君のいない夏 

 繋いでいたら同じものになってしまえば良かったのにね、なんて。そんな馬鹿なことを言う君に僕はただ、そうだね、と返すことが出来る。どうしてこんなことが出来るようになったんだっけかな、と思い出そうとしてみても、夏の音がぷっつりと途絶えるみたいにして分からない。
「アイス、冷蔵庫に入ってるよ」
「冷凍庫じゃないの」
「冷凍庫だった」
「うん、なら良かった」
あとで食べよう、もう食べちゃったよ、いつもの遣り取り。
 暑い中で、それでも僕も君も生きている。誰でもないまま、僕も君も、生きている。
「死んじゃいたいね」
君のその言葉は、扇風機に消したことにした。
 僕は死んじゃいたい訳じゃあないけれど、ただ、どうして生きていると身体は腐らないのか、それだけは不思議に思った。



指紋とけてなくなった指さしだして「お護りください、神さま」と言う/山崎聡子

***

茨が絡み付くその先は、 

 新しい家族が出来るのだと聞いて、私はそれなりに嬉しかった。不器用な父さんと私は二人きりでは生活がちょっとばかり難しくて、でもその父さんが恋というものをしたのだから、私は私なりに喜んだ。新しい母さんも優しい人だったし、でも少し強そうで、時々おどおどしてみせる父さんの背中を叩いたりして。そんな感じだったから、私はそんなに心配していなかった。新しく出来る姉だって母さんにとてもよく似ていて、本当にこの人が私の姉になんてなってくれるのだろうか、と心配になったほどだった。
「そんなこと気にしなくても良いのに」
梨里(りり)はとても可愛いから、私の方がお姉ちゃんになんてなって良いのか不安だったよ、と。そんなことを言ってしまえる大人な姉に、私は憧れていた。
 憧れていたかった。
「―――お姉ちゃん」
「なあに?」
姉は今日も笑みを浮かべる。家族は上手に機能しているように思う。思うのだけれど、どうしてか、私には分かってしまう。分かってしまうのに、どうしても、私のちからじゃあどうにも出来なくて。
「………母さんのこと、大好きなんだね」
「うん!」
梨里は分かってくれるんだね、と嬉しそうな姉に、じゃあどうして母さんは弱っていくの、とは聞けなかった。
 姉から伸びるその真っ黒なものが全部母さんに行っている、この状況を誰も、私以外に見てくれる人はいないのだから。
―――嗚呼、
思う。
 この視線の先が私だったら、どんなに。



夏空 @sakura_odai

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 金木犀の香り、と隣で呟かれた言葉を、拾わなきゃ良かったなんてきっと生涯思うことは出来ないのだ。

