白狐 それは黎明堂店主に受け継がれた、たった一つの特別な名前。 一 白い訪問者 六月。梅雨を引き連れた雲がまだ空にとどまっていた午後。ちりん、と来客を告げる鈴の音が聞こえた。刹那、店主であるいずみが微かに目を見開いたのを、涼水は見逃さなかった。 「いずみ…?」 顔色を伺う。いずみはポーカーフェイスが得意だ。感情を顕にしているように見えて、本当のそれはずっと奥にしまっている。もう三年以上一緒に暮らしていて、嬉しい楽しいなどのプラスの感情は読み取れるようになっては来たが、マイナスの感情をいずみは悟らせまいとする。 そんな彼女が一瞬と言えども、涼水に分かる程に強張った表情をするなんて。きっと、良くないことの前触れ。 「いずみ」 「涼水、出てきテ」 伏目がちに言い放ったその横顔は、もういつも通りのものに戻っていた。 「大丈夫、なの?」 それでも、声に心配が滲んでしまう。いつも通りだとは言っても、それは蓋をしただけだ。この店は店主であるいずみに敵対心を持つ者は入れない仕組みになっている。しかし、裏を返せば敵対心さえなければ危害を与える目的を持っていても、入れるということだ。この仕組みだけでは非常に危ういから、更に此方から招かなければ店内には入れないようにもなっている。 「ウン、出てきテ」 にこりと笑って涼水を促す。 「勝手ニ入ってこれちゃウ奴だケド、招いタ方が気分的に良いしネ」 付け足された言葉にぞっとする。 涼水の中でこの店は砦のような存在だった。それが、何とも知れぬ者に看破されてしまうような感覚。 「い、行ってくる…」 そろり、と立ち上がる。 「―――ア」 低い声。些か不機嫌さを滲ませたいずみのそれは、また感情を取り繕うことを忘れたらしい。 「…ごめン、涼水。やっぱ良いヤ」 入って来ちゃっタ、といずみは立ち上がる。言われて初めて、涼水は何かの気配を感じた。 後ろに、何か居る。 ぐぎぎ、と音がなりそうな動作でゆっくりと首を回すと、 「やぁ、はじめまして」 白い着物を身に纏った青年が立っていた。 *** 白狐 それは決して棄てることの出来ない、たった一つの呪いの名前。 二 神の名を受け 「招かれるマデ待ってることモ出来ないノ?」 「白狐よー、俺がそんなに気ィ長くないの知ってるだろ?」 いずみの溜息に男はくすくすと返す。背筋が凍っていくのが分かるようだった。本能が告げている、コノ男ハ危ナイ―――。 「デ」 いずみは青年を見据える。 冷たい目。世界を終わらせることさえ出来そうな程、ひどく冷えきった紅の瞳。 「何の用ダ?」 「おいおい、聞かなくたって分かってんだろ?」 迎え撃つのはサングラス越しの翠の瞳。いずみの冷たさをものともしない、穏やかな色。 「アイツの無茶の所為で若干契約が書き換わったんだ。その後始末をするのは引き継いだ者の役目だろ? いい加減腹括れよ」 呆れたように笑う彼を、いずみは尚も睨みつけた。 「筑紫を名乗ってる以上、契約に巻き込まれてることくらい分かってるだろ?」 「そウ素直ニお前の言う通リになんテすると思うカ?」 「それはお前の意思か? それともアイツの遺言か?」 「両方ダ」 青年はふぅん、と頷いただけだった。 膝から崩れ落ちそうだった。二人の間に流れる空気はやたらと鋭くて、 「あ、貴方は…何者なんですか…!?」 気付いたら、聞いてしまっていた。いずみにとって、穏やかではない関係の者だというのは分かりきったことなのに。それ以上に、本能から警告が出る程だというのに。 「へぇ。白狐が子供拾って育ててるなんて言うからどんな子かと思えば。…威勢が良いね」 品定め。いずみの隣に仕事でも立つことが増えて、こういった視線に晒されることも多くなったが、これにはいつまで経っても慣れない。同時に“筑紫いずみの助手”という立場の価値も知ったが、それでも舐めるような視線は気持ちの良いものではない。 「申し遅れたな、俺はレディバード」 にこやかに、 「死神だ」 *** 白狐 それは血を代価とする、たった一つの切れない誓い。 三 白の翼 「しに…がみ…?」 「そう、死神。主な仕事は魔物や悪魔との戦闘、そして罪人の魂を回収すること」 レディバードと名乗った青年はにこりと笑って言う。 「罪人…? まさか、いずみがそうだって言うの!?」 「おお、白狐。お前結構懐かれてんだな」 わざとらしく驚いて見せる彼にいずみは何も返さない。 「こいつは罪なんか犯しませんってか?」 「それ…はっ」 罪が何のことだか分からないが、人間世界で言うそれが適合するのなら涼水には何も言えない。現にいずみは涼水の目の前で人を殺したことがある。…それでも。 「そ、それでもっ、いずみを罪人と呼ぶなんて、私は納得しない! 罪がなんのことだか知らないけど…っいずみがそんな風に呼ばれるなんて、嫌に決まってる!」 ひゅう。レディバードが口笛を吹く。 