ぬるま湯につかる幸福
ララバイ、君に子守り歌を。
「熱心だね」
毎日同じ時間に本殿で祝詞をあげる後ろ姿に、今日は話し掛けてみた。
「熱心でも伝わらなくちゃ意味がないよ」
最後の礼を終えてこちらを向いた表情は、いつもよりも固い。
「小菊は…理に選ばれたかった?」
「…ううん、と言えば嘘になるかな」
少し考えながら返される。
「何でとか、どうしてとか、いろいろ考えてはいるけれど、ね」
ぼろり、と涙が零れるのを見て咄嗟に歩み寄った。
抱き締めてみる、
反抗期真っ盛りだというのに反発が一切ないということは、相当参っていたらしい。
その疑問に答えられる人間などいないのだろう。
みずほは彼女の頭を撫でながら思う。
少なくとも此処にいる人間は理が一体何なのか、何故人の子を選ぶのか、知らないのだから。
座り込んでみずほの胸に顔を埋めて泣きじゃくっていた小菊は、
何時の間にか眠ってしまっていた。
抱き上げる。
昔よりも重たくなった身体に、娘の成長を感じた。
今はただ、優しい夢を見られるように、願うばかりだ。
この世は分からないことだらけなのだから。
手の鳴るほうへ
マザーグースの舞台裏
「誰がコマドリ殺したの」
奪い取った銃を額に押し付けて、静かに囁く。
「え、そ、それはわたし…?」
震える声でも返って来るところを見ると、この男には最低限の教養はあるらしい。
でも今はそういう返答を期待していた訳ではなかった。
「あっているんだけどね、そういうのを求めていた訳ではないんだ」
びくり、と肩が揺れるのが見えた。
「私は小さい頃から、どうしてこの唄はコマドリの葬式をするだけで、
殺したスズメは誰も責めないのか気になっていたんだよ。
コマドリは嫌われていたのか?
いや、でもそれならば葬式などしなくていいじゃないか。
溜息を吐いたりすすり泣いたり、そんなことをする必要がない。
それならコマドリは愛されていたことになる。
仲間たちが悲しむくらいには、ね」
銃口で額をつついてみる。
もう逃げる気力もないらしい。
「それでね、私は思ったんだ。
もしかして、スズメは殺してはいないんじゃないか?と。
仲間たちは全員それが分かっていて、
でも誰かに罪を着せでもしないと、恐ろしかったのではないかと。
まぁ、全て私の妄想だけどね」
言いたいことが分かったのか、男の顔から更に血の気が引いていった。
「ねぇ、アンタが死んだら、その罪は誰が被るのかな?」
白狐の黎明堂
ハローマイフレンド!
命辛々追っ手を逃れて、やっと信頼出来る場所を手に入れた、その矢先のことだった。
いつもと同じ朝、いつもと同じように水沙を起こしに行く。
「水沙、朝ご飯出来たよ、起きて」
声をかければぱちりとその大きな目が開いて、そして、
「貴方…誰…?」
目の前が真っ暗になった気がした。
気付いたら病院にいて、彼女は一次的な記憶喪失だろうと説明されている所だった。
どうやって病院に来たのか全く覚えていなかったが、そんなことは重要ではない。
状況と照らし合わせて、心安らげる場所を見つけたという安心から、
怖かった記憶から逃げたくなってしまったのだろうというのが医者の見解だった。
今まではその記憶から逃げてしまったら自分の命が危険に晒されていた。
けれども、その不安から解放されて簡単に言えば気が抜けてしまったのだろうと。
病室に向かう途中、何と声をかけようと迷った。
生まれた時からずっと一緒だった人に忘れられてしまうなんて、
思ってもみなかったことだったから。
でも。
その顔を見てしまえば、自然と言葉は零れ落ちたのだった。
「こんにちは、私は草希。
貴方の友達よ、よろしくね」
白狐の黎明堂
わたくしをお呼びでおいで?
