Quatre-Septembre



「もう行ってしまわれるのですか」
隣に腰掛けた黒猫が問うた。
問うたという割りにはその語尾は確信の色をしていて、僕は心を読まれた心地がした。
「それも良いでしょう、此処はそういう場所なのですから」
暗いトンネルの中、がたん、ごとん。
向かいの硝子に映る自分はなんだかとても小さく見える。
黒猫の視線は僕の手の中に注がれていた。
「その眼鏡から見る世界は楽しいでしょう」
使い古した赤縁の眼鏡。
レンズには細かい傷がたくさんあって、
とてもじゃないけれどこれを通して世界など見れないように思えた。
「まるでそれが愚かだと言いたげな口ぶりですね」
ほっほ、と黒猫が笑う。
「申し訳ありません。
しかし貴方、少々卑屈になってはいませんか」
こちらを覗きこんだその瞳は、きらきらと宝石のようだった。
黒耀のような静かな煌めきの中に落とされたエメラルド。
海の底に眠る星。
「その眼鏡は貴方が創り出した謂わば貴方そのものなのです。
それを何故愚かなどと言えましょうか。
それはただ、世界をより美しく、より確かに、貴方に届ける素晴らしいものであるのに」
きゅう、と細まる瞳。
がたん、ごとん、それが心臓の鼓動のようで。
「ただ、そうですね。
その眼鏡をかけっぱなしにしてしまうのは、些か勿体ないのでは、とも思うのですよ」
ふい、と黒猫は窓の外へと視線を移した。
硝子を一枚隔てたそこには暗いトンネルの壁があるだけだ。
何を指し示すのか分からない数字や、走り書きの文字がどんどん流れていく。
「その眼鏡は貴方の望む世界を明瞭に映すでしょう。
では、そうでないものは？」
クリアに広がる視界、ふと逸らした先。
眼鏡のその赤い縁から外れた知らない世界。
「そうでないものは、眼鏡を外さねば見えないのです。
見たいものが明瞭である限り、その他は曖昧にならざるを得ない」
ゆるり、黒猫が微笑んだのが分かった。
「少し、眼鏡を外して違うものをぼんやりと見ることも、良いと私は思うのです。
―――貴方が、此処でしていたように」
また硝子に目をやる。
ほっそりとした輪郭がゆらゆらと揺れて、それでもさっきよりは心許なげには見えなかった。
明るさが目に染みる。
「此処は永遠に繰り返す九月の四分の一、終わることのない九月四日。
貴方に良い未来が訪れますことを」
何処からともなく車掌の帽子を取り出し、黒猫は去って行く。
がたり、と地面が揺れて、駅についたことを知らせていた。

三号線、寂れた駅へと駆け下りる。
湿気のない空気が頬を擽る。

秋の香りがした。



＃非公式ＲＴしたフォロワーさんのイメージでSSを一本書く
イメージ：めとろさん