心臓の蝶 

 あ、息が変ななりそう。
 市来冬弥(いちきとうや)はそう思った。この言葉は彼自身が良く使うものであり、意味は呼吸がおかしくなりそう、だ。
 冬弥の呼吸がおかしくなり始めたのは、この春のことだった。あまりの胸の痛みに病院に行けば、「過呼吸症候群ですね」そうさらっと言われた。良く分からないが小さな機械を指先に付けて、出てきた数値を見て「これじゃあ多いよ、大分苦しいだろうね」何が多いのか全く分からなかったが、とりあえず苦しかったので頷いた。先生はビニール袋をくれた。使い方は分かっている。口に当ててその中でだけ呼吸すれば良い。友人・尚那(ひさな)も同じことをしていた。いつもビニール袋を持ち歩いていたのは冬弥。思い出しながらゆっくり呼吸すれば、簡単に苦しさは消えた。「一応安定剤を出しておくね」先生はそう言って、冬弥は診察室を出た。
 後に親が受けた説明は、パニック障害だと言う。冬弥とは違うことを説明されたらしかったけれど、どうにも詳しく聞く気にはなれなかった。自分の身体のことなのに、別に死に直結はしないと知っていたからかもしれない。息がおかしくなって、それで。それで、何だと言うのだろう。息がおかしくなっても冬弥はこうして生きているし、苦しいだけで、それ以上は何もない。周りは心配するかもしれないけれど、冬弥はもう、対処法を知ってしまっている。それに、病名こそ聞いてはいたが、いまいちピンと来ないのが現状だった。冬弥の脳は何かパニックを起こして、それが身体に伝播してだから息が可笑しくなるのだと、そんなことがあり得るのだろうか、と思った。あんなふうに指を機会に挟むだけで何が分かると言うのか。尚那もまた、そんなことをしていたのだろうか。分からないな、と思いながら病院をあとにする。「母さん、ちゃんと勉強するから…」母がどうしてこんなに真っ青なのか、理由を知っていたけれども冬弥は本当のことを知っていた。だからそんなに青くなることもしなかったし、母の心配よりもずっと、来週から始まる新しい生活の方が気がかりだった。
 来週から。
 冬弥は高校生になる。少し遠いその学校へと行くこと、そしてこのタイミングでこんなふうになったこと。
「…呪いかな」
制服を着て一人で笑ってみたら、鏡の中の冬弥はなんだかとても悪役のように見えた。

 桜の散り終わった校門を通り過ぎる。友人と少し会話をしただけで、あとは教科書をもらって帰るだけ。特に可もなく不可もない高校。学力に見合った、と言えば聞こえは良いのかもしれなかったけれど。これから三年間、これと付き合っていくのだろうな、と思った。制服のブレザーの左胸にはポケットがあって、校章が刺繍されていた。それがまるで、心臓の上にとまっているみたいで不吉だ。本当は、尚那だって隣にいたはずなのに。何でも冬弥の真似をしたがる尚那の未来なんて、想像に難くなかった。そんなことを考えていたからだろう、息が。
「―――」
すう、と周りに分からないように呼吸をする。吐くことに集中する、それだけで劇的に変わる。分かっていなかったのは幼かったからだ。出来ないと思ってしまえば涙が出て来て、それで悪化する、ただそれだけの話。でもそれだけのことが出来なくなるから病院で診断なんてされるのだろう、とも思う。今まで簡単に出来ていたことが出来なくなる。それがどんなに怖いことなのか、冬弥には分からなかった。こうして自分がなってみても分からなかった。
 罰、と思っているからかもしれない。尚那からの罰なのだと。あの尚那にそんなことが出来るはずがないのを分かっていて、冬弥はそうであれば良いと思っている。その方が良いと、その方が好都合だと。
 そんな思考を邪魔するように、トン、と誰かが後ろからぶつかった。
「あ、悪い」
「こっちこそ、立ち止まって…」
振り返る。呼吸はもう落ち着いていた。落ち着いていた、のに。
 同じ顔。
 胸がどくん、と疼いた。
「―――名前は?」
「めぐり」
一度冬弥の顔を確認するように、或いはその存在を目に焼き付けるかのように、
「めぐり、ひやさ」
同じ制服を着た、同級生はそう言った。

