うそつきとヒーロー、ソーダ味。 幼馴染、と言っていいのか分からないままこの家に通っているなあ、と水宮かがみは思う。高校の制服に身を包んだかがみのことを涸月は最初に見た時お腹を抱えて笑ったものだが(あまりに制服に着られすぎていたらしい)(本当のところ彼女がどうして笑ったのかかがみには分からないのではあるが)(分かりたくないのではあるが)、それもどうにかかがみのこの身に馴染んできたように思える。 何もかもが普通だ。 彼女のことを除いては。 かがみが通っているのはそう偏差値の高い高校ではない。大学進学は考えるのが半分、専門学校を狙っているものが半分、そのまま就職が少数派。そんなところだった。可もなく不可もなく、家から通える距離のそう遠くないところ。自転車で十五分。今の学校を決めたのは結局、そんなことが決め手だったように思う。 「涸月」 いつから呼び捨てだったんだろうなあ、と思いながらアイスの入ったコンビニ袋を振る。学校から帰る途中にある潰れそうなコンビニは、田舎だからなのか店員がいないことが多い。顔見知りだからいなかったら呼べば良いだけなのだが、それで万引きとか対策は大丈夫なのかと不安になる。顔見知りとは言えそんなに親しい間柄でもないのに、それを心配するなんてかがみはおせっかいね―――なんていつもの無様な口調で言われてしまうだろうから、そのことは話題には出さないけれど。 返事はない。 勝手知ったるとばかりに玄関を開け、おじゃまします、と申し訳程度に添えて二階の彼女の部屋へと行く。暑さに溶けるスライムみたいに、彼女は床でとろけていた。今日は苦しそうでもないし怪我も見当たらない。 「涸月」 もう一度呼ぶと、ゆるゆるとその頭が上がった。 「玄関、鍵開いていた」 「だって、きょうはかがみくんがくるよかんがしたから」 涸月のこの予感は当たる。もしかしたら彼女が彼女であるために添えられたものなのかもしれなかった。そんな考えを振り払う。 「暑いんだろ。アイス買ってきた」 「わあい。なにあじ?」 「ソーダ。ソーダ最強」 「ふふ。あれ、でも、かがみくん、ぶかつは?」 「文芸部。幽霊部員だよ」 「へえ、そうなんだ」 涸月は否定することをしない。基本的に、日常会話においては。 幽霊部員と言っても、原稿を提出しなかったりするだけで、時折部室に顔を出しては昔の部誌を読んだりしている。本は好きだった、ソーダと同じくらい。本は好きだった、涸月には敵わないくらい。 ぽろり、と。 ふいにアイスをかじっていた涸月が涙を流す。 「………涸月?」 「ああ、うん」 今までのは何だったんだと言いたいくらいのスピードでアイスが飲み込まれて行き、涸月は少しべたついた手で自分の顔を拭う。 「かがみくんはじぶんのことでなけないから、」 一瞬何を言われたのか分からなかった。 「だから、こげちゃんがなくのね」 でろり、とアイスがかがみの手を伝っていった。舐める気力も起きなくて放っておいたら、涸月が嬉しそうに舌を出した。 *** 魔法の時間 友人は時折哲学な問いをその整った唇から囀る。それに僕はただありきたりな応えをするだけで何も変わらないはずだった。約束した訳でもないのに授業のない午後は大学のカフェで時間を共有する。彼のことは友人と表現していたが、もう少し若かったらきっと、親友などと言っていたのだろう。そういう関係だった、僕と友人―――畠野為史(はたけのつくし)は。 はず。 なのに。 「他人の生に責任なんて持っていられるのか?」 いつものように哲学的な問いかと思えばそれは少し違うように思えた。片眉を上げてコーヒーを飲み込み、その応えを探す。何、なんといったら彼は引いてくれるのだろう。既に攻め込まれているという自覚は崩さないまま、僕はただ考える。コーヒーの味が分からない。まるでミルクを五個ほどぶちこんだみたいだ。 「その、他人の定義とは」 苦し紛れに出したその言葉は、掠れてはいなかったはずだ。 それでも彼にはすべてがバレていた。 だって彼と僕は友人なのだから。 「お前は何にも学んでいないんだね」 美しく、彼は笑う。 「この箱庭でも時は過ぎるよ」 そんなことは知っているよ、と言葉に出来ないのは。本当は時なんか過ぎないのだと信じていたかったからか。盲目に、此処が自分の作り出した世界なのだと。 何も変わらない。 だから心配することなんて何もない。 