人間になれない僕たちは 腕の中には現がいた。ひどく眠いようで、その真後ろに佇む子羊にさえ気付かない。夢か現か、分からないのだろう。此処まで来てしまえばやることは一つだ。 現は賢すぎた。 馬鹿故の賢さね、と子羊は言った。涸月も同じことを言ってた、とも。骸もそうだと思う。 ―――人間は心を切り捨てられると言う。 それが本当なのか嘘なのか、骸にとってはどちらでも良かった。目の前の現の状態がすべてだ。可愛い双子の妹の現状が、すべてだ。 「どうして私は母さんのことまで忘れてしまったんだろう。私は骸といる、それで良いのに…それで何も、間違ってないのに、どうして私、こんなに母さんに会いたいの?」 「現」 「私…何か、可笑しいの? それとも、あの人たちが可笑しかった、だけ?」 「うん、そうだよ」 骸は頷く。後者に対して。でも現には通じない。 「可笑しいわよね、だって私、あれだけ痛かったんだもの! なのにあの人たちは一度も謝らなかった! それが悪いことだってあんな小さな私にだって分かったのに、あの人たちは最後まで認めなかった! いいえ、分かっていたかすらも怪しいわ! あの人たちは…あの人たちは………」 彼女は一体何を思い出しているのだろう。 「骸、まで…」 震える手が縋って来る。 「現、大丈夫、僕は此処にいます。だから何も不安になることなんてありません」 「私、不安になってるの?」 「それ以外にないでしょう。ほら、ミルクは飲んだんですからもう、眠って」 はちみつを入れたミルク。 きっと骸が小さい頃に入れてあげたミルク。そして、もう二度と目覚めない薬が入っている、ミルク。 「あの人たちは人間なんだよ、現」 骸のその言葉は届かない。 届けたく、ない。 「人間なんだ、とても」 *** それだけが役目だと思っていた。 まったくおんなじかおをしたでもほんとうはぜんぜんちがうそんざい。 それが用賀骸にとっての用賀現だった。だから本当は分かっていたのだ、彼女の危機が分かるなんてこの箱庭の王と番人でもあるまいし、骸にはそんなことは許されていない。双子だなんて記号だった、ただ単に関係性を強調するためだけに与えられた記号。だから骸は現の危機に間に合わなかったし、彼女は今、床の上に転がっているのだ。 まるで。 涸月のように。 「骸、むくろ」 弱々しい声が骸を呼ぶ。それが骸に過去を呼び起こさせる。 「男の人ってみんなあんなこと考えてるの?」 ちがう。 「私の中を掻き回して、それだけでいいって思ってるの?」 ちがう。 「ねえ、答えてよ、骸。あのひとも―――」 やっと、抱き締めることが出来る。どうしても動かせられる口を止めるためだけに。 「ちがう、違うよ現」 掠れた声が届いたのかは知らないけれど、現は骸を拒絶しなかった。 「僕が守ります」 涙は出なかった。 出すことも出来なかった。 「絶対に」 誰かが笑う。 「絶対、に」 *** 飲まれないミルクティー 走る、走る。走って追いかける。 見かけたのは偶然だった。でも見間違えるはずがない。 「用賀現…ッ!!」 学年で後ろから数えた方がはやい足でも歩いている相手に追いつくことは訳ない。 しかし、くるりと振り返った顔は。 「…妹が、どうかしましたか?」 とてもよくは似ているが、それでも男だと分かる顔だった。かがみの知っている用賀現はどう考えても女だった。 彼女に話があるのならば僕が聞きましょう、と言った真面目そうな青年に付いて行き、かがみは公園のベンチに座っていた。いいところにいい塩梅にベンチのある公園があって、ついでに綺麗な自動販売機まであるものだ、と思う。よく放って置かれている自動販売機にはゴキブリがいる、なんて聞くけれどもタイミングを図ったかのように清掃業者と中身の入れ替え業者が来て去っていった。何なんだ、と思う。時々この世界はすべてつくられたものなのではないか、とまで思ってしまう。そんな厨二病は小五で卒業したはずなのに。 「ミルクティー、嫌いですか」 プルタブを開けた缶を握りしめたままでいるかがみに、用賀骸と名乗った彼はそう訊ねた。首を振る。別に、ミルクティーが嫌いな訳ではない。ただ、猫舌なだけだ。それを伝えると骸はそうですか、とだけ言った。