ルート182329
今日の天気予報、曇のち雨。
予報は外れることなく、黒い雨雲から水の粒がぽつり、ぽつりと落ち始めた。
その下を、傘も差さずに真っ直ぐに歩いていく少女が一人。
雨に濡れてべったりと額に張り付いた髪は真っ黒で、
その隙間から覗く瞳は血を連想させるような紅い色をしていた。
若野洫(わかのきよく)、それが彼女が全てを奪われても死守した、その生命の名前。
そんな彼女のことをすれ違う人々は気にしない。他人に無関心、それが正しい姿。
小さな町だった。彼女が此処へやって来たのは復讐の為。
七歳の時、目の前で皆殺しにされた家族の仇をとる為。あの日、洫は殺された。
死にかけて、保護のために名前すら奪われて。
それでも生き延びて這い上がって、ここまでやって来た。全ては、同じ思いを、という復讐心で。
家族を殺した犯人は洫の生存を知らないだろう。
当時の警察の判断で、洫の生存は隠された。
犯人に狙われる可能性が無いとも言えなかったから、そういう理由。
守寺
洫は表札にそう書かれた家の前で立ち止まった。自然と口角がつり上がる。やっと、見付けた。
守寺へごみ、性別は女、現在四十二歳。家族構成、夫、長男、長女、次女、犬の五人と一匹。
必死で調べ上げた犯人の家庭は、とてつもなく幸せそうなものだった。
―――どうして人の家族を殺した奴が、幸せに生きている?
がり、と思わず噛み締めた口内に鉄の味。
壊してやる、その幸せもその笑顔も、失うということを味わわせてやる。
ふい、と洫は守寺家に背を向けた。沁みるはずのない傷が痛かった。
雨粒は次第に大きくなっていって、世界を水浸しにしていった。
まず初めに洫が作ったのは毒薬だった。
けれど、それは分類は毒薬となっていても、死に至るようなものではない。
ただ、自律神経を乱し、ストレスを溜まりやすくするだけのもの。
洫はこれを守寺家の犬に与えた。
番犬ではないのだろうか、大人しいその犬は洫が傍に行っても鳴き声一つあげない。
散歩から帰って水を与えるのが守寺家のルールと知っていた洫は、
その水の中に一滴、薬を垂らすだけで良かった。
そんなことを一ヶ月も繰り返せば、たった一滴だろうと変化は現れて来る。
何もないところで唸ったり、走り回ったり、突然吼え始めたり。
飼い主が困惑する中で、犬は近所の良い中傷の的だった。
早く処分すれば良いのに、そう言った声を拾った洫は、薬の量を一気に増やした。
薬が馴染み、身体に回りやすくなっていた犬に、その効果が現れるのは早かった。
わずか一週間ほどで、手の付けられない凶暴な犬へと変貌を遂げたのだ。
昼夜を問わず吼え続ける犬は完全に忌み嫌われる存在となり、
その飼い主である守寺家は完全にご近所から孤立した。
月が、綺麗な夜だった。
洫は守寺家の庭に忍び込み、犬を引っぱり出した。
事前に餌に睡眠薬を含ませていたおかげで、
ひどい引っぱり方をしているにも関わらず犬は目を覚まさない。
ずるずるとその身体を引きずり、朝、玄関を開けて一番に目に入るような場所にそれを置く。
ごど、と洫は重いものを持ち出した。月光が反射する。
斧、だった。洫はそれを躊躇うことなく振り上げて、迷わずに犬の首へと振り落とした。
にぶく、切断音が洫の耳に届いた。
身体と首が離れていることを確認し、洫は満足したように笑った。
「罪を犯した者も与えられるのは、苦しみだけだよ。
その苦しみが周りのものを巻き込んだって、それは自業自得だよね…?」
翌日、洫は久しぶりにテレビを付けた。朝のニュース番組。
地域放送を探してみれば、求めていたものはあった。
忌み嫌われた犬の最後―――切断死体 近所トラブルから発展か?
