ステイオンザライン 

 がやがやと音がする。隣の部屋の夫婦が殺し合いをしたらしい。どっちが死んだのかは知らなかったけれど。その話を聞いてアパートの前には人が山盛りで、学校から帰って来るのも一苦労。隣の夫婦はいつだって嫌な奴だったし、さっき私を邪魔した報道の人も嫌な奴だった、警察だってそうだし、学校でだっていつもは話し掛けて来ないのに、事件、家近くない? とか。
 人間って、一体何処まで嫌なものになれるんだろう。
「何処までもよ」
鏡の中のあたしが皮肉っぽく笑った。

***

一部列車に部分運休及び遅れが生じております 

 がたんごとん、と音がする、と私は思う。音がすれば良いのにと思っているからこの耳にはその音が聞こえる。なんてことない自己暗示だ、何にもなれない私が何かになろうとして、中学校の制服を引っ張り出して着て、そうして地元線に乗っている。誰も私を気にしない田舎で、私はロングシートに座って時が来るのを待っている。
 眠れば良いのに、と思ったことは何度かある。怖い夢でも良い、次に夢を見たら死ぬようなものでも良い、私は電車に乗っていたかった。次の停車駅がどういうものでも、ひき肉になってしまっても。私はそういうものだった、それしか出来なかった。
「本当に?」
車窓の向こうから誰かが問いかける。それは猿の顔をしていない。雨が降っている。赤い雨が線路脇のあじさいを黄色く染めていく。
「嘘吐きは泥棒の始まりなんだよ」
猿は言う。せめて緑色をしていれば良かったのに。どうにも私は詰めが甘い。そして本当に、何にもなれない。
 アナウンスと、悲鳴のような雑踏の音が消えていった。私は一体これから何処に行くのだろう。赤い雨は止まなかった、電車も止まらなかった。次の駅は表示されない。あじさいは黄色のまま。
 猿はいつの間にかいなくなっていた。
 ひき肉にさえ、私はなれなかった。



最終の電車は不思議な匂いしてたとえば梅雨どきすぎた紫陽花 / 小島なお

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ライティング・グレイト 

 小さい頃は真面にこの歌が歌えなかったな、と思い出した。ばつん、と音がしたのは目の前のことで一体何がいけなかったのか一乗客の私には分からない。でも強いて言うのならきっと何もかもが、なのだろう。何もかも、すべて、だ。私には大した頭はないしだから此処でのんびり座っているのかもしれない。遅刻のメールも打たないで。牧場じゃなくてなんだっけ、今も真面に思い出せない。
 平塚では七夕が鳴っている。

***

天才という生き物 

 天才というのはいつだって残酷だと彼は言う、それがどういうことなのかわたしには分からないでいる。だって天才であったことなどないし、わたしが誰かを天才と思うことはなかったのだから。それを伝えると彼はこれだからと顔をする。
「これだから」
その続きをわたしは知らない。

***

青空 

僕は何度だって君に云う、その羽根は一体いつ
どうして出来たんだい、と。だって昨日の朝ま
で君の背中は真っ平らでそれは背中に限らずお
腹の側もそうであったのだけれどもしかしそれ
は今は置いておいて君の背中には今羽根が生え
ているのだから仕方がない。それも鳥や虫のも
のではなくだからと言って人間たちの妄想する
ような、なんていうと僕が人間ではないようで
はあるが君の背中に生えているものは薄い硝子
のような触れれば今にも折れてしまいそうな、
砕け散ってしまいそうな代物だった。故に僕は
何もすることが出来ずににやにやと笑う君に問
うことしかしない。それに触れてみたり君に触
れてみたり、そういうことは一切出来ない。昨
日の朝に戻りたい。ただひたすらに君が普通の
人間だった昨日の朝に戻りたい。早く起きない
と遅刻しちゃうよ、なんていうべったべたなこ
とをしてくれる幼馴染に戻りたい。頭を抱える
僕に君はあのね、と話し出す。今まで朝から何
度も何度も云っていたのに今やっと、君はそれ
を形にする。これ、生えてるんじゃないのよ、
と。じゃあなんだって云うんだと更に頭を抱え
る僕の元へ、君はいつものように窓を乗り越え
てきて、その羽根で飛ぶこともしないで。
             「刺さってるの」
君が刺したんだよ、君の心が刺したんだよ。君
はずっとそう笑っていた。硝子の羽根は砕けそ
うになかった。

