その11:にっかりちゃんの場合(わたしはヒーロー) 日下黎音、と字で書いた時にまず日下の方がにっかと読まれ、違うと言ったところでじゃあなんて読むのと問われるのでひかげりおだよ、と答えていました。そんなやりとりが何度か続いた中で、あだ名がにっかりちゃんに決まるまでそう時間はかかりませんでした。 にっか、でりお、だからにっかり。間違いから生まれたその名でしたが同じ名前の美しい日本刀があるというので、にっかりちゃんはその名がすぐに好きになりました。ペンは剣よりも強し、とも言います。にっかりちゃんはその名をもらえたことがなんだか運命のようで、とても嬉しかったのです。にっかりちゃんはとても小さな存在です。けれどもそれでも戦えるのだと、弱いだけの存在ではないのだと、そう示せたようで、そう示していけるようで、なんだかとても、嬉しかったのです。 その思いはにっかりちゃんよりも少し前に此処へとやってきた、かじいくんの身体が弱かったことからも影響を受けたのかもしれません。にっかりちゃんよりも大分年上の彼女はどうにも体調が優れないことが多いらしく、よく休んでいました。にっかりちゃんは彼女を守らなければならないと強くそう思ったのです。庇護欲、でしょうか。それとはまた違ったような気がします。 彼女がいつだって弄んでいる檸檬をはちみつ漬けにして食べさせてもらったからでしょうか、それも違うような気がしました。好きなのかな、と思いました。でもそれも違う気がします。なんなのだろう、にっかりちゃんは首を傾げました。 「ねえ、どう思う?」 かじいくん、とにっかりちゃんは問うて見ます。かじいくんは身体は弱いですが頭はとても良かったのでにっかりちゃんの疑問に答えてくれると思ったのです。 「難しい、ことを聞きますね」 かじいくんは笑いました。 「ぼくが貴方の何を断定することも出来ないのですが、そうですね、ぼく自身としては君のそれは恋ではなく、………家族、とか。そういう感情に近いのではないでしょうか」 「それは、かじいくんが僕に恋をされたら困るから、ってこと?」 「いいえ?」 違いますよ、とかじいくんはまた笑います。入院から帰って来た彼女は少し元気になったのか、よく笑うようになりました。 ―――ずっと、笑っていてくれたらなぁ。 にっかりちゃんはそんなことを思います。それも伝えますと、かじいくんはちょっぴり照れたような顔をしてから、ありがとうございます、と言いました。 「やはり、家族のような感情ではないでしょうか」 「かぞく」 「ぼくには、まるで兄の言葉のように聞こえましたから」 あに。つまり、彼女はいもうと、ということで。 妹。 その言葉は予想以上にしっくり来た。 「うん」 「納得していただけましたか?」 「もちろん」 ありがとう、と言うと、どういたしまして、と返される。 「君に近寄る悪いやつは、僕が斬ってあげるからね」 「頼もしいですね」 だって、よく斬れる日本刀と同じ名前をしているんだよ、僕―――と続けると、かじいくんはまた笑ってくれました。 この笑顔を守るんだ、兄として。と思ったら、俄然力が湧いてくる気がしました。 * 日下黎音(ひかげりお) プラチナ#3776 センチュリー・シャルトル・ブルー +エルバン エンパイアグリーン 持ち主:僕 *** その12:ながまさの場合(僕は魔女で良い、貴方の声を奪いたい) 長田國長はその名前に長≠ニいう字が二つも入っていることが気に食わなかったのですが、新しく引っ越してきた場所で先輩に出逢って、本名に微妙にかすっているのかいないのかよくわからないあだ名なんてものを付けられて、正直なところ本名が気に入らないことなんてどうでもよくなっていました。 「ながまさ」 どうしてか彼女たちはそう呼びます。たち、というと二人ともから呼ばれているようですが、実際にはよく喋る方がそう呼ぶだけで、もう一人の方はうんともすんとも言いません。美しい子なのになあ、と思いながらながまさは二人の会話(一方的)を眺めていました。 喋れない、訳ではないのでしょう。