昨夜の一つの命の終わりの放送。洫は喉を鳴らした。
「存分に苦しんでよ、?実。悪意は十倍返しが基本、これはまだ序章なんだからね…?」
悪魔のショーの始まり、苦い夢を味わえ。
洫は一通り笑ってから、朝食にありついた。目玉焼きには、ソースをかけた。
犬の死から数日、洫は町を歩いていた。次は直接手は下さないつもりだった。
不良のたまり場とでも言うのだろうか、そういった裏路地はすぐに見付かった。
「長女は十八歳か。これは屈辱以外の何でもないだろ…」
洫はにやりと笑ってから、ふと真顔になって、
「姉さんも生きていれば同じ年、かぁ…」
呟いた。
倒錯的嗜好の持ち主なんて掃いて捨てるほど居る。
へごみもまた、その一人だっただけのこと。それが、洫にはひどく理不尽のような気がしていた。
「全て、お前の所為だよ。
お前が姉さんをあんな殺し方しなければ、長女だって普通に生きられたかもしれないのに」
口を塞がれ、ロープでぐるぐる巻にされて、
何にも知らない七歳の子供が全てを悟ってしまうほど残酷で、鮮やかに。
「幼女趣味なんて…笑わせる…」
姉がその幼い身体を犯されながら、少しずつ切り刻まれていく。
あの悲鳴は、何度寝ても耳の底から剥がれ墜ちないでいるのに。
愛犬を殺した犯人を教えて差し上げましょう。どうか、貴方一人でお越し下さい。
私は貴方しか信用していません。他言すれば、真実は闇に葬られるでしょう。
見ています、いつも。金曜の夜、通りの端の廃ビルの四階で。
洫はパソコンで文書を打ち出し、彼女宛に送った。彼女は家族の中で一番あの犬を可愛がっていた。
あの犬が狂った後でも、懸命になだめようと近付いて腕をひどく噛まれている。
だから、こうやっておびき出すのが得策と考えた。
「準備完了」
金曜の夜は思ったよりも早くやって来た
ビルを見張っていた洫は、彼女が手紙の指示通り一人でやって来るのを見ていた。
誰もいないそのビルの四階には、洫の次の指示が書いてある。
誰かが私たちのことを嗅ぎつけたようです。
急に申し訳ありませんが、場所を四丁目裏路地に変えさせていただきます。
裏路地で待っているのは、洫ではないのに。きっと、彼女は行くのだ。
洫の予想通り、彼女は周りを警戒しながら指定の場所へ足を早めた。
彼女の背中が裏路地に消えたのを確認する。言い争う声が聞こえ、それもそのうちに消えた。
洫はもう良いと言わんばかりに、その場を後にした。
計画しておいて何だが、彼女がこれからどうなるかなんて、見たくはなかった。
「姉さん、出てこないでよ…」
弱々しく呟いた声は、姉の最期の残像を消し去るには、あまりに無力だった。
夜が明けて洫が路地を覗けば、其処には真っ白い身体が横たわっていた。
遠くからでも分かる、表情は絶望、その身体に、もう命が宿っていないこと。
「娘の死に様を知ったらどうする? ねぇ、へごみ」
クスクスと漏れる微笑。
「昔のこと、思い出す? それとも、ただ悲しむだけ…? 一般人みたいに?」
その答えの出るのはまだ先だと分かっているのに。洫は楽しそうに顔を歪ませる。
「お前が普通に暮らすことなんて、私が許さないんだから」
その場を立ち去った。洫のいた所に墜ちていた雫が何かなんて、彼女が知る術もなかった。
昼頃にテレビを付ければ彼女のことは既に報道された後だった。
メディアなんて勝手なもので、彼女の背後関係を造り上げて報道していく。
恋人が居たとか、麻薬に手を染めていたとか。
洫の調べたところでは彼女は至って真面目な女性だったのに。
でも、そんなのどうだって良い。
「愉快だよ、すごく。すごく、すごく…」
復讐は確実に進んでいる。へごみが苦しんでいる。それが洫にとって全てだった。
もう、壊れたって良いと洫は笑い続ける。壊れた方が悲しまずに済むのに。
夜は賑わう歓楽街の端から響くその声は、
不気味なほど静まりかえった昼間の空気にとけ込んでいった。
長女の葬儀も終わり、守寺家に仮初めの静寂が訪れた頃。長男が行方を眩ませた。
「こんにちは、はじめまして」
洫は笑いながら話しかける。目の前には、拘束されて為す術もない男。
「誰だ!? 何で俺はこんなことに…ッ」
彼こそが長男。
今頃捜索願が出されている頃だろうが、ここは町の中心部からは遠く離れた山奥の小屋。
車の運転出来て良かった、と洫は息を吐いた。一人で成人した人間を運ぶのはやはり無理がある。
「名前を名乗る必要なんてないでしょ? 今から貴方は私に殺されるんだから」
瞬間、彼の顔を過ったのは驚愕、怖れ…そして、
頭が良いのかその唇から次いで紡がれたのは愛犬と長女―――彼にとっては可愛い妹―――の名前。
「なん、でだよ! どうして…ッ」
喚く声。ひどく耳障り。ひた、と見据える先に絶対零度の光を送るように、
「奪われたから」
洫は一言呟いた。
「私はね、へごみに全てを奪われたの。家族全員、皆殺し。
私は何とか生き残ったけど…奪われてそのままなんて、理不尽じゃない?