それから熱い缶を一気飲みしてゴミ箱に投げ入れ、かがみの方を向く。 ―――それで、何の用だったんですか。 そう、来ると思っていたのに。 暫く考え込んだ骸は、ああ、と頷いて見せた。 「この辺りは涸月の家でしたね」 聞くまでもないと言うように。 「君は、涸月の友達ですか?」 その言葉で、すべてを悟ってしまった。 「アンタはそれでいいのかよ!?」 過程を放り投げて掴みかかる。缶が飛んでいった。中身が飛び散る音がする。友達じゃない。そう言うことすら出来なかった。友達じゃない、友達じゃない。かがみと涸月は友達じゃない。 ―――友達に、なれない。 「アンタは、妹があんな、ひどいこと…」 「現は、」 掴みかかられているというのに骸は静かだった。身長差もそんなにないはずなのに、現と同じくらいなのに、あの嫌な女よりもずっと威圧感がある。 「ひどいことなんかしていません」 ひどいことだ、と言い切れたら良かったのかもしれない。 「だってあれこれそういうものでしょう?」 もう一本、買ってきますね、と骸はかがみの手を丁寧に外した。あの女の双子の兄だなんて思えないくらいに彼は丁寧だった。でも、この手も涸月を傷付けるのだ。直接でも、間接でも。ミルクティーで良いですか、と言われて頷いたのかどうか分からなかった。きっと頷いたのだろう。また熱いミルクティーの缶が手の中に入れられて、ベンチに座らされる。 逆光で、骸の表情は見えなかった。 まるでぽっかりと穴があいたように、そこだけ何もないように。 ああ、と思う。 ―――これは、おれの表情だ。 二回目の缶の転がる音がした。 *** 「君が例えば死にたい死にたいと強く願ったとしてそれが叶えられたとして、で、それで結局世界の何が変わるの?」 *** 愛玩動物 風が冷たかった。海沿いの町なのだから当たり前なのかもしれない。でも潮の匂いはしなかった。そんなもの、知らないような気がしていた。 ―――だって海の傍でなんて育ってない。 それは誰の言葉だったのだろう、記憶だったのだろう。 「かがみくん」 カッターナイフを持っていなかった。持つことを許されなかった。 「かがみくんはとってもおくびょうで、とってもかわいいこげちゃんたちのすべてよ」 にへら、と嘘臭く笑う彼女がこの上なく好きだった。 *** ところで神様お元気ですか 恋だったんだよと来々が幾ら言っても彼は納得しないし、理解を示さない。それが番人たる彼に課された役目なのかもしれない。そういうものを来々は理解したくなくて納得したくなくて、それでずっと二人は一緒の存在なのにこんなにも離れ離れなのだから可笑しくなりそうなくらいに。 「恋ではありませんよ」 彼は言う。 「絶対に」 なら君のそれも恋なんかじゃないよ。 *** 新しい朝を受け取って 浮気をしても良いですか、と畠野が言うのでいや俺たち付き合ってたんだっけ、と真顔で返してしまった。そうしたら畠野はそうだったと言わんばかりに目を丸くして、ああ、と崩れ落ちた。その様子があまりにも珍しくて思わずそのまま覗き込む。 「一体どうしたんだよ」 「…いえ、どうでもいいことですよ」 「どうでもいいことでそんなになるかよ…」 畠野はいつでもひどく大人びていてまるで違う生き物みたいにしてみせているから、余計にこんな反応が心配になった。 「本当にどうでもいいことですって。それとも何もかも知りたがるのはデータベースの性ですか?」 言ってから畠野はしまった、という顔をして、これはいよいよ天変地異の前触れかもしれないと思った。 「お前がそう思いたいならそれで良いけど」 「そんなことを言われると僕が分からず屋のようではないですか」 実際そうだと思ったが、それは流石に言わずにおく。 「…そもそも、君に会う前の僕はヒモ生活をしていて」 「はあ」 「知っていたでしょう? そうだったので、そして養ってくれる相手は大抵女性でしたので、勿論僕は抱く側だったんですよ」 「待て、それ以上は聞きたくない」 「いえ、データベースに登録しておいてくださいよ。―――畠野為史は、今、無性に誰かを抱きたいのだ≠ニ」 しん、と沈黙が落ちた。落ちたったら落ちた。 