Emptiness
箱庭の幻影 「なぁ、今夜寝ない?」 飲みに行こうか、くらいの軽いノリで言われたそれに僕は溜息を吐く。 また、だ。 胸の辺りがじくじくと痛んで喉の奥が灼け付くよう。 「…武田さん」 「良いでしょ?」 「良くないですよ」 資料を抱え直して脇を通り過ぎる。 無理に引き止められることもなく、背の低いその人は幼子のように僕の後ろをついて来る。 「何で?」 「僕には貞操観念ってものがちゃんとありますから。 武田さんとは違って」 言外にお前と一緒にすんなこのクソビッチ、と言ってみる。 「やだなぁ、クソビッチだなんて。 オレはその時の気分に従う自由人なだけだよ」 何故伝わる。 「…それをクソビッチって言うんですよ。 っていうか、武田さんが溜めた書類すごいことになってますから。 早く片付けてください」 「えー馬越くんが代わりにやってよー」 「隊長のサインがないと駄目だって分かってるでしょう」 ぷう、と膨れるその人を置いてさっさと歩き出す、またついて来る。 「馬越くん」 「何ですか」 「それ半分持つよ」 差し伸べられる手に、その先の笑顔に、 一瞬時が止まったように錯覚して、そのままずっと止まっていれば良いなんて願って。 「…そんなことしても書類整理手伝いませんからね」 「ぶー。ケチー」 「ケチで結構」 三分の一程を奪っていった一回りも小さな手にまた時は流れ出す。 この人の瞳に僕は映らない、 僕だけが映らないのではなく、僕は映ることができないのだ。 それを知ってしまった僕は、替えのきく何かになることはもう出来ない。 ああ、幻影に酔っていられたら良かったのに。 武田観柳斎(たけだかんりゅうさい) 馬越三郎(まごしさぶろう) 虚無の孤独 茶番のような脱走劇を終えて沖田と共に返って来たあの人が、 今まで見たことのない程穏やかな顔をしていたのを良く覚えている。 ああ、こんな顔も出来たんだ、と感じるその心は、 この人も人間だったんだ、と思っているようで少し嫌になった。 永倉や伊東さんの助言も聞かず、あの人は死んでいった。 ああ、格好良いってこういうことを言うんだな、なんて思ってしまう死に様だった。 介錯を任された沖田に羨ましいという感情は沸かなかったけれど、同情めいたものは感じた。 利用されたことに気付いていたのかもしれない、 と思ったのはもっともっと後になってからだったけれど。 「裏切ったら、オレが殺してやるって言ったのになぁ」 そうすればきっとあの人の心に残れるだなんて、甘い考えだった。 それすら許さない程、あの人は徹底した愛を示したのだから。 声に出したら届いていただろうか、それともいつもの仏のような顔で諭されたのだろうか。 それでもオレは、アンタの人間らしい面が見たかったんだ。 一人の人間に執着する醜い独占欲を塗りたくった面を、オレに向けて欲しかった。 「アンタも馬鹿だよ」 他の人間なら。 オレなら。 「アンタを愛してやれるだろうに」 沖田総司(おきたそうじ) 永倉新八(ながくらしんぱち) 伊東甲子太郎(いとうかしたろう) 夢幻の果実 殺したい、と思ったのは本当だった。 それを口に出したことすらあった。 それを聞いたその人は怒るでもなく泣くでもなく、それで良いと笑っただけだった。 殺してしまうのが一番良いと分かっていた。 毎日毎日ほぼ同じ時間に此処を訪ね、朝になると出て行く。 私を抱くことも、触れることすらしないその人に、ある種の恐怖を感じることもあった。 何のために私を此処に隠したのだろう。 それを言葉にする度その人は優しく笑って、好きになってしまったからです、と繰り返した。 貴方が嫌だと言うのならもう言いません。 此処から逃げ出しても構いません。 でも、出来たら此処に居てください。 此処から出れば女一人では生きていけないとか、 手配されているから殺されるだろうとか、きっと脅すための要素はたくさんあったはずだ。 けれど一度もそれを口にせず、いつもそれはお願いの形をとっていた。 心のままに愛せていたら、何か変わったのだろうか。 結局、私は一度もその愛の言葉を嫌だとは言わなかった。 でも、一度もそれに応えることもしなかった。 狂信の自由 それは例えるなら光だった。 一閃の、あまりに美しく儚い光。 自分では手の届かないような剣だった。 「…美しいですね」 「そうだろう」 まだ幼い少年を永倉と近藤は眺めていた。 「あの子は私たちの光になる」 近藤の言葉に永倉は頷く。 「僕たちで護りましょう」 近藤と自分の抱くそれは大分違ったものなのだろうと永倉は気付いていた。 それは黙っていた。 そんなことはどうでも良いと思う程に、彼は光だった。 ああ、彼を神と言わずして。 恋と同じである、と永倉は思う。 言わなければ、気付かれなければ、どんな気持ちを抱こうと赦されるはずだ。 それは、人間に赦されれた最後の砦なのだ、と。 近藤勇(こんどういさお) 廃墟の足跡 その知らせを受けた隠れ家は水を打ったように静かになった。 「…ご遺体は」 誰かがやっと口を開いて、伊東さんの身体が油小路に放置されていると知った。 全員の頭に罠という言葉が過ぎっただろう。 「引き取りに行こう」 しかし、誰ともなく言ったそれを、止める者はいなかった。 いつもは冷静な鈴木も、少人数で行くべきだ、と言っただけで止めはしなかった。 伊東さんのためなら死ねるという人間が、此処には一体幾人いるだろう。 アンタの歩いた跡が形見みたいにそこで光っていて、 それがオレらには良く分かったから涙を流すことすら出来なかった。 道標を失ったオレらは、もうがむしゃらに走るしか残されていなかったんだ。 鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう) 喪失の定義 これは罠だと分かっていた。 兄が死んでしまって、その死体が道にこれ見よがしに放置されているなんて。 これは罠だ、私たちをおびき寄せるための罠だ。 それでも止まることなど出来ない奴らなのは、兄の隣でずっと見てきた私には分かっていた。 「…兄さん」 夜に紛れて呟く。 「私はそれでもまだ生きたいよ」 強く美しく優しい兄。 生まれてからずっと、私の前を歩んできた光り輝く私の全て。 「私が貴方を忘れたら、それは本当の終わりなんだ」 だから何としてでも生き抜くよ。 貴方を失わない為に、私は必ず。 遊女の誓約 「ついて来いと言ったら、君は来るかい」 膝の上でその人は言った。 「…あたしにだって選ぶ権利はあるのよ」 「そうだね」 にこりと笑う。 遊女であるあたしは誰か一人の男に愛される、なんて夢は初めての仕事の前に捨てていた。 叶わぬ恋なんてするものかと殺した心を掬い上げたのは、あまりに柔和な表情をする男だった。 「…ついて行くわ」 目を瞑りすうと寝息を立てるその人に告げる。 本当に寝ていなくても良かった。 「あたしは、ちゃんと選べるわ」 外の世界に足が竦んで、幸せになれず戻ってきた女を数多く知っている。 あたしはそうはなりたくないと思った。 此処から出たいと強く望むことはなくても、出たのなら出たで幸せを掴み取りたい。 「だから、足りないことを謝らないで」 二番目でも良い、足りない分はあたしが愛すから。 だから、その時は迷わずに攫って行って。
Crazy Chil様よりお借りいたしました
20121006