僕らはずっと痛い、まま。 「子供だった現が、骸が。大人になったように」 すべて知っているように彼は笑う。 「それを疑問に思うようになったように」 *** 君は天使でなくてはいけません 英はじっとその懺悔が行われるのを聞いていた。それは恋人として英のつとめるべき責務であるように感じていた、からだった。世の中の恋人というのがどういうものなのか英は知らない。英にとって来々だけが世界のすべてだった。その名を受け渡さない愚か者だけが彼の世界のすべてだった。 だから。 ―――君の世界になりたいんです。 そう微笑った彼に、正しい対処の仕方など分からないのも無理はない話だったのだ。経験がないのだから。 「僕は、美しくなんかない」 今、下田は懺悔をしていた。電気カーペットの敷いてあるその上で、英の腹の上に乗りながら。この世界のものたちはすぐに腹の上に乗りたがる、と英は思う。それをどうして英が知っているのか、ということは今は関係がない。英が今思うのは、ああカーペットの電源を入れておくべきだったな、ということだった。少し、背中が寒い。まだ冬になっていない時期であると、そう英は思っていたけれども英に触る下田の手はじっとりと汗ばんでいた。そういえば前に友人たちの喧嘩の仲裁に入った時も彼らの手はこんな感覚だったな、と思い出す。英はそれが誰の記憶であるのかを探ることはしない。英が思い出したのだから英の記憶なのだ。彼の人生のすべては殆ど愛しい来々に受け渡していたにもかかわらず。 「いいえ、美しいです」 英は返す。最初から決まっていた答えを。 「だって、僕は、」 東に紹介された―――紹介されたと言って良いのだろうか、あれは。東に借りたいものがあって、それがなんだか忘れてしまったけれどもきっと覚えていなくてもいいことなので、だから英はそれを覚えていない。ただ陽の光とそのカフェで優雅にお茶をする彼の友人だと言う下田受人に心を奪われた、それだけ。それだけの事実があれば良い。それが誰の思惑だろうが何をなぞっていようが、例え椿の首のようだといわれようが。 「君以外のひと、に、」 「―――知ってました」 それが下田の真実であるかどうかは関係なかった。 英は下田がそう思っていることを知っていた。 知っていた。知っていて、黙っていた。彼を女神と呼んだ。 「君は女神なんかじゃない―――そうとでも言えば満足ですか?」 女神であるように、した。 「許しません。許してなんかやりません。僕は、怒っているんです。でも君を許すつもりもありません」 何故ならそうであれば彼は役目を誤認するだろう。彼の役目は番人の救済。信仰対象。何もせずにそこで微笑んでいるだけの、ここではきっと、比較的簡単な役目。そうであって欲しかった、そうなのだと英は下田に誤認したままでいて欲しかった。そうであればきっと、箱庭の崩壊など起きないから。このままずっと、御伽話のように永遠に、ずっと。 ―――ずっと。 「ねえ、受人」 それは彼が初めて呼んだ僕の名だった。 「僕の、好きになってくれますか?」 受人の懺悔に対する回答を英は持たなかった。 「…なりませんよ」 受人は微笑う。 「なれません」 その答えを英は知っていた。ずっと前から知っていた。 「僕は君が好きです、ですから、君のものにはなれない」 番人である英に脚本は書けない。それでもずっと前から知っていた。 「そういう訳なんです」 「なんとなくそんな答えが返って来るような気がしていました」 「玉砕覚悟ですか」 「無謀な挑戦です」 「…かっこいいですね」 知っていたことにしたかった。 「愛しています、英」 僕の天使、と受人は耳を寄せてくる。 「僕の天使」 愛の言葉と言うにはあまりに稚拙だった。それはきっと、受人が愛し方を知らないからだったのだろう。英のそれは完全なる推測であったし、英は受人がどういう生き方をして来たのかも知らなかったのだが、それでもそう思った。 「僕は君の女神で居続けます」 そして、田水英というものはそんな下田受人と同類なのだと。 「きっと、ぜったい、えいえんに」 「この世界に永遠がなくても?」 「ええ」 その回答はこの上なく馬鹿馬鹿しくて、あまりに軽率で無責任だった。だから二人で目を合わせて笑って、それから電気カーペットのスイッチを入れた。 背中があたたかくなるまで、まだ少し時間が掛かるだろう。 *** 水宮かがみには天草涸月が分からない 自己犠牲、というには彼女の行動はあまりに馬鹿馬鹿しいものだった。少なくともかがみはそう思っていた。思っていてそれを口にするのに、涸月はただ笑って、痛みを堪えもせずに笑って、かがみに言うのだ。 「いたいことがね、こげちゃんであるしょうめいなの」 わかってないのね、と。幼子をあやすように。 「かがみくんはそうとわかっていないだけで、ひどいひと」 確かに涸月の方がかがみよりも年上で、きっとかがみよりももっと何かよく知っているのだろう。歳の差というものはそういうものだ。かがみはそれを知っている。年を重ねなければ分からないものがあった。かがみはそれを知っている。知っているのに、今はこの手が恐ろしい。誰にやられたのかギタギタになった、その手首の何本ものいびつな線が恐ろしい。 「だってこげちゃんがこげちゃんであるしょうめいを、うばおうとするんだもの」 ひつようなの、と涸月は言う。必要、とかがみは繰り返す。必要、ひつよう、ヒツヨウ。言葉は分かるのに、だってかがみは高校に入っているのだ。そこそこの偏差値の学校だ。底辺ではないはずだった。なのに、まるで水が手のひらからすり抜けていくようにその言葉の意味が頭に入ってこない。 必要。 そんなのは、この世界に存在しない言葉ではないのか、というくらいに。 「いたくなくなったら、みんなからきらわれなくなったら、こげちゃんはこげちゃんじゃなくなるのよ」 なんだそれは、と思う。なんだそれはなんだそれはなんだそれはなんだそれはなんだそれは。だって涸月だって真面な人間なはずなのに、何故涸月だけがそんな目にあわなくてはいけないのだろう。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。 涸月だって。 「どうしてそれがわからないの?」 ただの、女の子なのに。 傷だらけの手首を取る。かがみくんはやさしいひとね、と涸月は笑う。笑って、でもね、そのやさしさをかんじゅしたらこげつはしんじゃうの、と言った。 「死ねばいいだろ」 かがみの口から驚くほど冷たい言葉がこぼれ出る。 「そしたら、新しい涸月になればいいだろ、新しい天草涸月に生まれ変わればいいんだよ」 そうだ、そうだった。この世界はそれを許すはずだった。 かがみは本当はきっと知っていた。まだ知っていると言えなくても。涸月のこの手首の傷のこと、いつか自分が握っていたピンク色のカッターのこと。何も思い出せなくても、何も思い出せないようになっていても、かがみは本当はきっと知っていた。 「どうして、そんな、かんたんな、こと」 「どうしてって?」 涸月は笑う。かがみの腕の中で、今にも眠りそうに。 「それは、むずかしいことだからよ」 ばかね、と涸月の言葉は愛に満ちていた。 少なくともかがみにはそう聞こえた。 「かがみくんは、とってもばか、だわ。そして、かわいそう」 「かわいそう」 「かわいそうね」 涸月の手が、かがみの頬を撫ぜる。 「こげちゃんはそういうものなのに、のみこめないの、まるで、りょうしんだわ、ぎぜんしゃだわ。なのに、ねえ、こげちゃんはかがみくんのこと、とおざけられないの。かがみくんのためをおもったら、とおざけたほうがいいのに、」 「それは、」 「たぶん、かがみくんがおもっているのとは、いえ、おもってほしいのとは、ちがうりゆう」 「………そう」 かがみは頷いた。涸月は寝ても良い? と訊ねて、かがみはまた頷いた。 涸月が目を閉じる。 初恋の終わる音がした。 *** とあるおせっかいにえいきょうされたはなし このせかいにはじしょう、というものがおおくそんざいします。かれらひとつひとつをつくりあげるのはたしょうであってはいけない、それがこのせかいのぜんていのようなものだからです。だからかれらはじしょうします。じぶんがなにであるかを、ひとにとうたりは、しません。いちぶをのぞいて。こひつじはそのひ、とてつもないおせっかいにあってひどくいらいらとしていました。こひつじはほんとうのところ、こたいち、とでもいえばいいのでしょうか。どんぐりのせくらべのようなこのはこにわのなかでは、ゆいいつであるききをのぞいてはだんとつとっぷ、といってもいいくらいのせいのうでした。だって、そのためにつくられたのですから。