無題
僕はその日も、自殺の方法についてだけを考えていた。 この世界にだって、自殺の方法はたくさんある。どうにかして「死ぬ」ことは簡単だった。 人間の躯の構造は至って普通である。複雑なようで単純。 強くみせかけておいて、弱く脆く、その上儚い。 それらの持ち合わせる傲慢で欲深な感情に似合わず、いつだって人間はちっぽけだ。 ここで出来ないのは、「死ねる」ということを事実にすること、だけ。 この世界では、人は永遠の命を持つ。それ故、世界が変わることはない。 同じ日常だけが続いていく世界。退屈極まりない。いつしか僕は何かを求め始めた。 その「何か」に今現在充てているのが、「自殺」ということについて、だった。ただ、それだけ。 僕は永遠の命に興味がない。 不死鳥(フェニックス)の力、と学校の先生は熱弁を奮っていたけれど、 僕はそんなもの要らない、と思っていた。馬鹿げている、とさえ思った。 でも僕は永遠の命を持って、永遠を生きているのだ。生と死を繰り返しながら。 僕はもう、これまでに何回も、自殺を試みてきた。しかし、全てが無駄になった。 躯に傷が残ることもない。血が噴き出す感覚も、皮膚が切れる感触もあるのに、一向に死なない。 「死」というものが、躯を包み込む感覚に出逢えない。 僕のとった最初の自殺方法は、一番手軽だと思われる、手首を切ることだった。 言ってしまえば、その時は興味本位でしかなかった。 本当に死なないのだろうか。 僕の中には、こんな疑問が満ちあふれていた。 不死鳥の力だなんて言うのは大嘘で、 「自殺大国・日本」という非常に不名誉な肩書きを失くすために、 造られた架空のものなのではないか? 僕の中に蔓延するこんな考えを、あの、不死鳥の力について熱弁を奮う教師に聞いたら、 どんな顔をするのだろう。僕はそれを思い浮かべて独り笑った。 さぞかし、マヌケな顔をするに違いない。そしてその後、何を言うんだ、と怒鳴られるのだろう。 彼はその素晴らしき力を、 まるで神から授かったもの―――或いは、神そのものとして見ているのだから。 それでは人間が神の力を持つ者、つまりは神になってしまうという矛盾には気付かないのだろうか。 否、気付いていてもそれを受け入れているのか。 彼は、自分を絶対的なものとして信じる節がない訳では無かったのだし。 最初は薄い傷跡しか付けられなくても、次第に傷は深くなっていった。 一種の慣れというやつだろう。興味本位からきた行為だ。最初の頃は怖かったのかもしれない。 手首に走る小さな痛みに、いちいち怯えていた僕がそこに居た気がする。 今となっては、もう、どうでも良い過去なのだが。そして僕はある日、深く切りすぎたのだった。 死ぬのかな、と思った。自分の手首から流れ出る大量の血は、僕の視界を朧にさせていった。 死ぬのか、そうか、と、一人で納得し、僕はそっと目を閉じた。 やっぱり不死鳥の力、なんて嘘だったんだ。 僕はほくそ笑んでいた。そのまま、意識を手放す。 目を覚ますと、ベッドの上にいた。病院の、ではない。 僕が生活している部屋の、いつも使っているベッドの上にいた。天井を見上げ、僕は考えた。 どうして、僕は生きているんだろう。あんなに血が出ていたのに。あんなに、紅かったのに。 翳した手首には、白い包帯が巻いてある訳でもなかった。それどころか、 何の傷跡も残っていなかった。 僕は最初、死ねないのは僕の自殺の仕方が、 あまりにも甘っちょろいものだったからなのではないかと考えた。 一般的すぎるものでは、あの能なし教師の言ってた力とやらが働いてしまうのかもしれない。 だから僕は、一回死んでからそう経たないうちに、手首を切り落としてみるという行動に出た。 簡単だった。僕の家の近くには工場があって、大きなギロチンのような機械もそこにあったから。 そっと入り込んで、機械の傍に立った。 もうカッターナイフを握っている時のような、阿呆らしい恐怖はなかった。 ただ、心臓の音がやけに大きく聞こえていた。 刃が下りてくる瞬間に、すっと手を差し出す。 すぱん、と気持ちの良い音と共に、僕は、僕の右手首から向こうが、作業台の上に落ちるのを見た。 切断面から、丸くて白いものが見えた。骨かな、と思っているうちに、僕は死んでしまった。 そして気がつくと、工場の近くの空き地に寝ころんでいた。右腕を上げてみた。 手首から先は、ちゃんと付いていた。 次にやってみたのは、頸動脈を正確に狙って刺してみることだった。 幸いにも、うちには医学書がたくさんあった。父親の遺産だ。 頸動脈の位置をしっかりと把握し、どのくらいの力で刺せばそこに達するのか、計算した。 間違いなど無かった。一応言っておくが、僕は学校ではそれなりの優等生だ。 力を盲信するポンコツ教師たちの言うことをしっかり聞くし、テストでもそこそこの点数を取る。 計算は特に得意だった。…科学は苦手だったが。 間違いなど、一つも無い。