秋の終わり 

 細山(ささやま)と出逢ったのはそれが切欠で、俺はその時手に持っていたストロベリークリームフラペチーノのことが一瞬で恥ずかしく思えてしまったことを覚えている。それでもそれを握りつぶして捨てるなんて真似は俺には出来なくて、だからと言って飲み干せるはずもなく。その日は家に帰って排水溝に流した。台所のそれはあまり掃除をしていなくて、それに気付いたら腹が立ってきて、疲れて寝るまで台所の掃除をした。雑巾を握りしめながら起きたのは流石に人生初めての出来事だった。
「細山だよ」
翌日、同じ場所で再び出会したその生き物は、勝手に名乗ってきた。
「君の名前は?」
首をこてん、と傾げる仕草だとか、薄い眼鏡の向こうの瞳がはちみつみたいな色に見えるとか、金木犀の香りが光になって降り注いで、まるで妖精みたいだとか―――人間じゃあないみたいだとか。一瞬のうちにいろいろ思って。だと言うのに頭に一番強く残ったのは、ああ、今日はフラペチーノ買ってなくて良かった、と思った。食べ物を無駄にするのは俺の信条に反することだった。昨日初めて破った、こいつの所為で破らされた。それを思うと、もしかしたら一発でも殴ってやれば良かっただろうけれど、それは完全なる八つ当たりというやつで、こいつには、細山には俺に殴られる謂れなど何もないのだ。
 ただ、呟いただけ。
 でもその一瞬だけで、身体をまるごと持っていかれるような、そんな生き物を俺は人間とは呼べなかった。呼びたくはなかった。だって、それを人間と呼んでしまったら最後、今まで生きてきた俺は一体何だったのか?  人間ではなかったのか? という問いに苛まれることになる。俺の場合は人間がどうしたって基準値だから、その下に落ちるだけなのだ、例えば虫けらとか、そういうものになってしまうと思った。何も変わらないのに、俺の価値観だけが塗り替えられて。虫のことが好きな人には悪いが、俺はどうしたって人間というのは虫より優位なものだと思っている。
 が、そんな段階にいないのが細山だった。
「あれ、聞こえなかったかな」
おーい、と俺の顔の前で手を振って見せるのも、もう一度細山だよ、と名乗るのも。一切悪意がない、純真無垢、これに色をつけるのであれば白なのかもしれない、と思ったけれどもやはり金木犀の香りがしていて、金色だ、と思った。その方が余計に人間らしくなくて良かったかもしれないけれど。もう、この辺りの心情は思い返すのも恥ずかしいほどのもので、モノローグにしたら塗りつぶして二度と見られなくしてしまうような、そんなものだった。
「………南雲(なぐも)」
「あ、良かった。返事してもらえた」
細山は笑って、それが本当に、心底嬉しいというものだと分かってしまったので、俺は人たらしってこういう生き物のことを言うんだろうな、と思った。
 その日から俺は細山と会うようになった。金木犀の香りがしなくなっても、雨が降っていても、雪の日でも。
 互いの予定が合えば顔を付き合わせて当たり障りのない話をした。
「金木犀の香りって、分からない人がいるみたいだから」
だから南雲があそこで立ち止まってた時、感動したんだ、と細山は言う。
「…前に、同僚にはトイレの芳香剤の匂いって言われた」
「ああ! あるある。なんか一時期トイレの芳香剤の人気の香り? だったんだっけ」
「知らん」
「生まれてないもんね」
「いや流石に生まれて…生まれてないか?」
「みんな昔のことは忘れちゃうからね」
曖昧になっていくよね、と細山は言う。いつもの紅茶に角砂糖をどぼどぼ入れながら、細山は言う。
「調べれば分かることかもしれないけどさ、芳香剤なんて在庫とかもあるだろうし、使わないで取っておいたのが…なんて話もあるし。本当にいつのことなのか、なんて、分からないんだろうね」
それって少し、可笑しいね。
 細山が言って、俺がそれに同意する。大抵がそんな会話。別に気を使っている訳ではなく、単に細山が俺とは違うことを言わないだけだった。もしどちらかが気を使っているのであれば、それはきっと細山の方だった。
 この、生き物は。
 どうやら俺には嫌われたくないらしい。
 その思いは少々俺には重かった。人間の俺には重かった。
「転勤」
だからその話は渡りに船というやつで、俺は細山とはこれで終わりになるのだと、そう、思っていたのに。
「じゃあついていっても良い?」
当たり前のようにそう言ってきた細山に寒気がした。
 どうして、じゃあ、なんて。
 そんな言葉がすぐに出てくるのだろう。決まっている、これが人間ではない生き物だからだ。細山が所謂芸術家というやつであることは会うようになって知った。教えて貰った、とも言う。基本は絵だけれども他のものに手を出すこともあるし、だから芸術家っていうのがきっと一番正しいね、と。自分で言うのはちょっぴり照れるけど、とはにかんで見せたその角度まで満点だったのだと、俺は覚えている。
 俺は、それを聞いた時にああ、だからなのだ、と思った。芸術家なら俺と立っているステージが違っても仕方ない、と。別に、細山の職業なんてどうでも良かった。それこそ小説家でも良かったし、映画監督でも良かった。役者でも良かったし、スポーツ選手でも良かった。
 ただ、俺は細山が自分と違うステージの人間であることに、本来であれば一生関わることのなかったであろう世界の人間であることに、ほっとしたいだけだったのだから。
―――どうして。
聞くのは簡単だった。
 細山は確かについてきても困らない。それだけの実績と伝手と貯蓄があることは察している。細山の名前がデカデカと書かれた個展の告知だって、何回見たか知れない。でも、俺は細山が此処で引き下がるのだと思っていた。引き下がって、さみしくなるね、なんていつもの完璧な角度で、そう言って。
―――だめだよ。
断れば良かった。
 断って、此処にはお前を必要としている人がたくさんいるだろ、なんて。舌触りの良い言葉を並べて、それで良い別れにするのは簡単だった、はずなのに。
「………良いよ」
「本当?」
「嘘吐いてどうする」
「やった」
頬が歓喜で赤く染まっている。そんな反応を見ると、ああ、こいつも人間であるのだと思ってしまう。俺と同じ、血の通った人間。金木犀の香りと共に舞い降りた、妖精。
 この、美しい生き物を。
 視界が一瞬、金木犀の色で覆われたような気がした。そんなふうに風に乗る植物ではないから、ただの感傷だった。今は金木犀の季節ではないから、その香りだってしないのに。俺は、きっといつまで経っても細山を見る度に金木犀の香りを思い起こす。
 美しい生き物だった。
 金木犀の香りは、その美しさを引き立たせるのに充分なものだった。
「南雲と暮らすの、楽しみだな」
「一緒に暮らすのかよ」
「その方が楽だよ」
「そうだろうけど」
 俺は一生連れていくのかと思うと恐ろしくなった。
 恐ろしくなると同時に、泥濘のような気分にもなった。
「細山」
「うん?」
「今度、お前の作品見てみたい」
「うん。じゃあ―――」
金木犀で何かつくろうかな。
 細山の喉が震えるさまを、俺はただ見遣って、ああ、これで良かったんだと思った。

