ走っていったのと、
そして、その首筋に犬歯を突き立てたのと、同じなのだ。

ああ、と思う。

ああ、もう、限界だ。

「…ごめん、ね」
白々しいとは思いつつその言葉を選んだのは、きっと美園流依のためだったと、そう信じたい。
「…ッ流依!!」
海斗の、切り裂くような叫び声が、聞こえた。



がっと血液が宙を舞い散るのを見ていた。
握りしめたカッターがずるりと滑って、その手が血塗れになっていることに気付く。

確かに、感じた。
刃が肉にめり込む感覚。
こんな死に損ないだったけれど、あれだけ何度もやっていれば分かるようになってしまう。

ちゃんと、出来た。
唇から漏れたのは確かな安堵だったろう。
「海斗なら、こうしてくれるって分かってたよ」

たとえば、目の前で結婚まで願う人間が死のうとしたらどうするだろう。
己の危険も顧みず、
懐に飛び込んでくるような種類の人間も確かに存在することは分かっていただけるだろうか。
久木海斗はそういった種類の人間だと、流依は思っていた。

だから、一つ賭けをしたのだ。

もしも彼がそういう人間でなかったのなら、そのまま死んでしまおうと。
でも、もしも―――彼がそういう人間であったのなら。
流依の懐に、力を込めやすい範囲に、
反射で逃げたとしても誤差で収まるような距離に、海斗が入ってきたのなら。
その時はもう、取り繕うのはやめにしよう、と。

そして、流依は勝ったのだ。
飛び込んで来た海斗に向かってその刃を突き立てる。
慣性の法則に従って倒れ込んだ海斗は、そのまま。
もう説明する必要もないだろう。

カッターから手を離す。
真っ赤に染まった両手を見て、ぞくりぞくりと本能が色付いていくのを感じる。

そしてその瞬間、
あの日からずっと抱き締めて守っていたはずの美園流依が、砕け散っていくのが分かった。





  




20130906