「こりゃあ冗談じゃなく懐かれてんだな」 「ば、ばかにしてるの!?」 「いや、そうじゃねぇよ。白狐がこんなに長く手元に人を置くとは思わなかったからな。意外なんだよ」 う、と詰まった。 意外。涼水は何故自分が此処に置いてもらっているのか、確かなことを知らない。断片的な記憶はその部分を持たなく、いずみもまた記憶がなければ別人と見做すと言う。だから、これ以上聞くことは出来ない。問い詰めたところで教えてもらえないのは分かっている。 「まぁ、そいつが罪人かどうかは死期が迫ってみないと分かんねぇな。世界がそういうふうに出来てるから」 「じゃあ、いずみを連れて行く訳じゃあない…?」 「そういう訳でもねぇな」 嫌な予感がかちりと音を立てる。 「俺は白狐が―――いや、いずみが欲しいからな」 いずみが露骨に顔を歪めた。 「そんな顔すんなよ、いずみ。まだ俺のこと嫌いなのか。そういや五年前も手酷く断られたよな。心変わりはいつになる?」 「今後絶対に起こりえないナ」 「冷てぇな」 笑う表情に傷付いた様子はなかった。 「いずみが来ねぇなら、代わりにこいつもらってくかな。そういうことにするなら、契約の書き換えくらい、やってやるぜ?元々歪んだ契約なんだから、今更書き換えくらい、何てことねぇよ」 その言葉に、いずみが微かに眉を潜めるのが見えた。 風も感じなかった。 「相変わらず冗談通じねぇんだな」 一瞬でレディバードはいずみの横に移動し、その小さな手を掴んでいる。 「つまらねぇな、ほんと。微動だにしねぇんだから」 「悪かったナ」 いずみの声は不機嫌を隠そうともせず、 「レディバード、出て行ケ」 「…今日の所はそうさせてもらうかな」 ふわり、と翼が現れる。薄くて白い翼。 「でも忘れるな。契約は契約だ、お前がそこで意地を張ろうとどうにもならねぇよ」 「分かっているサ」 いずみの言葉にどうだかね、と唇が動いたのが見えた。 「じゃあ、また近いうちに。それと…」 にい、とそれは確かな歪み。 「後悔、すんなよ?」 *** 白狐 それは嵐さえも呼び起こす、たった一つの哀しい印。 四 冷たい予感 レディバードが帰って直ぐ、涼水は自室に駆け込んだ。とにかく一人になりたかった。いずみもそれを分かってくれたのか、理由を追求するような真似はしなかった。 膝を抱えて息を飲む。いずみが何も語らないのは、自分を守るためだと分かっている。中途半端な記憶と覚悟では、あっちの世界に完全に足を踏み入れるのは危険だからだ。それでも、 「不安だよ…いずみ…」 本能から拒絶反応が出る程に危険な人。それは能力がどうとかだけでなく、単純に自分たちに対する敵対心を持っているからだろう。 そして、最後の言葉。後悔すんなよ≠ネんて、これから何かが起こる―――いや、何かを起こすような言い方。 ふと、視線が机の上に置いてある小瓶に流れた。いつかイザヨイにもらった、幽霊が見えるようになる小瓶。彼らに話を聞けば、何か知ることは出来るのだろうか、いずみの力になれるだろうか。 「アルトなら…」 同じ年頃の見た目をした少年を思い浮かべる。彼ならきっと、話を聞いてくれるだろう。他の従業員たちはそうはしてくれないと思った。榊丸はやんわりと知ることを止めるだろうし、ステファニーははぐらかすだろう。ロゥに至っては涼水の存在ごと無視するかもしれない。一度会っただけだが、そういう想像は容易かった。一口飲めば一時間は彼らの姿を見ることが出来るのだ、ものすごく、不味いが。 そうして小瓶に手を伸ばして―――首を振った。 「…だめ、だ。こうやって直ぐ人に頼ろうとするの、悪い癖だ…」 何も出来ない分、なるだけ手のかからない存在でいたかった。好奇心で何か変わる程、この問題もいずみ自身が抱えるものも、軽くはない。それは痛い程に分かっていた。 「起きててもぐるぐる考えるなら、寝ちゃおうかな」 昼寝には少し遅い時間かもしれないが、そう思って布団の方へ目を向けた瞬間。 ざわり、と胸が鳴った。 嫌な予感しかしなくて廊下を駆け抜ける。リビングに入ると、ちょうどいずみが電話をとったところだった。 「もしもシ白狐の黎明堂デスーって草希?どうしたノ?」 電話の相手は良く知った人物らしい。なのに、胸騒ぎは収まらない。 「チョ、どういウこと!?」 纏わり付く悪寒。きっと、あの人は何かを引き連れてきた。 「十六夜がやられたっテ…!!」 *** 白狐 それは標的を見失わないための、たった一つのしつこい目印。 五 宣戦布告 最低限の出掛ける準備だけして、店を飛び出し、草希の知り合いがやっているという病院に着いた頃にはもう日は暮れていた。 「草希!」 「いずみ、涼水…」 真っ白な部屋に横たわるイザヨイと、その横に座っている草希。 「十六夜ハ…?」 「分からない。外傷はないんだけど、目を覚まさないの。