隣の部屋 

 いつだって怒鳴り声が聞こえてきていた。それが日常茶飯事で、そういうふうに作られているのだから仕方ないと、そう言ってしまえば終わりなのだけれども。
「うつつ」
呼んでも返事はない。さっき打たれたところが痛くて、現は布団の中に入っている。
「うつつ、ねてしまいましたか」
「………ううん」
「いたいですよね」
「いたいけど、いい」
 まもるだなんて、ああ、烏滸がましいことを言ったものだ。何も、何も出来ない幼子のくせに、両親の喧嘩も止められないくせに。
「ぼく、しっぷをとってきます」
「となりのへやへいくの」
「はい」
「だめよ」
布団の山が動く。現が顔を出す。厳しい顔をして、骸を引き止める。
「だめよ、となりのへやはきけんだわ」
 隣の部屋は居間だった。その少し奥の方に台所があって、湿布はそこの冷蔵庫に入っている。すぐだ、すぐそこだ。幼子でも手が届くところ。隣の部屋では両親が喧嘩している、ただそれだけなのに現は世界が終わってしまうような調子で、骸を引き止める。
「いいえ、だいじょうぶです」
だから、笑う。
「だいじょうぶなんですよ」
 現が痛かったのなら、骸も痛くなりたかった。でもそれは許されないと、本当は分かっていた。
 数分後、隣の部屋は静かになっていた。現はやっと、手を離してくれた。

***

未熟な軽蔑 

 床に転がされた時にすぐに反撃しなかったのが運の尽き、と言ってしまえばきっとそうだった。違う学校の制服、でも識っている、識っている、どうして、なんて。それこそ最初から決まっていたから、で。
「貴方がしたことでしょう?」
アタシ、ああいうふうにされるの本当に嫌なの。それが自分のものなら尚更。ううん、アタシのもの、なんてひどく痴がましいわね、アレはみんな≠フもの。みんな≠ェ好きにしていい存在、でもああいうのは許せないの。
 貴方なんかにそうされたことが、許せないの。
 自分勝手な言い分だ、と思った。思ったのにろくすっぽ抵抗なんて出来ないで、知らない、知らない、知らない女の手がぐちゃぐちゃと、どんな形容も似合わないようなひどい有様で。ただ床に転がされた用賀現には息を必死ですることしか出来なかった。何を驚いているの、と彼女は笑う。何処か自分とよく似通った、笑みで。
「それともこんなに優しくしなかったから驚いているの?」
―――やさしい。
繰り返す。優しくしたことなんかなかった、だからアレにしたことが優しかったのか、今のこれが優しくないのか、現には判断が付かない。
「だって貴方、弱虫だものね」
彼女は笑う。
「でもアタシは弱虫じゃあない」
それとこれと何の関係があるのか、現には分からない。分からないまま主導権を奪われて、好き勝手にされている。ひどい、ことを。きっと、ひどい、ことを。されている。
 おんなじなのに。
 こんなのは、
「だから優しくしてあげる」
自傷行為にすらならない。自慰ですらない。
「貴方をアタシのものにしてあげる」
―――でもアタシは貴方のものにはならない。
くすくす、と分かりきったようにその唇が歪むのを、ただ呆然と見据えていた。
 この先どうなっていくのかなんて、この箱庭では本当は些細なことなのだと、その時だけは理解したくなかった。

***

ふたりっきりで、内緒の場所で 

 こげちゃんはばかなので、それがよくわかっていたので、そのないしょのばしょがないしょなんかではないことをよくよくわかっている。わかっているけれども、そこはかのじょとこげちゃんのないしょのばしょだった。だれでもしってる、だれでもはいれる、だれかがいることだってあるし、そもそもそこはこうきょうのばしょで、それでもこげちゃんはそこをかのじょとのないしょのばしょだといいはるのだ。
 なんでって、それでいてほしいから。ひどいことばをはきたいはきたいとうずうずしているばかな、こげちゃんよりもばかなこのひとが、こげちゃんをあんしんしてころせているのだと、しんじこませてあげたいから。だからこげちゃんはきょうもてをひろげる。
「ねえ、きて」
 こげちゃんを、ぐちゃぐちゃに、して。



