ぱたぱたと足音が聞こえた。
だから“私”はその場を去ろうとした。
「桐生さん!!」
呼び止められる前に逃げれば良かった、そう思った。



絶対不可侵領域
原田絢太が紅絹に付きまとうようになって一番に迷惑しているのは僕だった。 けれども“私”はそういうことをしない。 だから、にっこりと笑う。 「何か、御用でしょうか?」 何も言うな、そんな威圧感を一人にだけ、原田絢太にだけかかるように調整をして。 「鹿子」 可愛い声が“私”を呼ぶ、僕を呼ぶ。 「森野さん、王子様は御用がある訳ではなさそうなので、これで失礼します」 「鹿子」 くるり、踵を返そうとした“私”の腕を、紅絹が掴む。 「大丈夫だ。だから………何か、食べに行こう」 絢太もそれで良いな、と言われた原田絢太がこくり、とぎこちなく頷いたのが見えた。 そうして所変えてファミレス。 飾りのような衝立ての一番奥で、“私”と紅絹、その対面に原田絢太という形で座っていた。 あの廊下から脱する時に周りから痴情のもつれだとか三角関係だとかざわざわされていて、 明日の好奇の目は避けられないだろう。 ウェイトレスが頼んだものを置いていった。 それを皮切りと言うように、原田絢太が口を開く。 「その、桐生さんは…」 「私の親友だ。そして、私の理解者でもある」 紅絹の答えは簡潔でとても分かりやすいが、 きっと、原田絢太が聞きたいのはそういうことじゃない。 「聞きたいことがあるならどうぞ?」 にっこり。 誰もが好きな笑顔をしてやる。 「森野さんがこう言ってくださってるんです、何でもお話しますよ」 それに少し詰まったようだったが、非常に苛立たしいことに原田絢太は持ち直した。 「…なぁ、桐生さんってなんで演技してるの」 「………思いの外、不愉快ですね。 そう、真っ向から何も知らない人間に踏み入ってこられるのは」 話は、紅絹から聞いていた。 「わ、悪い。そういうつもりじゃあ」 「そういうつもりじゃない人間が一番腹立たしいの、分かっていただけますか?」 また詰まる。 垂れた耳が見えた。 どうやら紅絹の幻視が“私”にも伝染っているらしい。 まさかこんなファミレスの角席で、 こんな和やかな笑みで戦争を始めようとしているなんて思う人間はいないだろう。 だから“私”は“私”でいる。 それが、紅絹を守るのに丁度良いから。 「鹿子…」 「森野さん、なぁに?」 「鹿子」 原田絢太には何のやりとりか分からなかっただろう。 三回だ。 まだ、三回目は来ていない。 「鹿子」 来てしまった。 「………はぁい」 息を吐く。 スイッチが切り替わるのには数秒を要する。 その数秒間、原田絢太は落ち着きなくコーヒーのカップをいじっていた。 「はーあ。自分で決めたこととは言え、あのキャラマジ疲れんな…」 ぎょっと、原田絢太が目を見開いた。 「何?予想以上だった?僕の存在が。 そんなに?人を暴いておいて?そんな覚悟なら今すぐ帰れよ子犬ちゃん」 頼んでいたオレンジジュースを飲み干すと、またあの笑顔で立ち上がる。 隣にいた紅絹の手を取って。 「では。また明日、学校で会うこともあるかもしれませんね?」 一切の、反論を許さないという牽制はちゃんと効いたらしい。 原田絢太は追い掛けて来なかった。
20141212