白紙 天使から手紙が来る、蝋を溶かして固めただけのそれを僕はそう呼んでいる。向こうにいるのは君で天使ではない、でも開けなければ君か天使かは分からない。君は宛名も書かなければ返信用の名前も書かない。ポストに直接投函して、それだけ。返事をちょうだいよ、と君は笑うけど開けていない手紙が読めるはずもなく、僕は曖昧に気が向いたらね、と言う。天使から手紙が来る、君はいつものように笑う。天使を割らなければずっと、これは天使からの手紙になる。 *** 秘密 ああ、見られたな、と思った。 真っ赤な色の制服なんてもう廃れたものだと思っていたけれどもわたしはそんなことをぼんやり思って、それから赤が目に痛いな、と目をこする。言うことに困ってしまったらしいその人はルージュみたいですね、なんてとんちんかんなことを言って、だからわたしはそのまま手を取って結婚しましょうと言ったのだった。突然のプロポーズだった、でも彼はあまりにも頭がおかしくなっていたのでそれに頷いて、だからわたしたちは結婚を前提にお付き合いというかその日のうちに両方の両親に挨拶を済ませるレベルでどたばたと事を成していった。式の日取りを決めてからセックスだってしたし、これからの人生設計というやつだってした。互いの仕事に遣り甲斐を感じているから子供はこれくらいまで待つだとか、老後はどんなふうに暮らしていきたいだとか、そういうことを言った。普通のやり取り、だったのだと思う。訝しむ人も勿論いたけれどもわたしたちが口を揃えて運命だと言うので、そして彼はまだ頭がおかしいままだったので、結局誰も踏み込んで来ることはせずに結婚式当日に至った。 彼はわたしのウエディングドレス姿を見てきれいだとひどく褒めちぎった。それに嘘はないように感じた。彼が嘘吐きではないことをわたしはもう知っていた。今までの男よりかはまあ少し早いかもしれないけれど、彼の性格やら何やらがそんなものどうとでもしてくれた。つまり足りない部分は他の部分が補えた。なかなかこんな人間はいないだろうなあ、とわたしは思う。わたしなんかにはもったいない人だ、そんなことも。 でも彼はわたしに捕まってしまったのだし、ケーキ入刀です、なんてアナウンスが聞こえて。 これがちゃんとしたナイフであることを知っていた。わたしは人間が何処を刺せば死ぬのか知っていた。 「あはははははは」 好きよ、と言う。わたしの真っ白なウエディングドレスに血が飛び散る。誰もがわたしを見ていた。わたしの秘密を見ていた。でも誰も止めることは出来なかった。彼はそのまま死んで、そうして沈黙は守られた。 信じていなかった訳じゃあない、彼のことだって好きになり始めていたし、結婚相手として最適だった。それでもわたしは彼を殺さなくてはいけなかった。パトカーの音がする。悲鳴と混沌、それでもカメラの音がする。馬鹿だなあ、みんな同じことをする。わたしは何処にもいないであろう親友の死体を思い浮かべながら、そしてその親友がバラまいた消えないわたしの痴態を思い出しながら、ただただ一人で笑っていた。彼は多分一緒に笑ってくれたけれども、わたしはそれを望まなかった。 わたしはわたしだけでいたかった。 親友を殺したことをわたしは、わたしだけの秘密でなくてはいけなかった。 彼が知っていることすら許せなかった。 「ごめんなさい」 大好きよ、とわたしは尚も言う。 それだけは本当で、本当だった。 * 郵便屋さんは秘密を知っていて黙っていてくれるひと結婚して / 森まとり *** たった一度、恋をしてみたいと思った。 みつごのたましい 私には妹がいた。とても出来の良い妹。それを羨んだことも自慢したく思ったこともないけれど、そういう妹がいるのだという事実は私の中で間違いがなかった。人はそれを揶揄したり、それに比べてお前は、と言うようなことを言ったけれども私にとってそれは気にもならないことだった。だって私と妹は違う生き物なのだ。それなのにそれを一生懸命比べるなんて、どうしてそんな無駄なことをするのだろう? 私にはまったくもって分からなかったけれど、周りの大人はよくそういったことをしていた。そして妹もまた、周りの大人を真似た。ああして妹は真っ当な$l間になっていくのだろうなあ、と思った。私はどうやら真っ当≠ナはないらしい。それを思うとどうにも肌が痒くて痒くて仕方のない気がしたけれども、爪を立てれば肌に傷が残るので、私はそれをしなかった。 私は生まれつき美しかったのか、よく男にそういうことを言われた。初めては一体いつだったか。父親だったような気がする。良いことをしよう、と言った彼を父親だと思ったことはなかったけれど、きっとそれは父親の顔をしていないのだろうなあ、と私は思っていた。それが男の顔だと私は知った。