「アンダルシア家のレムリア様はねぇ…」
パーティなど人が集まればそこでは必ず語られるものがある。
「ご性格がね…」
そう、悪意だ。
アンダルシア家はそれなりの名家であり、
唯一の娘であるレムリアにはその血を取り入れようという貴族がわんさかたかって来ていた。
それを端から切り捨てる。
時には面と向かい相手の矜恃を打ち砕く言葉を以てして。
そんなことを続けていれば、敵が出来ない訳がなく。
こういう場では結束の名の下、共通の敵として名前をあげられることの方が多い。
けれど、負けてはいられない。
綺麗なドレスを着飾り、美しい笑みを称え、
作法も佇まいも完璧に出来るようにしたのはその為だ。
これは確かな武器なのだ。
ゆっくりと近付いたところで態とらしく踵を鳴らす。
途端に消えるお喋り。
負ける訳には行かないのだ、全ての準備が整う、その時まで。
五片の宝石
殺し屋キューピット
ふわり、と浮いた自分の身体に、
今回のターゲットが異能持ちだなんて聞いてないぞ糞が、と心の中で毒づく。
「…お姉ちゃん、殺し屋さん?」
「うん、まぁそうかな。
特に君に恨みとかはないんだけど。アタシも生きていたいし」
暗くてターゲットの顔は確認できないが、声からして少年のようだ。
子供と分かってたら断ったのに、嗚呼ついてない。
あの依頼者今度ぶっ飛ばす。
今夜生き残れたらの話だけど。
「外って楽しい?」
「うーん、人それぞれじゃないかな。
でもアタシはこんなでっかいお屋敷だろうと閉じ込められるくらいなら、
外で汚くても自分で生きてる方が好きかも」
「僕を連れてかない?」
「は?」
思わず聞き返した。
「僕、もう此処に閉じ込められるの嫌なんだ。
此処まで辿り着けたのお姉ちゃんが初めてだし」
「いや、一応アタシ、アンタを殺しに来てるんだけど」
「うん、でもそれってお姉ちゃんの本心からの行動じゃないよね」
浮いていた身体が床に降りる。
乱暴さの一切ない優しい動作だった。
少年が私の前に足を踏み出す、月灯りに照らされて顔が見える。
あ、やば、超好み。
月の光を吸い込んだかのような金髪に、星を閉じ込めたような黄金の眸。
「連れてって欲しいんだ。だめ?」
小首を傾げられたらもうたまらない。
「いいよっ連れてってあげる!
アタシ、アンタに一目惚れしちゃったみたい」
ぎゅう、と抱きしめれば少しだけ強張る身体。
こういうことには慣れていないのかもしれない、でも容赦はしない。
「ちょっとアンタ痩せすぎじゃない!?
アタシについてくるなら、もっと抱き締め心地よくなりなさいよ!」
「う、うん…がんばる…」
それはある種の、恋のはじまり。
五片の宝石
貴方のお望み叶えます
白狐の黎明堂って知ってる?
ちょっとした和風のお屋敷なんだけどね、何でも屋らしいの。
へー。
それって危ない仕事もこなします、ってやつ?
うん…なんて言ったかな、代価?
その仕事に見合った分を用意すれば、本当になんでもやってくれるんだって。
えええ、マジで?
都市伝説の類だけどね。
何処にあるかも分からないし…店主が狐って噂もあるんだよ。
だからビャッコってそっちか!
白い狐なのかな…。
さぁ…。
でも、普通に生きてたら、きっと関わらない世界のことなんだろうね。
………それも、そうだね。
どうしたの?