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秘宝 

  君がシロクマの正しい色を一生懸命語っている傍らで僕は君を騙る理由を考えている。君のことは嫌いではないけれど、好きでもないからシロクマになって欲しいと思う。何も悲しくないから君は安心してシロクマになって良いよ、一生夏になんてならなくて良いから冬に閉じ込められていてよ。

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ワイファイ祭り 

  貴方が可哀想になる度に僕は貴方のことを切り捨てて良いんだって言われてるのが分かるから、僕は出来得る限りで貴方にやさしく在ろうとする、そうしたら貴方はきっと死んでくれるから、いつか意気地なしの貴方が絶望するように僕はただただ人畜無害の顔を貼り付ける。ねえ、貴方から僕はどう見えていますか? ちゃんと美しい貌ですか?

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天罰 

  天才と言われるのは嫌だけれど、君が猿山にのぼりつめて煽てられておりられなくなって、その下に武器を構えているものがいる状態でどうしようも、なくなって。君が何か一つでも、武器を持っていたら良かったのにね。永劫変わらない武器、もしかしたら永遠になれる武器。でも努力も出来ない君にそんなことは無理だったかな。分かっていて言うぼくはきっと意地悪なのだろう、君が可哀想でたまらないから早くボロ雑巾のようになって牛乳に塗れて、二度と僕に触れないでくれれば許してあげるよ。

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線香花火 

  貴方が大切に大切にと抱えているそれは私の首であって絞められて絞められて、鳴呼、残念なことに私は人間だったのでぽんかんよりも簡単に弾け飛んで、私はそうして死体になった、死体になるしかなかった。花火の音がしている、夏が終わるのに、私は蛆と仲良くしている。ねえねえ、満足ですか。私が死んでいくのをシャッター切って、貴方は芸術家気取り。私は作品じゃあないことを、誰も知ってはいないのだ。

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将来の夢は切符の穴 

  群れていないといけないの、と君は言う。人間は生き物だから、増えるために生まれたのだから。プラナリアでなくてはいけなかった、君は分裂は出来なくて、私は泣いて、でもどうしようもなくて。君が腐っていく。君の生きていた川の水なのに、腐っていく。羊の匂いがする。じらじらと灼けるような陽炎の中で君はいっぱいになる。何にもなれない君は優しさだけを残して死んでいく。私はもう泣かなかった。君が私になったのだからもう泣けなかった。

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藻屑と鮫 

  貴方のことを愛してみたかった、誰かの真似をしてみたかった、この身体の中身には何も入ってはいないから、だからぼくはただただくらげのように、ねえ、海にもかえれないんだよ。雨が降らないから。化石にもなれないんだよ、足りないから。貴方のことを愛してみたくて、でも遣り方が分からなくて、ねえねえ、ぼくは貴方の目からはかわいそうに映るのかな? かわいそうって、可愛そうでも意味が通じるからきっと愛そうとすべきものでつまり逆はうまくいってるってこれは理不尽な理論かな。貴方が何も言わないことにつけこんだ詐欺師かな。でもそんなのどうでもいいや。
 だって貴方のことを結局愛することなんて出来ないんだから、誰の真似もできないぼくは、ただただ貴方の中にのこりつづけるだけで証明の一つも出来ないんだよ。笑えちゃうよね、笑えよ。

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天使の成り方 

 ぐるっとしたものがあるよ、と君は言う。そうだね、と僕は答える。
「あれは君?」
「あれは僕」
「じゃああれは?」
「あれが隣のカモハタマ」
白い雨の中で君は笑う、すべての色を反射して、笑う。
「じゃあ私は何処?」
 君は何処にもいないことを、僕は言葉に出来ないでいる。



20200511