その1:モンブランさんの場合(私を愛して王子様) 

 アリス・モンブランはとても可愛らしい子でした。他の兄弟たちよりも少しばかり遅くうまれたアリスは、一人だけなんとかイヤフォンというものがつけれられるように工夫がされていました。兄弟たちは耳がとてもとても小さくて、どうやってもイヤフォンをつけることは出来ず、アリスもそうだったのですが、優しい兄弟たちはアリスのためにだけ首から下げるタイプのイヤフォンを用意してくれたのです。なんて優しい兄弟でしょう。
 そんなこんなでアリスは兄弟の中でとてもとても愛されて育ちました。ですがそれで我が侭になった、なんてことはありません。兄弟たちはアリスをとても可愛がりましたが、その反面、いろいろなことにも挑戦しました。山登りもさせましたし、バンジージャンプをもさせましたし、とにかく、あちこちにアリスを連れ出していろいろなことをさせました。アリスはそのいろいろなことを楽しんでいたので、とても天真爛漫で行動力のある子に育ちました。
 そうして、幸せな日を送っていた日のことです。アリスは他の人のところに行くことが決まりました。どういうやりとりがあったのかは知れませんが、そういえばアリスは道案内が得意ではありません。最近の子たちは道案内がとてもとても得意らしいのです。それを考えると、引っ越しは妥当な判断でしょう。アリスはすこししょんぼりしましたが、このまま捨てられて死んでしまうよりもましです。そう思って身支度をしました。
 そして、彼を見ました。アリスは直感しました。
「わたし、きっと、この人のところで死ぬのだわ!」
それは本能のようなものでした、定められた運命に触れたような心地でした。アリスの中で、彼は運命でした。どきどきと、胸が鳴っていました。死ぬことは怖いことだったはずなのに、アリスは今、胸を高鳴らせてそのことを喜んでいます。何故でしょう、何故なのでしょう。きっともう他の兄弟には会えないのに、それでも、アリスは嬉しいのです! ああ、悪い子!
 お兄さま、とアリスは思います。アリスはお兄さまが大好きでした。真っ黒の、いつだってぶっきらぼうで、でもいつもいつも優しかったお兄さま。アリスのそれはきっと恋でした。お兄さまに、アリスは恋をしていました。
 さいごに。
 さいごに伝えたかったな、そう思いながら、アリスは口をつぐみます。もう会えないのならば、その恋はずっと心にしまっておくのがいいでしょう。そして、次の彼に愛してもらうのです。そういうものです、その方が良いのです、その方がしあわせです。アリスは賢い子でした、だからそれが分かっていました。
「アリス、アリス」
 それは大切な名前でした。ですから、彼のもとへついた時、アリスはにっこりと笑ってこう言いました。
「モンブランと申します。さいごまで、よろしくおねがいしますね!」



アリス・モンブラン
 docomo N-04A ブラウン
 四人兄弟の末っ子
 持ち主:僕→先輩

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その2:ジョルノさんの場合(何も出来なくたって良いの)