僕の計画に、穴などなかった。だから僕は実行した。 後ろで飛沫が壁に当たる音がした。もう痛みなど感じなかった。恐怖も忘れていた。 ある種の快感と、興奮にも似た感覚を覚えた。 はっとして辺りを見回せば、後ろの壁に血痕などなかった。 僕は手に使ったはずの果物ナイフを持っていなかった。 そして何より、首に穴が開いていなかった。 仕方がないので、僕はキッチンに行った。 確か母親が切れ味の良い包丁を、新しく買ったはずだった。 一番新しい包丁を手に取り、刃の部分に指先を滑らせてみた。 紅い珠が出来て、それから崩れて床に滴った。これなら大丈夫だろう。 僕は笑って、勢い良くそれを首に突き刺した。僕の思考を正確に言うなら、首をぶった切った。 つもりだった。 僕はキッチンのステンレス製の流しに頭をつけ、 身体をくの字に曲げているという、何とも奇妙な格好で目が覚めた。 自分で言うのも何だが、ただの発狂した人間のようだった。とてつもなく、滑稽だった。 こういう経緯で、僕は手首、その他身体の部位を切り落とし、出血多量で死ぬ、ということを諦めた。 けれど、自殺するということを諦めた訳ではなかった。 むしろ、余計に興味が湧いてしまった。 どうすれば死ねるのか。どうすれば、この世界に根付く、不死鳥の力から逃れられるのか。 どうすれば―――この世界に囚われた檻の中から、抜け出すことが出来るのか…。 ある日、僕はバスに乗っていた。何処へ向かう? 自殺を望む人間にとって、その問いは愚問であった。行き先は、たった一つしか無いのだから。 僕がそこについた頃には、もう日が沈みかけていた。 バスの運転手が、そこで降りる僕を、哀しげに見た。 「本当に降りるのかい?」 本当に、運転手がそう聞いたのかは定かではない。 僕の脳内で、運転手は自殺を止めたがる人間、として定義されていたからなのかも知れない。 僕はその質問には答えなかった。口を開くことはなかった。僕は、その視線に笑顔を返した。 笑えていたのかどうかは分からない。僕の表情は常に、変化に乏しかったらしいから。 僕は樹海に入り込んで、日もすっかり沈み、暗くなった樹の下に座り込んだ。 月明かりだけが、その妙に開けた所を照らしていた。 そこには、まるでスポットライトを中てられた俳優のように、うじ虫だらけの首吊り死体があった。 僕はそれを眺めていた。 例えるなら絵画か何か芸術作品を鑑賞する人のように、静かに、黙って、じっとそれを眺めていた。 僕はここで良いよ。僕は思った。 高い所は好きじゃないし、目玉が飛び出るのも御免なんだ。それから目を閉じた。 非道く寒い冬の日だった。 何も、音は聞こえなかった。 目の前の死体がギシギシと揺れて、何かを語りかけていたけれど、何も、聴こえなかった。 けれど目を覚ましたら、僕は自分の勉強机に座っていた。 夢オチみたいな永遠の命。死んでも死ねない、悪夢の世界。それが、ここ。 まだ冬の日だった。周りがクリスマスがどうの、 正月がどうのなどと騒いでいる傍らで、僕は一人富士登山を決意した。 本音を言うとエベレストが良かったのだけれど、遠いので諦めた。 僕は一応学生という身分で、 パスポートを持っていなかったし、何より本州から出たことがなかった。 更に付け加えるなら、僕は英語が苦手だった。 きっと、外国に出ても目的地に到着することなく、彷徨い続けてしまうのだろう。 それはそれで死ねるのではないかとも考えたが、 僕が知らない街を彷徨いながら誰に見向きされることもなく、 ただ一人、路上に倒れて死んでいく、そんな姿を想像すると、ひどく、滑稽に思えた。 冬の富士は、冷たかった。雪と氷ばかりで、僕は一歩登るごとに恐ろしい量の神経を削った。 寒くて、寒くて、思考がぶっ飛びそうになった時、 今まで道の脇にある細いロープを掴んでいたはずの手が離れ、 タイミングを計ったかのようにつるり、と足が滑って、あっ、と思った瞬間、 僕は落下し、頭を打って、あっけなく死んでしまった… ということにはならないのだ。 頭の痛みで目が覚めると、僕は自分の家の椅子から転げ落ちていた。 明くる日近くの病院に行って、夜眠れないのだと言った。嘘だった。 僕はこの年齢では考えられない程長く寝ていたし、不眠症に悩まされたこともなかった。 至って健康だった。健康でないのは、僕の思考回路だけだ。 僕は隈を造り、嘘泣きの練習の成果を発揮し、処方箋を出してもらうことに成功した。 夜になると、僕はクスリを、出された分だけ飲み干した。全部、飲み干した。 多分、五シートくらいはあったと思う。しっかりとした、睡眠薬だった。 一緒にもらった説明書には、大量に飲みすぎると、 命に関わる危険性があります、みたいなことが書かれていた。 飲み干してからそれに一通り目を通したが、やばい、と思う気持ちは無かった。 むしろ、大歓迎! とさえ思っていた。 眠気が襲ってきて、あァ、さよなら、この世界。