随分長いことその秘め事は続いていたが、ある日母親が知って父親を階段から突き落とした。私の住んでいる場所は雨がよく降り、そしていろいろな場所が滑りやすかったためにそれは事故として処理された。 母親は私に甘くなった。 私に怖い思いをしただろう、と言って好きなものはなんでも購ってくれた。それが口止めのものであるのだと私は知っていたから何も言わなかった。妹はただ、どうして姉さんばかり、と口を尖らせた。でも私は既に受け取ってしまったあとだったので何も言わなかった。妹はこの頃から私のことが嫌いになったようだった。明確に、妹の自我は周りの大人に育まれていった。 私が被害者≠ナある限り、母親がしたことは化物を殺しただけに過ぎない。母親は正しくあることが出来る。それこそ妹がお手本にするような。愛した男を七つにも満たないこどもに奪われたなどとなれば、母親の面目が立たない。だから母親は父親のことを化物とした、私が何一つ分からないまま望んでいなかったのだと、怖いことだと思っていても言えなかったのだと、そういうことにした。その方がいろいろと都合が良いから。私はどちらでも良かった。父親とする行為のことを特に嫌だと感じたことはなかったけれども、母親がそうしたいのならそうすれば良いと思った。 父親がいなくなって、私はそういうことをしなくなった。けれども匂いで分かるとでも言うのか、そういう男は耐えなかった。毎日のように違う男と共にいる私を、妹は汚らわしいものを見るような目で見ていた。この頃からますます妹は私のことが嫌いになったようだった。 母を流行り病で亡くした頃、妹は結婚を決めた。それは朴訥とした男だった。私と寝たことのない男だった。妹はそういう男を選んだようだった。 ―――そして。 私はぴん、と来てしまった。胸を叩くその音が恋であるのだと、私は生まれた時から知っていたような気がした。妹が生まれてきたのはこのためだったのかと、ひどく自分勝手にそう思った。世間的には、それはいけないことだと分かっていた。 分かっていたけれども私はこの一生に一度の恋を手放したくはなかった。 私は妹の夫を誘惑した。彼は直ぐに堕ちた。誰にも許さなかった行為を彼として、そうして妹に見つかった。妹は化物を見るような目で私を見ていた。それはいつか、母親が父親を見ていた目と一緒だった。妹は私を追い出した。追い出したけれども私は既に欲しいものを手に入れていた。 「堕ろして」 妹が私に会いに来るなんて珍しいな、と思っていたらそんなことを言われた。 「どうして?」 私は問う。 これは私の恋の成果だった。恋には成果がつきものだった。だって恋は咲くものだから、花は咲いたら実をつけなくてはならない。少なくとも私はそう思っていた。別に、私が子供を産むことで妹に迷惑が掛かるということはないはずだったが。このままこの大事な畑を荒らされるのだろうか。それは嫌だな、と思って包丁を手にすると、妹はヒ、と悲鳴を上げた。 「産むわ」 「どうして」 「産みたいから」 「どうしてあの人だったの」 「恋をしたから」 「どうして、私の夫なの」 偶然よ、と言ってやるのがきっと、正しかった。 でも私には嘘の吐き方が分からなかったから。 「だって、」 何もかも吐き出してしまう。 「貴方が運んで来てくれたんでしょう?」 虫のように、花粉を。 瞬間、妹は叫び声を上げた。 そしてそのまま家を出ていって、私のところへはもう来なかった。 私の子供は無事に生まれた。元気な女の子である。私の恋そのものだった。彼女のいる生活は楽しかった。恋の相手がおらずとも、私は恋をしていたのだと、その恋は実ったのだと、それがとても嬉しかった。 そして、ある、雨の日。 背中を押される。 人間の手のひらの感覚だった。だから私は私の実を今連れていなくて良かった、と思ったのだ。 ―――姉さん。 妹の声が聞こえたような気がした。私はそれを聞いてから、ああ、結局一度も私は妹の名前を呼んでやることをしなかったな、と思った。 *** 明日の午後にはさようなら それは契約だった。 特に困ったことはなかったけれども、契約してみた方が面白そうだと思って、だから僕たちは契約をすることにした。恋人のように振る舞う、契約。それは振る舞う、だけなのでその他の時間の拘束はないし、会っている短い時間だけそのように演じる、というもの。きっと他人に言えば理解されなかっただろうが、僕は納得したし、発案は彼女からだった。 「貴方といても時間は溶けないのね」 彼女は言った。 「時間?」 「そう。恋をしている訳でも、愛している訳でもないから。熱くないの。だから溶けない」 「ふうん」 重い雲が垂れ込めて、だから今日はきっと雨だった。 