***

何も本物ではないので。 

 冬じゃないみたいだと店先の猫は言った、花屋に似合わないようなぶち猫だった。丸くて、赤や黄色、時折白の混じるふわふわした花に囲まれてまるで店主のようにぶち猫は言う。
「冬じゃなかったらよかったのか」
本物の店主は来ない。花の名前も知らない。君は何も知らないのさ、とぶち猫はしたり顔で言う。本物も何も分からない君が何一つ正しいものを選べないことが、今更何を言い出すんだい、と。
「そんなことは」
反論するとあの棚の中にある特別な香りを君は嗅ぎ分けられるのかと問われた。その昔龍の涎が固まったとされた、それを。君は自分に相応しいものとして選び取れるか? 今は冬じゃあなかった。だから花は揺れている。この鼻を刺激するものは何もない。



なるかみさんは冬だというのに生暖かい雨の降る日、ラナンキュラスが目立つ花屋の店先でアンバーグリスという香料についての話をしてください。
#さみしいなにかをかく
https://shindanmaker.com/595943

***

明日も一日いい天気 

 とてもじゃないけれどもこうして生まれてきたんだよ、なんて言われても信じられない、と彼女は言う。純粋さなど微塵もないような顔で、声で、目線で彼女は言ってみせる。こんなことに意味があるの? と。何が出来るの? と。
「何も出来ないよ」
 そう言ったら、彼女はこちらを向いてくれるのだろうか。



(くれないだろう)



早送りの時のただなか声もなく少女悍馬のごとく上下す / 中澤系

***

 母さんはいつだか僕に、透き通るような子だね、と言った。とても穏やかな笑顔だったから僕はそれが褒め言葉なんだと思って、同じように笑っておいた。

ソンザイ消メツ 

 僕がそれに気付いたのは、ある夕食時のことだった。―――箸が、ない。ついでに言うと茶碗も。大方母さんが片付け忘れたのだろうが、僕には存在を消されていっているような気がしてならなかった。
「母さん?」
声が透き通っているような気がする。
「母さん?」
母さんは僕に気付かない。はな唄を歌いながら洗濯物を取り込んでいく。僕の分は取り込まなかった。それ以前に干されていなかった。洗濯機にも入れられていない。脱衣所に昨日脱いだ状態のまま、放置されているのを見つけた。
「母さん…」
母さんは僕に気付かない。写真立ては伏せられている。
 僕は母さんを呼ぶのを止めた。これは何かの罰なのだ、と思うことにした。例えば、前世とか。そんな突拍子もない話でもなければ、今の僕は自分を保てなかったから。
 良い子供だった、と思う。勿論それはその子供≠ナある僕自身が言う、所謂自己評価にほかならないのだが、それでも母さんと僕はそれなりに仲が良かったと思っていたし、母さんもよく褒めてくれていた。だから、母さんが僕を認識しなくなったのは僕の所為ではないと思いたい。でもどうなんだろう、と僕は思った。もしかしたら本当は僕が何か悪いことをしてしまって、母さんがそんな僕を忘れてやろうと、そんなふうに思って今の状況が生まれたのではないだろうか? 僕は途方に暮れた。友達がいない訳じゃあなかったけれど、僕はこんな時に突拍子もない相談が出来るような友達を持っていなかった。そもそも、その友達だって僕を見ないかもしれない。そうしたら、僕はどうしようも出来なくなる。
 そういう訳で僕はただ黙って生活することを選んだのだけれど、おそらくその予想は当たっていた。学校に行っていないのに、学校から電話が掛かってくることもない。僕のランドセルは次第に埃を被っていった。もう長いこと何も食べていない。お風呂にも入っていない。それでも僕はそのままで、それはあまりに異常だと分かっていた。分かっていたけれども何も出来なかった。
 そしてそんな日々が続いたある日、母さんが今までにないほど大きな声で泣いているのを聞いた。
 床に散らばっている写真。父さんと知らない女の人。ただ、この女の人と一緒に居られるのが嬉しくて幸せでたまらない、というような笑顔をした父さん。女の人も、似たような顔をしていた。
 これが原因か、とは思わなかった。引き金だったのだろうとは思う。だけれど、この全てが父さんの所為だなんてとてもじゃないけれど思えなかった。確かに出張ばかりで家にも殆どいない人だったし、こうして出張先で浮気もしているようだけれど。…もしかしたら、父さんにとってはこっちの方が浮気だったのかもしれない。最初から気持ちのない結婚。両親が恋愛結婚だったなんて話は聞いたことがなかったし、時々家に様子を見に来る人は父さんの上司だ。そういう繋がりだったのだろう。
 だって、僕はこんな風に笑う父さんを、見たことがない。
 ひとしきり大泣きした母さんはそれだけで気が済んだように普通に戻った。前のようにまた僕を見ないまま、生活は進んでいく。何度か興信所を名乗る人と母さんが会っているのを知っていた。それがそのうち弁護士に代わるまで、そう時間はかからなかった。
 久しぶりに家に顔を出した父さんは、いつもと変わらない顔だった。
「別れよう」
神妙な面持ちで父さんが差し出したのは離婚届。
「そうね」
母さんが呟いた。
「子供も出来なかったのだし、私たち、何か間違っていたのかもね」
僕の存在は、母さんの中で跡形もなく消されてしまっていた。
 僕は部屋に戻った。全身の力が抜けていくようだった。僕は一体何だったのだろう?