ユキちゃん、ユキちゃん、とまるでひとつ覚えのように繰り返す彼女たちの会話(一方的)を眺めながら、ながまさは思います。ユキちゃんと呼ばれる彼女はまずそもそもきっと名乗ったからそう呼ばれているのでしょうし、ながまさは彼女が小さく、本当に小さく相槌を打つのも、時折何か答えようとしている仕草も、目撃しているのです。 でもきっとマシンガンのような彼女には通じていない、とも思っていました。 ですので、いつもながまさは可哀想だなあ、と思っていました。ユキちゃんのことがとても不憫でした。喋る能力は持っているのに、それをうまく使えないだなんて、なんて不幸なことでしょう! 彼女が喋ることがすぐに出来たなら、きっともっとユキちゃんはハナちゃん―――マシンガンの彼女です―――と仲良くなれていたことでしょう。 と、そこまで考えてながまさはつきん、と自分の胸の辺りが痛むのを感じました。どうかしたのでしょうか、ながまさは首を傾げました。ユキちゃんとハナちゃんが仲良くなることは、きっと素晴らしいことです。とりあえず、ユキちゃんにとっては素晴らしいことでしょう。なのに、つきん、だなんて。まるで―――まるで、ユキちゃんに喋ってほしくないみたいです。まるで、ユキちゃんとハナちゃんがこれ以上仲良くなってほしくないみたいです。 そこまで考えて、あれ、と思いました。 ながまさの目からはぽろぽろと涙がこぼれ始めていました。気付いたハナちゃんがどうしたの、と寄ってきます。その後ろでユキちゃんも、心配そうにこちらを見ています。 「大丈夫」 ながまさは言いました。 「何でもないから」 涙は、止まりませんでした。 * 長田國長(おさだくになが) サボテン 持ち主:僕 *** その13:アカネちゃんの場合(世界がその時まわる) 城澤茜はどちらかと言えアカネくんと呼ばれることが多かったのですが、この物語では敢えてアカネちゃん、と呼ぶことにします。アカネちゃんはアカネちゃんと呼ばれることを正直なところ嫌がっていて、ひとによってはお腹の底から声を出して怒るくらいには嫌がっていたのですが、ただひとり、アカネちゃんをアカネちゃんと呼んでも何も言われない子がいました。 何故かと言えば、アカネちゃんがその子に心酔していたから、というしかないでしょう。 アカネちゃんは花が好きでした。というか、花以外に何も好きなものなどありませんでした。此処へやって来た時アカネちゃんがはじめに思ったことは、花のない最悪の場所に来てしまった、ということだったのです。ああ、自分は貧乏くじを引いたのだな、といつかそう遠くない終わりまでをつまらなく過ごす計画を立てていたところで、アカネちゃんはその子と会いました。 正確に言えば、声を聞きました。 もっと正確に言えば、歌、でした。 アカネちゃんはそろそろと立ち上がって、ふらふらとその歌の源を探そうとしました。その姿を面白いものを見るように見ていた先輩にして同僚は、あっちだよ、と指をさしました。この子もアカネちゃんをアカネちゃんとよく呼んで怒られる一人なのですが、実のところこれがあったのでアカネちゃんはその子に強く言うことが出来ないのではありました。が、それはアカネちゃんの中でのすこし、すこうしの差異であるので、傍目にはすべて同じように見えるのでした。 ともあれ、その子の導きでアカネちゃんは歌の主を見つけました。野暮ったい、子でした。そんなことを思ったのは失礼だったでしょうか。横たわって動かないまま、まるで死んでいるかのようでした。でも、口元が動いているのはアカネちゃんからも見えます。 「あの、」 勇気を出してアカネちゃんは踏み出しました。ふつり、と歌が止みます。 「今日、此処に来ました。城澤茜です」 「しろさわ、あかね」 「貴方の歌が、すごく、美しくて…その、あの、素敵だなって」 そう言えばその子はすごくすごく驚いたように目を見開きました。響き渡るような表情ではない中で、元々大きな目が今にも零れ落ちそうなほどに。 