「送っていくよ」 「契約外になるんじゃあないの?」 「会っている時間は契約内だし」 「それもそうね」 ならお願いしようかな、と言う彼女に傘を差し出すことをしながら、一体あと何回さよならを言えるのだろう、と数えようとしては挫折するのだ。 * 融点に触れ沸点にキスして眠る 夕立以上恋人未満 / ロボもうふ *** しあわせな生活 観葉植物が枯れてしまうの、と彼女は言った。そうかい、と僕は返して何もしなかった。枯れてしまうの、彼女はそれ以上は言わない。だから僕の返しも変わらない。何一つ前へ進まず、そしてまた日々は回る。喧嘩のない家なんて、たとえばこんなことなのだ。 *** 丸善だけではない 雨の音がしている、匂いも伴わないで、珈琲でもみ消すように檸檬を抱えて寝落ちる。誰もいない、誰もいない、誰もいない。世界は僕らの敵である。 *** 天気予報はうそつき 雨上がりの庭で君は靴のことだけを考えている。誰も電話ボックスを使うなんて想定してないように。君の財布の中には鈍いのようにテレフォンカードが詰まっているのに君はそれを認めない。 「だって天使様が見ているから」 君のその笑みが靴擦れを引き起こしていることを、君は知っているはずなのに。 天使なんていないのに、君はバレリーナになりたいなんて言う。雨上がりの庭で、君は未来のことを考えているようでその実過去に囚われている。 *** ぼくらはどうせうすばかげろう うまれてくるまえから君は美しかった、と言えばそうなの、と興味のなさそうな声が返ってきて、本当にあの時に見たみちみちに詰まった白い身体は君だったのだろうかとそんな馬鹿なことを思う。 *** たぶんいっせんねんごのはなし あれは百合の花だったな、と思う。目の前に項垂れるようなその牡丹の重そうな花弁を口にしたら何か変わるのだろうか、それとも、何も変わらないのだろうか。誰もいない世界で誰かが笑うように此方を見ている気がする。 ―――選ぶのは、お前だ。 そんなことを言われたような気がしてこれが夢だと分かったのに、どうしてか起き抜けには涙の気配が消えないのだ。 * 文字書きワードパレット 22.トラオム 夢/牡丹/涙 *** さよならと午後の檸檬 私の朝は彼女を起こされるところから始まる。彼女は睡眠を必要としないから、いつだって私を起こすことが出来る。悪戯好きだった彼女であれば私をとんでもない時間に起こしたり、そういうことをするのかと思っていたが、彼女はそういうことをしなかった。 「だって、ぼくにとってと君にとっての睡眠はもう意味が違ってしまっているじゃないか」 同じものならぼくだってやったかもしれないけれどね、という彼女は生前とそう変わらない。変わらない、ように、見える。私は自分の食事の準備をしながら彼女のメンテナンスをして、それから彼女の好きだった花を贈る。毎日のこと。ルーティーン。きっとこれからずっと変わらないこと。メンテナンスが入ったくらいで、彼女の悪戯の範囲が少し変わったくらいで、それは別に彼女の価値観が変わっただとか、そういう話で済むと思っていたのに。 「いつやめても良いんだよ、」 彼女は言う。 生前とまったくもって同じ顔で言う。 「君がしたくてしていることなんだからしたくなくなったらやめても良いんだ」 私の手はそれで今更止まることをしない。彼女がよく喋ることは、物語でもかたるように喋ることは、私の好ましいと思っている部分だった。だから彼女を止めることもしないし、いちいちそれに手を止めて耳を傾けることもしない。 「美しく着飾っても花を贈ってもそれでもぼくが死体であることは動かしようのない事実で、君がフランケンシュタイン博士にはなれないことくらい分かっているさ」 彼女はとても美しかった。それこそ生前より。私が手を入れているのだから当たり前だった。彼女は割といろいろなことに無頓着で、だから私がこうして手を入れでもしなければこうはならないと知っていて。 「君は天才じゃあない」 生前の私を必要としない彼女なら、大人しくメンテナンスを受けるなんてことはしなかった。ついでのように着飾られることもしなかった。彼女は私の手には収まらないものだった。そういう、ものだった。 「そしてぼくはもう、死んでいる」 ある日突然空高く舞い上がってしまうような、そんな美しい人間だった。 「それを君はちゃんと分かっているじゃあないか」 私は応えない。彼女は喋り続ける。 「でも君はやっている」 メンテンナンスはあと少しで終わりを告げる。彼女の自由時間が来るのはそれからだった。 「だから、いつやめても良いんだよ」 彼女は私に手を伸ばすことはしない。 生前のように、私の頭を勝手にぐしゃぐしゃにすることは、もう、ないのだ。 20200511 |