 本来ならば止めるべき僕の存在は両親には見えず、認識もされない。その所為か、二人の離婚は何事にも阻まれずに進んでいった。母さんは実家に帰るのだと楽しそうに荷物をまとめていく。父さんは元々ここに住んでいなかったようなものだから、まとめるべき荷物もない。僕の部屋は放置されていた。二人はこの部屋を引き払うつもりなのに、僕の荷物はどうする気だろう。このまま放っておいたら次に入ってくる人が困るんじゃないだろうか。それとも、次の人なんか来ずに、このまま僕だけここで時間を止めるのだろうか。何をしたら良いのか分からなかった。このままぼうっと、しているしか。
 そうして母さんの荷物はさっさとまとまって、じゃあさよなら、と母さんは笑顔で言った。とても晴れやかな笑みだった。悲しくなるくらい、嬉しそうだった。僕はさよなら、と言う。僕にしか言えないことだから。
「一緒に、来るか」
母さんを見送った父さんが、ぼそり、と言った。
「母さんはお前を消そうとしている。事実、俺の中からもお前は消えかけていた。このままだと、お前は本当に消えるぞ」
「それでも良いんだ」
僕は言った。
「母さんは間違いなく僕を産んでくれた。もう父さんが母さんを守れないのなら、僕が守るしかないだろ?僕が母さんに産んでもらったことは、事実なんだから、僕は…」
一瞬、自分が蹌踉けたのかと思った。
「そんな顔で、言うな」
父さんは、僕を抱き締めていた。そういうのはきっと、母さんの目の前でやるから意味があったんだろうなあ、と僕は思うけれどももう言わない。父さんにだって言いたいことはたくさんあったけれど、それでも僕は母さんの子供だったから。
 ここで僕が消えてしまっても、僕が母さんに産んでもらったことは、僕が望まれて生まれてきたことは、変わらない。僕はそうしっかり頭に刻んでから、目を閉じた。

***

君の笑顔が見たいから 

 今日何度目かのため息が出た。いや、これが始まったのは今日からではない。ここ一週間はため息を点きっぱなしである。正直馬鹿がつくほど元気で悩み事なんでなさそう〜と言われるのが毎度のことな私がため息なんて吐いていると、周りはやれ天変地異だのやれ明日は槍だの言ったものだが、それが一週間にもなると何も言わなくなった。
 そもそもそんなことを言ってくるのは同じクラスの友達であって、元凶ではないのだ。元凶だって、きっとこんな私を見れば自分が元凶ではないと言わんばかりに笑うのだろうけれども。まあ、元凶と言っても彼女―――茶和(さな)が何かした訳ではなく、ただ単に最近の茶和が元気がなさそうで、無理をしているみたいで、心配でしょうがないという話なのだけれど。
 茶和とは幼稚園からの付き合いで、かれこれ十年以上一緒にいる計算になる。だから何でも分かると思っていた。ずっと一緒にいたから、ずっと隣にいたから、いつだって私は茶和の力になれるものだと思っていた。思っていたのに違った。それは私の自惚れでしかなくて、茶和の悩みの理由を私は何も知らないし、言ってくれることもしないし、そりゃあ無理に聞き出すことはしないけど察してやることも出来ないしで、思い切り凹んだのだ。
 私って、茶和の親友なんじゃなかったっけ。
「あれ、めっずらし。美音里(みおり)がため息なんて吐いてる」
「………茶和」
べしん、と背中を叩かれて振り返ればいつもどおり、と言ったような顔をした茶和がいた。クラスが違っても、部活に入っていない私たちは一緒に帰っている。今日は茶和が委員会の仕事があったから、私がクラスで待っていただけ。
「何、どしたの。明日雨?」
槍より良いのだろうか。
 茶和は何も知らない。私が日中ずうっとため息を吐いていることも、それが茶和が心配なのと、自分が不甲斐ないのを知ったからなのと。だって私が茶和のことを分からないのだからきっと、茶和だって私のことを分からない。
 茶和は笑っている。いつもどおりにしようとして、でも無理をしているのが手に取るように分かる顔で、笑っている。
「アンタにため息なんて似合わないよー」
あんたにだって無理した笑顔とか、似合わないよ。
「元気だしなよ」
その言葉、そっくりそのまま返すよ。
「ね?」
 お願い、だからさあ。