ううん、なんでもない。
白狐の黎明堂
所詮貴方はそれだけよ
「係子姫」
声を掛けられて振り返る。
ひと目で親族と分かる同じ紫の髪をした少年に、見覚えはあった。
「貴方様のはとこに当たる、小鳥遊漠でございます。
この度は先日の…」
漠の話はつい最近行われた祭りで、優秀な成績を収めたというものだった。
囀祭(さえずりさい)と呼ばれるそれは伝統あるもので、
そこで評価されたということは彼自身の能力は間違いなく素晴らしいものなのだろう。
だが、それがどうしたと言うのだ。
「それで?」
自分より遙かに背の高い彼を睨みつけるようにして言う。
「貴方はそれをわたくしに話して、何を得ようというの?」
占いが、未来が、何だというのだ。
王位第一継承者だというのに落ちこぼれとさえ言われる係子には、それは必要ですらない。
寧ろ、今直ぐに棄ててしまいたい、いや滅ぼしてしまいたい類のものなのだ。
「才のないわたくしならば貴方を婚約者に迎えるとでも思ったの?」
図星だったのか、面白いように赤く染まる顔。
「わたくしが何を一番望んでいるのかさえ分からないような人間を、
夫として迎えるのには無理があるわね」
怒りに歪むその顔を無表情に見つめながら係子は思う。
この王宮に出入りする人間、国民さえも、占いに縋るしかしないのだ。
白狐の黎明堂
小鳥遊係子(たかなしたえこ)
小鳥遊漠(たかなしばく)
夕焼けに映えた幻に手を掴む
紅を喰む、あまりに罰当たりなそれは紛れもない理に与えられた名前。
読み方は人間が決めて良いらしいという何とも微妙な決まりごとだが、
この漢字では救いようがない。
紅、それは私たちの守るものの色だ。
それを喰らう名前など、好きになれるはずがない。
自分の字をどう書くのか知ったのは、家に戻って来てからだった。
幼い頃から稲荷様に育てられ、元から薄かった人間という認識が更に薄れそうだった。
紅だ、紅を喰んでしまうのだ。
私たちが守るべき、あの紅を。
それができたら、もう人間ではないのだろう。
では、この人間の私とは何なのだ。
―――幻、か?
「クグイ」
聞き慣れた声で現に戻る。
「…こーちゃん」
「夕ご飯できるから呼びにいけって、お母さんが」
無愛想に言う妹が、私を好いていないことはよく分かっている。
「ねぇ」
「何」
「手、繋いで良い?」
「はぁ!?」
反論の言葉を紡ぐ前にその小さな手を包み込む。
「あったかいねぇ」
「アンタが冷たいだけでしょ」
振り払われなかったことに安心した。
温もりが指先から、掌から伝わる。
大丈夫、私は今此処に居る。
手の鳴るほうへ
ありがとうもさよならもごめんなさいも
あまりに、静かな日だった。
晴れの香りがする夏の日、姉上の声を聞きながら俺は目を閉じた。
この家に戻ってきてから、一度もあの人には会えなかった。
あの人を護って戦えないのならばこの生命など要らない、漸く死ねるのだと安堵する反面、
何一つ伝えることが出来なかったのを、ひどく悲しく思った。
あの人は俺の死を知るだろうか。
知ったとき、何を思うのだろうか。
それとも、死ぬまで知ることはないのだろうか。
どちらでも良いと言うには、俺はあの人に心を預けすぎてしまった。
嗚呼、未練ばかりだ。
紫電一閃
結局のところ、
父上には母上の他に好きな人がいるのだと聞いたのは、
王子様がお姫様を迎えに来るというありきたりな絵本を読み聞かせてもらった幼少の床だった。
「私は彼に恋をしていたから、どうして私を見てくれないのかと憤りもしたわ。
でも、パズルみたいにはいかないものなのよね」
切なさを滲ませたその表情は何処か清々しく、とても優しかったのを覚えている。
そして幼心に、父上は母上を愛していない訳ではないのだと感じた。
「ソレイユ、貴方もいつか恋をするかもしれないわ。