目を閉じる前にそう思った。 そして、起きた。 僕は死んでいなかった。あの量を飲んだら普通の人間では生きてはいない。 この世界ごと普通でないのだから、僕も普通ではないのかもしれなかったけれど、 僕は普通の世界に通用する、世界観を持っていた。 もしかしたら、死ねないこと以外は、案外普通の世界と変わらなかったのかもしれない。 でも僕は知りたかった。 「この世界は一体僕に、何を求めるって云うんだい?」 春が来たある日、僕は駅へ行った。 人に迷惑を掛けることになるし、あまり奇麗でないと聞いていたから、 出来ればやりたくない方法であった。でも、奇麗な方法では駄目らしい。 僕は決意して、家を出た。 …はずだったのだが、そこには先客がいた。僕の目の前を、ぐちゃみその躯が通っていった。 救急隊員の白い服と、布からはみ出て、だらん、と垂れた腕の紅さが、ひどく、対照的だった。 ぼうっとそれを見ていたら、ふっと気がついて、屋根の上に目をやった。 腕が一本、乗っかっていた。 担架に目を戻す。しなだれた腕の反対を見たら、そこにはあるはずのふくらみがなかった。 あれは、あの人のものなんだ。僕は確信した。ふっと視線を足元に落とした。 飛び出した眼球が、じっとこっちを見ていた。 あァ、いつかのあの人も、腐っていなければこんな目をしていたのだろうか。 僕はまだ新しい冬の記憶に思いを馳せていた。 それにしても、どうしてあの人は腐っていたのだろう。 うじ虫が湧くような日数を、腐敗臭のするような日数を。 今の人間は化学調味料だらけの食品を食べているから、 その躯は土に還ることすら困難だ、とまで云われる世の中であるのに。 それ以前に、二、三日もすれば生き返る、そのはずなのに。 「お前も来るか? どうせ、生き返るんだからよ」 目が聞いた。汚いから止めとくよ。僕はこれでも奇麗好きなんだ。僕は目に背を向けた。 ここで目の誘いに乗るとしても、電車が動き出すまで多少の時間を食うだろう。 無関係で待たされた上に気持ち悪いものを見て、さっさと自分の日常に戻りたい人たちにとって、 僕がここで割って入ってしまったら、迷惑極まりない話であろう。 僕はそう考えられるだけの理性は持ち合わせていた。 歩を進める。 「なんでぇ。来ねぇのかよ、意気地なし」 君に言われたくはないよ。 ひどく、目が愚かしく思えた。 仕方がないから、その日は家に帰った。 あの人もまた、二、三日後には生き返るんだ。僕は部屋に戻ると思った。 樹海の奥で、腐っていたあの人とは違って。 あの人の目は、もしも腐っていなかったならば、一体僕に何を話しかけたんだろう。 血塗れスーツを思い出して、馬鹿らしいなァと思っていた。 一酸化炭素中毒という方法は知っていたし、それはとてつもなく素敵だったけれど、 僕は生憎未成年で、車を持っていなかったし、運転技術、及び車についての知識は皆無に等しかった。 どこにどうホースを接続して、どうやって車内に一酸化炭素を送り込むのか、全然分からない。 考えついた人は、ある意味天才だと思う。僕には、全くと言って良い程、理解できなかった。 練炭を買うお金は、もったいないとさえ思った。 練炭と七輪を買いに行って、店員にいつかの運転手のような哀しげな目で見られるのも、 その人の中で、この人は自殺をしようとしているんだ、と定義づけられることも嫌だった。 科学の授業で一通りはやったけれど、 授業はほとんど理解出来ていないと言っても過言ではないし、何しろ集めるのが面倒だった。 一時期前に、硫化水素自殺というのが流行ったのだけれど、 あれは近隣住民に迷惑を掛ける上に、死後は肌が緑っぽくなるらしい。 僕は奇麗な死に方を望んでいた。人身事故を起こそうとした僕だけれど、 あの時は先客がいて良かったと思った。 何も知らないで行ったら僕はきっと、あの男と同じ道を辿っていたに違いない。 手は片方吹っ飛ばされ、眼球は視神経ごとぶち切られ、 片付けにも手間がかかるし、迷惑、被害も多大だ。 僕が入水自殺を選ばないのも、この死に様が奇麗とは言い難いものだからだ。 水を吸いすぎた躯はぶくぶくにふくれて、ゴム風船のようになるらしい。誰かが言っていた。 人間の肌は中から水分が出て行くことを阻止することは出来るが、 進入してくる水を拒むことは困難らしい。 そこら辺から来ているのだろうと、学生らしい頭で考えた。 僕はゴム風船のようになった自分の躯を想像してみた。 ぷっかぷっかと波に揺られながら、何の抵抗もなく、流れに乗っていく。 何かの拍子にぽこん、と何かにぶつかる僕。 その音はさぞかしマヌケなんだろうな、と思うと笑えてきた。 もしそのぶつかったものが生きている人間だったら? その人はぶくぶくの僕を見て、一体どんな反応を示すのだろう? 驚く? 叫ぶ? 哀れむ? それとも、馬鹿だなァ、と、僕が駅の男を見た目と同じような目で、僕を見るのだろうか? どれにしても、僕は関係のないことだったけれど。 