「………そんなこと言われたの、はじめて」 「まさか」 「嘘をついてどうするの」 この歌を褒めないひとがいるなんて! アカネちゃんはびっくりしました。 「でも、貴方の歌は本当に素晴らしいのに」 「やめて、照れちゃう」 「でも、褒めたいよ。だって、」 「だめ」 よいしょ、とその子は起き上がりました。それからふんわり、笑って自己紹介をしていなかったね、とアカネちゃんを見ました。 「私は大川氷歌。ヒョーカちゃん、って呼ばれてるよ」 「ヒョーカちゃん」 「あれ、よくみたら君と私、とっても似てる。私もアカネちゃん、って呼んで良い?」 断る理由などありませんでした。 その日から、アカネちゃんの好きなものに歌、が加わりました。 * 城澤茜(しろさわあかね) iPhone4 32 白 持ち主:僕 *** その14:ヒョーカちゃんの場合(僕の歌を褒めてくれたのは貴方だけ) 大川氷歌は実のところ一番の古株でした。周りからはヒョーカちゃんと呼ばれ、重たくなった身体を引きずりながら、みんなのことを見守っていました。 ヒョーカちゃんのお仕事は歌うことです。ヒョーカちゃんはそれくらいしか出来ないのですが、元々身体が丈夫だったのもあり、いろいろなひとの入れ替わりを見てきました。別れというのはいつもつらいものだな、と思いながらみんながいつか幸せになれるように歌うことが、ヒョーカちゃんに出来る唯一のことでした。 いつか、ひなちゃん(消去法でそう呼ばせてもらうことにしていました)にヒョーカちゃんは言われたことがありました。 「おまえは、いつでも周りを見ているな」 ヒョーカちゃんはそうですか? と首を傾げました。周りを見ている、という意識はヒョーカちゃんにはありませんでした。どちらかと言えばいろいろなひとと関わる機会の多いひなちゃんの方が、ヒョーカちゃんから見れば周りを見ている≠ニいうように見えました。 「………アカネのこと」 その名前を聞いたヒョーカちゃんは、どきり、と胸が鳴るのを聞きました。 「分かってたんだろ」 ヒョーカちゃんは、どう答えれば良いのか知っていました。だから、笑います。 「なんのこと、でしょう?」 ヒョーカちゃんは、アカネちゃんのことについて、何も、分かっていないのです。それが、ヒョーカちゃんの中では真実なのです。 「アカネちゃんは、確かに、とてもよくしてくれましたが」 ひなちゃんの瞳がじっとヒョーカちゃんを見つめました。そんなに見つめても何も出ませんよ、と言えば、困ったようにひなちゃんは唇を噛みました。 ひなちゃんがどうしてそんな顔をするのか、ヒョーカちゃんには分かりませんでした。 分からないということに、なっていました。 * 大川氷歌(おおかわひょうか) iPodtouch まさかの初代 16 持ち主:僕 *** その15:みさきくんの場合(君の心の底を暴いてみせるよ) 三先空青(みさきあきはる)が迎え入れられた時、其処は外出先でしたので彼の前にいたのはまるで生き別れの兄弟のようにそっくりなひとひとりでした。そのひとはみさきくんの名前を聞くなりふっと笑って、 「まだ夏だと言うのに秋ですか」 と言いました。失礼なひとです。名前を選ぶ権利は他のすべてと同様にみさきくんにもありませんでしたし、そもそもみさきくんはこの名を気に入っていたのですから。 なので、言い返すことにしました。 「夏と言ってももう終わりかけですしね」 にっこりと。しかしそのひとはそんなみさきくんの反撃を予想していたようでした。 「それに、雨なのに晴れとは」 なんなのでしょう! 確かにその日はざあざあと雨が降っていて、とても晴れとは言えない天気ではありましたが! こんなにも似ているのですからまず親近感やら何やら持っても良いでしょうに。このひとにはみさきくんと仲良くする気がさらさらないようです。 一体どうしてでしょう。みさきくんはうなりました。一見お上品な顔をしたそのひとどう返せば良いのか分からず、 「…でも、晴れ男ですから」 そう返すのが精一杯でした。雨女は別にいますし、別にみさきくんの門出が雨になったのにみさきくんの名前は関係がないはずです。 