この家に生まれた以上、それが叶うとは言い辛いけれど…
でも、その気持ちを持ったら持ったことを後悔などしないで」
その声色が少し哀しくて布団に潜り込んだ。
そうしてそのまま眠ってしまい、朝には忘れていた。
ふと、思い出した昔の話。
「…今なら、その意味が正しく分かります、母上」
眠る母に話かけた。
最近は起きている時間が少なくなってきている。
もう、永くない。
部屋をあとにする。
今日も仕事はあるのだ。
恋は報われなくても良い、悲しいけれど。
混淆する景
犬と猫は結婚出来るのかしら。
「いつもお前はそうだよ!!」
ポルックスの前には空の皿が置かれている。
状況からして、またスピカは勝手に彼のものを食べたらしい。
「俺がどれだけこれを楽しみにして…!」
「わたくしの知ったことではありませんわ」
ツーンとそっぽを向く。
青筋が立つのが見える。
「許さない絶対許さない。
お前なんかオレが本気出したら三秒で殺せるんだからな!」
そんな、ものを勝手に食べられたくらいで殺す殺さないの騒ぎになるのもどうかと思うが。
彼にとっては一大事なようなので黙っておく。
そもそも犬も食わないような喧嘩に首を突っ込むのは野暮である。
「それでも貴方はわたくしを殺しませんわ、そうでしょう?」
それに、こういった喧嘩の結末は決まっているのだ。
スピカににこり、と微笑まれれば、ポルックスに返せれる言葉などないのだから。
「シィ姉、あの二人はどうしていつも喧嘩しているの?」
「そうですね、この場合は仲が良いからでしょうね」
「仲なんて良くない」
「仲など良くありませんわ」
「ほらね」
五片の宝石
世界は永遠を狂愛する
廻れまわれ、廻れめぐれ。
魂の連鎖を止めるな。
君が生きている現在(いま)がいつの日も終わらないように。
底止することなかれ。
RoW
旅立ちの朝。物語りはこれでおしまい。
「ジュリアーノ」
店の裏のゴミ捨て場、お世辞にも綺麗とは言えない場所でアタシを探す声がしていた。
しばらくしてその手がアタシを引き上げる。
きっと周りは生ゴミの匂いで鼻が曲がりそうだったのだろうけれど、
むっとする血の匂いがそれを全部覆い隠していた。
「ジュリアーノ」
掻き切られた喉ではこの愛しい人の名前を、最期に呼ぶことすら出来ない。
その方が良いのかもしれない。
理不尽に終わらせられるこの生も、決して悪いものではなかったと今なら胸を張って言える。
最期に名前を呼びでもしたら、
彼はアタシが全てを恨んでいると勘違いしてしまうかもしれない。
頬に力を入れる。
口角を釣り上げて、きっと伝わる。
ふっと身体が軽くなった。
アタシは彼が泣き叫びながらアタシを抱き締めているのを少し上から見ていた。
愛してる、愛してる、ありがとう、大好きよ。
白狐の黎明堂
ルージュに愛された恋人よ
濃ゆい血の匂いに、スカルは顔を顰めた。
「ハンナ」
「スカル。…ごめんなさい」
ハンナの足元には数分前まで人だったもの。
「別に俺は良いけどさ、数が減って困るのハンナだろ」
迷子の子供のように途方に暮れた顔をするから、その頭ごと抱き締める。
えげつないことも悪どいことも平気だが、ハンナがこんな表情をするのには未だ慣れない。
「私のこと知ってたの、コイツ。
姉さんのことも、家のことも。
汚い、穢れてるって言ったのよ、姉さんを」
「そりゃあ許せないな」
ハンナの姉への愛情は少しばかり常軌を逸していて、
曲がりなりにも恋人であるスカルは時折嫉妬めいたものまで感じる。
過去のこととを改まって聞いたことなどないから、理解など出来ない。
聞いたところで理解しきれそうにもないが。
「疲れたろ、飯作ってあるから食えよ。
そしたら風呂入って寝ろ」
「うん…そうする」
それでも、願わくばこの何処か儚い恋人が、最後に選ぶのは自分であるように。
No.