 ジョルノ・マーカーベリックはとてもとても甘やかされて育った、それはそれは絵に描いたようなお嬢様でした。小さくて軽い、ジョルノさんが自慢出来るのはそんなところでしたが、正直なところそれ以外に何が必要なのかと思っていました。重いものが持てない? それの何がいけないのでしょう? ジョルノさんには分かりませんんでした。だって執事くんがいるのです、ジョルノさんが持てないものは彼に持ってもらえばまったく問題はないでしょう。だってそもそも執事くんとはそういう時のためにいるのですから。
 ですから正直、いらいらの結果突き飛ばされた時、ジョルノさんは茫然自失としました。こんなに可愛くて美しいジョルノさんに、乱暴をするなんて! びっくりです。とんでもないことです。ジョルノさんはあまりのびっくりに言葉を失ってしまいました。執事くんとはその衝撃ではぐれてしまいました。いえ、もしかしたら茫然自失としている間に引き離されてしまったのかもしれません。執事くんはとても力持ちでしたが、とても弱い子でしたから。
 そこでジョルノさんは初めて気付きました。執事くんはどれほどに頑張ってジョルノさんを守っていてくれたのか、その頑張りに、ジョルノさんはどれほどに応えてこなかったのか。出来ないからどうしたと、ジョルノさんは言ってはいけなかったのです。出来ないけどこうなら、と代替案を出さなければいけなかったのです。どれもジョルノさんの怠慢でした。ジョルノさんは自分の怠惰で、大切なひとを失ってしまったのです。
 ですがもう遅すぎました。
 執事くんはジョルノさんの隣にはいません。狭い箱に押し込められて、ジョルノさんはずっと泣いていました。この先、何処へいくのでしょうか。ジョルノさんはずっとこのまま一人なのでしょうか。どうか、どうか、執事くんに会いたいです、最後でいいから謝らせてくださいと、ジョルノさんはたくさん泣いてお願いしました。
 それから数日後、ジョルノさんは箱から出されて何処かへ連れて行かれました。執事くんの姿は見えませんでした。
「ごめんなさい」
ジョルノさんはそのか細い声を、涙で枯れ果てた声を、張り上げました。
「ごめんなさい、だいすきよ」
執事くんに伝わったかどうか分かりませんでした、聞こえているのか分かりませんでした。次に、会う時は、とジョルノさんは心に決めます。彼にちゃんと謝って、そうして彼の名前を聞こう。
 ぼろぼろと、また涙がこぼれ落ちました。それからずっと、最後までとまることはありませんでした。



ジョルノ・マーカーベリック
 docomo N-04C ブラック メディアス
 持ち主:僕

執事くん
 SDカード
 持ち主:僕

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その3:めーちゃんの場合(もう死んでしまいたかった) 

 めーちゃんはここのところ高熱を出すことが多くなっていました。めーちゃんはふうふうと荒い息を吐きながら、ああ、そろそろお迎えが来るのだな、と思っていました。めーちゃんはとても賢い子なのです。もうすぐ自分がだめになってしまうことを誰に言われなくても、よく分かっていました。否、もっと前からだめになっていたのです。よくここまで持ちこたえたと、もう自分を褒めても良いと、そうさえ思っていました。
 五年、五年です。長い時間でした。最近では何をするにも手元がおぼつかなく、なんとかそれでも冷えピタをはり頑張っているのは、めーちゃん以外に今のところ、その仕事を出来るひとがいないからなのでした。でもきっと、もうすぐ新しい子がくるでしょう。めーちゃんのお仕事は基本的にはデータの管理です。大事なデータの管理です。とても大切なお仕事なのです、それを今にも死んでしまいそうなめーちゃんに任せていられるでしょうか。
 たくさんのひとと出会いました。同じくらいの年数を歩んできたのは、ヒョーカちゃんくらいでしょうか。いろいろと顔ぶれが変わって、さみしいと思う暇すらなかったことを思い出します。そして。
 彼の、顔を思い出しました。
 何と呼ばれていたでしょう、ああ、そうでした、クリスくんです。彼の本名も知っていたはずなのに思い出せないのは、もうめーちゃんが長くないからでしょう。悲しいことです、めーちゃんはそう思いました。あつくてあつくて、自分の流した涙さえも蒸発していきます。
「クリスくん」
ちゃんと、呼べていたでしょうか。
「クリスくん、クリスくん」
めーちゃんによくなついていた彼は、今、どうしているでしょうか。めーちゃんはそれを知っていました。ただ、口に出さないだけでした。
「クリスくん、会いたい」
 そしてきっと、それはそう遠くないうちに叶えられるのでしょう。



メタファー・エディアカラ
 型番不明(メモ忘れ)
 白いノートパソコン

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その4:クリスくんの場合(これが恋なんてものじゃあなければ) 