だから奪い返すの、私は私のやり方で全てを取り返す。
十年も犯人を放っておいた警察なんてアテに出来ない」
彼は言葉を失ったように洫を見つめていた。
「兄さんがいたの、生きていれば貴方と同じ年。どうやって殺されたかって言うとね、」
洫は突然立ち上がると、小屋の入り口に立てかけてあったものを手に取った。
「ちょ、え、斧…!?」
重い。洫はそう思いながら斧を引きずっていく。
彼は身を捩って必死で逃げようとするけれど、拘束されている身ではそれも叶わない。
脚は一応自由になってはいるのだが、恐怖で力が入らないのだろう。
「ダルマ」
「え?」
「だから、ダルマにされて死んだの」
恐怖で歪むその表情が無様だと思った。
ダルマ、手足のない目もない首だけが胴体にくっついた、不気味な神様。
声にならない悲鳴が聞こえる。死にたくない、掠れた声で呟かれる。
命乞いしたって無駄なのに。馬鹿な奴。
「最初は…左足からだったかな」
斧を振り上げたその瞬間自分は、とてつもなく狂喜の表情を浮かべていただろうと、洫は思った。
月の下。小屋に設備されたシャワーを浴びて、洫は小屋から出てみた。
背中がやたら疼いている気がする。
シャワーのおかげで洫の身体に紅い色は認められなかった、けれど、強い香りがした。
洫を捕らえて離さない強烈で鬱陶しくて、それでいて心躍らせる素敵な香り。
くすり、と笑みが浮かぶ。
「あと二人」
思ったら笑いが溢れて、
「あと二人で、私の勝ちだよ…へごみ…!」
朧気な月が覆いきれなかった闇が、とても奇麗だと思った。
もうニュースを確認する必要もなかった。あの長男はしばらくは見付からないかもしれない。
結果をずっと待つ、そんなことはしたくなかった。
最終的にへごみが知れば良い、そういう計画だった、最初から。
「同い年…か」
洫はボロアパートで次に殺すはずの少女を思った。
気持ちが少し揺らぐ、あくまで少しだけ。―――まだ、生きられるのに。
同情にも似た感覚が洫を支配しかけて、はっとして首を振った。
「へごみの所為なんだから…」
鞄の中を確認する。時効を過ぎて返された、可愛らしいナイフ。
姉が誕生日にくれた大切なものだったのに。
すやすやと眠る次女を洫は見下ろしていた。
十年前までクロロホルムが現実で使用されているものだと思っていた。
テレビの中の世界、いつだって最後はヒーローが助けてくれる、そんな世界。
馬鹿みたい。
「幸せそうな顔」
ずぷ、という音と共に、その表情はいとも簡単に消え去る。
横一直線に引いて大切なナイフを取り戻す。
ねっとりと、絡みつくような感覚に、別の所にすれば良かったと思う、
でもそれじゃあ復讐にならない。
ひっくり返せば傷口から何かが零れそうになった。腸か何かだろうと洫はそれから目を逸らす。
「何の意味が在ったかは、知らないけど」
同じように、同じように。突き立てた切っ先が描くのは×印。
『―――さんの背中には、
犯人が刻んだと思われる×印があったそうなんですが…これは何を示しているのでしょうか?』
『犯人の被害者に対する否定意識が伝わってきますね。こういう感情は多く―――』
何も知らない他人が事件を更にややこしくしていく。
平和だね、平和だよ、この世界は。洫は寝返りを打ちながら思う。
へごみ、お前をその平和な世界から切り離してあげる。
「どうして…!」
盗聴器から聞こえてきたのはそんな半狂乱の叫び声だった。
ばりん、という音は何かを叩き割った音だろう。此処は洗面所のはずだから、鏡、だろうか。
向こうでへごみがどんな顔をしているのか見れないのが、唯一残念だと思った。
彼女にとっては忘れていたことだったのだろう。もう終わったことだったのだろう。
それが、忠実に忠実に再現されているなんて、悪夢にほかならないはずだ。
きれいに、きれいに。
子供の証言だけではどうにもならなくて、
その証言も生存者の保護という観点からなかったことにされて。
警察からも逃れて、きれいに隠したはずの過去がほじくり返されているのだから。
「全員殺したはずだ…!」
あの時、へごみの中にあったのは快楽だけだったのだろう。
今後どうなるか、それは既に彼女の中で計画されていて、
実際にそのようになったのだから心配などなかったはずだ。
―――死ほど永遠で、美しいものは、ない、でしょう?
