砂漠で乞う水のように 馬鹿馬鹿しい、と何度口にしたことだろう。からからに乾いた心に甘い言葉は一体どれほどの確率で触れるのだろう。触れてはいけないものを触れさせてしまったような心地になって、まったく、と唇は歪む。 「ホント、いつになったら夢見る少女から抜けられるんだか」 また教会の床で倒れる女と散らばった紙のくずを見遣って歪は言う。子羊が何を言うのか分かっていて、彼女は続ける。 「馬鹿らしいね」 「ほんとね」 子羊に否定する言葉は存在しない。 子羊はただ、頷くだけ。 *** 名前を呼んで 来々、来々、とその定めた名前が泣いたように、逃げるように怖がるようにずっと響いている。それは君の名前だろうと言っても結局彼の中から踏切の音は消えないし、このまま放っておけば彼は何度も踏切で死んだりすることだろう。そういうのは彼には許されていないはずだったが、そもそもがゴミ箱で掃き溜めでその他諸々つまりそういう場所なのだから。エラーもバグも何もかも捨てて、放り込んで、それでも廃棄出来なかったものの成れの果て。分かっているのだろうか、誰か気付いただろうか、捨てたかったはずの心を順繰りに形作った馬鹿のこと。 可哀想だと思ったことはある。あるけれどももう知ってしまったのだ、と思う。ならばもう戻れない、と。此処はソフィーの世界ではない。終わりはないし現実にも侵食出来ない。恐れることなど何もないように思えてその実恐れるべきことでたくさんだ。だから来々は走っている。その名を自分のものとしたくなくて。 紅茶花伝は、残して来たのに。 世界を知らない内は世界から逃げようなんてしないだろう、と思うのだ。それは真理であり辿り着いた心理だ。自分のことだからよく分かる、とでも言い換えようか。だから、彼が走るのは。 「知ってしまったんだね」 可愛い来々。 「世界を」 その先にある絶望を。 *** 独占禁止法 分からないんだ、とまるで子供のような声だった。水宮かがみのこんな弱ったような姿を見るのはきっとこの世界でも俺だけなのだろう。彼は涸月の前ではこんな姿を見せない。年相応に固まってみたりはするけれども、それでも基本的には涸月に言葉を返すことで場面を区切ることが出来る。 「もどかしいってこういうことを言うのかな」 子供に戻ったように、かがみは俺の膝に頭を預けて、ぐずるように鼻を啜った。 「笑っても、涸月が望むから笑っても、モヤモヤが消えないんだ」 そんなのはお前が主人公だから出来ることなんだ、と言ってもかがみは納得しないだろう。正直東だってこんなこと、頭から信じている訳ではない。満足に泣くことすら出来ずにぐずっているかがみの頭を撫でながら、嫌われたくない、と言うかがみに首を傾げる。 「東さんはこういうこと、おれに言われるの嫌だろうけど、おれは、東さんにしか言えないから」 どうやら対象は俺らしかった。まさか自分について言っているとは思わなかったので流石に驚く。 「………ひどい話だよな」 「何が」 「東さんを縛ろうとしてる」 おれにそんな権利ないのに、とかがみはまた額を擦り付ける。でも、そうしないとどうしようもなくて、どうしようもなくて。 「黒くて、ずっと何か、覆われていくような、気がするんだ」 「―――怖い?」 ふっと溢れた言葉に、かがみは一度びっくりしてからそうかも、と笑った。疲れ切った、今から死にに行くような顔だった。事実、そうなのだろう。 「怖くて良いんだよ、お前は」 「え?」 かがみの腹からは血がどくどくと流れていた。此処は一体何処だったっけ。波の音がする、海の匂いがする。 「俺のことを独り占めして、良いんだよ」 お前にしか、出来ないこと、なんだから。 *** 家族の幻影 あー!! と叫び声を上げたのはもう耐えられないからだった。 「泣いていいかコンチクショウ」 「いいわよ」 許可が出たので大きく息を吸う。 「やだもう何アレ、だって俺、アイツなのに」 「うん」 「かがみは俺で、俺たちで、俺たちはかがみなのに…馬鹿なのアイツ」 「そうなのよ。かがみくんはばかなの」 そもそも許可が出ないことなんて本当はなかったのだが、どうやら俺は許可が出ないこともあると信じていたいらしかった。そこまで含めて恐らく、 「でもね、そこがいとおしいでしょう?」 毒された。 「………ああ」 ―――わたしたちの、こどもみたいで。 白冬は頷いた。 その言葉が涸月のものではないと分かっていても、頷いた。 *** the Twilight of the GOD 来々、来々と呼んでも答える声はない。当たり前だ、と思う。思うけれども諦められなくてずっと走ることしか出来なくて。本当はそんなものいないくせに。 本当は、そんなものにすらなれないくせに。 *** 馬鹿よ馬鹿よも好きのうち この男はバカ正直なのだ、と思う。