ミントを喰む 

 少し欠けているものを判断するのに必要なのは一体何なのだろう、そんなことを思う。雑踏の中、誰かの笑い声がしている。マックシェイクの新しい味だとか、季節が変わるんだ、と思う。本当は誰も居ないかもしれないのに、ただ只管に俯いてその現実の境界をなかったことにしている。
 此処に、地下鉄はない。
 それを悲しく思えるほどの知性もなかった。頭痛を抑えるための薬を噛み砕いてその甘さに辟易として。良薬口に苦しなんて全部嘘だった、それは誰かが誰かを殺すために吐き出された傲慢さだ。包丁で刺されても文句を言わないように、貴方のためだと笑ってみせる人を可哀想だと思ってやれるように。顔を上げなければ何もないのと同じだった、少しだけノートに書き付けて、それで終わるだけの。すべて幻、痛いのも苦しいのも、全部幻で、それで良かったはずなのに。
「それで良いの?」
テレビの向こうで声がする。同じ顔をしたものがずらっと並んでいる。テレビは鏡ではない、鏡は一人しか映さない、だからそれもこれも全部幻だった。これで良い、これでなくてはいけない。顔を上げてはいけない、何も目に映してはいけない。
 氷の。
 落ちる音がする。
 何も欠けていない証明のために、季節らしいものを買い込んで、その舌を麻痺させていく。

***

雑踏の霜 

 貴方が何か思ったすべてがまるで真っ白なカルピスのように落ちていって、そうしたら貴方の水面(みなも)はもう決してただの水ではなくなって、波紋が広がっては消えていく、わたしたちがなにものにもなれないのに、根底は入り雑じっていく。耳を、澄ませて。それだけのことがいつだって出来ない。

***

翡翠のみらい 

 人間というものが足先から溶けていくとんでもない生き物だということを知っていたように思う。それでも良いや、と思ったのは真夏の思い出があるからだったのかもしれない。扇風機もアイスも風鈴の音も、何もかもが心地好くて美しくて。
「だから、良いよ」
笑う。
「塩酸のプールも、悪くはないよ」
 明日、捨てられる運命でも、それでも鉈で切られるよりはマシな気がしていた。

***

指環 

 貴方が冷たくなっていくのを見て、冷蔵庫は要らないな、と思う。スパークリングワインを買ってみても良かった。空きがあるならそのスペースを、最大限に利用すべきだ。

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三時のしたい 

 指先から君が昇ってくる。ひんやりと、冬と共に。からん、と檸檬の音がしてミントが足りないことを知る。でも僕がそんなもの、入れないことだって君は知っているからただ窓が曇るのを眺めている。

***

明日がまた来るから 

 嘘みたいな日だった、と思う。その日は何もかも疑わなくちゃいけなくて、でも僕にそんな馬鹿な真似は出来なくて。悔しいなあと思う。君のばらまいたソーダ水が坂道を流れて、きっとそのうちに太陽に照りつけられてなんにもなくなって。そういうことを、僕は知っているから。
「ねえ」
君が言う。
 いつもの表情で、君が言う。
「好きだって言ったら、嫌いになってくれる?」
「難しいこと言うね」
「だよね」
明日世界が滅亡したら良いのにな、とは僕も言えずに、ただ未だに取れないビー玉の音を聞いて。
 風が、吹いていた。
 なんてことない、眩しい風だった。



