潮騒の音(ね)は笛にならない がりがりがりがり、と手首を掻いている。発疹も何もない、痒い訳でもない。ただ、掻いている。それが使命のように。 「そういうのって、そのために作られたキャラクターがやるモンじゃあない訳」 せせら笑うような音がしていた。海の音に似ていた。そうかもしれないな、と返す。それは何処か夢見心地だ。この、話し掛けてくる妙に正しそうな顔をした男が、大人のかたちをしたそれが、この現実においてそぐうものかどうかなど、俺には分からないのだ。 ―――だって、俺は失敗作だから。 「いるじゃん、いるでしょ、水宮かがみ。忘れたとは言わせねえよ。消える名前だったくせに、失くなる予定だったくせに、息吹き返して、ひでえ話だよな。死んでた方が絶対楽だったのに、ピンクだからだめだったんだよ、お前も分かってるだろ」 「分からない」 「いいや、お前は分かってる。分かってて分かってないふりをすることを選んでるんだよ」 物書きは不幸でいなくてはいけないだっけ? いつかのコメント欄が蘇る。 ―――貴方は幸せになるべきです。 それが、どれほどに悍ましい言葉なのか、説明する術を持たないまま、ここまで来てしまった。 「…お前、海、好き?」 「嫌い」 「だろうなあ」 「だってお前、死なねえし」 「うん」 「死なねえから、ずっと此処にいるし」 「脚があるくせに」 「カッターだって、ずっと、ピンクで」 もっとなんかあっただろ、と言われる。でも掃除機のコードだってなんだって、全部失敗したんだからもうそういうことだった。本当は死ぬ気がないのか、それとも単に全部下手くそなのか、分からない。分かりたくもない。ただ、こうしてがりがりがりがり、と手首を掻いていることだけが現実だ。 すう、と。 擦れて赤くなった肌に、真っ白な線が浮かび上がった。 それがまるで車道外側線のようで笑ってしまった。 *** むらさきに蘇って 不思議なものだな、と思う。僕は目の雨の植物がずっとトマトに見えて仕方ないのに、どうやら人間というものは他のものが気になるらしい。もっと陽に当たらないと、とやけに真面目な顔で言ってきたのはいつだって人を貶めては遊んでいる無邪気な人間だった。否、貶めているつもりはないのだろう。だってそれが彼の無邪気なのだから、彼はただ、彼がしたいようにしているだけで、其処に悪意が伴うことなど思ってもみないのだろう。 陽には、当たっているのだと僕は手のひらを差し出す。これは手のひらだけでも陽に当ててれば良い、という僕に都合の良い情報を呑み込んで言っていることだったが、彼にとっては宇宙人のような言葉を話したように聞こえたらしい。無理もない。そういう生き物だった、僕と彼は一生分かり合うことはしない、出来ない。だから彼はあれをトマトとは思わない。何だって良いだろう、とだけ言うのだ。 「痛いよ」 彼の指が葉をもぎ取ったものだから、そう言ってみせたら、これから食べるものなのに痛いもの何もあるものか、と言われた。それでも彼がいつものように怒ってみせないので、ひどく、つまらなかった。 *** 賞味期限切れ もういいか、と思った。それはホームに風が吹くように突然で当然に起こった思考で、いつかどうせ来るものだった。避けられないもの。誰もが無視していただけで。学生証を見る。私のブランドを保証するもの。三年で切れるもの。でも制服を着ていれば誤魔化されると、信じている人もいる。 「みんな、馬鹿になりたいんだよね」 分かるよ、というのは嘯くだった。もう私には分からないことだから。 風が、吹いて。 私の手から学生証が飛んでいった。多分車輪に巻き込まれてぐちゃぐちゃにはなってくれないけれど、本来そうなるべきものだった。 * しわくちゃのスカート脱いで姿見の中のわたしはとってもきれい / 黒木うめ *** パンドラ 手首が痒くなるたびにぎりぎりまで短く切った爪が必死に肌を引っ掻いて血を出して其処にある失敗の痕を浮き彫りにする。それに意味があるのか、なんて誰も知らないまま夜は更けていく。 *** ろくがつ ぱたぱたと廊下で音がしている。ずっと後ろにいると主張するような音。どう足掻いても視えやしないのに、視えないものはいないのに。どうにも出来ないまま、窓の外の打ち付ける雨を眺めている。 *** 穴の先、井戸の底 幼い頃、庭の穴にうさぎが落ちていったのを見た。けれどもそれを主張すれば頭のおかしな子と言われることは分かっていたから、いい子の俺はそれを口にしなかった。 