僕はきっと、君に恋をしていた
まるで昔の自分を見ているようなその行動一つひとつが、
ある感情から来ているのかもしれないと知ったのは、全てが落ち着いたあとだった。
それ以降僕は彼女に会うことはなかったし、意図的に避けられている気もしていた。
それでも、僕と似たあの紅を、もう一度見つめたい、だなんて。
混淆する景
殺し夜シンフォニー
「君、名前は?」
それはあまりに美しい夜だった。
依頼通りに金髪碧眼の美女と冴えない黒髪の男の二人組を殺そうとして、
見事生け捕りにされた。
「…名前はない」
「じゃあ呼び名でも」
鈴が転がるような声で問われて、宝石のような瞳で見詰められて、
それは言い表すなら魔法のようだった。
口から零れ落ちる数年前までの呼び名。
「ふぅん、なるほどね」
美女は一人納得したように頷いて、
「ねぇ、貴方私のところで働かない?」
次の瞬間勧誘を始めた。
「え」
「私のお店ね、
こういう界隈じゃそれなりに名前通ってると思うんだけどエンドローズって言って、
いわゆる何でも屋なのね、客は選ぶけど。
店員はこの子ともう一人女の子がいてね、その子は働かないけど。
私が店長。どう?」
どう、と言われても。
あまりに突然のことで、ぽかんとあいた口が塞がらない。
仮にも自分の命を狙っている人間をそうやすやすと勧誘していいものか、お前は止めないのか、
の意も込めて男の方を見やるが、目線で訴えられた。
諦めろ。
「決まりね」
解放される。
「…良いのか」
「私が決めたことだもの」
にこり、と微笑まれれば為す術もない。
「帰ったら早速制服作りましょ」
「作るの僕じゃないですか…」
歩き出す二人についていく。
じんわり胸が暖かくなるこの感覚は、きっと期待というやつだろう。
いばらの杜
こんばんは、二度めまして。
弟が生まれたと聞いて、勉強も放り出して母上の所に駆け付る。
私と違い父上に似たらしい弟は、艶やかな黒髪と宝石のような紫の瞳を持っていた。
「奇麗…」
ほぅ、とため息混じりに呟いた言葉に、母上は少しだけ哀しそうに笑った。
その意味を知ったのは弟が三歳になった時のことだった。
分家入りすることが決定した弟は、私たちと離れて暮らすことになった。
私は泣き叫んで抵抗したが、呆気なく私の天使のような弟は連れて行かれてしまった。
それから数年、弟は戻ってきた。
分家の次期当主として、次期神の私を守る為に。
天使のような弟は何処かに消え、そこにいたのはあまりに無表情で無感情な少年だった。
私のことを忘れ、宝石のような瞳の煌めきだけを残して。
私は手を差し出す。
弟が何度私を忘れようとも、私はこの子の兄なのだ。
この愛は、消えない。
混淆する景
沈丁花は死に染まる
あっけなかった、そうレディバードは思う。
抵抗に抵抗を重ねた、今までになく面倒な契約者だったはずなのに。
「人間なんてこんなもんか…」
呟いた刹那、後ろに気配を感じた。
「…誰だ、名乗れ」
「人に名前を聞く時は自分カラ、と習わなかったノカ」
警戒にしては尖すぎる、しかし殺意にしては重苦しくない。
「生憎そういう教育は受けてなくてね…でも俺の背後をとったことに免じて名乗ってやるよ。
レディバード、死神だ」
「僕は筑紫いずみ」
貼りつけたはずの笑いが引きつりそうになる。
「二代目、白狐の黎明堂店主ダ」
ツグモめ、と唇を噛んだ。
死して尚契約に逆らおうとするか。
「…そうか」
仕舞っていた翼を出す。
ツグモの掛けた呪いがどう機能するか分からない今、下手に手を出すのは危うい。
理まで壊すつもりはない。
「お前が忘れた頃にまた来る」
「あァ。出来れバ二度と会いたくないナ」
生意気な餓鬼だ。
それ以上は何も言わずに飛び去る。
殺しても殺しても、消えない。
だから人間というのは嫌いなのだ。
白狐の黎明堂
タランチュラの攻防
書いてはいけない、と言われたのはいつのことだっただろう。
ふとペンを止めた。
そんなことよりも勉強を、
でも誰も私から紙とペンを取り上げることが出来なくて(どちらも勉強に必須なのだから!)
結局止めることなどできやしなかったのだ。
ペンを回す。
この世界を掬い上げられるのはこの世で私だけ、その自惚れは恐らく間違いではない。
それならば、闘うだけだ。
例え美しいものを惨たらしく、喰らう羽目になろうと。
この世界の真ん中で
ツァーリズムの崩壊
No.748が任務先で噂を聞き、息を切らせて帰ってきた時にはもう、
縛られるべき結社は崩壊を遂げた後だった。
その目で見ても、しばらくは信じられなかった。
仕事故に結社を、社長を恨む者は多く、
そんな輩が乗り込んできて社長を襲撃しても、それを返り討ちにしてしまう。
社長とは、この結社のトップに君臨する彼は、そういう人間だったのに。
こんなにあっけないものなのか。
彼も人間だったということなのか。
形さえ保たないその建物に一礼する。
「さよなら、社長」
運が良かっただけだとしても、今、これは紛れも無い自由なのだろう。
No.
