一籠目 気が付けば、いつも隣にサト兄がいた。サト兄は年々奇麗(格好いい、ではない)になっていって、周りには女の子もたくさんで。妬みとか嫉妬とかなかった訳じゃないけれど、そのうちにサト兄の周りに女の子がいると言うことは、日常になっていった。 「サヤカ」 サト兄が呼ぶ度、私は幸せになれた。本当の名前はサヤだとか、そんなことはどうでも良かった。ただ名前を呼ばれる時は、サト兄は私だけを視てくれている。そう感じていた。 だけれど私が大きくなるにつれて、サト兄も大きくなって、私が子供の域を出ないうちに、サト兄は大人の仲間入りをした。どんどん離れていく感覚があった。 パキン、と。頭の何処かで警告音を聞いた。 「サト兄」 「サヤカ、また今度ね」 あ、また隣の女の人が違う。私は思う。この前見た時は真っ赤なルージュをひいた女の人だったけれど、今日は向日葵と麦わら帽子の似合いそうなワンピースの人だ。女の人は妹? なんて聞いている。まぁ、そんなもん。サト兄が答えを濁す。 パキン。また何処かで音がした。私は二人が見えなくなるまで―――どうせデートだろう。喫茶店、映画館、遊園地、もしかしたら夜まで帰ってこなかったりして―――家の前に立っていたが見えなくなった途端、バタン! と音を立てて、家のドアを閉めた。 夜になるまで、ずっと部屋に籠もっていた。 「サヤーご飯よー」 母親の呼ぶ声がしたけれど、無視した。階段を上がる音がして、扉から母親が顔を出したから、要らないと一言言ってやったら、母親も納得したようだった。 暗くなって、月が出て、雲に隠れてまた出てきて。繰り返して繰り返して繰り返して。 やっと、サト兄が帰ってきた。女の人の車で。 女の人は車を降りるサト兄を少し引き止めて、腕をサト兄の首に回して―――キスをした。二つの影はまだ離れない。私は声にならない奇声を上げて、近くにあった石(多分高価なものだ)を窓に投げつけた。ガラス片がバラバラと転がる。音を聞きつけたのか、母親が驚いた顔で上に上がってきた。月の光を受けて、ガラス片が光っていた。 サト兄は、私の――― この光をルナティックと言うのだと、思った。 *** 二籠目 目を瞑るとサト兄のキスシーンが浮かんでくる。どうしようも、出来なかった。眠ることさえ出来ないまま朝を迎える。あぁ、朝陽だ。そう思った時、窓にコツン、と何かが当たった。起き上がってカーテンを開ければ、隣の部屋からサト兄が手を振っていた。急いで窓を開ける。 「明日、空いてる?」 私はサト兄を見つめた。にっこり笑っている。間違いない、同じ顔。昔から見ている、代わらない、サト兄。 「え、と…」 「デートのお誘いってやつだよ。サヤカが一番って、言っただろ?」 変わらない、変わらない、変わらない。永遠なんだ、私たち。サト兄の周りの綺麗に着飾った、でも中身は空っぽか真っ黒な女たちの邪気に、やられた訳じゃなかったんだ。 「…それとも、俺とじゃ、ヤだ?」 「ううん! そんなことない!」 私は間髪入れずに返す。 「明日、空いてるよ」 本当は空いていないのだけれど、空ければ良いだけの話。どうせ友達との“上辺だけ”の付き合いだ。急用が入った、その一言でキャンセル出来る。私の中の優先順位は、何も敵わない程サト兄が一番。 「じゃあ、明日の夜七時、迎えに行くから」 サト兄は笑った。私も笑った。 変わってない、変わっていない、変わってない。永遠の愛。 私は部屋にいた日本人形の手を取って、狂ったように部屋中を回った。 「ねぇ、アントワネット。私、サト兄とデートに行けるのよ! サト兄が誘ってくれたの!!」 私は日本人形に話しかける。 「あの、雌豚たちに勝ったのよ!!」 幾ら着飾っても、サト兄の目は誤魔化されない。 サト兄は神なんだ。だから、全部お見通し。 日本人形も、私を祝福してくれているような気がした。 *** 三籠目 サト兄とか約束の時間は早くやって来た。楽しみなことの前は時間の流れは遅いと聞いているが、私とサト兄は違うらしい。 七時。ちょうどぴったり。 「ごめんください。サヤカ、いますか?」 愛しい、愛しい、声。 私はすぐに降りていった。サト兄は私を笑顔で迎えてくれる。 「行こうか」 「うん」 玄関を出て、サト兄は車を指差した。 「借りてきたんだ。サヤカの為に」 サト兄が言うと、どんなお決まりの台詞もキマって聞こえる。 「ありがと」 私がはにかみながらそう告げれば、サト兄は耳元に唇を寄せて、 「今日は一段と可愛いけど、それは、俺の為?」 少し意地悪を含んだその声も、好き。そうだよ、と小さく返せば、サト兄は嬉しそうに笑う。私も嬉しくて、昔のようにサト兄の腰に抱きついた。変わらない。 車に乗った途端、サト兄は手を伸ばしてきた。あ、爪が伸びてる。そう思った瞬間、 「ッ」 「サヤカ」 サト兄の長い爪が私の腕を滑った。赤い線が出来る。 「サヤカは…分かってくれるよな」 「…分かってるよ」 私は恍惚とした表情でサト兄を見た。