茹(う)だるような空気を吹き飛ばすかのように、嵐はやってくる。

終焉色の薔薇 

 「涼水…チョコレート…ちょうだイ…」
ずるり、と居間の戸口から聞こえてきた声にそちらを見遣って、涼水はぎょっとした。床にべとりと張り付いた、恐らくこの店の店主。
「いずみ、大丈夫…?」
何度か見たことのある光景だとは言え、そう問うことをやめられはしない。
「大丈夫…だカラ、チョコ…」
「分かった分かったから。そんなずりずりしないで。雑巾になりたいの?」
はぁ、と盛大にため息を吐いてから、くるりと方向転換。小さいとは言えいずみを抱えて何処かへ寝かせてやることは出来ないので、チョコレートを与えて自分で歩いてもらうしかない。
 いずみがこういった状態になるのはそう頻繁なことではなかったが、かと言ってすごく珍しいという訳でもなかった。彼が仕事と称する謎の書類―――何処の言葉かも分からないような文字が延々と綴られているものの整理期間、つまり月末であるが、それが来ると大体こうなる。いつもはそこそこ規則的に摂っている食事もずれたり抜かれたり、作っている方としては心配でならない。大丈夫かと訊ねても、いつもの笑みで大丈夫だと返されてしまっては、涼水にはそれ以上踏み込むことは出来なかった。仕方なく、それ以来はサポートに尽くすことに決めている。だめそうな場合はイザヨイに電話、不安な時は彼女特性の薬やら栄養補給用チョコレートを食べさせることになっている。
 そんなことを考えながらチョコレートを何枚か戸棚から掴むと、涼水は台所を後にした。
「いずみ? ………あれ?」
先ほどの場所に行くと、いずみの姿はなかった。いつもは動けても動かないのに、と首を傾げながら居間へと向かう。自分の部屋に戻ったとは考えにくかった。整理後はいずみの部屋は大荒れで、とても眠れるような状態ではないのだから。居間にならふかふかのソファーがあるし、涼水も何かとすぐに対応しやすい。
 そうして向かった居間には。
「いずみ…って、え」
思わず、涼水は固まった。叫び声を上げなかったのはそれほどに驚愕したからだ。
 いずみはいた。額には濡れたタオルだろう、小さな白いものが乗せられていて、いずみはソファーで横になっていた。それだけならば涼水だって驚くことはなかったのだろう。涼水が驚いたのは、居間に知らない人間がいたことと、いずみの頭がある場所だった。
 察しの良い方は既に分かっているかもしれないが、いずみの頭はその知らない人間の膝の上にあったのだ!
「な―――」
意味のある言葉を発することも出来ずにいる涼水に、目を閉じながらいずみの髪を撫でていた人がようやく目を開いた。
「いずみ、多分涼水ちゃんが来たよ」
「ンー…」
美しい声だった。鈴の鳴るような、とはこの人のためにあるような言葉だ。曖昧な会話の傍らでも、彼女は手を止めない。なんだかその雰因気が完成されたもののように感じて、涼水は其処に立っているのがいたたまれなくなった。まるで、少女漫画から一シーンを切り取ったような。じわじわと頬が熱くなるのを感じる。
 いずみと話していてもらちがあかないと感じたのか、その人は顔を上げた。
「いずみね、」
蒼い双眸が真っ直ぐに涼水を見つめてくる。その美しさに、なんともこそばゆい感覚が駆け巡った。
「熱、あるみたいなの」
「そうなんですか………って、え?」
 思わず流されて頷きそうになったところで、涼水は我に返った。熱。いずみを見やる。彼女の膝の上で確かにいずみは随分疲れ切った顔はしているけれども、今まで熱なんて出したことなかったのに。
「夏風邪は馬鹿しかひかないと思ってたんだけどね」
例外はあるのね、と彼女が笑えばいずみがむっとしたのが分かった。
「五月蝿いナー…。もウ大丈夫だカラ、二人デ買い物にデモ行ってきたラ…」
吐き出された言葉は心底疲れたように聞こえて、一人にしておいた方が良さそうだと涼水は彼女を顔を見合わせた。