そもそも為史が彼を指定したのは彼がそこにいたからで、一番被害を被らなそうだと思ったからだった。一緒に死んでもどうにかなる人。煙草の匂いを嫌わない人。誰でも良かったと言えばそれは違うと言えるけれど、条件があっただけで誰でも良かったには違いないのだ。セックスをして、一緒に笑って、酒を飲んで傷付けられて傷付けて。それだけで良かった、それだけが良かった。 好きになんて、なりたくなかった、のに。 「それでも信じるなんて、」 顎に手を掛ける。それ以上のことはしない。 「そういう性なんですか?」 かがみのことは言えませんね、と言えばその顔は想像以上に歪んでいった。 *** 選択肢 世界がどちらを選んでも良かったはずだった。正規ルートなどと今は呼ばれているものは世界が安定するまでにトライ・アンド・エラーを繰り返してきただけのもので、このルートを辿らなければまたさっさとやり直しに、すべてを巻き込んでやり直しになるだけだ、と思った。それはそれでも良かった、良かったし本当なら用賀現が途中で死んだルートとして記録されるだけだった。それを知っているのは東白冬だけで、彼だって本当は無意識で知っているだけで上辺では何もしらない人間をやっているだけのはずだったのに。バックアップデータ、なんて。 一体誰が必要としたのだろう? それでも。 ―――ココニイルヨ。 それは拙い以上の言葉だったけれど。 ―――ダカラヨンデ。 荒野子羊は、望まれて出来たもの。 *** さよならは貴方の手に いつものように利用されたりしたりの関係性の延長線上。好きだとか嫌いだとか今更言えるような関係でもないくせに、とは言ってもやはり友人とも言い切れない訳で、これを一体どう処理するのが正解なのだろうな、と思っていた。まるで正規ルートだとでも言うように曲々と繰り返している、これは何度目なのだろうな、なんてきっと検索すればヒットするのにそれをしないのは白冬にそれが許されていないからだ。 すべては、無意識、で。 データベースに感情は許されない。だから自分で検索することは出来ない。 「まるで猫のようだと言われるのが自慢だったんですよ」 真っ白なシーツの海でうずくまって為史は言った。 「なのに、突然犬のようになるって言われて。犬ですよ、しかもただの犬ではなくて忠犬ハチ公だって言われたんですよ。あれは恐らく一般的に言われるあそこにいればご飯に困らなかったという話ではないのだと思います」 それは一般的な方なのか、とも思ったが必要とされているのはツッコミではない。 「ずっと待っていろと、突然そんなことを言われたんですよ」 「…そう、か」 「そうなんですよ、本当に、」 ぎり、と唇を噛み締めたような音がする。 「ああ、本当に腹立たしいですよね」 多分狂犬のような顔をしているんだろうな、というのは思ったけれども口にしてはいけないという判断くらいは出来た。 *** たとえ貴方が私でも、 小さな身体が水に沈んでいた。学校のプールだ、とやっと気付く。周りは暗くて多分夜だ、ずっと壊れたままだと言う灯りがバチバチ、と嫌な音を立てて点滅している。何か出そうだ、実際今何か出ている気がするのだが。 だってそもそも、荒野子羊なんて、存在しない。 してはいけない。ずっと用賀現は知っていた、知っていて黙っていた。幻だと言って、バグだと言って、逃げようとしていた。自分がどうにかしなくてもどうにかなるものだと、世界がそんなものを許さないと、だから放っておいて大丈夫、と。 それが結局、骸の誘拐へと繋がった。骸がこんな女を、子供を選ぶはずがない。どうせどうでも良い言葉で骸を傷付けて手篭めにした、という方が近いのだろう。そんなことを思っていると見透かしたように、貴方はそういうことが出来たの? と問われた。首を絞めているのに、そうだその細い首を現の手は間違いなく捉えているのに、そうしてこの小さな身体は水に沈んだはずなのに、安心出来ない現は未だその手を離せないでいるのに。出来るはずがなかった、だから現は今までの記憶を消したのだ。まるで自分で選んだように、消したのだ。 そんなことが出来たら、記憶を消す必要なんてなかった。 きっとこの荒野子羊なんてものが生まれることもなかった、このルートは存在しないはずだった、ルートの先のバグなんて、以下略。出来るはずがない、それは矛盾だ、なのにこの女が出来たと現は信じたい、信じていたい。 ―――だから、 心の何処かにあるサイシュウセンタクシ。 「ごめんなさい」 謝るべきは現の方だった。 「私、やっぱり、」 ―――私の方が大事。 *** 貴方の世界 知らないことばかりが私を責めていく。 「ねえ、どうして」 名前も知らない女の子。 泣いてばかりの女の子。 多分、用賀現は彼女に一番近かった。感覚の面で。だけれどもそれが何をさせる訳でもなく。 「貴方はこの世界をどうしたいの」 |