此処のお医者さんね、そういうのにも耐性がある人なんだけど、どっちかって言ったら呪いを受けたんじゃないかって」 「呪い…」 口に出して呟く。 こんな世界に立っているイザヨイなら、恨みつらみの一つや二つや三つ受けるだろう。けれど、これはあまりにもタイミングが良すぎる。 「…夕方くらいにね、イザヨイから無言電話来たの。可笑しいなって思って行ったら、こんなことになってて…爆発痕とかあったし、誰かと戦闘したにはしたみたい」 「他には何かなかっタ?」 ちょっと待ってね、と草希は前置きをすると据え置かれている引き出しに手を掛けた。 「これ」 差し出されたのは白い布切れ。 「イザヨイが握ってたの。心当たり…ある?」 布切れはいずみが触れるやいなや、崩れ落ちた。ぐ、と拳を握るいずみ。 「草希、ごめン。これは僕が引き込んだことダ」 「いずみ?」 震えを抑えこむような声に、思わず涼水は声を上げた。 「涼水をお願イ」 「いずみ…ッ」 ただ呆然と、その後姿を見ていることしか出来なかった。こうなることは予想していたはずなのに、いずみの腕を掴んで一旦落ち着けと言うことさえできなかった。どうして、と疑問が心の中で踊っていた。 何処かで、期待していた。もう一人で戦うことなんてしなくて良いと、そう思っていてくれるなんて、自惚れていた。 *** 白狐 それは甘い優しさのための、たった一つの煌めく目印。 六 出来ること それから三日、店に帰ってもイザヨイのお見舞いに行っても、いずみの姿を見ることは出来なかった。何処にいるのか、ご飯は食べているのか、怪我はしていないか…不安ばかりが募る。 「イザヨイさんの容態、どうです?」 「変化なしね」 答えた草希の顔には、くっきりとした隈があった。ずっとつきっきりなのだろう。 「…代わりましょうか?」 「ううん、いいの」 にこ、と笑顔が返って来る。 「私ね、こういうことしか出来ないから」 「そんなことないですよ!」 草希がついていることしか出来ないと言うのなら、涼水には何が出来るのだろう。俯く。 何も、出来ない。そう思い知らされるのはひどく怖い。 「…涼水は、どうしたい?」 どうしたい。そんなことはもう決まっている。 「いずみの…いずみの力になりたい…! 私、いずみを一人で放っておくなんて、嫌…!!」 「分かった」 ぽん、と頭を撫でられた。 「私もそう思う。イザヨイも安定してるみたいだし、ついていくよ」 ぼろ、と涙が溢れた。何か出来るだろうか、足手まといにならないだろうか。自己保身ばかりが先に出てしまう。大人しく待っている方が良いんじゃないか―――首を振って、涙を拭った。 いずみのことだ、絶対に無茶をするに決まってる。 「お願いします」 連れ立って駆け出す。目指すのは店、その裏口からきっと行けるであろう、同業者の店。 「良く此処が分かったな」 橋の下で、二人は向き合っていた。 「十六夜に呪いを掛けタのはお前だろウ。僕が誘いに乗らなかっタ腹いせカ?」 「俺はそんな餓鬼っぽいことはしてないつもりだよ」 「じゃアまた取引でモ持ちかけル気だったノカ」 にぃ、と唇が歪むのが見えた。する、と刀が抜かれる。 「物分りの良い奴は好きだぜ」 「お前になんカ好かれたくはないナ」 それに応えるように、いずみもナイフを構えた。 *** 白狐 それは血で綴られた、たった一つの頑丈な鎖。 七 ひかり 「いた!」 エンドローズで大まかな位置を割り出してもらい、涼水と草希がいずみの姿を見付けた時、下に降りられるような状況ではなかった。殺気がびしばしと飛び交って、橋の下だけが戦場と化していた。 「…いずみ…」 日はもうすっかり落ちて、寂れた街灯だけがぼんやりと辺りを照らしている。人通りもない。橋の下の二人のことだって、夜目がきかなければ見えなかったっだろう。ぎり、と柵を握る。 怖かった。いずみが強いのは分かっているけれども、それと同じくらいレディバードも強いのが分かっていたから。 いずみがナイフを振りかぶる。同じ瞬間にレディバードも刀を持つ手に力を込めていて――― 「いっ…」 駆け寄ろうとすれば、草希に止められた。 嘘。 涼水の中を言葉が駆け抜ける。草希は真っ青だった。今までこんなところ、見たいことなかった。当たり前だ、見せられていなかったんだから。それでも、涼水の中ではいずみはずっと強くて、不安の中でだって、今回もきっとどうにかなるって思わせてくれる程だったのに。からり、と吹き飛んでいたナイフが落ちる音がする。やけに響く。 いずみ。 「…涼水ッ!!」 草希の制止を振りきって、涼水は柵を飛び越えた。 「後悔しているか? あの時俺を殺していれば、と」 傷口の刀をぐりぐりと押し込みながら、レディバードは尋ねる。 「俺を殺しておけば、お前も神無咲もこんな目にあわずにすんだ」 その唇から零れるのは乾いた笑い。血を吐くいずみは、何も答えない。 