 黎明堂を出た涼水と彼女は近くのカフェに腰を落ち着けていた。
「自己紹介がまだだったわよね。私は宮原しず。紫の子で紫子って書くのよ。自分で言うのもなんだけど、結構気に入ってるの。お店をやっているからマスターって呼ばれることも多いわ。涼水ちゃんのことはいずみから少し聞いてた。好きなように呼んで?」
「ええ、ああ…はい…。皇涼水です。ヨロシクオネガイシマス…」
「ふふ、そんなに緊張しなくても良いのに」
天使のような、という形容がぴったり当てはまるような笑みで言われても。
「涼水ちゃんも今度来てね、私のお店。サービスするから」
「お店、ですか」
も=Bいずみは彼女の店に行ったことがあるのだと、流石の涼水でも分かった。行きつけの店があるのなら教えてくれれば良いのに。彼からはそんな日常の話さえ聞いたことがないという事実が改めて突きつけられ、少しヘコむ。
「エンドローズっ言ってね、カフェみたいなものもやってるわ」
もしかして今着ているのもその店の制服なんだろうか。まるで彼女のために作られたみたいに似合っている。そもそも蒼い目は大きくてきれいだし、睫毛は長いし、肩くらいの長さの髪だって現実じゃないみたいにきれいな金髪だ。物語の中から飛び出して来たような。
「毎日薔薇とか飾ってね、楽しくやってるし、紅茶も美味しいから。うちの助手がね、私が見つけて来た子なんだけど、本当に紅茶を淹れるのが上手なの。だから、涼水ちゃんにも飲んで欲しいなあ」
「それは…気になります」
 頬を少し染めて好きなものを語る彼女は可愛らしかった。だから涼水も、素直に言った。マスターは嬉しそうにまた笑うと、絶対よ、と言う。
「そうだ、この後は買い物にでも行きましょ」
「えっでも私お金そんなに…」
「何言ってるのよ、いずみに出してもらえば良いでしょ?」
いずみに私服って概念ないと思うから言わないとお金だしてくれないわよ、とその言葉は涼水の痛いところを突いている。確かに私服が欲しくても、拾い主であるいずみが私服に頓着がないため、欲しいとは言えない状態だったのだ。彼に悪気はないのだろうが。
「でも…」
「大丈夫よ、いずみだってそれくらいじゃあ怒らないわ」
「じゃ、じゃあウニクロで…」
「それは別の機会でも良いんじゃない? 今日は私に付き合ってくれない?」
あ、狡い、と思った。そんな角度で小首を傾げられたら頷かざるを得ない。

 結局そうしていろいろなところを連れ回された。



 帰るといずみが玄関先で迎えてくれた。
「いずみ、大丈夫なの?」
「ウン。前ニ十六夜にもらっタ薬、しっかリ飲んだカラ」
とんでもない味だったのか、いずみは苦々しい顔をしてみせる。
「紫子とノ買い物は楽しかっタ?」
「うん! …あの、こんなに買っちゃったけど、ホントに大丈夫? 私、いずみにお金返せないし…」
「別にそれくらイ。はした金だシ。僕だと涼水の買い物にハ付き合えなイだろうカラ
助かったヨー」
不穏なワードが聞こえたが無視した方が良いのだろうか。
「そ、そっかあ…ありがとう」
 結局、無視することにした。彼のことを何も知らないとは思ったけれど、だからと言って質問するにしても何から聞いていいのか分からない。
「夕ご飯作るね」
「お願イ」
そうして台所に行こうとして、あ、と涼水は立ち止まる。
「ねえねえいずみ」
「ン?」
そうだ、何を聞いていいのか分からないとは言ったが、一つ、今すごく気になることがあったじゃないか。
「マスターって、いずみの彼女?」
「エ?」
いずみがキョトンとする。本当に訳が分からない、と言いたげな顔。
「だから、付き合ってるの? 恋人?」
「アー…あのネ、涼水…」
言わなかったのか、といずみが呟く。
「僕と紫子ハ付き合ってないシ、紫子は紫子デ婚約者がいるヨ。それとネ―――」
その後に告げられた事実に、涼水は叫ばざるを得なかった。
「だ、だって! あんなにきれいなのに!? 可愛いのに!? 可愛い雑貨に目がなくて、スイーツに目移りして、でも全部食べたら太っちゃうかな、なんて気にしてて、洋服のセンスもあって、華奢でモデルさんみたいで声高くて…」
「涼水、それっテ全部記号デしかないヨ」
「そ、そう言われるとそうだけど…」
 でも、信じられない。
「マスターって…男の人なの…」
「ちなみニあの格好は可愛イものが好きなだけデ、本人ニ女装してル自覚はないヨ」

 後日、いずみの様子を見に来たマスターにまた会ったが、やっぱりあまりにきれいだったのでもう性別とかどうでもいいやとなった涼水だった。

***




20170423