 ぎゅ、と。自分が何をしたのか最初は分からなかった。
「…美音里? どうした? そんなヤバい?」
どうやら私は茶和を抱き締めているらしい。そう気付いたらなんだか吹っ切れた。
「ヤバいのは、あんたでしょ」
「え?」
「だって…いろいろ、溜め込んで…っ何にも、言って………」
目が熱くなる。
「私が頼りないのかもだけどお…、一人でずっと苦しいみたいな、そんなのさあ…」
「ま、ちょっと待って、美音里?」
「しんどいじゃんよお…」
 透明で大きな雫が、どんどん落ちていく。
「………はあ」
茶和が私の頭を撫でた。
「なんでアンタが泣くのよ」
「だって、さなが、泣かないから…ッ」
何にも出来ないけれど、このままじゃあいけない気がしていた。このまま、茶和を、一人のままにしておくのは。
「………うん」
 いつの間にか、茶和も泣いているようだった。誰もいない教室で、運動部の声が聞こえてくるだけの場所で、二人で抱き合って、わあわあと声を上げて。
 理由も要らない。ただ、泣きたいから。
 今はそれだけで良かった。私は茶和の親友でも、茶和のすべてじゃない。だから茶和が何も言わなくても仕方がない。だけど、一人で泣けもしないでいるのはだめだと思った。ただ、それだけ。

 ありがとね、と茶和は言った。何が、と泣きすぎて嗄れた声で言えば、一緒に泣いてくれて、と言われる。
「一人じゃ泣けなかった」
「…そう」
「美音里が居てくれてよかった」
目は涙で腫れていたけれど、こっちを見た茶和の顔は無理したものではなかった。
 茶和の悩みが解決した訳じゃあないんだろう。でも、ちょっとはすっきりしたみたいだ。もしこれが、本当に茶和の言ったとおり、私の力なんだったら。これからも泣こう、と思った。強がりで、一人じゃ泣けない親友のために、私がストッパーを外しに行こう。
 だって。
 君の笑顔が見たいから。

***

顕微鏡でしか暴かれない物語は既に死んだも同然だ 

 日曜日に学校に来ることなんて本当はしなくてよかったはずだった。やることもなくて、ただ主体性がないために言われるがままに付き添いのように、あとでアイス奢ってね、なんて。一度もアイスなんか奢ったことはなくて、いつだってチューペットを半分食べられないからと押し付けられるだけだったけれども。
 吹奏楽部の練習が聞こえていた。何の楽器をやっていると言っていたかな、と本のページをめくる。あと少しで物語は終わる。泣き喚くことの出来た主人公と違って何か言うことは出来なかったし、ピアノだって弾けない。友人とも言い切ることの出来ないチューペットをくれる存在について、言及することだって出来ない。その手にあるはずの楽器の名前も言えない。本にも集中出来ない。それでも終わった物語にぱたん、と本を閉じれば、間延びしたような音が重なって聞こえていたことに気付いた。半分に聞いていた時はどうせ何か課題曲とかだろうと思っていたのに、まだ音合せだったらしい。音合せなんて単語が自分の中から出て来たことに驚いたけれども。
 かたり、と音がする。何かの落ちた音。陽射しが強い。夏の陽射し。蝉かもしれない。ひっくり返ったら、起きられないのかもしれない、蝉。
「………あ」
―――いつか、見つかるよ。
声が聞こえた気がした。それは幻だった。
 蝉ではなかった。砂だった。むかしむかしに何かの死んだという証。本当はそこに物語があったという証。理科教師のくせに吹奏楽部の顧問をやっている、その人が言ったお伽話のような宝物。ゲームだよ、とその人は言って、宝探しゲームですね、と返すことしかしなかった。
―――この教室の、何処かに。
嘘じゃなかった。
 吹奏楽部はまだ練習していた。その音の中にも、その音の指揮にも、その人がいないことを突き付けられたような気がして。
 小瓶の中に丁寧に詰められた砂は、ベランダから落とした。



なるかみさんは手持ちの本を読んでしまった日曜日、吹奏楽部の練習が遠くから聞こえる教室で前から探していた珪藻土が見つかったことについての話をしてください。
#さみしいなにかをかく
https://shindanmaker.com/595943



20190305