お題
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***

愛を吐いたその口で 

 彼はわたしに好きと言います。その言葉に嘘はありません、それは誰かの犠牲の上に成り立っていることも知っています。本当のところ、わたしは彼のその存在理由も、性的不能の理由も、わたしに抱かれても良いと思う理由も、わたしを女神だなんて言う理由も、知っています。知っていて、わたしは彼を手放すことが出来ないのです。
 ああ、これは、罪でしょうか。
 彼は今日もわたしを愛していると言います。それと同時に、彼の一番たいせつなものを守ります。その唇にキスこそ落としませんが、それはわたしの特権ですが、彼は最後の砦で最終の門番で、一番最初に死ぬ運命であるのはどうにも代えがたい事実なのです。
 ですからわたしは彼を出来るだけ引き止めておきたい、そのためには彼をどれだけ手ひどく抱くこともいとわない、そういうふうに思っているのでした。
 もしも本当に神様なんてものがいるのなら、
「それは本当に、自分勝手なひとですね」



お題
https://twitter.com/odai_bot00

***

そして、生き返った。 

 何もかもが変わらないというのはあまりに残酷で、それは外見とは裏腹に子供である水宮かがみにとってひどく恐ろしいことだった。
「ひどい話だよなあ」
夢オチもいいとこだ、と一人呟くのは、何も変わらなかったことを悔いているからではなく、今≠変えることが出来ないのが痛いほどに分かって悔しいからだった。
―――好きな女の子一人、救えないで。
彼女はどうにも、救いを望んでいるようには見えなかったけれど、それが更にかがみが悔しさを増す要因になっていた。
 痛いのは嫌だ。体験するのも、見るのも。
 だから救われて欲しかった、その辺の陳腐な物語のように。お姫様は王子様に救い出されました、めでたしめでたし。悪い魔法使いがどうして悪いことをしたのかなんて誰も知らないまま、物語は幕を閉じて、それだけ。
 それだけで良かった。だってかがみは子供なのだから。その程度の物語で満足出来た。その程度の物語でなくては満足出来なかった。悪は断罪されるべきだ、もう二度と悪いことはしませんと泣いて謝って、国から追放されるべきだ。間違っても焼いた鉄の靴を履かせたり、ぐつぐつの鍋に突き落としたりしてはいけない。殺してしまったらこちらも悪になる。人を殺すのはいけませんよ、ルールですからね。子供だからかがみは忠実にそれを守っている。
 と、そこまで考えて不意に視界が歪んだような気がした。
 どかどかと足音が聞こえる。
「水宮!!」
胸ぐらが掴まれる。
「かがみ!!」
「…用賀現」
悪い魔法使いは現実にいた。悪い魔法使いはお姫様を苦しめて、でもお姫様はずっと笑っている。それが正しいことなのだと、助け出そうとする王子様の言うことなんか聞きやしないで笑っている。かがみは子供だから、王子様にはなれないのではないかという思考はしない。してはいけない。子供の想像力は、挑戦する力は、無限大でなくてはいけない。
「お前さえ死んでいれば!!」
涸月には飽きたのだろうか。黙って揺さぶられるままになっている。現の手のひらは大きく感じられた。ちゃんとした鋳型なのだと、そんなことすら思う。
「お前さえ、成功、していれば………」
 からん。
 蘇る、音。
 知らない色のカッターナイフ。
 潮の、音。
 ああ、と思い出した。知った、という方が近いのかもしれなかった。
 かがみは初期ロットだった。だから、本当の最初を知っている。それこそ、データなんてものよりも確実に。だってあれはかがみが経験したことだった。経験した部分がかがみだった。
「出来ないよ」
だからかすれ声で言う。
「出来ない」
そもそも出来るのならばこんな箱庭、存在することなんて最初からなかった。
「貴方は分かっているはずだ」
尚も揺さぶり続ける現に言葉を続ける。まるでこういうところは涸月とそっくりだ、と思ってからそれも当たり前だ、と首を振った。
「涸月にひどいことをし続ける貴方なら、分かっているはずだ」
 怒りだ、とかがみは思う。怒りが、まるで具現化するように、そして血液のように世界をめぐる様を魅せつけられているようだ、と。
―――ずるいな。
初期ロットであるが故に、この中で一番に幼い故に。水宮かがみには許されなかったこと。
 望まれなかった、こと。
 循環するすべてがかがみに集結していく、ゆるりと持ち上げられた指がピアノでも弾くようにかがみの首に伸ばされる。無理に引き伸ばされたようなこの身体はひどく細かった。栄養の足りていない子供のような身体が、いつもは憎かった。でも今は違う。今は満ち足りている。
「いいよ」
同じようなのに違う、と泣きたかった。どうしても涸月になれないことを泣きたかった。痛みが怖くて、苦しみが怖くて、孤独が怖くて、これから訪れるもの―――死が、怖くて、そして。
 それがすべて、まっさら奇麗に精算されることが分かっていたから、怖かった。
「やれよ」
どうせ何も変わらないんだから。
 ぎゅうと、首を絞める手に力がこもった。目がチカチカして、現の顔は見えなかった。
 そうして水宮かがみは無事に死んだ。