僕はそのままぼうっと、同じ日常の上を滑るように暮らしていた。 不死鳥の力について授業も進めず熱く語る先生を、半ば呆れた目で見つめていた。 僕らは仮にも受験生なのだ。死なないから、金に困ったら腎臓でも何でも売れば良いのだが。 どうせ次の日には元通りになっているのだから。 「我々は永遠に生きられるだけの力を持っているのだ、それは素晴らしいことではないか」 彼は生徒たちに呼びかけた。多くの生徒が、賛同の目で彼を見つめた。 その力に、素晴らしいも何もない。あるのは虚無感だけだ。 一応優等生として通っている僕は、先生から見えないように、小さくあくびをした。 既に出だしからして気に入らなかった。 その後の彼の話は、聞いていなかった。昼寝の時間にした。 友人たちは、相変わらず笑っていた。まるで、笑うしか脳がないようだった。 いや、そうとしかインプットされていない、という方が的確なのかもしれない。 その笑みに、僕はいつも通りの表情で応えた。いつだっただろう。 僕の笑顔を見た友人の一人が、能面のようだ、と言った。 その日は家に帰ってから、鏡の前で笑ってみた。 確かに、能面のような顔をしていた。 学校が休みになる週末。 僕の通っている学校は特に進学校と言う訳でもないので、 休日返上授業といった訳の分からないものなどない。出される宿題も少ない。 朝早く目が覚めてしまった僕は、少ない宿題を手際良く終わらせた。そして、天井を仰ぐ。 何もない。 当たり前だった。古くなりつつある電球が、恨めしげに僕を睨んでいたようにも感じるが、 何故だか分からないので放っておいた。 いつしか首を切った時、後ろにあって、血飛沫の影響を受けたはずの壁を見てみた。 「おい、もう汚すなよ」僕は思いきって壁を睨んだ。 良いじゃないか、どうせ、どうせ、次に目が覚めれば生きているんだ。 どれだけ汚しても、死んだ前後のものは残らないんだ。 部屋中のものに責め立てられるような気がしてきて、僕は部屋を出た。ついでに家も出た。 誰もいなかったけれど、鍵はしていかなかった。盗まれるようなものなんてない。 今の時代、盗みをやる人も居ない。そう、答えは不死鳥の力を持っている、からだ。只それだけ。 どんなに生活が苦しくても、餓えの感情が心を満たそうとも、生きているのだ。 気を失った後、また目覚める。空腹感は消えている。 それに、内蔵を売ろうと元に戻るのだから、金などいくらでも手に入る。 もしも、盗みをこのご時世に続けている人がいるとしたら、 その人は余程の物好きか、発狂している人、に違いない。 残念ながら優等生である僕には、 笑うことしか出来ない下等生物(友人たち)との付き合いはなかったので、 家を出ても行く当てがなかった。欲しいものも特にない。読書などもそんなに好きではなかった。 ちっぽけな人間の、素晴らしい自己主張の詰まった物。 読んでいると頭痛がしてくるくらいだった。 でも、一度出てしまった家にすぐに戻るというのは至極阿呆らしい行為に思えた。 何故自殺を繰り返すということについては、 そう考えられないのか、その解(こたえ)は無かったが。 仕方なく、僕は家から少し離れた店の並ぶ「街」と呼ばれる区域に足を踏み入れることにした。 何も欲しいものは無くとも、暇つぶしくらいにはなるだろう、と、そう思って。 実際は、暇つぶしどころではなかったのだが。 街を僕は歩き回っていた。大したこともない、家が店に置き換わっただけの、狭い路地だった。 僕の興味を惹く何かが売っている訳でもない。 つまらない、帰ろうか、僕がそう思った瞬間、目の端を掠めたのは、一件の店だった。 僕は何かに惹かれるように歩を進めた。ディスプレイには「あお」色の小瓶。 中には、粉のような、液体のようなものが詰まっていた。 その色は一言で言い表すには難しく、一つ一つが違う色をしていて、全く同じものなど無かった。 澄んでいて透明に限りなく近い色をしているものから、深く深く沈んだもの、 「あお」の種類も青、蒼、碧、それからそれらの中間色など、さまざまだった。 そして僕は初めて、欲しい、と思った。 僕は気付くと店内に入り込んでいた。かららん、とベルが哀しげになる。 何故それを哀しいと感じたのかは僕にも分からない。 最近は、分からないことだらけだったし、 それが思春期の一種だろうと、僕はぼんやりと思って、思考内から追いやった。 僕の中には、他の思いもあった。 欲しい、という欲求から来る、早く触れたい、という焦燥だけでなく、 まるで運命の邂逅を果たしたような感動、なのに、前からずっと、その小瓶を知っているような、 その「あお」の意味を知っているような、郷愁感(ノスタルジア)―――。 ビンを食い入るように、或いは魅入られたように、見つめていると、ふと背後に気配を感じた。 そっと振り向くと、そこには雪のように白い女が立っていた。 「魅入られましたか」 女は口をきいた。