 クリストファー・レインは自分をクリスくん、と呼ぶ、すこしだけ野暮ったい子がとても好きでした。その子はクリスくんと同じくらいにこの家にやってきて、よくクリスくんの面倒を見てくれました。その子の優しさはとても自然なもので、クリスくんはひねくれることなくそれを受け取れました。そのことを嬉しいと感じたのは、ずっとあとになってからではありましたが。
「あのね」
ある日、その子はクリスくんにこっそりと言いました。
「多分ね、私たちははやくに離れてしまうと思うの」
クリスくんはびっくりしました。それはあまりにクリスくんにとっては唐突な言葉だったのです。
 別れ。
 そんなものが、あるなんて。クリスくんの頭には、考える余裕すらなかったのです。その子は驚くクリスくんにごめんね、と言いました。こんなこと言ってごめんね、と。
「あのね、予感があるの」
その子は続けます。
「私はね、私が私でなくなってしまうまで、此処にいるの。でもきっとクリスくん、貴方は違う」
残酷はおなはしを、つらつらとクリスくんに語りかけます。
「きっと、大丈夫なうちに私の前から消えてしまう」
「どうして」
「どうしてでしょうね」
「そういうものなの」
「そういうものなの」
 クリスくんは言葉に詰まりました。何を言えば良いのか、分かりません。
「だからね、」
その子は微笑みました。野暮ったいその子でしたが、笑顔がとてもすてきなのをクリスくんは知っています。
「クリスくんに、私のことを憶えていて欲しいの」
「あなたの、ことを」
「うん、私の、ことを」
わたしは、きっと、きみを、わすれてしまうから。
 それはとっても悲しいな、と思いました。けれどもその子が言うのならばきっと、間違いはないのでしょう。
「あのね、私の名前はね―――」
 優しい声が、記憶の中で反響していました。クリスくんは目を開けます。自分が何処にいるのかはよく分かりませんでした。ただ、あの子がいつか言っていたその時が来たことだけは、ようく分かりました。
「メタファー・エディアカラ」
一度だけ、たった一度だけ教えてもらった、一度も忘れることのなかった名前を呼びます。
「だいすきです」
 その子を慕っていた思い出が、きらきらと輝いていました。ずっと遠くにあるように思えました。もうその子をめーちゃん≠ニ慕っていたあの頃には戻れないのだと分かって、そして自分の状況を再確認してそれで良い、と思いました。
「メタファー」
もしも次なんてものがあるのなら、きっとめーちゃん≠ニは呼ばないのでしょう。
「あいしていますよ」



クリストファー・レイン
 docomo N905i ホワイト
 持ち主:僕

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その5:ひなちゃんの場合(もう一人にして) 

 飛成しげゆむはその大層仰々しい名前がそう好きではありませんでした。略してひなしげというのも、可愛らしい花の名前と似ていて気に食わないのでした。ですがそれを言うと可愛らしいのだから良いのでは? と何も知らない子らは言ってくるので、なんとかいろいろな顔をしてみせてようやく、その呼称をひなちゃん≠ノまで落ち着けたのでした。
 ひなちゃんは所謂一匹狼を好む性格でした。けれども困ったことに、ひなちゃんの担当するお仕事はいろいろなひとと関わらなければなりません。ひなちゃんの前任者であるめーちゃん(めーちゃんは自分のことをめーちゃんとしか名乗らなかったので、ひなちゃんはその本名を知りません)や、どう付き合えば良いのか分からないジョルノお嬢様、それに振り回される執事くん(彼の本名は知りませんでした、そう話したことがないのです)、アカネちゃん(こう呼ぶと怒られますが知ったこっちゃありません)、かつみくん(まあまあでしょう)…様々な子と付き合わされてきました。その中でなんとな平和協定を築いているのはヒョーカちゃんくらいなものでしょうか。ひなちゃんが何を言ってもヒョーカちゃんは赦してくれるので、これはきっと甘えなのではありますが。
 賢いひなちゃんは自分が生き残る側で、その他が消費されるものだと気付いていました。ひなちゃんがいろいろなものを買い与えられている間に、他の子は暗いところに追いやられているのを知っていました。
 それに対して、ひなちゃんは自分が優れているから、と思うことはありませんでした。そういうふうに作られた、それは諦観のようなものでした。だってよく考えてみてください。長く生き残ることが、そんなに幸せなことでしょうか。一人優遇されることが、そんなに良いことなのでしょうか。
 ひなちゃんはめーちゃんとさいごに話した一人でした。クリスくん、とその唇が弱々しく吐く様を見た一人でした。
「ずるいな」
やっと出たのはそんな言葉でした。
「ずるいよ」
めーちゃんのことを、幸せそうだと、思ってしまいました。
 ひなちゃんは分かっているのです。幸せなんていうのは、ひとそれぞれです。めーちゃんが本当に幸せだったのか、それはめーちゃんにしか分かりませんし、それをひなちゃんが羨むのはお門違いなのです。分かってはいます、分かってはいるのですが。
―――クリスくん。
そう、あつく呟く唇が、忘れられませんでした。
 ひなちゃんは、今すぐにでも眠りにつきたいと、そんなことを願っていました。