***

生存のおり 

 その日彼女の元へ向かったのは別に愛だとかそういうものではなかった。ただいつものようにあの馬鹿をいじめて、そのために自浄作用≠利用してやろうと思っただけで。
 この箱庭にはすべてのものに正しい役割がある。
 それを理解しているかどうかは別、として。
 そうして歪が顔を出した時には誰か来ていたのか、その頬はひどく腫れ上がり、でもきっとそれもすぐに消えるのだろうと思った。この世界はそういうもので何も変わらない、それだけが地獄のように続いていく。
「ゆがみはじぶんのためになけないのね」
腫れ上がった顔で彼女は笑った。その顔では半分も見えていないだろうに、それでも笑った。
 慣れきったというように。
「いいわ、こげつがかわりにないてあげる」
小さな手が伸びてくる。指先が触れる。
 冷たい。
 まるで、生きているみたいだ。
「なれてるもの、なみだのだしかたなんて、とってもよくおぼえている」
縋るように伸ばされた手は背中にも届かずに終わった。そのままそこに居座るようにぐるぐると、何かしていないと死んでしまうとでも言うように蠢き続ける。芋虫よりもずっとひどい、醜い。この目を潰してやれば良いのだろうか、そんなことも明日には治っているくせに?
 こんな残酷な世界、で?
「それしかしらないみたいに」
こげちゃんがもっとおおきかったら、あたまをなでてあげられたのにね、と彼女は笑う。なんでもないことのように笑う。
「こげちゃんはしってるよ、ゆがみががんばってること。だからほめてあげたいの。ゆがみはこげちゃんにほめられることなんて、ひつよう、ないかもしれないけれど」
 多分、涸月の役割は母親だ。それは歪が勝手に出した結論だったけれど、多分間違っていないと思った。データーベースはアテにならないし、番人も王子様もアテにならない。歪が動くしかない。
―――この箱庭を守るため。
そんな意識は、全員にあるものだと思っていたけれど。
「ゆがみはみんなをまもっているのね」
いいこね、と囁かれて思考が停止した。
「それともつくし、かしら?」
 凍る、凍る、息が止まるほどに美しい造形をした青年を。誰を模したのだろう、何を望んだのだろう、それから先は歪の本当の意味での推測でしかなかったけれど。
 あれは、鍵だ。
「ゆがみはつくしがすきなの?」
「………違うよ」
「あら、やっとしゃべったわ」
げんきなほうがいいわ、ぐちゃぐちゃにしてくれたほうがいいわ、なけないゆがみのかわりにこげつがないてあげるから、なんかいでも、なんかいでも。壊れた蓄音機のように喋り続ける彼女を抱き寄せることは出来なかった。
 その代わり、腫れ上がった頬に、涙でまたずっと濡れていく頬に、手のひらを振り下ろした。

***

駒鳥にならない、なれなくて良い。 

 握ったカッターナイフを見られた時、それからゆっくりと目線が品定めするようにぬるりと其処から腹を伝って上へと上がって顔まで到達した時、用賀現は失敗した、と思った。何を言われるか、そんな恐怖がぐるぐると渦巻いて、今自分が何をしようとしていたのかまったく分からなくなってしまった。
 それでもカッターナイフを落とさなかったのは矜持か、それともお前なんかに左右されてなるものかと、そんな負けん気だったのか。
「あはは」
それを嘲笑うように突然現れた不穏分子―――最上歪はくるりと回ってみせた。ダンスか何かのように優雅で、そうだ、最初から選ばれた人間≠ニいうのはこういうものを言うのだろうな、とぼんやり思う。
 美しいな、と。
 自分とは正反対だ、と。
「だあれもお前を殺せないよ」
いつの間にか歪は目の前に来ていた。その手はそっと添えられるだけ、カッターナイフに触れている。やさしい。こんなに優しく現に触れたことなんてなかったくせに、カッターナイフには優しくするのか、否、出来るのか。
 この女の中にも優しさなんてものが存在するのか。
「アンタ自身でさえも」
彼女の指が滑っていった刃先の、その後を追うかのようにすっと赤い線が浮き上がる。でも、それだけ。そこから血がだらだらと流れ出る訳でもない、そうだそもそもそんなに勢い良く切ってなどいないのだから当たり前なのに、どうしてかこの現象を可笑しく思ってしまう。
 最上歪は自殺なんかとは程遠い存在だ。
 そんなことを思っていたのに、どうしてかカッターナイフを間に二人で向き合っている。抱き合っている。正確には歪が現を抱き締めている。いつの間に。
「この中で唯一そんなことが出来るのは、赦されているのはかがみだけだ。水宮かがみ。アンタの大嫌いな、かがみだけ」
「…貴方も同じでしょう」
「アタシは別にィ? っていうかそのアンタの、かわいこぶりたい時だけ貴方≠チて使うクセ、きもいから直した方が良いよ」
「きもいって」
「きもいし」
「………ひっど」
 カッターナイフは手から消えていた。ほら、と差し出された指先を舐めたら、潮の味がした。