にたりと歪んだ唇がそう嘯いたことを忘れた日などない。
喉から声が漏れないようにでもしているのか、うう、うう…と呻きのようなものが聞こえていた。
声を出さなかったところで何も変わらないと分かっているだろうに。無駄なことが、好きなのか。
どれだけ耐えようと、暗闇は彼女に迫るのをやめない。
「全員、殺したはずだ…」
力ないその呟きは、あまりに滑稽だった。
一人の少女の死から一ヶ月―――世間は既に守寺家の事件を忘れ、
平凡な日常へと帰って行っていた。
事件の中心であった守寺家にもこの一ヶ月何事もなく、平穏とも言えるものが訪れていた。
「…終わった、のか?」
ふとした瞬間の?実の問いに思わず笑いそうになる。
別に笑ったところでその声がへごみに伝わる訳もないのだが、
それでも洫は口元を抑えて笑いを飲み込んだ。
殺したのは六人。今頃彼女の頭の中は計算しているだろう。殺されたのは三人と一匹。
もしも犯人が自分の過去を知っているのなら、こんな中途半端で終わるはずがない。
そんなふうに怯えてくれれば万々歳だ。
「おい」
黙りこくっていた?実に呼びかける声。どうしたんだ、と続けるのは彼女の夫だ。
憔悴していくその姿を洫も一方的に知っていた。真面目そう、優しそう、そんな父親。
へごみは、彼にさえも罪の告白をしない。
したところで許すつもりなどなかったが、墓にまで持っていくつもりらしい。
ため息。本当に、本当に、腹が立つ。
「朝食、出来てるわよ」
残るは毒殺と銃殺、へごみも分かっているのだろう。
だからこそ食材のルートを限定し、毒を仕込む隙などないように気をつけている。
でも、そんなことで洫は諦めたりしない。毒を仕込む方法なんて、いくらでもある。
がは、と静かな朝食には不似合いな音がしたのはその直後だった。
だん、と身体が食卓にうつ伏さる音、ばたばたとへごみが駆け寄る音。
「…お前は、死ぬな…」
最期の言葉を聞いてからイヤホンを外す。
死なないで、嫌だ、とへごみの叫ぶリビングへと足を踏み入れる。
「どうして、どうして! 何で私の大切な人たちが、こんな目に…!!」
かつん、と踵を鳴らすと、へごみが驚いたように振り向いた。
その腕の中の身体はもう動かないようだった。笑う。
「どうしてって? 本当に分からないの?」
その表情にやはり差異は見られなかった。洫は息を吐く。
やはり、ああ、やはり、へごみは覚えてなどいなかった。
「貴方は一体、誰…ッ!? どうして私の真似を…!!」
彼女にとって大切だったのは、あの結果だけ。あの、反吐が出るほど芸術のような結果、だけ。
「若野洫。そう言えば、思い出してもらえる?」
数秒、要したようだったが、やっと洫の欲しい表情が見られた。
驚愕。
流石に顔は覚えてなくとも名前は忘れていなかったようだ。
歪んでいく顔、こんな女一人捕まえられなかった警察を何度無能と詰ったことか。
けれどもこうして生存を隠してくれたことには、本当に感謝している。
「なん…ッだって、全員、殺したはずなのに…!!」
「そうだね、死ぬところだった。でも残念なことにこうして生き残ってしまったの。
警察は生き残りがいるとなれば犯人がまた殺しに来るかもしれない、
それが七歳の少女だっていうんだから尚更、って私の存在を隠してくれた。
馬鹿な大人だと思ったわ。あの事件には生き残りはいないことになった。
だから、生き残りの証言もないことになって、そもそも私はまだ幼い子供だったし、
私の言葉に貴方を捕まえる力はなかった。…でもね、へごみ」
懐から出した銃をひたり、その額へと向ける。
「私、きっと、あの日に死んだんだわ。
ずっとこの世界の色が分からなくて、
貴方が苦しんでいたこの短い時間が、やっと彩られているような気がしてた」
事件があってから守寺家の近隣から人は姿を消した。
人間なんてそんなものだ、呪われたように人が死んでいく一家。
それが人為的なものだと分かれば、巻き込まれないうちに、と逃げていく。
「覚えてるでしょう? 私の目の前で家族を順番に殺していったあの日のこと。
最後に私のお腹を引き裂いて、背中に×印をつけたこと。意味が全然分からなかった。
まぁ、知りたくもないんだけど。…もう、終わらせてあげる」
けれども、用心に越したことはない。銃口につけたサイレンサーをちらりと見やる。
「さよなら」
残されていた死体は無残なものだったという。
『現場にはルート十八万二千三百二十九とだけ残されていまして…これは平方根ですね。
犯人からの何かしらのメッセージでしょうか。これは計算すると…』
呑気なニュースキャスターの声。真剣味を装っても無関係だと思う心が滲み出ている。
「お母さん、お父さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、お祖母ちゃん」
家電店の前を通りすぎて、この町に入ってきた時と同様、誰にも気にされることなく出て行く。
小さな町だった。
すぐにこの事件のことは忘れ去られて、またどうでも良い日常が戻ってくるのだろう。
「敵は、とった、よ」
洫はきっと歩みを止めない。色を失った世界で、唯一見つけた紅を道標に。
20140220
20150309 まとめ