こうやこひつじはすべてのしんじつにちかいかたちでつくられた、いうところのみちしるべ、なのでした。 しかしこひつじはべつにおせっかいではないので、だれかのぎもんにそっせんしてこたえるきはありませんでしたし、そもそもこんなにこどものすがたをした―――そしていちぶはげんえいなどとおもっているこひつじになど、そんなしんえんをなげかけてはこないのです。なんてばかばかしいはなしでしょう! すべてのこたえは、めのまえにあるのに! かれらはだれひとり、てをのばさずにとおりすぎていく! 「ききはこひつじにきかないの?」 だから、そのといはほんとうに、ほんとうにきまぐれなものでした。 「あのじしょうでーたばんくなんかよりずっと、こひつじはしんじつにちかいところにいる」 ききはしっているでしょう? こてん、とくびをかしげたのは、このはこにわのなかできっと、こひつじをうわまわるとしたらかれしかいないと、こひつじがそうおもっていたからでした。そしてそのひ、ひどくかれがしょうすいしているようにみえたから、でした。 もういちどいいますが、こひつじはおせっかいなわけではありません。ただそのひはかれにあうまえに、じしょうでーたばんくにあっていて、とてもおせっかいなめにあったので、すこしそのいらいらをぶつけてもいいだろうと、そうおもったけっかのいたずらごころのようなものでした。だってこのせかいにこひつじよりつよいものなんて、かれしかいないのですから。それいがいにすることは、こひつじにとってはよわいものいじめです。こひつじはよわいものいじめはしません。ばかにすることはあっても。 「聞かないよ」 しずかなこえで、やはりひどくしょうすいしたようなこえで、ききはいいました。 「俺は俺の遣り方で、彼女を待つだけだ」 「………そう」 それがどんなにばかなことかわからないの、とことばにしなかったのは、それいじょうはあのおせっかいとおなじになってしまうと、そうきづいたからでした。 こうやこひつじはおせっかいはしないのです。 だからこれは、ほんとうにいちじのきのまよいだったのです。 *** 水のみやこ こうやこひつじはなんでもしっていました。それこそじしょうでーたばんくなんかめじゃないくらいになんでもしっていました。だってこひつじは なのです! なくてはならないものなのです。ですからだれもこひつじをがいせませんし、こひつじはだれもがいすことはしませんでした。…というにはひとりをのぞいては、というしかありませんが、かのじょのことはこひつじのなかでもいっとうとくべつ(とくべつですって! わらってしまいますね!)なのでまあ、いまはおいておきましょう。しょうじきかのじょのそんざいはこひつじにとってはいわゆるくろれきしみたいなものなので、ほったらかしにしておきたいあんけんなのです。ですのでこひつじはかのじょについてなにかをしようなんておもいはいっさいないのでした。ときおりしんじつをつきつけてやるのはこひつじのしゅみのような、ぎむのようなものでしたので、とくにそれはおせっかいというわけではない―――そうです、こひつじはおせっかいではないのです。だから、ききの―――かれいわくにせもののききのしつもんにこたえてやるきなど、たとえかれがすなおにきいてきたって、まったくもっていちみりもないのでした。 なのに、こひつじはたわむれのようにききにきいてしまったのです。しんじつがめのまえにあるのにと、やさしいこえでいってしまったのです。なったこともないははおやのように、いってしまったのです。ききはうつくしくそのもうしでをことわりましたが、もしもかれががいぶんもなくこんがんしてきたらこひつじはどうするつもりだったのでしょう。かんがえるだけでおそろしい、そんなことがおきたきがします。 ここをこわすのは、こひつじではいけないのです。 ここをこわすのは、ききでなくては。 どちらでもいい、ききでなくては。 そもそもこんなはこにわがあるから、せいとうなんてものをひとは(ここのじゅうにんたちをひとといっていいのか、それすらあやういのですが!)もとめるのでしょう。 「こんなはこにわ、はやくくずれてしまえばいいのに」 そうしたら、こひつじのやくわりもおわるのに。 そんなことばはひとつとしてかたちにならず、まるでみずにとけるようにきえていったのでした。 ごぽり。 *** 田水英の躊躇 かつん、かつん、と自分の足音が響いて聞こえる。そんな音の出るような靴を履いている訳でもないのに、それでもかつん、かつんと音はする。そうでなくては物語にはならないから。音がなくては彼女は顔を上げられないから。 「来たの」 その制服には見覚えがあった。この近くにある公立中学のもの。最近では中高一貫の学校が増えているにもかかわらず、あいも変わらずデザインの変更もない制服だった。見覚えがある。英はいつだか、この制服にリボンかネクタイを付けるために運動をしたような気がしていた。その時はちょうど受験期の真っ最中で、そんなくだらないことをしている間に勉強をしたい、と顔も知らない名前も知らない先輩から言われたのだった。あの先輩は自分の行きたい高校に行けたのだろうか。多分落ちたに違いない。余裕のないものから振り落とされていく。この世界はそう、出来ている。 かつん、と踵を鳴らして英は立ち止まった。彼女が何者なのか英は知らなかった。知らなかったけれども知っていた。最上歪。この箱庭の中で、最も注意しなければならない人物。 「大丈夫よ、田水さん」 彼女は年功序列に従うようだった。英は私服だった。彼女よりもずっと背が高かった。制服を着たまま携帯を弄る彼女はきっと、英が年上と判断したのだろう。 「最上さん」 それに則るかのように英は呼ぶ。 「だから、大丈夫だって。アタシが此処にいるのはただの偶然で、君に何かあった訳でも利木月サマに何かあった訳でもない。アタシはアタシ自身の気まぐれで此処にいるだけ。アタシはちゃんと、仕事をしている。どっかの誰かと違って」 「貴方なんて大嫌いです」 「そう。でもアタシは君のこと、そこそこ好きよ?」 会話が成り立っていないように思えた。それでも彼女は、痛くも痒くもない、と言った顔で笑う。それは作った笑みでなく、そうでなくては世界がおかしいのに何を言っているのだ、というような笑み。 「こんな箱庭で、と思う?」 本来ならば、英がすべき笑み。 「だからこそよ」 思い出した? と言う歪はすっと表情を消していた。英は頷くことはしなかった。 さっきまでの表情はそっくりそのまま、英の頬に伝染っていた。 *** 世界の定義 誰もいません。 それを知っているから涸月は喋ります。 「このせかいはただしいのよ」 それは自分に言い聞かせるためではありませんでした。ただ只管、天草涸月の中に植え付けられた何か≠ナした。自称・幼馴染の理解出来ない何か≠ナした。 「だってこげちゃんにはどこにもいばしょがないの」 それが正しいことなのだと涸月は知っていました。 「だからこげちゃんはしゃべるのよ」 それを自称・幼馴染である優しい彼が理解出来ないことも、知っていました。 「いたいのよりなにより、こげちゃんはこのせかいときりはなされるのがいや」 彼には分からないことなのでしょう。天草涸月の役割はそれ≠ナした。それ≠キら出来ない涸月は何者にもなれずに、ただ腐っていく林檎のようなものに成り果てるのでしょう。それだけは嫌でした。涸月にも、ちゃんと嫌だという感情があるのです。 「…かがみくんはばかよ」 きっと此処に歪がいたら肯定してくれたでしょう。 涸月にとって世界とはそんなものでした。 そんな、どうでも良いものでした。 *** こうふく 幸福というものを水宮かがみは考えたことはなかった。なかったけれども最近こうして幼馴染を見ていると、そういうものについて考えざるを得ないようになってきてしまう。かがみはまだ高校生だった、将来も決まっていない高校生だった。そういつしか幼馴染に零した時にはひどく笑われたものだったけれども。何故、あの時笑われたのだろう。今考えても解えは出ない。 出ないけれど、それでもかがみには考えがあった。幸福というものは人々に平等に与えられるべきものだ。それは望まずとも望まざれずとも。天草涸月がそれを望んでいなくたって、彼女が幸福でない状況を幸福と言い張る日々だとて、彼女にだって幸福になる権利というものがあるのだ、否、なければならないのだ。 そして、それに足りないのはただ一つ。 切欠、なのだと。 所謂ご都合主義が必要だった。シンデレラにおける善い魔女、いばら姫における最後の贈り物をした賢者、氷の女王におけるババヤガー。 ―――虹をくぐったら幸福になれるんだよ。 かがみはその言葉を言うだけで良かった。