***

魔女の策略 

 その日やってきた来々はぼろぼろだった。彼のことを来々と呼んで良いのか涸月には本当は判断つかななかったのだが、彼を来々と呼ぶ以外に術はないのでそう呼ぶことにしている。
 此処にはいろんな人が来る。その中でも来々は来ても涸月を殴らない、でも変じゃない人だった。人、と呼んで良いのか。それは多分、ぐるぐる回っている世界を否定することになりかねないからそれ以上は言わないけれど。涸月、とその唇を己の名を呼ぶ前に、きき、と涸月を駆け寄った。そして抱き締める。
「ききはね、こわいこと、ぜんぶわすれて」
何があったのか、大体のことは分かった。だってそのための涸月なのだ。そのためだけの涸月なのだ。
「こげつからの、おねがいよ」
こんな時に役立つように、利木月来々≠ェだめにならないように、作られた箱庭。その中で涸月は正常に自分の役割を理解している。
「ききがまもらなかったらだれがまもるの」
来々は応えない。
「だれがききを、まもるの」
はらはらと流れる涙は涸月のものだった。頭から浸透して、涸月になっていく。来々だった一部が、涸月になっていく。この箱庭で違うものとして存在していることが、そもそもおかしいのに涸月はそれがしあわせだった。
 それを幸せと呼びたかった。
「こげつがぜんぶ、ひきうけるわ」
息を吸う。
「だから、ねえ。ぜんぶわすれるの。はなぶさはわらっているわ、ききはおこってなんかいないわ。だってほら、はなぶさはすてきなひとをみつけた。しげとはすてきなひとよ、ききもしっているでしょう。だから、」
「涸月」
焦点の定まらない瞳が涸月を見遣る。
 だから涸月は頷く。
「…何の話をしていたんだっけ」
「ききがこうちゃかでんをすきなはなし」
「あー…ああ、うん。すきなんだ、あれ」
「おいしいものね」