「全てはお前の甘さが招いた結果だ、いずみ」 ずちゅり、と音をさせながら刀を抜き、レディバードは振り返った。 後ろに立っていたのは、ナイフを構えた涼水。いずみの落としたナイフを、涼水はぎり、と握りしめる。 「いずみから離れて」 それはまるで、光のような、怒りの籠った声だった。 *** 白狐 それは呪いのような、破棄を許されない契約の証。 八 いびつ 「本当に威勢が良いんだな」 レディバードが笑うのも、涼水には納得出来た。こうして対峙してみると身を持って分かる。この人は、強い。強さを感じさせない程、身体が麻痺する程に、強い。 「でも正直、お前に興味はねぇンだよ。この間はいずみを挑発してみたくてお前を連れて行こうかなんて言ったけど、あくまで冗談。そんな凡人と変わらない人間を、俺にどうしろって言うんだよ?」 ナイフの使い方すら知らないお子様を、とレディバードは嗤う。ナイフを持つのは、初めてではないはずだった。けれど、こうして最初から人に向けるやり方は知らない。それでも見よう見まねでレディバードに刃先を向けながら、じりじりと動く。 「…いずみッ!」 そうして辿り着いた小さな身体を抱きかかえた。足元に広がる血の海。冷えきった身体。 「いず、み」 血の気が引く。このまま、死んでしまうのではないか。この男に、殺されてしまうのではないか。 「まだ意識あんだろ?」 レディバードの言葉に微かに瞼が動く。 「俺と来ないか?」 めげずにレディバードは手を差し伸べる。 「お前の能力(チカラ)は死神の中でも買われてんだ。今此処で殺して契約を終わりにしてやっても良いが、それは勿体ねぇ。俺と来るって言うなら、悪いようにはなんねぇよ」 その瞬間ふわりと浮かべられた笑みは何処までもやわらかいのに、それでいて嘲りがついて回るようで。 呼ぶようにレディバードは指を動かす。 「なぁ、いずみ、一緒に来いよ。お前ならこの世界の醜さが分かるだろ?」 いずみを抱き締めていた涼水は、その首か微かに振られるのを感じた。 「…いずみは行かないって言ってる」 「お前に聞いてるんじゃねぇよ」 「今、首振ったもの」 離さない、と主張するようにいずみを抱き締める腕に力を込める。睨むようにレディバードを見つめる中で、ふと浮かんできた言葉があった。 「ねぇ、契約って何? それに、歪んだ、って」 「…へぇ、良く聞いてるんだな」 ちょっとだけ見なおしてやるよ、とやはり上から目線でレディバードは続ける。 「契約ってのはいずみの死後、その魂を俺が貰うっていう契約だ。死神は人間の魂を取り込めば取り込む程強くなれる。正直強さとかはどうでも良いが、取り込むこと自体には興味があったからな。…歪んだっていうのは、それが元々他の人間がした契約だからだよ」 「じゃあ、いずみは関係ないんじゃ」 「まさか。そいつは自分が契約から逃れるために、いずみを身代わりにしたんだよ。だから歪んではいるが、そいつが死ねば契約は不完全ながら履行される。本当は待ってれば良いんだろうがな、人間にこれ以上好き勝手やられるのは嫌なんだよ。だから、今直ぐいずみの魂が欲しい」 「なに、よ、それ、」 自分勝手にも程がある。そう震える声で吐き捨てるのが精一杯だった。 「本当、煩い子狐」 は、とレディバードは息を吐く。 「面倒だから今日は帰ってやンよ。次までに決めておけよ? あと、その子狐も黙らせておけ」 サングラスの向こうの翠の瞳が涼水を射抜いた。でも、涼水を映しているようには見えなくて違和感を覚える。 「じゃあな」 消える。 安堵したようにふ、と身体の力を抜いたいずみが涼水の腕の中に落ちて来た。 「ッ、草希さん!!」 慌てて草希を呼ぶ。小さな身体を抱き締めながら、涼水は自分の無力さに唇を噛むしか出来なかった。 *** 白狐 それは求めて止まなかった、たった一つの予期された切欠。 九 はじまり 晴れた日のことだった。 ふらふらと裏路地を彷徨いて、どうにかこの先、生きたいなんて願って、そうして開けた扉の先には大きな和風のお屋敷があった。誘われるように玄関に立つと女性が出てきて何かを言った。知らない言葉だった。笑顔と悪意のないその雰囲気から、恐らくは挨拶か何かだったのだろう。けれども知らない言葉では、返すことも出来なかった。だからせめて、と思い慣れ親しんだ言葉で此処は何処なのかと問えば、彼女はこの言葉を知っていたのか合わせて返してくれた。 曰く、なんでも屋だと。 白狐の黎明堂と言うらしい此処は店であり、対価さえ払えば願いを叶えてくれるらしい。どんな願い、でも。彼女は悪戯を思い付いた子供のような顔で、そう繰り返した。居間に通され、出されたお茶は暖かかった。そして、美味しかった。久しぶりに飲んだ毒も入っていない、痛んでもいない飲食物だった。 願い。ぼうっと考える。それを言うのなら、生きたい、だと思った。生きたい、生きたい、それが約束だから、今はそれだけしかないけれど。