なんなのでしょう、みさきくんはまた思いました。このひとは、名前にコンプレックスでもあるのでしょうか。 「千野先生」 その時澄んだ声がしました。か細い声と言っても差し支えない声でした。 「今、よろしいですか?」 「はい、大丈夫えすよ。かじいくん」 そのひとは彼女の方をすっと向いてしまって、その瞬間みさきくんにはははーん、と繋がったのです。 彼は、彼女に恋をしている、と。 でもそれが彼の名前コンプレックス(仮)と何の繋がりがあるのか、その時はまだとてもとても勘の良いみさきくんでも分かりませんでした。 * 三先空青(みさきあきはる) カクノ水色+パイロット青インク 持ち主:僕 *** その16:トーマの場合(それは傲慢だった) 長谷部祷真(はせべとうま)は正直なところ、自分に自信がありませんでした。トーマはとても気持ちがよく字が書けるのでそれはそれは褒められることが多かったのですがしかし、それは同時に同僚の仕事を奪うということでもあったのですから。真面目なトーマはずっとそれを気にしていました。はやく、謝らないといけない。そう思っていました。 トーマの苗字は、とてもよく斬れるという日本刀からもらったものでした。自分にはそんな斬れ味はないのに、とその名前を恥じることがトーマにはよくありました。同じく日本刀の名前をもらった彼女―――いえ本当は彼なのですが、便宜上彼女―――の仕事を取ってしまう形になってしまったことも、それに一役買っていたことでしょう。いつか、彼女に謝らなくては。別に、彼女がトーマより劣っているなど、そんなことはないのに、あとからやってきたトーマがまるですべて横取りしてしまったような、そんな―――とぐだぐだうじうじしていたのは、どうやら口に出ていたらしく、目をまんまるくしたその張本人が君、そんなことを思っていたの、と呟いていました。 「日下」 「そんなことを思っていたの」 「俺は、その、」 「僕は質問しているんだけれど」 「………思っていた」 こんな、ふうに。 謝りたかった訳ではないのに。 「本当に、すま…」 ない、とまでは言葉になりませんでした。 だんっと音がして、それは彼女が蹲っていたトーマの横に、脚を踏み下ろした音でした。まるで踏むのを避けてやったんだ、とばかりの勢いでした。今度はトーマが目を丸くします。 「………そう」 「だから、」 「ちょっと黙って。僕は別に君に仕事を取られたとは思っていないし、君と僕とではどうやったって違う部分があるのだし、それは個性と呼んで差し支えがないだろうし、誇るべきものだ。褒められることだって、肖った名前を授かったことだって、誇って良い。君が嫌いではないのなら、それを恥じていないのなら、胸を張っていれば良い。君が来てから確かに僕の仕事は減ったけれど、その代わり手紙を書くという重要な仕事が殆ど僕の専任になった訳だし、君は君で、僕は僕で、ただ、それだけなんだよ。まあ、今のを全部一つにまとめると、」 すう、と彼女は息を吸いました。そして、初めて聞くような低い声で言います。 「自惚れんな」 * 長谷部祷真(はせべとうま) セーラー プロフェッショナル ギア 長刀エンペラー +色彩雫 紫陽花 持ち主:名も知らぬ誰か→僕 *** その17:すおうくんの場合(馬鹿ばっかりでやんなっちゃう!) どうも彼、僕のことで気に病んでいるみたいなんだよねえ。 その言葉に目を丸くしたのが蘇芳清光(すおうきよみつ)でした。少しばかり長谷部くんよりも先に此処にやってきたすおうくんは、おんなじように日本刀の名前をもらった彼女(厳密には彼なことは分かっているのですが、勘違いをしているひとがひとりいるようなので彼女と呼んでいます)とはそれなりに仲良くやっていました。その中で確かにふたりとおんなじように日本刀の名前をもらった彼(こちらは普通に彼です)が妙によそよそしいのは分かっていたのですが、まさかそれがそんなこと≠セったなんて! すおうくんには信じられませんでした。 「まあ分からなくもないけどね」 「黎音は優しすぎ」 「清光だって分からない訳じゃあないだろう?」 