 顔を確認したということはさっきの同級生は冬弥のことを知っているのだろう。だから、一度、三栗(めぐり)のところでためたのだ。自分を尚那と勘違いしたら良いとでも思ったのか。でも決定的に違うところがあった。もしも尚那が冬弥の隣にいるのだとしたらそれはきっと冬弥と同じ制服ではなく、スカートだったはずだから。
 同級生は、間違いなくズボンを履いていた。冬弥と同じもの。ちなみに同級生、というのは校章の色で判断した。冬弥と同じ銀色の蝶。心臓を圧迫する、蝶。黄色だったら良かったのに、と思う。黄色だったら、尚那の好きな色だったから。
 あの同級生のことを、母親に聞く訳にはいかなかった。あの頃は幼かったから、三栗家の親戚関係まで把握なんて出来ていなかったけれど、あれだけ顔が似ていて血縁でない訳がないだろう。それに、ひさやと名乗った同級生は冬弥をひどく憎んでいるような顔をしていた。ならば、尚那のことだって知っていると思っても良い。原因まで。だからこそ、あんな顔が出来るのだろう。
―――さて、どうするかな。
他人事のように思っても、結局解決法は浮かばなかった。尚那のことを思い出す。忘れたことなどないけれど、きっと向こうは忘れていると思っていたのだろう。だから冬弥の反応が気に食わなかったはずだ。
「なら、勝手に向こうから動くか」
校章を撫でながら、そんなことを呟く。
 憎まれていてもそれはそれで良かった。冬弥には関係のないことで、その関係も分からない同級生の問題だったのだから。尚那の好きだったパインジュースを飲んで、それから学校に行く。
「いってきます、尚那」
 息は、今日も変ななっていた。

 同級生はどうやら別のクラスだったらしく、ある日突然放課後呼び出された。特に何を問うでもなくついていくと、何でだよ、と怒鳴られた。
「それは、何に対して?」
「俺がなんでお前に絡むかとか、そういう…」
「絡んでる自覚あったんだ」
「他人事みたいに」
「実際他人事だろ」
お前は尚那じゃない、と言えたらどんなに良かったのだろう。彼の胸にある校章の色が憎い。あと一学年下に生まれていればあれは黄色だったのに、と思うとままならないなあ、と思う。
「そもそも俺は君がどうして俺に絡んでくるのか、答え合わせをされていない」
「見たままだよ」
「尚那に兄弟姉妹はいない」
「姉妹って今必要だったか?」
「君が男装していないという決定的証拠はないだろう」
「お前より背が高い」
「俺より背が高い女子なんて幾らでもいる」
冬弥の身長は平均だった。だから、本当に背の高い女子なんて幾らでもいる。でも、本当にそう思って言った訳じゃない。そう言った方が彼は怒ると思ったから。
「…三栗陽莢(ひやさ)だ」
「ひさやじゃなくて?」
「ひやさ」
「呼びにく…」
「お前に言われるようなことじゃない」
 そうやって話を続けると、どうやら陽莢は尚那の従兄弟、らしかった。それにしては記憶にないけれど、と冬弥が思ったのが伝わったのか、小さい頃は別の県にいた、と言われた。本家の方、と言われて田舎だな、と思う。そういえば尚那も夏になると毎年旅行に出掛けていた。冬弥も一緒に来て、と言われたこともあるけれどもそれは親が断っていたのを覚えている。あれはきっと、行ったら行ったで面倒なことに巻き込まれると分かっていたからなのだろう。まあ、行かなくても面倒なことには巻き込まれたのだけれど。
「それが、言いたかっただけだから」
「そう」
「もっとお前、何かないのか」
「君が何者か分かって良かった」
聞けないからな、とは続けない。こちらの手札を晒す必要はない。ただ只管に早く帰ってパインジュースが飲みたかった。昔から変わらないパッケージ。潰れやすい紙のパックを、どうやって上手く飲むか、競争する相手はもういないけれど。
 陽莢は何をしに来たのだろう、結局それは分からなかった。自己紹介をして、自分の立場を明かして、でも何もしない、言わないままじゃあ、と手を振った。これではまるで友人のようだ。そんなことはないはずなのに。じくじく、と胸が痛む。息が変ななる前兆。でも陽莢の前ではしてやらない。息を吐く。遣り方は知っている。もう子供ではないのだ、だから同じにはならない。
 陽莢は気付かなかったのだと思う。だからそのまま遠ざかっていった。それを見送ってからトイレに駆け込む。便座を抱え込んで、吐くものもないのにかき集めた唾液を零す。
 どっどっどっど、と心臓が脈打って、手足の末端が痺れていった。床に倒れ込まないようにと身体を器用に壁につっかっけて、冬弥は少しだけ意識を飛ばした。