おかしなことに、その口元は全く動いて居なかった。 しかし、この時の僕は何も気にしなかった。 女の不可解な程の美しさも、不愉快な程の微笑も、何も。 「でも、貴方にはまだ早そうですね」 女と僕は目が合った。ガラス玉のような瞳だった。 その奥に、さまざまな色をした「あお」が混ざり合って、 しかし互いの色(そんざい)を壊すことなく、存在しているかのようだった。 「いつになったら、僕はこれを手に入れられるのですか」 惹かれるようにして、僕は言葉を紡いだ。頭がくらくらとしているようだった。喉がひどく、渇く。 「近いかも知れません。遠いかも知れません。それでも貴方はそれを求めるのですか」 女は瞳を揺らした。 「その温度がひどく熱く、ひどく冷たいものだとしてもですか」 僕は頷いた。それほどまでに、それは僕を惹きつけたのだった。 「ならば、貴方はそれを必ずや手に入れるでしょう」 予言めいた、言葉だった。 非科学的なものは何一つ信じない僕が、その時だけはまるで―――そう、 まるで、魔力で操られるかのように、首を縦に振った。 いつの間にか、僕は店の外にいた。店には、「close」の札がかかっていた。 「あお」色の小瓶の並んだディスプレイは、カーテンに遮られてしまっていた。 その帰り、僕は遠回りをして、広場を通っていった。広場には噴水があった。 それを眺められる角度で、いくつかベンチが設置されている。 その中の一つに、老人が座っていた。 正確に言うなら、そのベンチの他には、誰に座られているものは無かった。 今思っても、殺伐とした風景だ。水の枯れかけた噴水に、伸び放題の草木。 その真ん中のベンチに、身なりが良いとは言えない老人が、一人。 異様な、風景だったのかもしれない。 僕が立ち止まると、老人は僕を見た。 もしかしたら、老人が僕の方を見たから立ち止まったのかもしれない。 順番はあやふやだった。その時の僕の記憶がひどく曖昧なものだから。 目があった。 老人はにこりと笑った。僕もそれに応えるように、にこり、と笑った。 次の瞬間、老人の胸にはナイフが刺さっていた。 老人は、自分自身で自分の胸にナイフを刺していた。僕は驚きもしなかった。 それは僕が何度となく繰り返してきた行為。頭をよぎったのは、あまりにも麻痺した感覚だった。 あァ、この人も、繰り返すのか。この、愚かな行為を。世界に対する、唯一の抗いの印を。 僕は何も言わずに、老人に歩み寄った。老人は力なく、僕を見上げた。 ガラス玉のような、瞳だった。 「看取っておくれ」 彼は言った。女のそれとは違って、彼の瞳はたった一つの色の「あお」しか映し出して居なかった。 彼の瞳は僕のそれと同じように黒だ。日本人の遺伝子は、そのままであった。 けれど、そこには「あお」が存在している。その矛盾も気にしない程、僕は彼に魅入られていた。 「本物の絶望なら、とうに視た」 そして、目を閉じた。 ―――もう、死んでいた。冷たくなっていく。 僕は老人を担ぎ上げた。死体は重いと訊いていたのがだが、彼の躯は僕の思うよりも軽かった。 僕はそのまま家へと帰っていく。僕を不審な目で見る人は居なかった。 それがさも当然であるかのように、僕の横を通り過ぎて行った。 その人たちはみんな、僕の友人たちと同じような笑みを称えていた。 それから数日。僕の部屋に横たえた老人が、目を覚ますことはなかった。永遠の命を持つ世界。 不死鳥のような人々。それは違ったのか? 今更ながら、僕の頭には疑念が沸いてきた。 低脳教師の言うことは、間違いだと思っていたはずだった。 けれども、目の前にこうして、 その間違いの証拠を突きつけられると、どうしたら良いのか分からなかった。 僕は、ひどく、動揺していた。 違うのならば、大人たちの定義する世界が間違っていると言うのなら、何故、 僕は死なない? 老人が目を閉じてから、百日後、老人の躯は崩れ去った。 その百日間、何もなかった訳ではなかった。 老人の躯は、ごく普通に腐っていった。 その腐敗臭は、本来なら生きている人間にとって不快極まりないもののはずなのに、 僕にとっては実に素晴らしいものに思えた。 何故この老人は「腐る」ということができるのだろう? 自然の摂理に反しない、ただそれだけの存在であることが出来るのだろう? その問いは僕を魅了して止まなかった。 だから、腐ってゆく老人は僕にとって、「汚い」なんてものではなく、 むしろ、「美しい」に分類されるものだったのだ。 崩れた老人は、「あお」い物体になっていた。 僕はそれを、まるで最初からそうするために僕が居たように、集めて小瓶に詰めた。 それは、いつか街の店のディスプレイで見た、小瓶に似ていた。でも、違うものだった。 小瓶の「あお」は、そこにあったどれとも同じではなかった。 最期にみた、老人の瞳の上の「あお」と、全く同じ色だった。僕はその色を、奇麗だと思った。 