「でもオレは黎音みたいに優しくなんかしないよ」 だってそういうの、何よりもきらいだもん、とすおうくんが頬を膨らませると、かわいいね、と彼女は言ってくれました。 ああ、本当に傲慢もいいところです! 彼女と別れた後もすおうくんはそう思いました。とても腹が立っていました。だってすおうくんたちには仕事があって、それが分担されるということは確かに一人ひとりの仕事量が減るということではありましたが、そのひとの何かが消えるという訳ではまったくなかったのですから、そういった卑屈な考え方をする長谷部くんが信じられなかったのです。そして、そんなふうに思われている友人のことも、馬鹿にされたようで、悔しくて、たまらなかったのです。 「でも、」 僕がおどかしてしまったからね―――と彼女は言いました、だからすおうくんが何をすることもないのです。ないのですが、呟くことくらいは赦されるでしょう。 友人のために。 自分のために。 「オレはお前が馬鹿にされたことが、とてもとても嫌だったんだよ」 アイツを殴りたくなるくらいには、とぎゅっと握った拳は、そのまま何処へいくでもなく力を失っていきました。行く場所もないのだから、それが正しい答えなのでした。 * 蘇芳清光(すおうきよみつ) ジンハオ レッドゴールド +モンブラン バーガンディレッド 持ち主:僕 *** その18:つぐるんの場合(アイドルなので春を呼ぶよ) 春日告(かすがつぐる)は自分のその名前をとても気に入っていました。だって、春の日を告げる、なんて、とっても自分にぴったりな名前でしょう! と、言ったようなところから窺えるとは思いますが、彼は少し自分が大好きな傾向にありました。ぼくのことはつぐるんと呼んでね! と言ってばちーんとウィンクを投げるような、そういう典型のタイプでした。しかしまあ、それが様になるのですから世界は残酷ですね。周りのみんなもつぐるんがそう言うなら、と大体のひとがつぐるんの望みを叶えてくれました。 問題は、つぐるんの望みを叶えてくれなかったひとびとです。厳密にはふたりなのですが、ひとりの理由はとてもとてーもよく分かっているので(そしてつぐるん自身もそれを許せるので、いえ、許さざるを得ないので)置いておいて、もうひとりの理由はまったく分かりませんでしたので、それもつぐるんの魂に火を付けました。どんな魂って、アイドル魂です。つぐるんはこの中ではアイドルなのです。それを無下にするとは何事でしょうか! ですから、 「ひめちゃん!」 地面を蹴って一飛び。とっても軽い身のこなしで彼の目の前につぐるんは降り立ちました。ひめちゃんと呼ばれた彼は心底嫌そうな顔をしましたが、つぐるんの運動能力に敵うことがないと分かっているのでしょう、逃げようとはしませんでした。 「ねえ、」 つぐるんは逃げられないのを良いことに、その手をとります。少し怯えたように震えたその手に、つぐるんはキスを落としました。 「おれは、アイドル、だよ?」 ぽかん、と。 その顔は多分とっても貴重なのだろうなあ、とつぐるんは思って、そのあと彼にチョップするまでにこにことその表情を眺めていたのでした。 * 春日告(かすがつぐる) 加賀万年筆 梅に鶯 +宮洋墨 かけおちグリーン 持ち主:僕 *** その19:ニコくんの場合(君に話したいことがたくさんあるんだ) ニコラス・フラメルなんて大層な名前をニコくんは気に入っていなかったので、でもどこか笑顔を思い浮かべるそのあだ名は気に入っていたのでニコくんはニコくんと呼んでね、といつもにこにこ笑って言っていました。ですからみんなはニコくんのことをニコくんと呼びます。彼の本名を知らないひとさえいるくらいです。別にニコくんは何かを作り出すことは出来ません。ニコくんが出来るのは記録すること、だけです。ですからその大層な名前はとりあえず自分には似合わないと、ニコくんはただのニコくんであるというのがニコくんの主張でした。 そんなニコくんはその性格に反して、あまり友達がいませんでした。