ゆるやかな夏の坂道 木の葉にはひとつも同じ緑はあらず / とかげ

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錆の皮 

 死んでしまおうと思っていたのとは違うのだと思う。

 わたしは、そのひとを初めて見たとき、ああ、憎悪というのはうつくしいのだ、と思ったのだ。その時までわたしは憎悪なんてものは魂についたごみくずのようなもので、人生をすすめるに於いて必要のないものだと思っていた。でも誰かがどうにも出来なくて名前をつけて、それが未だどうにも出来なかったまま残っているだけのはなし、と。つまり、わたしには関係のないものだと思っていたのだ。
 なんてことない、普通の日。
 古びた歩道橋で、手すりの錆をいじっていたそのひとを見るまで、わたしには、まったくもって―――関係のない、ものだった。それは、本当にそうだったのだ。
「不思議なことを言うね」
わたしの言葉を聞いたそのひとは、何の衒いもなくそう呟いた。少し笑っていたかもしれないけれど、多分それは驚いたとか、そういうただの反応に近くて、わたしのことをどうこう思ったのとは違うのだろう。わたしはこれでも目がとてもよくて、そのひとのいじっていた手すりが全然きれいになっていないことにもちゃんと、気がついていた。
「ふしぎなこと?」
わたしは問い返す。いつだか、賢い人間は馬鹿のふりをしたオウムと同じうごきをするのだと聞いた。わたしは問うて、誰かが返す。わたしはなるほど、としみじみ言ったり初めて知ったと喜んでみたり、そういう反応をしてやる。そういうものが、何かを円滑にする。何かは分からなかったけれど。
 そのひとはわたしの遣り口が分かったらしい。
「きみにはそう思えるんだ?」
驚いたように言った。まとめての反応みたいだった。まるで水のような音。こんなにけもののようななりをしているのに、そのひとは何処までもうつくしくて、その原因が憎悪であることが、未だわたしには信じられなかった。
「信じられない方がきっと良いんだよ」
きみは正しい、とそのひとは言う。わたしをこどものように扱うことはしないのに、まるで先生のような顔でそう言ってみせる。
「どうして?」
だからわたしは問う、生徒のような顔をしてみせる。わたしにだって生徒だった頃はあって、だから思い出すのも簡単だった。
「どうしてだろうね」
 そのひとは口をとがらせてみせて、それからもう、何も答えてはくれなかった。
 学校で出される問題には、大抵答えがあったのに。そんなことを思いながら、これじゃあヒットチャートと何も変わらない、とも思う。わたしは、一つ、隔絶した生徒だった。何もかもが、わたしには触れはくれなかった。わたしは何処でだって、一つ、線のこちらがわにいた。
 だから。

 死んでしまおうと思っていたのとは違うのだと思う。

 それでも、その日。
 憎悪を飼い慣らしたうつくしいけものが剥げなかった錆を、わたしは上手に剥ぐことができたので、いつかわたしはそのひとを理解するのだろう、と思った。死んでしまおう、と思っていたそのひとが、その日は死んでしまわなかったみたいに、わたしが何の変哲もなく死んでしまうようなことだってあり得るのだろう、と知ったのだ。

***

日曜日の朝 

 額縁みたいだ、と言ってみせたらとなりのこどもはきゃらきゃらと笑って、そうね、と言った。それは多分、言わせた言葉だった。何処に行くことも出来ないこの電車に乗り込んで、何が変わることもないと分かっているのに。
「でも、笑って欲しい訳じゃあなかったんでしょう?」
こどもは分かっているという顔で言う。そのとおりではあった、笑って欲しくて言った訳じゃない。ただ本当に、額縁みたいだと思ったから言ってみただけの話。
 なら良いじゃない、と似合わない赤い靴が視界をはためいていた。そんなものは幻想だった。いつだってはだしのこどもは、いつ死んだっておかしくなかった。
―――この手で、
殺してあげられれば良かったのに。
 きっと、それがこの世界のハッピーエンドだった。
 どれだけ間違っていても、ただのエラーにしかならなくても。そうすることで何かが終わるなら、そうしてやるべきだった。



お題「車窓」

***

百年 

 私のことなんて呼びたい? なんてきっと熱に浮かされていたのだろう、なんて呼んで欲しい? なんて返されて、リリー、と言って。馬鹿な遊びだった、遊びに馬鹿も何もないのかもしれなかったけれど。
「その歌、知ってる」
「そう」
「良いの、リリーで」
「だって、貴方置いていくでしょう」
貴方は私のオレンジじゃないもの、と言ったらそれは知らない、と返された。知らなくて良い、と返した。
 これはただの遊びで、私は馬鹿で、でもきっと、このひどく目の綺麗な人はそうではなくて。
「オレンジじゃあなくて良いの」
腐ってしまったら困るから、私はリリーのままで良かった。



お題「港町」

***

反骨精神 

 運命の赤い糸だとか、そいつの言っていたことは一切合切理解なんてしてやりたくはなかった。でも今手を伸ばさなければ何も変わらない、ただの日常に戻ってしまうことは分かりきっていて。
「い、痛いんだけど」
「羽根って掴めるんだ…」
「天使のこと何だと思ってんの!?」
「だから、コスプレかと」
マジだったんだ、とは言ってみたものの、これが妄想や幻覚の類ではないことを誰も証明出来やしないだろう。
「いや、何」
「行って欲しくなかったから」
「えっと、あのさあ、こっちは天使でお前は人間で、でもなんか間違って赤い糸が結ばれちゃったから切りに来たって説明したし今切ったと思うんだけど」
「でもそれって絶対に守らなきゃならないとは言ってなかったじゃん」
「うん?」
「お前たちの言葉で言うならさ、」
―――これが運命ってことでよくない?
 そう呟いてみせたら、よくない…、とヒかれた顔で返された。



お題「掴み取る」



20210303