そしてやっぱり、何処かで見たことがあるような気がしていた。 沈むような「あお」。何かの色に、似ていると思った。 僕は毎日その小瓶を眺めて過ごした。その色は褪せなかった。 太陽の光を吸収して、光り輝く「あお」。老人はこの「あお」に、一体、何を込めたのだろう。 どうして僕はこの小瓶の「あお」に対して、懐かしさを感じたのか―――。 分からないことだらけだった。僕が死ねない理由も、この小瓶の訳も、この世界の在り方にも…。 小瓶を眺めるほか、僕が何もしていない訳ではなかった。学校も行った。 父親の書斎に入り込み、頭痛を抑えて読書もした。それぐらい暇だった。 自分のために、夕飯を作ったりもした。 いつか自分の首を切り落としたはずの包丁で、キャベツを切る僕は、 何かが間違っているような気もしたが、その中に、何一つとして異質なものはなかった。 包丁に血痕はない。父親もいつも通り居ない。友人たちも、相変わらずの笑顔。 異質なのは、僕、だった。分かっていたこと。それでも、再認識すると、笑いがこみ上げてきた。 僕は笑った。 この世界に対して。 僕という滑稽な存在に対して。 そんな滑稽な存在を産んでしまった両親に対して。 そして――― 僕は、突然笑うのを止めた。 何かが可笑しかった。僕は死んでいない。どれだけ自殺を重ねようと。けれど… 僕はキッチンから出た。隣にある居間に行く。 切れ味の素晴らしい包丁を握りしめたまま、テレビを付けた。 「我々人類は不死鳥の力を持つことにより、より安定した社会を築くことに成功したのです―――」 チャンネルを変える。 「次はスポーツ速報です―――」 変える。 「むかしむかしあるところに―――」 変える。 「今の時代、病院なんか必要ないのではないか?」 僕の手が止まった。見るからに頭の悪そうなアナウンサーの女が、大きな病院の前に立っている。 「そんな疑問が浮かぶのも無理はありませんね。 何せ私たちは、不死鳥の力を持っているのですから」 そうだ。死なないのなら、病気にかかろうが何しようが、助かるのだ。 「疑問を解決すべく、私たちは病院に行ってみました」 アナウンサーは院内に入り、エレベーターで上の階に上がっていく。 その間、僕は胸がざわざわするのを感じていた。 何かが分かりそうな、何かに気づけそうな、そんな予感。 でも、ずっと、何処かで引っ掛かっている。 「あ、入院患者が居ますねー。あの、すみません、何故入院しているのですか?」 患者が映った時点で僕はテレビを消した。 彼の目は恐ろしく暗かった。 何故あのアナウンサーは彼を目の前にして平気で居られるのだろう。 突如噴き出した汗が、ゆっくりと頬を伝っていく。僕はがたがたと震えていた。 彼の目の上にも、「あお」があった。 でもそれは限りなく黒に近くて、例えるならば、「あお」い血が凝固した後のような。 僕はその「あお」と非常に良く似た「あお」を、何処かで見ている。 そして、それが何なのか、本当は知っている。 けれど、思い出せない。 考えれば考えるほど、それは遠くへ行ってしまう。 狭い僕の脳内が、宇宙に変わってしまったように、際限なく広がる空間を、解(こたえ)は逃げていく。 「う…あ…っ」 気付けば、僕は震えながら嗚咽を漏らしていた。 一緒になって震える包丁が、がちがちと床に当たる。そこに小さな無数の傷を付けていく。 包丁が何かを訴えかける。 でも、僕はその時、包丁の言葉を聞く程、余裕は無かった。 テレビの中で「あお」を見てから、僕は家から出なかった。学校には調子が悪いと電話を入れる。 こういう時、優等生で良かったと思う。誰も、僕が仮病だなんて疑わない。 ただ、あの老人が残した「あお」い小瓶を見つめる毎日だった。食事も取らない。排泄にも行かない。 この年頃ではみんなやると言われている、自慰行為(マスターベーション)もやらない。 ただ、生きている。 そんな毎日だった。 でもそんな日々の所為か、僕は自分が生きているということを認識した。 ただぼうっとしていると、心臓の鼓動が聞こえてくる。筋肉の軋む音が耳を掠める。 僕は生きている。 果たして、それは誰が望んだものなのか? 僕は思考を止めた。そして、立ち上がった。 解(こたえ)は、宇宙を彷徨うものではない気がしていた。 もっと、近くにあると、僕は確かに感じていた。だけど、手が届かない。 まるで、結界がはられたその中に在るかのように。 家の中で、そんな結界が存在できるのは、一つしかなかった。 父親の、書斎。 僕は書斎の前で小さく深呼吸をすると、ドアノブに手を掛けた。軋みながらドアが開く。 僕はもう一度、息を吸った。 父親の書斎に入る。何か掴めそうな今、そこは全く違った空間に思えた。 「え…」 僕は思わず声を上げた。 僕しか居ない家の中で、僕が乱雑に本を置いたままにしておいた机の上が、 綺麗に片付いているのだ。―――誰が、一体、こんなことを。 机の上には、何もない訳ではなかった。一冊の本、いや。 日記帳が、きちんと整えておかれていた。そっと手にとって、表紙を開いてみる。 そこには父親の名前と、
