20140808ハチのたのしいおんどく 「ねぇお願い。キスして。我慢出来ないの」 ぴきん、と何かが切れる音がした気がする。 そんなことを思いながらハチは本から顔を上げて隣を見遣った。 その先では顔を赤くした千尋がこちらを見ている。 怒っているような、でもそれだけではないような表情だ。 この名前はまだ習っていない気がする。 「ハチ、お願いですから声に出して読むのはやめてください」 「シズが音読はジョウソウキョウイクに良いって言ってた」 「貴方何歳ですか。もう情操を教育出来る段階超えてるでしょう」 「何歳かは知らない、おれは気付いたら結社にいたから。 ええと、こういう時はごめんって言うんだったよな」 「僕が悪かったですから馬鹿正直に答えないでください」 はああ、とため息を吐きながら顔を覆う千尋にハチは首を傾げた。 チヒロは良く分からないな、そう言えば貴方にだけは言われたくありません、そう返って来る。 「そもそも、何の本を読んでいるんですか」 「ヨツキが貸してくれた」 「四月さん…」 顔を上げたと思ったらまた顔を覆う。 忙しいやつだな、とハチは思った。 けれどもそんな千尋を見ているのは結構面白いので何も言わないでおく。 こういう時に何か言うと怒られるのはもう学習していた。 「というか貴方、それ、どういう意味か分かってるんですか」 「ああ。この女は相手の男に欲情している」 ぶふっと音が聞こえた。 落ち着こうと思ったのか、千尋は紅茶のカップを手にしたまま震えていた。 落ち着きたい時に一口紅茶を飲む、それが千尋の癖なのだと紫子に聞いたハチは知っている。 覚えている。 「よ、よくじょう…」 「違うのか?」 「いえ…ええと…あっていると思います」 「そうか。よかった」 そう言ってからまた本に戻る。 「縋るようにして熱っぽく囁きかければ、男の目の色が変わるのが分かった。 デレデレとだらしなく歪んだ頬にあたしはだらしないなあ、と思いながらそのキスを受け入れる。 唾液がじゅぶじゅぶと音を立てて、」 「ハチ、お願いですから」 「なんでだ」 「何でもです」 これは没収です、と言って取り上げられた本に、ああ、と声を上げる。 折角勉強していたのに、と千尋を見やればその頬は真っ赤で、 どうしてだろう、とまた首を傾げた。 「チヒロ」 「…何ですか」 「なんでチヒロはそんなに真っ赤なんだ?」 「なんででも良いでしょう」 「さっきからチヒロはそればっかりだ」 もしかして、自分で考えろということなのだろうか。 今度は首を捻る。 どうしてだろう、千尋の頬が赤いのは。 ああ、もしかして。 「チヒロも欲情しているのか?」 「なんでそうなるんですかッ!!」 びたーん!と小気味良い音と共に頬に走った痛みに、 感情というものはとてもむずかしいなあ、と思った。