20081003はね 少女はただ独りで歩いていた。 そこには誰もいない。 少女だけが、ただ歩いていく。 その現実だけが、少女の周りで唯一確かなものだった。 跣の足に触れる水面も、爪先が離れる際に飛び散る飛沫も、 少女にとっては空虚なものに過ぎない。 自らの影や、歩いてきた証である水紋の足跡でさえ、 少女からすれば信じられるものではなかった。 少女が背中に異変を感じたのは、歩き続けて随分経った頃だった。 疼きと共に表皮を突き破り、ふっくらと芽吹いた小さなもの。 それは、鳥が持つそれによく似ているように思えた。 少女は自分の背中を覗く術を持たない。 水面は少女が歩みを止めないために、絶えず揺れ動き、 鏡になるには落ち着きが足りない。 少女は最初こそむず痒さを感じたものの、そのうち何も感じなくなった。 少女に記憶はない。 強いて言うのなら、特別な感情もすぐに消えていく。 ほとんど無いに等しいと言えるのだろう。 少女は記憶の無いことを訝しく思うことも忘れた。 その記憶が、または感情が、何処へいくのか、少女は知っていたように思える。 しかし、少女にとってはどうでも良いことのようであった。 少女に刻まれたことは、ただ進むこと。 この誰もいない、水面だけの世界。 音も息を潜めるような世界で、ただひたすらに進むこと。 それだけ。 少女は背中の異変を、異変と感じなくなり、そしてまたその元、異変であったものが、 元々あったものとして少女の中で存在を位置づけようとし始めた頃。 少女ははじめて、冷たさを感じた。 それは少女の頭上、高く高く、見えない程高い処から降り注いでいるようだった。 少女が知る単語で表すのなら、それは、雨。 透き通る、形を定まらせない水晶のような雫は、少女の異変にそっと触れた。 やさしく、それはまるで母親が初めて我が子の頬に触れるように、 死した愛犬の腹から、新たなる命を掬い上げるように。 触れられた少女の異変は、突如生き物のように身を震わし、 そして少女は自分の保ってきたバランス、 または、護ってきた何かというようなものが、崩れるのを感じた。 初めて、少女は歩みを止めた。 反動が少女を蹲らせる。 少女の異変は、少女の背中で大きく開いた。 黒い、真っ黒な、はね。 少女は初めて見るそれに不思議な表情をして、それから。 水面には、黒いはねが一枚堕ちていた。 誰もいない世界、水面だけの世界、音が呼吸を奪われる世界。 それは、涙を啜る哀しみのように。