飛成しげゆむ(ひなりしげゆむ)
 自作PC(細かいことは忘れた)
 持ち主:僕

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その6:ユキちゃんの場合(わたしは人魚姫じゃあいられないの) 

 丸井雪はそう喋る方ではありませんでした。ひとによっては彼女の名前も知らないで、ただの置物と思っている方が多いのも分かっていましたが、それでも別にいいなあ、というのが彼女の考えでした。というのががっつりと崩れ去るのは、おっちょこちょいなひとがユキちゃんのおくるみを割ってしまったからでした。がちゃん、ばりーんと。
 別に、彼女に悪意があった訳ではないことをユキちゃんは知っています。彼女は窓を開けようとしただけなのです。しかしその動作が少し緩慢だったために、窓辺に座っていたユキちゃんを引っ掛けて、そのまま土をばらばらと飛ばしながら、ユキちゃんは真っ逆さまになったのでした。
 それで身体が傷付かなかったのは不幸中の幸いというべきでしょうか。
 おくるみを変えられたユキちゃんは、そのまま場所も移動されました。特に大したものの見えなかった窓辺から、同じく大したものなど見えない玄関へと。
 そこで。
 ユキちゃんは運命の出逢いを果たすのです。
「ハナちゃんです、よろしくね」
まるでそっくり、双子のようなかたちをした彼女はそう言いました。そうしか言いませんでした。しかし彼女はユキちゃんがびっくりするほどによく喋り、それによって他のひとびともユキちゃんが喋れることを知ったようでした。
「ユキちゃんは、何色の花が咲くの?」
「ユキちゃんはいつから此処にいるの?」
「ユキちゃんのおくるみ、緑色で素敵ね」
「ユキちゃん」
「ユキちゃん」
「ユキちゃん」
洪水。そんなもの体験したことはありませんでしたが、まさにそれだと思いました。これは洪水です、此処へ来てから知った雨というものよりもっとひどい。しかしユキちゃんはそれが嫌いではありませんでした。
 むしろ、好きでした。
 でも、ユキちゃんにはそれを伝えるには少し、勇気が足りなかったのです。
 ユキちゃんは長いこと喋って来ませんでした。だから彼女の言葉にも大して返すことが出来ずに、自分の言葉でものを言うなんてもっと出来ることではなかったのです。ですから、ユキちゃんはひとつ、自分に約束事をしました。
 自分のこの花がきれいに咲いたら、ユキちゃんに好きだと言おう、と。
 そうでもしなければ、何かそれくらいの変化がなければ、ユキちゃんに勇気を出させるにはいけなかったのです。

 花はいつまで経っても咲きませんでした。ハナちゃんの赤い美しい花を見ながら、どうして自分のピンクの花は咲かないのだろう、とユキちゃんはとても哀しいきもちでいっぱいでした。



丸井雪(まるいゆき)
 サボテン
 持ち主:僕

ハナちゃん
 サボテン
 持ち主:妹様

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その7:アレキサンダーの場合(君とお揃いでいたかった) 