 それから度々陽莢は冬弥のところへとやってきた。本当に、まるで友人のように。陽莢はいちごオレが好きなようだった、こんなに似ているのに尚那とは違うんだな、と思う。違う人間なのだから当たり前なのかもしれなかった。
 冬弥には冬弥でクラスに友人はいたし、陽莢にもいたのだろうけれども、それとは違った空気が流れていた。これを冬弥は何と呼ぶのか知っていたが、言葉にすることはしなかった。陽莢がどうして冬弥のところへと来るのか分からない以上、進むべきではないのだ。停滞。この関係はそれだけだ。尚那の名前はあれから一度も出なかった。出したら殺す、と言った顔で見られれば冬弥とて気を遣うくらいは出来る。
 陽莢に会う度に冬弥の症状は重くなっていった。それでも陽莢の前では見せてなるものかと耐えた。根性論でどうにかなるようなものではないはずだが、それでもどうにかした。精神由来のものなら精神で太刀打ち出来るはずだと、そんなクソみたいな理論が今、冬弥の身体の中ではまかり通っていた。でもそれで良かった、病院に行く度に嫌なことはないかと聞かれても、特に何も答えなかった。言いたくない訳じゃない、ただ、別に陽莢との時間が嫌な訳ではなかったから。
 ただ、本当に。
 校章が黄色でないことだけが、嫌だった。
 そんなことが続いて、季節が巡って夏になる。未だ冬弥の症状に改善は見られず、母親からは学校を休んだらどうかと言われるほどになっていた。それでも冬弥は休まなかった。休んだら、きっと陽莢にバレると思ったから。
 けれども身体には限界がある。いつまでも無理が勝ち続けてしまえることがないように。
 それは突然だった。何の前触れもなかった。今までは徐々に息が変ななっていく過程があったのに、その日は心臓がひっくり返るような心地に襲われて。まずい、と思った。だって今は、陽莢がいるのに。たたらを踏む、否、踏めなかった。階段に、身体が放り出される。
「―――ッ」
重力に従って、冬弥の身体が沈み込んだ。
「…な…っ」
陽莢の見開いた目がちらりと見える。まずい、と思った時は何時だって遅い。冬弥は思った。これは陽莢が今、まずい、と思っただろうことについての思考だった。あの時だって、まずい、とは思ったのだ。でも、能力的な面と、予想だにしない出来事、という組み合わせで、あの時の冬弥は何も出来なかった。
 幼かった、と言えばそうだっただろう。でも、それは言い訳にはならない。冬弥も言い訳にはしない。コントロールの効かなくなった呼吸が唾液を撒き散らして、それから落ちていく。落下。怖くはなかった。でも、重ねるが身体は限界で。
「―――ひ、」
最後に呼んだのがどちらの名前だったのか、冬弥はよく分かっていた。