それを素直に伝える。そのためにはきっと何か仕事を持たないといけない。それも伝える。 『それなら此処で働けば良いわ』 良い事を思い付いた、というふうに彼女はぱん、と手を合わせた。 『でも、それは貴方に迷惑が掛かるのでは』 『まさか。丁度人手が欲しいと思っていたところなの。貴方が構わないなら働いてくれると嬉しいわ』 だめかしら? と首を傾げる彼女は恐らく、この角度が人にものを頼む時に最適だと知っているのだろう。 『住み込みで良いから家の心配はしなくて良いし、私、こう見えても料理は得意なのよ。だからご飯の心配もないわ。語学も、私で良ければ教えるし』 彼女のハニートラップに落ちた訳では決してなかったが、それはとても好条件だった。 『何故、そんなに?』 だから、問うた。どうして見ず知らずの人間に、こうも良くしようとするのか。普通、人間は見返りを求める生き物だ。同情や慈悲だけで何かが出来る人間など、限られている。 彼女は静かな瞳でこちらを見返してきた。 『だって、一人は寂しいもの』 そう言った彼女の瞳は、その感情を正しく知らなくても違う、と思わせた。彼女は寂しいのではない。もっと、何か。 そう思ったというのに、その手を取ったのは。 利用されるかもしれない状況を、逆に利用してやるくらいではないと生きられないと、そう思ったからか。 『………よろしく、お願いします』 これが先代白狐の黎明堂店主、筑紫白(つくしびゃく)といずみの出会いだった。 *** 白狐 それは一人の人間と一人の死神の、たった一つの紛れも無い誓いの形。 十 さよなら 私、死神と契約しているの。そう話し始めた時、ビャクはもうこの後どうするか決めていたのだろう。 その話をすべて聞いて、いずみはこのためだったのだな、と思った。ビャクがいずみをこの店に留めようとした理由、一人で生きていけるように知識を叩き込んだ理由。優しさは嘘じゃなかった、ご飯も美味しかった、寝床は暖かかった、そのすべてが、このためだった。 『それは、僕に代わりになれと言うことですか?』 『そういう訳じゃないのよ』 ビャクは笑う。その頬の自然さが、彼女が嘘を吐いていないことを教えてくれる。嘘じゃないから恐ろしかった。叩き込まれた知識の中には、そういったものも含まれていたのだから。 いずみは知っている。彼女がこれから、どれだけ無謀なことをしようとしているかを。彼女が、本当のことを言っていたなら、の話ではあるのだが。 『私は契約を歪めたいだけ。私が私のまま、彼のものとして吸収されないように。ただ、それだけ』 だけ≠ニいうそれが。 世界の理というものの存在を知った今、どれだけ危うい計画なのか、分かってしまう。 それでもそれを承知の上で、彼女は彼女の望みを叶えようとしている。それをぽっと出の自分がどうこう出来る訳がない。 結局、何も言うことが出来ずにその日はやって来た。 『着て来ました』 その姿を目にしたビャクは微笑む。 『思った通りね。いずみは白いから、黒が良く映えると思ったの』 乗り気でないのがよく分かる表情で、いずみはビャクを見やる。 『本当にやるんですか? 後戻り出来ないんでしょう。他に方法はないんですか?』 ビャクは優しく鍵をいずみに握らせた。その所作に肩が震える。 『後戻りできないからこそ、貴方に、いずみに託すのよ』 理由は最後まで教えてもらえなかったけれど、いずみはそれが分かるような気がした。自分と同じだと思った。形は違えど、自分が生きると決めた、それと同じなのだと。 「…さよなラ」 未だに上手く発音できない、ビャクが使っていたその言語で、最後の言葉を言う。 大切な人が教えてくれたその感情は、あまりにも重くて難しかった。 *** 白狐 それは聞くことを赦された、たったひとつの覚悟の証。 十一 その先へ その話に、涼水は胸の辺りがぎゅっと締め付けられるのを感じた。 先代がいたということは時々、いずみの話の端に出てくることはあったけれど、こんなふうに聞くのは初めてだった。かなしい、と思う。そして同時に、怒りのようなものも湧いてきた。それはいずみを通して聞いたからかもしれなかった。 「…さテ」 ぽんぽん、といずみが手を打つ。 「さっきの話デ分かっタと思うケド、先代の契約が僕ニ引き継がれていル以上、僕はその契約カラ逃れなくちゃいけなイ。僕はアイツに魂をやるつもリはないからネ」 「それって、レディバードを倒すってこと?」 「いヤ、そうじゃなイ」 その答えに涼水は瞠目した。 ぼろぼろになったいずみを草希と二人運び込んで、治療してもらって一息。涼水だけ残って、という彼女の言葉で草希は席を外し、そうして聞いた話だった。涼水はもう部外者じゃないから、そう言ったいずみの真意は掴めなかったけれど。 「死神に人間は基本的に敵わないんだヨ。