珍しいものを見たら、いつもと違うことが起こる。
昔の人はそう言った。
それが幸福なことであるか不幸なことであるかは、昔の人の感性に任せるしかないけれど。



空映す梅
冬の初めに咲く梅は、時折空を映すと云う―――。 しんしんと雪の降る日に訪れた客は、老婆だった。 依頼は想い合いながら別れてしまった人を探すこと。 いずみはその人の名前と年齢、そして別れた場所を聞き出すと、 ダイヤルを黒に変えてから玄関を出て行った。 「どうぞ」 老婆と共に残された私は、お茶を出した。 老婆は少し微笑んで、ありがとうと言った。 間に流れる空気が少し和む。 それからは無駄に静寂な時間が、雪の降る音を伝えていた。 「話を―――」 静寂を破ったのは、老婆。 「話を、聴いてくれるかしら」 それは、あまりにも突然な話題の振り方だった。 「…私で、良ければ」 いずみが老婆を帰らせることなく、客間に置いていったということは、 そう長くは掛からないだろう。 老人の話は長いと言うが、いずみが帰ってくるまで暇なのだ。 私はそう思って、頷いた。 「私ね、五年くらい前から、ここの存在は知っていたの」 老婆の話は、ひどく静かに始まった。 五年ほど前、老婆は偶然通りかかった旅人から、ここ、白狐の黎明堂の話を聞いたらしい。 曰く、対価さえ払えば何でも叶えてくれる店があると。 その時も浮かんだのは別れてしまった人のことだったが、 対価が払えないものだったら…と思い、扉を開くのを止めたそうだ。 そこまで強く想う程のことではない、旅人の話を聞くまで忘れていたことなのだ、と。 けれど、冬の初めの今日の朝。 古い話に出てくる、梅を、見た。 それは冬の初めに咲く、不思議な梅の話だった。 見た者は願いが叶うと言われている、謂わば流れ星のようなもの。 冬の初め、訪れる寒気が空を澄ませるその季節。 寒さに誘われるようにして咲く梅は、空のぬけるような青を映す。 空映す梅。 古い話ではそう呼ばれた、不思議な花。 「私もね、最初は見間違いか何かだと思ったの。 ただ単に、早く咲きすぎた白い梅。 そんなものに、青すぎる空の色が、 光とかそういうものの関係で、映っているように見えるだけだって」 老婆は静かに紡ぐ。 「でもね、近付いて分かった」 組まれた細い指が時折動くのは、 「触れてみて―――目の前のそれが、幻じゃない、って知った」 その感覚を、思い出しているからなのだろうか。 頭を過ぎったのは、願いが叶う、という言葉。そして、 「白い狐の子が、願いを叶えてくれるそうだよ―――対価さえ払えば、ね」 旅人の、言葉。 直ぐに家に帰って、扉を開いた。 玄関だったけれども、何処の扉でも良かったはずだ、と。 『白狐の黎明堂へ―――』 そして一瞬目の前が白くなって、気付いたらこの屋敷の庭に立っていた。 「青い、梅の花…」 「そう、本当に青いの。空が、そのまま其処へ落ちてきたような」 私の声に、老婆が答える。 細まる目の先に映っているのはさっきのお茶の湯気。 けれど、老婆の見ているものは、もっと別にある気がした。 その湯気に映っている何かを見ているような、気がした。 「綺麗だった。 昔の人はこの美しさに、願いが叶うって込めたんだ、って思ったの」 其処に、何が見えるのか。 「私のところはひどく雪が降るところでね。 冬の初めだろうが、容赦なく降るわ。 青い梅を探して、雪に阻まれ帰って来れなくなる人も過去にたくさん居た。 私が生まれる前、曾お婆さんの代にも、見つけた人は居なかった。 だから、ずっと迷信だと思っていたのにね」 青い梅か、はたまた、 「一度も信じたことがなかった私が見つけて、 願いを叶えようとしているなんて、皮肉かしら」 別れた、想い人か。  リン… 鈴の音がした。