 気が付くと見知った天井だった。保健室。入学と同時にこうなった冬弥はよくお世話になっていた。手際が良いのね、と褒められたこともある。これを褒められたに分類して良いのか分からないが。でも、どうして此処にいるのだろう。最後に一緒にいたのは陽莢なのに。不思議に思ってカーテンを開けると、あら、と保健教師が笑いかけて来た。
「俺…」
「階段から落ちかけたのよ。覚えてる?」
「覚えています」
でも、どうして此処に。それが知りたいのに。
「特に何処も打っていないけど、心配だったら病院で見てもらってね。あと、それから三栗くんにお礼を言うこと」
「めぐり、」
「三栗くんが君を運んで来てくれたから」
すぐ帰っちゃったけどね、とそれから先の言葉は頭に入って来なかった。
 どくん、と心臓が疼いた。
 蝶に急かされるように。
―――陽莢が?
これは、復讐? 冬弥の頭にはそんな思考が過る。復讐、復讐、復讐、なるほどそれならしっくり来る。ずっと陽莢は文句が言いたかったのだ。復讐がしたかったのだ。でも冬弥があまりにも普通の人間だったから、それも出来なかった。出鼻を挫かれてしまったのかもしれない。しっくり来すぎた。そう、冬弥は絶望の底に居る訳ではない。あの日から、ずっと。いつだって冬弥は絶望とはほど遠い所に居た。尚那が居なくなった時も泣きさえしたが、それはただ友人が居なくなった悲しみによるもの。自分の負への思いなど、これっぽっちだって持ち合わせていなかった。冬弥が悪い、それは分かっている。分かっていても、尚那が居なくなったことを泣く以外で悲しむ以外でどう受け止めたら良いのか分からなかった。後悔、でもしていたら良かったのだろうか。ずっと、引きずっているように見せていれば良かったのだろうか。息がまた、変ななる。目を瞑ったらきっと、そのまま眠りに落ちるのだろう。人はこれを気絶と呼ぶ。
 なのに、閉めたはずのカーテンは開くから。
 銀色の蝶、心臓にとまる蝶。違うのは性別、そして名前。最初の文字だけ同じにするなら全部違うもので構成してくれれば良かったのに。陽莢はどうして尚那に拘るのだろう。もしかして初恋だったのだろうか、それなら確かに、恨むのも頷ける。ついでに言うなら尚那の初恋である冬弥を妬むのも理解に有り余る。
 陽莢は静かに折りたたみ椅子を開いた。保健教師が、少し出てくるから、と言ったのに陽莢が返事をする。
 シン、と落ちた静寂の中で、ああ、やっと答え合わせが出来る、と思った。
「尚那が死んだのはお前の所為だ」
身体が重くて頷くことは出来なかった。目を開けているのも怠いのだ。でも、陽莢がそう言うのは尤もだった。ビニール袋を持ち歩いていたのは冬弥。喧嘩して傍に居なかった、その原因が尚那でも、傍に居なかったことは、冬弥の選んだこと。そんなものを小さな子供に任せていた、大人たちの怠惰と言えばそうだっただろうけれど、紛れもなくそれは冬弥の行動の選択の結果で、その結果に尚那は居なくなった。
「あの日、お前が尚那の傍を離れなきゃ、尚那はお前を追っていったりしなかった。追いつけないことで、パニックに陥ることもなかった。それで、それで息が出来なくて、余計に追い詰められて、あんな所で、眩暈なんか…」
本当のことなど何も分からない。尚那があの時、何を考えていたのかなんて。分かっているのは事実だけ。
 冬弥が見た、光景だけ。
 階段下に向かって勢い良く傾いた身体。呼ばれて振り返る、その視界に映った振ってくる少女。尚那。涙の代わりに笑みが浮かんでいて、手を伸ばして、でも触れ合うことが出来なくて。美しいと思ってしまった、あの瞳を。焼き付いて離れない、光景。残酷とも思えない、誰かがきっと、断罪してくれるのを待っていた。後悔も、絶望も、其処にはなくて。だから一生、冬弥は尚那の幻影と生きていくのだと思っていた。けれど、
「お前は人殺しだ」
冷たい言葉さえも、こんなに。
 喉が乾いていた。でももう、パインジュースは飲みたくなかった。いちごオレが飲みたかった。取り扱い注意の紙パックより、ダサい缶ジュースが良かった。
―――ひ……、
「何だ」
 気付いたら名前を呼んでいる。
―――そんな俺は、
「陽莢」
「だから何だ」
「いちごオレ飲みたい」
「は?」
きっと飲んでもあとで吐くのだろうけれど。冬弥は今初めて、陽莢の前で笑っただろうから。
「だから、いちごオレ」
「…ったく、あとで金返せよ」
「うん」
もう、尚那の名前は呼ばないのだろう、と思った。ビニール袋は自分のものになってしまった。これから一つずつ塗り潰して、そうして生きていく。尚那は居なくなってしまったから、その代わりを冬弥がやるのだ。
 陽莢が保健室から出て行く。その音を聞いてから、冬弥は呟く。
「最低最悪」



20190807