今すグ息の根を止めようとすれバ、アイツは出来るんダ。この状況じアあ正当防衛だろうしネ。でモやらなイ。今この状態を、僕たちが足掻クのを、楽しんでいるカラ」 いずみの声はいつもと同じに静かだった。 「でも、じゃあ、どうやって」 小さな手が横に畳んであった服を掴む。その不思議な服をいずみが来ているのは、それが先代の着ていたものと同じもので、さいごのお願いだとお揃いにしてみたかったのだと、彼女が笑ったからで。それを今も尚、いずみが着続ける理由はないのに。 「必要ナ知識はすべテ先代が残してくれタ」 ばさり、と羽織っててきぱきと腰紐を締めるいずみは、まるで今から戦場へ赴く人のようだった。 「あとハ、僕が覚悟を決めルだけなんダ」 いずみの胸で、いつか偶然見た大切なひとの一部だという小瓶が、きらりと光った。 *** 白狐 それは愛を知った、たった一つの確かな決断。 十二 我が侭 待っていればやって来る。 いずみの言葉通り、数日後レディバードは姿を表した。 「ホント、お前の回復能力には恐れ入るよ。ホントに人間か?」 「さぁナ」 涼水を遠ざけるだけ無駄だ、というのがいずみの考えだった。だから、巻き込まれて欲しい。過去の話をしたのは涼水を巻き込むためだった。 それが、涼水は嬉しかった。 怖くないと言ったら嘘になる。目の前には人間をはるかに上回る存在、その気になればいずみも涼水も一瞬で殺されてしまう。それでも、何もかも黙って飲み込んで、一人で戦われるよりは幾分心が楽だった。何も出来ない、何も出来ない、そう心で、全身で、自分を責めるのはつらい。例えそれを見透かされた結果の同情だったとしても、いずみにとって、これが悪手なのだったとしても。 涼水は、いずみの役に立ちたかった。 「此処を引き継いだ時から分かってたはずだぜ?」 レディバードは笑う。嘲笑う。己の勝ちを確信した表情で、絶対に、人間なんてものに負けるなんて未来は、あり得ないという確信に満ちた表情で。 それはこちらにとって、とても都合が良い。 「あいつは選んだ。その選択がどんな理由だったのか、俺には全く分からないが―――分かりたくもないが、それでも、立ち止まってるお前とは違うことは分かる。お前は最初に会った時も、その次も、選択を先送りにしただけだ」 作り物なのだといずみに教えてもらった翠の目の中には光が入り込んで、何処か泣いているようにも見えた。 「お前はどうする? …死ぬか、俺と来るか」 すっと顔を上げたいずみは、もう全てを決めたようだった。 「何度誘われようト、僕の答えは変わらなイ。お前と何カ、絶対行くもんカ」 ふぅ、と息が吐かれる。 「それはそこの子供の為か?」 「それも在ル」 「…本当に甘くなったな」 呆れたように言うレディバードに、いずみは少しだけ、本当に少しだけ笑いかけた。 「そこの子もそうだケド、此処には僕の仲間が居テ…友達も居テ…愛すル人も居ル。こんな幸せナことはないヨ。だカラ、僕はその幸せの為ニ足掻きたいんダ」 ふわりと、本当に幸せそうな顔で。 *** 白狐 それは名前をつけることすら許されない、曲がりくねった感情の代名詞。 十三 氷の接吻け レディバードはそれが気に入らなかったらしい。思いっきりに顔を顰めてみせた。目が見えないからだろうか、強いから、だろうか。彼はいずみよりもずっと、その感情が読み取りやすい。涼水は二人を見つめながら、そんなことを思っていた。 地面に降り立ったレディバードは、まるで人間のようにいずみに歩み寄った。徐々に距離を縮めて来る彼に、いずみは逃げる気配さえ見せない。 「死んだ男、思い続けても仕方ねぇだろ?」 零。レディバードの発した言葉に気を取られていたいずみは、反応が少し遅れた。 触れ合った唇。一瞬見開かれたいずみの瞳。 どん、と次の瞬間にはいずみがレディバードを突き飛ばしていた。 「何をすル…」 ごし、と乱暴に唇を拭ういずみに、レディバードはにや、と笑う。 「見えなくても分かるぜ? こういうの、初めてなんだろ」 「だったラ何ダ」 くすくすと笑いながら、レディバードは次の言葉を紡いだ。 「深い接吻け一つしてくれねぇような男、忘れろよ。そして、」 差し出される手のひら。 「俺を選べ」 何がそんなに良いのか分からない―――それもいずみが言っていたことだった。Hから以前聞いた自らの出生から、いずみの身体にはあらゆるプロテクト機能が備わっているらしいことは知っていた。それは、魂も例外ではないのだと。だからレディバードはいずみの正体が人間でないことを知らないはずだ。 故に、レディバードのその執着が何なのか、人間にいいようにしてやられた仕返しなのか、それとも単なる好奇心なのか、分からないのだと。 「お前の守護霊は出て来ねぇよな。…いや、出て来れないが正しいか? 出た瞬間、俺に消されるから。そうしたらお前が悲しむ…お前のそれは、それくらいのことは、ちゃんと分かっているらしいな?」 