続いてガラッという玄関の開く音がして、 「ただいマー…」 いずみの声。 「おかえり、いずみ」 もう一つ、とお茶を淹れる。 居間に入ってきたいずみは湯気は立つものの冷めているそれを一口口にして、 老婆に目を向けた。 「彼の居場所が分かりましタ」 「!」 老婆は目をいっぱいに広げて、 「会え…るんですか…?」 ぽたり、涙が落ちた。 「会えますヨ。だカラ、安心しテ―――」 いって良いんですヨ、囁くようにいずみが息を吐く。 その瞬間、老婆は淡く光り始めた。 「そうでしたか…あの人は、もう…」 「エェ。でモ、ちゃんと言ってきましたカラ大丈夫デス。 貴方が会いに行くことモ、分かっていマス。 あちらモ…会いたかっタ、ト」 ぽたり、ぽたり。 涙は溢れる。けれど。 「―――?」 真珠色になったそれは、床にも机にも、老婆の膝にも触れることはなく、宙に消えていく。 「そう、ですか。あの人は、今も、私を憶えて…」 透き通って、透き通って、それは、 「ありがとう、ございました―――」 おんなじように、消えた。 「いずみ?」 「ン、あの人は、幽霊だったんだヨ。 死んでしまったのはきっト、今日の朝方だろうネ」 朝方、それはあの老婆が、青い梅を見つけた時。 「じゃあ、青い梅を見つけた時、あの人はもう―――!」 「青い梅?」 いずみは少し不思議そうに首を傾げてから、 「アァ、降雪量の多い山間の村に伝わル、幸せの花のコト?」 人差し指をぴん、と立てた。 「知ってるの?」 「マスターに前に聞いタことがあるヨ」 あの人そう言うの好きだしネ、と続ける。 「あのお婆サンも、それを見たっテ?」 こくん、と頷いた。 「そっカ」 それからいずみは少しの間黙っていたけれど、 じっと見つめる私に気を遣ってか、ゆっくり、話し出した。 「青い梅はネ、多分、咲くことは咲くんダ。 空が綺麗で奇麗な日、その色を映すようニ。 けれどネ、それが咲くのは山の奥深ク。 人が入ったらもう二度と戻れないって言われるようナ、深い雪の底なんだヨ」 前に聞いた話を思い出した。 雪が声を喰う話。話してくれたのは、イザヨイだった気がする。 『雪は音を喰うんだ。 少しの量ならどってことないけど、それがすごく多かったら? 周り全部が雪なんていう、雪国だったら? 声が誰にも届かない…それって、すごく、怖いよね』 「声も届かない、雪だけの世界…」 「そ。人が入らないカラこそ神聖で、尚かつ、いろんな処と繋がル場所」 ほぅ、と息を吐いてから、 「あの人は、分かっていタはずなんダ」 いずみは、そう言った。 「分かっていた…?」 「雪の降る夜が明けて、その朝に山に入ったラ帰り道を見失うことくらイ」 銀色に光る山に向かって、独り歩いている後ろ姿が思い浮かぶ。 「そんな、何で…ッ」 「もう、永くなかったんだヨ」 静かな声が、余計に胸を穿った。 「あの人は自分で分かっていたんダ。もう永くないっテ。 だカラ、独りで死ぬため二、空の綺麗な冬の朝、雪に囲まれたその場所へ行っタ」 そして、 「そして、見つけてしまったんダ」 其処に在ったのは、 「伝説の花を」 願いを叶える青い梅の花―――。 「僕は、本当に青い梅の花が在るのか分からないヨ。 でもネ、あの人が見た花は、本物だったんダと思ウ。 …思いたイ」 いずみはそっと呟いた。 「うん、私も…そう思う、絶対、本物だったって信じる」 ぱたぱたと落ちる音は、雪がたてた音だったか、それとも。 雪の降る夜が明けて、その朝が雲一つない綺麗で奇麗な青い空だったら、 雪が音を喰う深い山に入ってご覧。 そこには小さく咲いた花が在るだろう。 季節を間違えたか、空の青さにつられてか、 その色を忠実に映した、それはそれは美しい、梅の花が―――。
20091106
20120903 改訂