「ヒステリックな母親を持つと大変ね」 訳知り顔でそんなことを言うクラスメイトを、睨み付けたら良かったのか。正しいのが何なのか、この夕陽に染まる教室では分からない。 「母親とは一言も言ってない」 「でも母親でしょう」 「それは俺の家庭の事情を聞いたからそう言ってみせるだけだ」 「でも、母親、でしょう」 なんの変哲もない、強くもない、もっと言うなら俺に興味なんてなさそうな目が俺を映している。いる、のに俺を見てはいない。こういうところが嫌いだ。 「自分を苦しめていた存在がいなくなったから、うさぎの話をしてくれたの」 「思い出しただけだ」 「解放されたから思い出せたの」 「ただの暇つぶしだ」 「セックスしたのに?」 「お前に何が分かる」 「分からないけど、自殺なんだからもっと喜べば良いのに」 そんなに避けるほどのことかなあ、と間延びした声が響く。影のように伸びていく。 「足の裏の感覚なんて、もう忘れたんでしょう?」 なら良いじゃん、と言ってみせる、そういうところも嫌いだった。 * 裏庭の十字架の下碧眼の男は思索をなおも続ける / とかげ *** 不燃ゴミ 世界なんてはやくはやく終わってしまうべきだったんだ、と粉々になった硝子片。見て思う。本当ならこれが目に映る前にどうにかすべきだった。 「絶望ってたぶん、こういうことを言うんだね」 君が必死でかき集める硝子片は、勿論鋭利で君の手を傷付けるのに。 血で、染まっていく。 それを差し出されてももう、この背中に羽根は戻らないのに。 「愛したかったんだよ」 君の過去形の言葉を痛いと感じられるのだけが、たぶん、救いだった。 * 七人の天使がらっぱを吹き鳴らす日のこと 遠い終末を恋う / とかげ *** きみと溺死 *スイムスイム 思い出を抱いたまま死んでしまえたら、ああ、どんなに美しいだろう、と思う。この身体は醜いほどに息をして、心臓を動かして、肺から水を追い出して。それが、とてつもなく悲しいのに。 「悲しくないよ」 何が悲しいって言うんだよ、そんなことを言う目はひどく透き通っている。 裏切り者のソーダ水みたいに、夏を、終わらせてしまう。ああ、ひどい話だ、生きている限りこの距離は開き続けて、どうしようもないのに。 「殺してもくれないくせに、そんなことばかり言うんだな」 そんなふうに笑ってみせても、殴ってすらくれないのなら。 * 飴玉 @odai_amedamabot *** きみの方舟 此処には何もない。 何もない、ので、どうせなら、とその辺に落ちているものを詰め込む作業をしている。普通は泣くのかもしれなかったけれど、本当に何もないとそういうことも出来ない。幼いこどもの顔をしたわたしがずっと立ち尽くして、時折思い出したように笑う顔をつくる。わたしはそういうことの出来るこどもだった、そういういきものだった。だからと言って誰かとまったくもって違う訳ではなく、だからこうして表皮を纏って、立っている。歩いているふりをしながら、止まっている、停滞している。何処にも行けないことを知っているから、知らないふりをしてみせる。無垢の真似事をしてみせる。この背中から羽根が生えてこないことを知りながらわたしはいつかたまごを割って出てきたのだと嘯いてみせる。 此処には何もない。 少しの状況証拠のように、破片をばらまいて、わたしは言葉を詰め込んでいく。死体も、詰め込んでいく。もの言わぬわたし、わたしだったもの。詰め込んで、笑う顔をつくる。此処には何もないから、何を押し込んでも良かった。何をしまっても良かった。わたしだけのたからばこ。がらくたの墓場。この世界を愛しているのか分からないままそれを問うようなことを続けている、喉を貫かれ飽きもせずに死んでいく、わたしのはじまりの場所。 此処には。 何も、ない。 *** 豪雨の午後 洗濯機の中にいる、生まれる前のこどものような顔をして、私たちはただ丸まっている。布団の上で、万年床にもなりきれなかった場所で。誰にも観測されずに私たちはいる、死体になって、起き上がって、その繰り返し。どうしようも出来ない馬鹿馬鹿しさを愛しているとでも言うように、私たちは空を見上げる。この心は盗んだものか、私のものではないのか、誰かの影を持ったままの私は本当に私か。私の答えは何処まで行っても出ない、私が納得するか納得したふりをするしかない、そのことを悲しいと思ってはいけないような気がして、この涙腺が終わってしまったもので良かったのだと、そんなことを思う。 20210303 |