これがいつの日か、世界に為らんことを
父親の字であろう文句が書かれていた。 ―――ここに、全てが在る。 僕は直感的にそう思った。これを開いてしまえば、もう後戻りは出来なくなる。 僕の世界が崩壊するかもしれない。それでも、僕は、震える手を掛けた。 望むのは、誰だ。 望むのは、何だ。 さっと頁をめくった。
不死鳥は、不完全だ
次の瞬間、僕は何も分からなくなった。 ふと目を開けると、僕は立っていた。辺りを見回してみる。全てがモノクロだった。 この今僕が見ている映像が、古いものだと言うことを、僕に知らしめるための演出だろうか。 僕の脳―――いや、もしくは、父親の。 もっと大きくしてしまったら、世界の、なのかもしれなかった。 そこは、僕の家らしかった。僕は玄関に居た。思うままに歩を進める。居間に着いた。 母親が居た。 「良いでしょう、これ。とっても良く切れるって評判なのよ」 僕が良く使っている切れ味の良い包丁を、少年に見せている。 「とっても、とっても、良く切れるのよ」 母親は笑っていた。奇麗だった。でも、それだけだった。 父親が居間に入ってきた。母親の手の中の包丁を見るなり、眉をひそめた。 …まるで、またか、とでも言うように。 「もう終わりにしよう」 「ええ。終わりにするわ」 それは、二人の間で長年交わされてきた、儀式のようであった。少年の後ろに、僕は立つ。 母親はまるで捧げるように包丁を持って、少年に微笑みかけて、そして――― まるで、映画か何かを見ているようだった。 切り取られた場面が、頭の中でストーリーを組み立てていく。 流れるように、でもどこかぎこちなく。 そして少年の悲鳴が居間に―――もしかしたら、近所中にも―――響き渡って、 「嘘、だろ」 僕は呟いた。何もかもがスローモーションだった。僕の感情、さえも。 少年が床に倒れ込む。尋常じゃない呼吸。過呼吸だろうか。 苦しさと恐怖から、涙が溢れて溢れて床に流れる。でもそれ以上の紅が、彼の目の前を染めていく。 僕からは色は見えなくても、色を想像することは、容易だった。 「と…う、さん」 少年の口に、白いビニール袋が当てられた。母親がゆっくり頬を撫でる。 頬にも、頬にかかる髪にも、紅がついた。匂いがひどく、鼻につく。 「大丈夫よ、もう大丈夫。もう、終わったのだから」 母親は呪文のように繰り返した。 「大丈夫よ。もう、大丈夫」 少年はそのうちに目を閉じた。呼吸は安定している。 目を覚ました時、彼は、このことを憶えているのだろうか…。 「もう、終わり」 母親の視線が、少年から父親に移った。僕の視線も、同じように動いた。 父親と、目が合った。 そこには、「あお」があった。凝固した青い血のような、黒に限りなく近い、暗い暗い、「あお」。 悲鳴だったか。僕の口から発せられたのは。 紅い血。効果音。「あお」。苦しかったのは、過呼吸になったから、だったっけ? 本当に、それだけだろうか。 沈む身体も、笑う声も、怨みをのせた唇も。全部全部、消えてしまえば良いのに。 そう願った。 そして、世界はその願いを叶えた。 次に目を開けると、今度は色がついていた。 映像だということは分かっていた。誰に教えられたでもなく、僕は気付いていた。 さっきのものより、新しいのだろうか? そう思った僕の視界に、母親が入ってくる。若かった。 ということは、さっきのものよりも、古い映像だということ。 この映像の母親もまた、包丁を手にしていた。キッチンから居間に行く。 そこには、また少年が居た。父親は居ない。 「×××」 母親が僕の名を呼ぶ。それに反応して、少年が振り返った。 手の中の包丁に気付いたようだったが、少年は何も反応を示さなかった。 「遣り直しましょう」 母親の甘い声。 「私が悪かったの。今度こそは、失敗しないから」 悲鳴はなかった。 鋭い切っ先が胸に刺さる瞬間、僕と同じ―――全く同じ顔をした少年は、 ひどく哀しそうな表情(かお)をした。それは、またか、と言っているようにも見えて、 僕はそれが何度もくり返されていることだと瞬時に感じ取った。 経験している僕と同じ顔の少年は、同じで同じではなくて。 何度も何度も、こうして終わらされてきたのだ、と、思ってしまった。 “僕”は抵抗の欠片も見せずにゆっくりと目を閉じると、床に沈んだ。 母親はそれを見た後、しゃがんで一度だけその“僕”の頬を撫でて、やさしく、額に接吻けた。 「大丈夫、きっと、また会えるから」 そう囁いて、立ち上がる。そのまま、去っていった。 僕は死んだらしい“僕”に近付いた。僕が前に立つと、“僕”の瞼が微かに揺れて、 「…あ」 “僕”が目を開けた。 《生きてるんだね、僕は》 “僕”は笑った。 「君はもう死んでしまうよ」 僕は言った。 今こそは生きていて、僕と会話をしているが、胸を一突きにされては生きてはいられまい。