それでも必要なのは彼への理解ではない―――いずみはそう言った。 「地上最強と謳われる守護霊も、死神の前ではかくも無力なものだよなぁ?」 いずみは唇を噛まない。ただ、レディバードを見据える、だけ。 薄い純白の翼、はためかせて。 「さァ、来いよ」 レディバードは尚も手を揺らす。 「そうしたら契約は切ってやるよ。そして、お前が今一番望んでいる、神無咲の回復も保証してやるよ」 ぴくり、といずみの瞼が動いた。 *** 白狐 それは絆が成り代わる、たった一つの新しい運命(さだめ)。 十四 契り 時間稼ぎをして欲しい。 いずみが涼水に望んだのは、たった一つ、それだけだった。出来ることはもうした、あとはそれを待つだけなのだ、といずみは言った。詳しいことを言わなかったのは時間がなかったからなのだと涼水にも分かる。すべてが終わったあとに、きっと丁寧に説明をくれるのだろう。くれなかったらせびれば良い、そう思って飛び出す。 堂々と。だって、死神は規定にない人間を殺せない。それは世界の決まりで、特例でもない限り許されないことなのだから。これは、特例なんかじゃない。レディバードの、ただ、個人的なもの。だから、涼水は殺されない。傷付けることだって、本当ならば許されない。 怖くないと言ったら嘘になる。レディバードは少し、可笑しいのだ。そう、いずみと少し、似ている。当たり前のことが当たり前じゃなくて、平気で境界線を越えようとする。だから涼水だってもしかしたら此処で殺されてしまうかもしれない。それでも、飛び出す。 だって、いずみが任せてくれた仕事だから。 「いずみは渡さない…!!」 両手を大きく広げて、いずみとレディバードの間へと。 「本当、お前って何なんだよ?」 レディバードは訝しげに涼水を見やった。 「お前、本当に良く分からねぇよな。調べても出て来ねぇし、魂の情報探ろうにも変にプロテクトかかってるし。まぁ、それはいずみも一緒なんだけどさ…何なんだよ? お前は、誰なんだ? 一体」 名乗る必要はない、涼水は強くそう思う。まさか自分にもプロテクト機能が存在していることには驚いたけれども、今はそれは関係がない。そもそも今≠フ皇涼水の原点は此処に、白狐の黎明堂にあるのだ。その以前のことは、今≠フ涼水には、少なくとも今は関係がない。 涼水は笑って見せる。 「さあ? 何だと思う?」 その答えを涼水が持っているようにでも思えば良い、強大な彼に、それが何処まで通じるか、分からなかったけれど。 それでも、涼水は任された仕事をするだけだ。こんな。 強いものの前に放り出されて、まるでスケープゴートだったろうけれども。涼水はまだ、いずみに何も返せていないのだ。本当にそんなことをするつもりも、いずみにだってさせるつもりもないだろうけれど、いずみのためなら。 この、生命だって。 「―――アア、涼水、もう良いヨ」 来た、といずみは言った。 「確かニ僕はレディバード、君にハ敵わなイ。君は強イ…それは変えられなイ事実ダ。このままナラ、僕の魂は君のものになルほかなかっただロウ」 ばさり、羽の音。レディバードが振り返る。 「全て、お前が言っタことじゃないカ」 同じだ、と涼水は思った。レディバードと同じ羽をした、薄い印象の一人の男。 「ペラペラと良く喋る舌デ助かったヨ」 「人間、如き、が…!!」 いずみの襟首を掴んだ手を、その男が止める。 「―――アルフェリア、遅かったネ」 いずみが、にっと笑った。 *** 白狐 それはいつか来るはずの終わりへの協奏曲。 十五 決着 自分と同じ翼を持ったその男をレディバードは認められないようだった。 「………誰だ、お前」 「俺はアルフェリア・ロードネス。中部地区の担当です」 「担当………?」 何故そんなものが今此処に、とレディバードは眉を顰めて、お前が呼んだのか? といずみを振り返える。のんびりしたものだ、と涼水ははあ、と息を吐いた。 彼が来れば、今回のすべての片が付く。 いずみはそう言っていた。それが、どういう形でかまでは聞けなかったけれど、涼水がレディバードに向かって言葉を発することもしなくて良い。 この地区の責任者である死神。アルフェリアといずみは個人的に契約をしており、何度か融通もきかせてもらっているらしかった。その契約は別にレディバードとのようなものではないし、アルフェリア自身もレディバードとはまた違った感性の持ち主だから安心して良い―――そう伝えられた言葉を信じる以外に、涼水に出来ることはない。 「貴方は東北地区のレディバード・ガランスとお見受けしますが、担当外地区(こんなところ)で何をやっているんです?」 「俺が何処で何しようが、地区責任者のお偉いさんに関係ねえだろ?」 