***

女神を巡る不幸福論争 

 切欠は、何だったのか。
 もう憶えていないということはきっとどうでも良いことで、そして多分、そのあと起こった―――つまり、今起こっていることの方が重要だと言うことで。
「俺はお前さえ幸せならそれで良い」
そんなことをまだ云うか、と思った。
「お前が、幸福なら」
絵空事のようなものだ、唇を噛む、噛みたい。でもそれは許されない。目の前にこの男がいないことが悔やまれる。もしもそれが許されたなら、きっと拳の一つでもくれてやっただろうに。
「お前さえ………」
何が幸福だ、何が不幸だ。何がどっちかなんて、分からないくせして。
 本当の役割も、理解しないで。
「うそつきはきらいですよ」
こぼれ出た言葉は思いの外幼いものになった。まるであの、サンドバックのような。あれのような役目は英は持っていない。持っていてはいけない。もしもそんなことになったのだとしたら、この箱庭の均衡が壊れてしまうことになるのだから。
「…先に嘘を吐いたのはどっちだよ」
やっと返された言葉は拗ねた色をしていた。
「僕が嘘を吐いたのは君が望んだからでしょう」
 そう、それが正しい。
「ああ、来々、来々。僕の来々。僕のすべて。僕の創造主。ねえ、来々、どうして僕に望んだんですか、どうして僕の幸福を願うだなんて言うんですか。違うでしょう、貴方は僕のだいきらいなあの人に恋をして、愛したくて、それを否定したかった僕を、君のために否定したかった僕を壊してしまってそのために嘘を欲したのですよ。今だって僕がこんなことをしているのも、僕の女神と、下田さんと愛し合っているのも、ぜんぶ、ぜんぶ、君が望んだことなんですよ」
何も間違っていないのに、どうして彼は、来々はずっとずっと泣くのだろう。どうしてこの身体を明け渡そうなんてしてくるのだろう。
 利木月来々。
 この箱庭の、王。
 少なくとも英はそう思っている。
「はやく決着をつけてしまいなさい」
彼が王になれないと言うのなら、それをしてしまえば良い。なれるようにすれば良い。それだけのこと。
「君は、利木月来々です」
「…俺は、利木月来々じゃない」
堂々巡りだ、と思う。それでもやめない、やめたくない。
「本物の利木月来々は別にいる。俺の、ずっと奥底で、眠っている」
「そんなことどうだって良いんです」
 縋る、縋り付く。此処に来々はいる、居る、要る。それを証明するかのように。
「ねえ、来々、僕だけの来々。僕があの人がきらいなのは、あの人だけが僕から君を奪う可能性を秘めているからですよ、分かっているんですか? ねえ、僕にとってそれがどれだけ恐ろしいか。あの人は目覚めるだけで、僕らすべてを消してしまえるのですよ」
「そのためのものだ」
「いいえ」
でもそれは許されない、英はそれを女神にすることは出来ても、来々には出来ない。
「僕は、少なくとも僕は、君のための僕です」
「………受人を愛しているくせに? 受人に抱かれたくせに?」
「それとこれは別です」
どうしてだろう、どうしてこんな形なのだろう。
 すっと零れた涙はきっと来々には届かなくて、来々は首を振ってからミルクティーを飲んだ。
 口の中が甘ったるい味でいっぱいになって、もう何も考えられなくなった。

***

ロキソニン 

 血のついた下着が脱衣所に落ちていた。
 それを見た時にああ、と思ったのをよく覚えている。拾ってお湯を出して洗ってやって、そんなことをしながらあれもまたやはり、おんななのだ、と思った、のも。
 にんげんの、おんな。
 あれほどに生きるのが駄目そうな生き物でも、いつか母になるのだ。
 脱衣所をきれいにしてから階段をあがって、それから寒い部屋の隅で丸くなるそれを見つける。
「痛いの」
「…いたい」
「薬は飲んだのか」
「そうやってこげちゃんをくすりづけにしようとする」
「飲めよ」
これではどちらが年上なのか分からない。
 水宮かがみはこの世界ではその辺の高校に通う、なんの変哲もないただの男子高校生だった。それなりに友人にも恵まれて、クラスの委員長なんかやっちゃったりして、勉強も出来て、馬鹿も出来て、それで、それで。あまりにも、平凡。
 この幼馴染が、幼馴染と言っても良いのか分からなかったけれど、年上であろうダメ人間の幼馴染がいること以外は、そんなものを愛してしまっていること以外は、すべて、平凡だったはずなのに。
「こげちゃんばかだからね、まいかいどうしておんなのこなのかなっておもうけど、このいたいのくるとね、いつもだからなんだなっておもうの。おんなのこ、できることおおいね。だからだね」
痛いと言った口で、苦しいと言った口でまたべらべらとそれは喋り出す。
「…なんだよそれ」
「わかってるくせに」
かがみくん、ひどいひと、とそれは笑う。いつものように、ずっとおんなじ顔で笑う。笑う。それしか出来ないみたいに。
 事実、それしか出来ないのだけれど。
「なんでこげちゃんのせわをやくの?」
こんな小さな身体で、かがみにだって抱き上げられるくらい小さな、細っこい今にも壊れそうな身体で全部を背負い込んで。
「こげちゃんはみんなのさんどばっく」
それが当たり前、だなんて。
「そうつくられたのよ」
 手が伸びてくる。うずくまるそれからはかがみには届かないから、かがみが身をかがめてやる。
「なのにかがみくんはそれができないの?」
「…出来ないんじゃない。しないだけだ。おれはあいつらとは違う。おれは水宮かがみだから」
 その答えにそれは一瞬戸惑ったようだった。それからそうね、と笑って、痛みに歪む薄ら笑いで、
「ひどいひと」
かがみの唇を拭っていった。
 「けっかんひんね、こげちゃんよりかわいそう」



20170423