不死鳥は、不完全だ
父親の文字が目に浮かぶ。父親が言いたかったのは、このことだ。 不死鳥が完全ならば、この“僕”は死なない。 従って、今の僕には、母親に殺されたという記憶が残るはずなのだから。 《違うよ。“僕”という存在は、生き存えることができるんだね、って意味だよ》 “僕”はケタケタと笑った。年相応の笑い方だった。 「そうか」 《生きてるんだね?》 「まぁね。あまり良いものとは言えないけれど」 僕も笑った。自嘲気味だったと思う。 《それでも生きてるんだろう? 良いじゃない》 偽りのない笑みだった。僕はこんな風に笑えたのか、と思う。 《生きてるってことは…あの人は、死んだの?》 あの人。聞かなくても分かってしまう。 「分からないよ。でも、今僕の前には居ない」 《なら良いや。 僕らを殺したのに、君があの人と幸せになってたりしたら、耐えられないかもしれないしね》 行方についてはどうでも良いようだった。 《君は何番目の“僕”なの?》 「…分からないな」 そもそも、この“僕”が本当に僕なのかさえも怪しい。 《記憶、ないの?》 「僕が本当に君だったと仮定して、君の時の記憶があるかっていうと、ないね」 《そっか》 “僕”はそれほど気にしなかったように、 《まぁ良いや。君は生きてるよね。 記憶を持ってない時点で、もう君は生きることが決まってたんだよ、きっと》 続けた。笑顔を絶やさずに。 《君は生きてよね。僕らの分まで…なんて言ったら、君は嫌がるだろうけど》 「良く分かってるじゃん」 《僕は君だからね》 えへへ、と“僕”は笑った。僕も、笑ってみた。 《君、笑い方下手だと思ったけど、案外良い笑顔するね》 「僕は君なんだろ?」 二人で声をあげて笑った。 何も、見えなくなった。 目覚めると、僕は書斎の机に突っ伏していた。 もう日記はそこにはなかった。辺りが濡れていて、辿ると自分の瞳だった。 あの僕が首を貫いた包丁と同じではないにしろ、同じように、“僕ら”は殺されてきたのか。 …他者によって。 胸にぽっかり穴があいたような、喪失感。 “僕”の言った言葉が帰ってくる。 《君は生きてよね》 望んだのは、紛れもない、僕自身だ。では、死を望んだのは? 母親、それとも――― 解(こたえ)は、一つしかなかった。 「父さん、あんただったんだ」
希望は、世界を存続させる為の唯一の鍵
続く言葉。
望めば希望は与えられる 皮肉なことに
それでも僕は生きているんだ。そう思うと全てが馬鹿らしく思えた。 僕がやってきたことは全部、父親からの伝言(しっと)だったなんて。 どれだけ人が僕を憎もうと、蔑もうと、僕が僕で在り続ける限り、 そして、母親が僕を望む限り、この世界は終わらない。 それが、彼女の遺した、最期の伝言(あい)。
全て、終われば良いと思えば、世界は崩壊する
父親は、僕の世界が崩壊することを望んでいた。 そうすることが、僕を選んだ母親に向けた、最期の復讐だったのだから。 “僕ら”を殺し続けて来たにも関わらず、 僕を選んだ母親から、僕を希望としてしまった母親から、希望を奪うために。 彼女の世界を、遠回しにでも、壊す為に。 書斎を見渡せば、窓の所に小さなビンを見つけた。 濁りきった「あお」だった。それが誰だったかなんて、考えずとも分かった。 僕はそれを抱きしめた。 これは愛なのだ。 僕は自分に不似合いな言葉を思った。 歪んで、歪んで、歪みきっていたけれど、これは、間違いなく愛、だったんだ、と。 それを疑う意味はなかった。 あの老人も、父親も、僕と同じように生かされていたのだろうか。 そして、絶望したのだろうか。僕もいつか、あんな風に、「あお」い何かになるのだろうか。 それはもしかしたら、明日かもしれないし、もっとずっと先のことのような気もしていた。 それから、なんかどうでも良い気もしていた。 でももしも、僕がそうなったのなら、 その「あお」は今日の空の色と一緒なのだろう、そんな気がしていた。 窓の外を見た。 雲が、ひどく白く見えた。 部屋に戻った僕は、老人のビンに並べて濁ったビンを置いた。そして、眺めながら思考する。 彼女は僕に生きろと言った。貴方は最高の子供だ、と言った。 それがいつの記憶か分からなくとも、真実であることは確かだった。 兄弟の中で死なずに残った僕。いや、殺されずに、消されずに、望んで残された、希望。 それはまた一から遣り直したのかもしれない。あの、“僕”が言ったように。 僕より先に生まれて、そして殺されていった彼らもまた、僕なのかも知れなかった。 ―――そう、まるで、死ぬ時に燃え上がり、また焔の中から生まれる、不死鳥のように。 今か今かと希望を待ち続ける彼女に、与えられた、魔法。 僕は生きる。例え誰が望んで、誰が怨もうとも。 僕がこの世界に、絶望しきらない限り。
20120601
20150309 まとめ