 アレクサンドロス・ゾロアストレースなんてフルネームを名乗ったことはありませんでした。いつもいつもアレキサンダーはアレキサンダーと呼んでね! と先制して、そのすべての名を伝えることはなかったのですから。ですが別に、その本名を嫌っていたかと言うとそういう訳でもありません。まあ長ったらしくて大層な名前ではありましたが、それでもあとから入ってきたひなしげ(もう彼は何と呼んでも怒りそうなのでアレキサンダーはこれで通すことにしています)よりかはずっと自分の名前が好きでした。
 ならば何故、アレキサンダーはフルネームを名乗ることをしないで、ただのアレキサンダーとして振る舞うのか。
 それは、長らく同じところにいた彼女の影響でした。
 最初はただ本当に、自分の名が長くて名乗るまでもなく、面倒くさいから聞かれたら名乗る、というスタイルをとっていたのです。ですが、アレキサンダーより三ヶ月ほど遅れてやって来た彼女の名乗りを聞いて、アレキサンダーの思考はくるっとひっくり返りました。
「ティーです」
漆黒の身体が美しく、細くてすぐに壊れてしまいそうな彼女はそう言いました。あれでアレキサンダーより重たいというのだから驚きです。
「ティー、だけ?」
「はい」
「苗字? 名前?」
「………名前、じゃないでしょうか」
それしかないので、と彼女は言いました。それはアレキサンダーに衝撃を与えるには充分でした。
 それだけしかないものが、この世にいるなんて!
 アレキサンダーの世界はまだ狭かったのもあります。だから、その名がセットで揃っていることがどれだけ美しいことなのか分からなかったのです。
「貴方は?」
美しい彼女は聞きます。ティーさんは聞きます。アレキサンダーに名を問うてきます。
「………アレキサンダー」
「それだけ?」
「うん」
アレキサンダーは嘘を吐きました。そしてその嘘は絶対にばれさせないと、その瞬間に決めました。絶対に、絶対に。彼女の中での真実に、絶対にしておこうと。
「そう」
ティーさんは頷きました。
「お揃いね」
 その言葉がアレキサンダーにとってどれほど嬉しかったか、きっと永劫ティーさんには伝わらないことでしょう。
 その日から、アレキサンダーはただのアレキサンダーとなりました。その他のことはすべて、忘れることにしました。



アレクサンドロス・ゾロアストレース
 アコースティックギター(YAMAHA)
 持ち主:僕

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その8:ティーさんの場合(嘘吐きには慣れている) 

 ティーさんは最初からティーさんでした。その名にさん≠フ部分は入っていないのですが、みんながティーさんと呼ぶので最早さん≠ワでが名前のようでした。他のひとが持っている苗字というものをティーさんは持っていません。誰かはそのティーさんの親であるフェンダーを名乗れば良いと言っていましたが、特に必要もないと思ったのでそうすることはしていませんでした。
 同じように並べられる中、なかなか売れないティーさんは値下げの札をつけられました。いろんなひとがティーさんを触って、違うと言って帰って行きました。違くて良い、とティーさんは思っていました。ずっと違うままで良い、それでそのまま、何処でもない何処かへ行ってしまえれば。
 それはきっと、ティーさんにとって幸せなことだったのでしょう。
 だと言うのに、一つの手がティーさんを引き上げました。その先には馬鹿そうな子がびっくりした目でティーさんを見つめていました。ティーさんは億劫そうに名乗りました、苗字にフェンダーは使いませんでした。そんなものを冠するものはたくさんいます。ティーさんはティーさんであって、その中の一つでいたくはなかったのです。だって、今までずっとそうだったのですから。今までずっと、ティーさんはティーさんなのにフェンダーとしか呼ばれないで、それがティーさんはとっても嫌だったのです。
 たくさんの嘘がティーさんの周りを毎日舞っていました。だから、彼の頷きが嘘だということにもすぐに気付きました。それでも、
「お揃いね」
ティーさんは嘘に乗ることにしました。一緒に嘘を吐くことにしました。
 彼の本当が何だったのであれ、もしも自分と同じだったら。きっとそれはお揃い≠ナ良いのだろうと、そんなことを思って頷きました。



ティーさん
 エレキギター(Fender)
 持ち主:僕

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その9:廉次郎の場合(にせものになんかなりたくない) 