ぬるま湯につかる幸福
「×××」
「なぁに」
ふわりと抱き締められるのは何も初めてのことじゃない。
ただ、男女である以上、その先に何やらゴタゴタしたものが横たわらざるを得ないことを、
箱入りのような少女でも知っていた。
結社にはそういうことと引き換えに情報を集める社員も居るのだ。
「…何も、しないんだな」
「何かして欲しい?」
「いや」
間髪入れずに返ってきた否定に×××は苦笑する。
「…でも、この状況は嫌じゃない」
同じ人間の温度がこんなにも心地好く思えるなんて。
もしも×××が敵だったら、何かを感じる間もなく自分が死んでしまうだろうに、
それでも良いとさえ思えるのだから怖い。
「俺も、だよ」
それでも、肯定の言葉が返って来ることが、こんなにも嬉しいのだ。
No.
ある日の夏の情景
大量のひとのにおい、付随する血のにおい、むしっとした空気が運んでくる嫌な汗。
逃げたいと強く願って、心が壊れそうな程に願って開けた扉の先は、あまりに綺麗な空だった。
噂は、本当だった。
木造平屋のその引き戸を力を振り絞って開け、既に潰された喉で叫ぶ。
嗚呼、はやく、わたしをころして。
白狐の黎明堂
スリガラスの愛
その男の名前を、彼女は知らない。
自分たちの上に君臨していた絶対的な君主。
前にすればいいようのない恐怖や緊張に苛まれる、そんな存在だった、けれど。
あの青い瞳が自分を見る、その感情の名前は、未だ分からなかった。
「貴方は結局、僕をどうしたかったんだ」
母国語というべきそれを、聞き止められる者はいないだろう。
「どうして僕を、あんなにも手放したがらなかったんだ」
強引に仕分けするには曖昧なその光。
もう、その答えを出せるのはきっと自分しかいない。
白狐の黎明堂
純粋なまでの蕀な君に
「はい」
小さなメモを手渡す。
「え、今月分の占いはしてもらったはずだけど…」
「個人的な警告、かな」
スカートを翻して店の奥に消えていく、そんな後ろ姿を見送ってから紫子はメモを読み上げた。
夜が鳥を飲み込むか
鳥が夜を脅かすか
黄金に眠る終焉の薔薇は
傍観を選べば枯れていく
「…四月」
形の良い唇から溢れるのは、
「これは警告じゃなくて皮肉っていうのよ!」
紛れも無い文句だった。
いばらの杜
ぼくと踊らないかい
冬休みには寮長主催のクリスマスパーティーがある。
「珍しいな、ウタカタが残っているなんて」
その手伝いが一段落して息を吐いた時、透き通るような声が降ってきた。
「サテツ」
「毎年君は帰るじゃないか」
「今年は家で仕事があるから邪魔するな、と」
事務的な手紙を思い出す。
父は冷たい人間ではないのだが、少々ぶっきらぼうな面がある。
「ふふ、でもウタカタとクリスマスを過ごせるんだと思うと、お父上に感謝しなくちゃね」
あまりに奇麗な声で喋る彼女の声を、こうして聴けるのは幼馴染故か。
正確に言うならば、幼馴染であるのは僕ではないのだけれど。
「パーティー出るのか」
「出ないつもりだったけど、ウタカタが出るなら出る」
「今年はダンスもあるらしいぞ」
この学校は所謂前時代の貴族の名残が大半であり、こうした嗜みも学ぶことになっている。
だから、特に貴族ではない僕もサテツも踊れるのだ。
手を差し出す。
「これはどう言うことかな、ウタカタ」
「どうもこうも、そのままの意味だ」
「誤解されるよ」
「今更だな」
眉を寄せて悩んでいたサテツは顔を上げて、
「英知なら良いよ」
白い手が重ねられる。
僕は頷いて思考を渡した。
カナリアの鳴く頃に
20120906