「…ああ、それで、女の子を引っ掛けて来たい、と」 「此処につれてくると君の痕跡が残っていますので、その辺のラブホにでも行ってきます―――というか、行くつもりでした」 「過去形? もう良くなった訳」 「いえ、君でも大丈夫だと思いまして」 「…は?」 「そもそも僕たちは同じものであり男でもあり女でもあり、だから役目役割以外は僕に出来ることで君に出来ないことはないはずなんですよね、理論上は。だってそういうものなんですから。それに僕は浮気という言葉を使うくらいに君へと入れ込んでいる。これは新事実でしたが、事実であるならそれを無視するのはあまりに勿体無い」 「お前自分が何言ってるか分かってる?」 「分かっていますよ。分かっていなくてこんな素っ頓狂なことが言えますか」 「素っ頓狂なこと言ってる自覚はあるのかよ…」 手が伸びてくる、白魚のような手、そういうために、誰かに愛されるために創られた、手。 「ね、白冬」 いつもは苗字で呼ぶくせに。 「良いでしょう?」 こういう時ばかり名前で呼ぶのだから。 * なんてことはなかった。畠野の言う通り、畠野に出来て俺に出来ないことはなかった。 「やり方を忘れていなくて良かった」 笑った彼があまりに美しかったのでいろいろなことが吹っ飛びそうなにったが、本当に最低な奴である。口説くなら嘘でも愛だの何だのを囁いてくれればまだ可愛げがあるものを。 ひどい話、畠野は大分スッキリしたようだった。本当にひどい話である。 「何か持ってきますよ。ポカリで良いですか」 「ソルティライチが良い」 「仰せのままに」 台所へ向こう何一つ羽織らない背中を見ていたら、無性に縋りたくなった。でもきっと、それは彼が初めて抱いた人間がやったことだろうから。 伸びかけていた手を引っ込める。 俺はただ、帰って来た畠野に君のために俺は死ねないと、言ってやることしか出来ないのだ。 * image song「海原の人魚」cocco *** 紅茶花伝は意味を残して行きました。 からんからんと転がるはずだったペットボトルは代わりにちゃぷん、と音を立てた。中身が入っている音だった、それが来々には信じられなくて信じられなくてどうして良いのか分からないままその前に膝をつく。来々の中でペットボトルは、空になったペットボトルというのは神と同じだった、神の正式な意志であり断罪だった、それが拒絶されたのか、それとも神は拒絶しただけではなく来々もろともこの世界を捨てたのか。 否。 彼女がそんなことをするはずがないのだ。 「彼女に幸せになってもらいたいって、そう、心の底から思えるようになったんだ。今までのは、ぜんぶ、俺のための彼女の幸せだった」 自分に言い聞かせるように呟く。 「今は、本当に、彼女に幸せになってもらいたい」 神だと言うのならきっと言ってはいけない言葉だった。神ではないのだと、彼女は来々の中では神でも、本当の意味で神ではないのだと、神になれなかった失墜したものなのだと、来々は信じたくはない。今目の前に転がるペットボトルが空ではないことと同じように。 「そのためなら、俺の幸せなんてって、それくらいに」 それが馬鹿なんだよと言う彼女の声は、聞こえなかったふりをした。 *** ああ、本当は貴方を愛しています。 認めたら涙が出て来そうだ、と思った。だから認められない、と思った。認めたくない。そんな思いが身体中を駆け巡る。 ―――これは、愛しさだ。 悔しさなんかではなかった。 すべてのはじまり、すべての元凶。そんな彼が幸せが何なのかということを知った、それが東白冬には、自称・データバンクには、嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。 *** 愛しきよりも優先されるもの 愛している、と思う。例えそれが本当に愛なんてものではなくとも、そもそもこの世界に本当のものがあるのかも疑わしいし、本当にそれが愛だったとして何かの免罪符になる訳でもない。 愛は世界を救わない。別れはいつか来るものだから。この世界がこの世界である以上。 だから、一秒でも長く。 「隣で笑っていたいと思うのは、どうしても、来々、貴方なんですよ」 |