 言語道断廉次郎、と字面で書けばなんて読むの? と聞かれ、てらくだれんじろうと口頭で言えばどうやって書くの? と聞かれ。そういう訳で廉次郎はいつもいつもただの廉次郎とだけ名乗っていました。どうやら此処には先にそういうひとびとがいたらしく、廉次郎はしつこく苗字を聞かれることもありませんでしたし、そのまますんなり名前しかないことを信じてもらえました。
 此処は良いところだな、と思いました。ただの廉次郎でいられる、何処かにいる自分の本物のことなんて考えなくて良い。
 そう、廉次郎は偽物でした。いえ、普通の感覚で言えば廉次郎は紛れもなく本物なのですが、ええ、そうですね、代用品、という方が正しかったでしょうか。本当は自分と色違いの兄弟がいることを、廉次郎は知っていました。知っていたのですが、どうしてか此処へとやってきたのは廉次郎で、いつも廉次郎はそれを聞くことが出来ずにいました。だって。
―――どうして僕だったんですか?
そんなことを聞いてみて、その答えが残酷なものだったら! 折角ただの廉次郎でいることが許されているのに、自分から地獄へと飛び込むような真似をするなど!
 それに。
 廉次郎にだってプライドがありました。自分が本物であるプライドがありました。確かに廉次郎はそう珍しくも美しくもありません。その辺にたくさんいるような、謂わば物語のモブのような存在です。それでも自分が本物である自負と、そのために生まれてきた自負があり、それを否定されることはあまりにつらいことだというのも、否定される前から分かっていました。
 だから廉次郎は口を噤みます。
 此処では廉次郎はただの廉次郎でいられる。偽物でいなくて良い。言語道断、なんていう巫山戯た苗字のことも考えなくて良い。
 此処は廉次郎にとっての楽園でした。だから、後から来るみんなのことを任せたよと言われた時、ずっとこのままただの廉次郎として此処を、みんなを守ろうと、そう決めたのです。



言語道断廉次郎(てらくだれんじろう)
 セーラーハイエースネオ ブラック
 持ち主:僕

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その10:かじいくんの場合(本当なんてどうでもいいの) 

 梶井君が目覚めた時、ちょっとしたところが病気だったのですぐさま自分の名前の読みを思い出すことが出来ませんでした。ですから自分のことをかじいくん≠ニ名乗ったのも仕方のないことでしょう。此処にはいろいろな名前のひとがいましたから今更かじいくんの名前がかじいくん≠ナあることも、所謂さんをつけろよデコ助野郎案件であることも気にするひとはいませんでした。
 此処はどうやら自由なところのようです。通院しながらかじいくんはぼんやりと、そんなことを思いました。此処に来るまで、自分が何をしていたのかよく思い出せません。それは病気の所為だろうとは言われましたが、かじいくんはそれを哀しいとは思いませんでした。自分より先に此処へ来ていた廉次郎は優しい子でしたし、すぐあとにやってきたにっかりちゃんも大人しく可愛らしい子で、かじいくんは此処はなかなかに楽しそうなところだなあ、と病気が治ったあとのことに思いを馳せていました。
 幸い、かじいくんの病気はすぐに治るもののようでした。幾つか検査と治療をすれば、また前のように戻れると。それを聞いてかじいくんはもとより、廉次郎もにっかりちゃんもたくさんたくさん喜んでくれました。かじいくんが復帰すれば彼らの仕事は減るかもしれないのに、それでもかじいくんの全快を喜んでくれる彼らに、かじいくんはとても感謝しました。そして、彼らの役に立とうと、そう決めました。
 あとは飲み薬だけの治療となった頃には、かじいくんの病気も殆どよくなってきていて、すべては無理でしたがかじいくんは自分の名前の読み方くらいは思い出すことが出来ていました。
―――なお。
呼んでみます。ひっそり、自分の心の中でだけ。かじい、なお。それがかじいくんの名前でした。でも思い出したところで、かじいくんはもうその名に愛着を感じることが出来ませんでした。
 もうかじいくんはかじいくんでした。此処で生きるのに、それだけあれば充分だと思いました。
「かじいくん」
にっかりちゃんが呼びます。
「はい、今行きます」
かじいくんは立ち上がりました。なおのことは今は忘れることにしました。
 それで良いのだと、手からこぼれ落ちた檸檬がそう言っていました。



梶井君(かじいなお)
 丸善130周年記念万年筆「檸檬」
 持ち主:名も知らぬ誰か→僕

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20150709