「いえ、関係ありますね」 「………とうとう上は問題児の管理でもし始めたのかよ」 「問題児という自覚はあったんですか」 売り言葉に買い言葉という感じではあるが、アルフェリアの方は表情を微塵も変えないで対応を続けていた。そっと、いずみの傍に寄る。 「…あの人が、担当の死神さん?」 「そうだヨ」 真面目そうでしょ、と言われてそういう問題だろうか、と思ったけれど。 「人間と個人的に契約を結ぶことは勿論何の罪にも問われませんが、それが既に歪んでおり、更には上書きされたとなっては、貴方が此処にいる理由はなくなったと言って良いのでは?」 「上書き…?」 「はい。先ほど書類が審査を通りましてね。彼女の魂は俺の監督下に入ることになりました。その守護霊と、一緒に」 「監督下に入ろうとなんだろうと、契約は契約だろ。俺が此処にいる理由になる。それに、監督下に入れるだけじゃあ上書きなんて…」 「だから、上書きをしたと言ったでしょう」 先ほど通したのはその書類です、とアルフェリアは涼しい顔をして言う。 「そうですね、此処では筑紫いずみとその守護天使、で通しましょうか。この二人と彼女と契約している浮遊霊、すべてについて、筑紫いずみの生が終わった瞬間、裁判を通さずに地獄の業火に焼かれること」 「な…ッ」 「魂(たま)結びの儀、くらい、ご存知ですよね?」 「てめぇ…ッそんなものを、」 「はい、通しました。故に彼らは俺の監督下に入りました。これ以上の手出しはさせません」 それこそ理を崩すようなことになりますが? とアルフェリアはまっすぐにレディバードを見据えた。 それで、決着がついたようだった。レディバードは悔しそうに唇を噛んで、それ以上は何も言わなかった。 *** 白狐 それは未来を繋ぐ、新しい名前。 十六 終局 何が何だか分からなかったけれどもどうやらいずみの作戦は通ったらしい。地獄だとか業火だとか不穏な言葉が聞こえてきたけれども、レディバードはいずみをきっと睨み付けて帰って行った。一言もなかったが、それくらいにコテンパンにやってやれたのかもしれない。それを喜んで良いのか分からないけれど。 担当だと言う死神はいずみとしばらく話をしてから、涼水に向き直った。 「はじめまして、涼水。俺はアルフェリア・ロードネスです。どうぞお気軽にアルとお呼びください」 「アル、さん?」 「はい」 「アルさんは死神なんですか?」 「はい。この地区の担当になります。…一応、先程の彼よりは偉いので、今回の決議が間に合って良かったです」 「ええ、ああ…なんか、ありがとうございます」 「いえ。これが仕事ですので」 何だか話を聞く限りでは死神というのは涼水が思っていたよりもファンタジーなものではなく、がっつりお役所仕事のようだ。 いずみ、と呼ぶ。 「…終わった、の?」 「ウン」 「良かっ…たあ」 今度こそ本当に力が抜けた。へなへなとその場に座り込む。 怖かった、とても怖かった。自分が死ぬかもしれないことも、いずみが連れて行かれてしまうかもしれないことも。どうしても、今はいずみの傍にいたい。そう、自分が思っていることが痛いほど分かって、苦しかった。 「僕が言うのも何ですけど、いずみの相手は大変でしょう」 「え、いえ、あー…そんなことありますけど」 「あるんですね」 「えへへ…」 ではこれで、とアルフェリアが頭を下げる。どうやら死神というのは忙しいらしい。偉い人だからなのか、それともレディバードがいろいろサボっていただけなのか。 それを見送ってから、いずみに向き直る。 「いずみ」 「何」 「私強くなるよ」 何処かで思っていたのだ、いずみは負けるはずなんかないって。でもそれはきっと、この狭い世界でだけの話で、いずみに完全に死角がない訳じゃあない。 それに。 ―――涼水は、いずみにとって未だ足手まといでしかない。 「強くなりたい」 だから力が欲しかった。 「いずみの力になりたい」 それが、どういうことなのか、分かっていて言葉にした。 「どうしたら良いかな」 「涼水ハ今のままデ良いノニ」 用意された言葉のように聞こえた。そして涼水はきっと、いずみがそう言うことを分かっていた。だからすぐに次の言葉を言う。 「そんなこと言わないでよ、いずみ。協力して欲しいの。もし、対価が必要ならちゃんと支払うし、ねえ、今からでも良いから」 「やだヨもう疲れたシ。僕は寝るヨ」 「えっ」 「じゃアおやすミ」 本当に踵を返したいずみを追い掛ける。確かにいずみはあんまり寝ていないような気はしていたが、まさか一件落着してすぐに寝ようとするなんて。そしてそのまま涼水の話も流される気がする。 「イザヨイさんは!?」 「どうセもウ起きるヨ」 レディバードだって上に怒られるようなことを長々続ける訳がない、といずみは言う。それはそうかもしれないけれど、と涼水が何か返すより先に電話が鳴った。家の中に駆け込む。 「はい。白狐の黎明堂です―――」 慌てて取った電話の相手は、言うまでもない。 *** |