かがみだって脚本を書くことが出来た。出来たのに今までしなかったのは、怖かったからだ。 脚本に書いたことではないことを、彼女が言ったら。 それでも決心してかがみは口を開く。用意してきた台詞をすらすらと言う。とても綺麗に、まるで物語のようにそれはこなされた。 なのに。 「ばかね、かがみくん」 涸月は笑う。 「わたしたちはもう、にじのなかにいるのよ」 虹の足、っていう詩を知っている? と涸月は首を傾げる。もうかがみの脚本からは逸れていた。軌道修正など出来そうにもない。 暗い表情をしてみせたかがみに、涸月はまた笑ってみせる。とても優しい顔で、微笑んで見せる。 「そんなこともあるのだろう」 その声にあの女の声が重なって聞こえて来る。 「たにんにはみえて」 かがみはその詩を知っていた。教科書に載っていたのを覚えていた。 「じぶんにはみえないこうふくのなかで」 涸月だけの声のはずなのに、かがみを嘲笑う女が浮かんでくる。 「かくべつおどろきもせず」 涸月を理解出来ないかがみを嘲笑う、あの女が浮かんでくる。 「こうふくにいきていることが」 その日、水宮かがみは心に決めた。どんな未来が待っていようと、自分だけはずっと、彼女に降伏したままでいよう、と。 * 引用「虹の足」吉野弘 *** 甘い! 甘い! チョコレートよりも甘い!! 別段歪は涸月を好いているとか、正義感に溢れているとか、そういうことはなかった。ただこの箱庭の中で誰よりも狂っていたくて演技を続けているだけ。それも報われない馬鹿馬鹿しさに何を見出すこともなく、歪はのうのうと箱庭で息をし続けている。 歪の下には自分よりもきっと年上であろう少女がいた。中学生である自分よりも年上であるのに少女だなんて、もっと言うのならば既に大学生であるということを知っている彼女を少女と呼ぶのは、歪なりの嫌味だった。 「君なんかがひとつになれると思ったの? 双子の兄だから? ただそれだけで?」 その言葉にひっと喉が鳴ったのはきっと、彼女だって気付いていたからだ。気付いていたのに気付かないふりをしていた。そうすれば彼が、彼女の双子の兄が、優しさを発揮して彼女の願いを叶えてくれるだろうから。 でも、歪はそれを許さない。 「だから君は甘いんだよ」 マウントを取ったままで歪は言う。身長は歪の方が小さかった。でも歪はバスケ部に所属している。それなりにちゃんと真面目に部活に出ている。現役だ。そんな歪と、ぼんやりとしたままぷにぷにとした二の腕を放っておいている大学生の現では、どちらが強いかなんて一目瞭然だ。 「君は一生一人でいるしかない」 暴力をふるうことは簡単だった。歪の方が強いのだから。でも歪はしなかった。ただマウントを取るだけで、傍目からはもしかしたら今から情事でも始まるかのように見えるのだろう。見えるようにしている。歪の手は優しさだけを伴って彼女に触れている。 「おんなじ存在がいることを知っていながら、一人でいるしかない」 「私は、骸をおんなじ存在なんて思ったことは、ない!」 「可哀想に」 歪はその言葉を無視しした。 「涸月が言うのも尤もだよ、可哀想な現=v 簡単な話だった。 「君はその望みを捨てない限り、満たされることなんか、ない」 ―――最上歪は用賀現のことが嫌いだった。 「君は絶対に褒められないし、絶対に認められないし、絶対に―――骸と一つになることなんか、出来ない」 事実だけを丁寧に拾い上げて、歪は加害者であろうとする。それが歪に出来る最大限の、現に対する嫌がらせだった。 現のプライドは高い。それこそチョモランマかと言うほどに。 「彼は妥協するかもしれないね? だって可愛い妹のためだもの。でも君は愚かではないから、それに気付いてしまう。果たして君はその軋轢に耐え得ることが出来るだろうか? 答えは、Noだ。そうだろう? 現。偽善者の君は、君のために誰かが傷付くことを良しとしない」 だから現は自分が被害者になることを認めない。認めないから齟齬が生じて、その心がきりきりと悲鳴を上げる。その音を聞いた歪は満足出来るのだった。してやった、大嫌いな現に勝ってやった。何でも出来ると思っている可哀想な少女に、現実を突き付けることが出来た、と。 「………アンタの、」 憎々しげな現の声が響く。 「かわいこぶる時だけ君≠チて使う癖、本当にきしょい」 「はは、お互い様でしょ」 |