何故かと言いますと、それはニコくんがよく旅をしているからなのでしょう。それはニコくんに任せられたとても大切なお仕事ではありましたのでニコくんは苦には思っていませんでしたが、ひとり、ニコくんのその状況を案じてくれるひとがいました。 何を隠そう、それはひなちゃんです。 ひなちゃんはひなちゃんと呼ぶと怒るのでニコくんは飛成と彼を苗字で呼んでいましたが、それでもどこか不機嫌そうな顔をするので困ったひとだなあ、といつも思っていました。しかしそこはニコくんの方が大人になります。だってひなちゃんと仲良くしていなければ困るのはニコくんですからね! ひなちゃんはニコくんの数少ない友達なのですし、お仕事をする上でひなちゃんにはいてもらわなくてはいけません。そんなひとと仲良く出来なかったら、なんて考えるだけでぞっとします! とは言っても、ニコくんがひなちゃんのことを嫌いという訳ではありませんでした。どちらかと言えば二人は仲が良いと言えたでしょう。ひなちゃんが誰とも仲良く出来る特技を持っていることはさておき、その中でもいっとうニコくんのことは仲良しと思ってくれていることを、ニコくんは自惚れではなく知っていました。 「飛成」 だから、ニコくんは今日も笑います。 一年に一回、話せば良い方になってしまった友達に。 それはニコくんやひなちゃんが悪い訳ではないのです。二人が仲が悪くなってしまった訳でもありません。様々に折り重なった事情が事情でニコくんとひなちゃんはそうたくさん会えなくなってしまっただけなのです。 「…今度は何処へ行って来たんだ」 ひなちゃんがいつもの不機嫌そうな、でも本当のところ別段不機嫌ではない顔で問いかけます。 「ええとね、今度はね―――」 そうしてニコくんはひなちゃんに、一番の親友に、今度の旅のはなしをゆっくり、ゆっくり語り始めるのでした。 * ニコラス・フラメル Nikon D5100 持ち主:名も知らぬ誰か→僕 *** その20:執事くんの場合(秘密) 執事くんには日辻生形(ひつじおがた)というどっちが苗字なのかよくわからない名前があったのですが、ジョルノさんと出会って貴方、今日から私の執事ね、と言われてから執事くんは執事くんになりました。執事くんの仕事は彼女たちをサポートすることで、正直なところ執事くんにそれ以外のお仕事は期待をされていなかったのです。唯一のお仕事でした。ひとりでは何も出来ないのね、とジョルノさんは悪意なく笑って言うことをしていましたが、まあその通りなので執事くんは本物の執事らしくだまーって彼女の言葉を聞いているだけでした。執事くんが何かするのは彼女にリアクションを求められた時だけです。彼女はとても箱入りでしたので、彼女よりもすこーしだけ長生きの執事くんは彼女の横暴さを受け入れていました。というのも長生きだからというだけではなく、執事くんには執事くんと勝手にされても自分を持っていられるだけの余裕があったからでした。 執事くんは大変な秘密を握っていました。それは彼のすべてを握ることになったジョルノさんにも秘密の秘密です。彼の敬愛する少女が掴んできた、恋する少女が掴んできた、絶対の秘密なのです。 それを再生出来るのは最早、クリスくんだけでした。 ジョルノさんには逆立ちしても出来ないことでした。もちろん、そのあとにやってきたあかねくんにもかつみくんにも、更には水浅葱にも無理です。時が経つにつれて執事くんは自分のその状況をどんどん嬉しく思うようになりました。だって、執事くんとアリスの秘密はひなちゃんにも再生不可能で、クリスくんはそんなことをしないし、そもそも彼だってもう何処にもいないのでした。執事くんは秘密を保持するものとして、ただ待機することを命じられました。執事くんはジョルノさんに貴方、今日から私の執事ね、と言われた時のようにすんなりとそれに応じました。 執事くんは今、暗い箱の中で眠りについています。 執事くんの秘密は、今もまだ執事くんとアリスだけのものなのです。 * 日辻生形(ひつじおがた) SDカード *** 20170417 |