サト兄の言葉は、誰かが分かってくれなかったともとれたが、今は気にしないことにした。 これは、サト兄の愛の証。 車を走らせて少しして。 「サヤカ」 サト兄は何度も何度も私を呼んだ。身体に幾多の赤い線が浮かび上がる。 「サヤカ」 「サト兄…」 痛みだけが私を支配していた。それは快感にも少し似ていて、愛しさは、もう、敵わない。 それでも。 「サト兄、大好き」 もしもこのまま夜が明けると言うのなら。 「サト兄…」 「サヤカ、もう帰らなくちゃ」 私はサト兄の手を引く。いつか女の人(昨日だったかもしれない…他の女のことなんか、私は本当はどうでも良い)の真似。触れるだけのキス。あの人のは、もっと深かったかもしれないけれど。 「愛してる」 二人で囁き合う。 あの部屋で一人になるくらいなら、サト兄が他の人に会うくらいなら、今ごと壊れてしまえば良かったのに。 *** 四籠目 家に帰った私はアルバムを取り出した。虚像でも良い、サト兄に会っていたかった。記録された過去はもう変わらない。アルバムは私が生まれた時からサト兄を隣に置いている。ただひたすらに、それしか赦さないかのように。例え今サト兄が他の人と会っていても、虚像は絶対に私から離れていかない。他の女とキスしたり、しない。 並んで立つ写真。指切りする写真。手を繋ぐ写真。抱き締め合う写真。見つめ合う写真。―――キスする、写真。 虚像の私たちは永遠だ。でも、私もサト兄も(サト兄は違うかもしれない。神だから)永遠ではないのかもしれない。人間は壊れ往く存在。私がいくらサト兄を愛していても、人間以外にはなれない。神であるサト兄の隣に、並べない。 私をこの無限ループから救えるのはたった一人。私の王子様であるサト兄だけ。だから叫んで欲しい、「愛してる」って。それだけで構わない。それで、私を永遠から救って欲しかった。 サト兄の声で、神の声で、私を、永遠のものに。 私はふと鏡を見た。古い鏡。幾つも入っているヒビが、私を醜くさせる。サト兄が付けた痕も一緒に映しているというのに、私は美しくならない。私は鏡を叩いた。意外にも硬くて、私は手に痛みが鈍く広がるのを感じる。サト兄から与えられる痛みは快感にさえ成り果てると言うのに、これは嫌悪感しか生まない。 ヒビが私を貶めているのか、それとも、私はあの、サト兄に群がっていた意地汚い女たちと同じだったのか? 完全にヒビの所為にするための言い訳も思い付かず、私は唇を噛んだ。 叫び声も、今はサト兄に届かない気がした。 矛盾だらけなことは百も承知。 誰がサト兄を愛したのか。 誰がサト兄と私を会わせたのか。 誰がサト兄を――― 神、と、したのか。 *** 五籠目 次の日、夜遅く。 サト兄は私の部屋にやって来た。窓を伝って、そっと。 「逃げよう」 サト兄は泣いていた。私はその涙にそっと接吻ける。サト兄の泣いている理由は分からなかった、逃げようと言ったその訳も、私を誘ったのも。それでも私は何も考えずに頷く。私にとって、それがサト兄であることが、全ての説明なのだから。 サト兄は私の手を引いていく。前のように車は使わない。半ば引きずられるように、行き先も分からない。不安などなかった。敢えてあるとすれば、サト兄は壊れてしまわないか、それだけ。 「俺に、言葉を頂戴」 海が見えるところまで来て、サト兄はやっと足を止めた。振り返ったサト兄の顔は、いつもの神なんかじゃなかった。ただの人間。そうか。神様は他にいたのかもしれない。あァ、そう言えば、サト兄を神にしたのは、私だったのかもしれなかった。 私は静かに頷くと、サト兄のその薄い唇を見つめた。 「もう失うものなんてない、って言って」 「もう、失うものなんて、ない」 私は繰り返す。そうすることで、私とサト兄は幸せになれる気がした。サト兄が、がっくりと膝をつく。私はその肩を強く揺さぶる。 「サト兄。大丈夫だよ。もう失うものなんて、何にもないんだから」 がくがくとされるがままのサト兄は、人形みたいだった。神を失ってしまったサト兄。残ったのはきっと、私だけ。何だ、と心の中で呟く。あの穢らわしい女たちはサト兄に宿る神の力に惹かれていただけなのか。神でなくなったサト兄をいとも簡単に見放すなんて、現金な生き物。ずっと“サト兄”を見てきたのは、私だけだったのか。 「信じさせてよ、サヤカ」 力なくサト兄は言う。 「サト兄、全ては狂っているの」 おそらく、サト兄が神でなくなったのも、その所為。 「だから、もう失うものなんて、ないんだよ…」 今の私はサト兄にとってのもの≠ナはない。だから、私を失うことなんて、永遠にあり得ないのだ。 私たちは、逃げてきたんだから。全て、棄てて来たんだから。 サト兄から神を奪った神様は、サト兄を一人にさせないでいてくれれば良かったのに。そして、私をサト兄の傍から引き離してくれれば。 私たちの永遠が、今すぐに、壊れてしまえば―――。 *** title by 鬼束ちひろ 20140920 |