ぐるぐる、おなじ 血の匂いがする、と言ったのは誰だっただろう。そんなものしたことはない、と言うと馬鹿なの、と鼻で笑われた。鼻が死んでるか馬鹿か童貞かのどれかね、と言われてどれもその通りのような気がしたので言い返すこともせずに。 「匂いが分からないならどうしてアンタはアレのところに行くの?」 同じように、彼女だって何もしなかったくせに、暴力を振るわないかがみのことを不思議そうに見てくる。性別が違うなんてそんな話ではない、だってそもそもすべてが同じなはずなのに。 今更。 「とつぜんあつくなったりね、さむくなったり、やめてほしいけどこげちゃんがつらいことでなにかかわるのよね」 ぬるり、と涸月の腕が伸びてくる。かがみの首にまとわりつく。女の匂いだ、と思った。どくどくと胸がうるさい。ぐるぐる、と血の巡る音が聞こえるようで。 「だから、かがみくん、」 ほう、と息が耳に触れる。首筋からぞくりと悪寒が走る。 「いいよ、きて」 目覚めたらまるで全力疾走したあとのように息がおかしくて、そのままフローリングに吐いた。 *** これが恋じゃないと言うのならば僕を殺してみせてよ 誰に何を言われても、例えそれが正しいのではないかと何処かで思っていても、なかなか感情というものは変えられない。そもそも他人に働きかけることはとても難しいことで、えいちゃんもそれは分かっているのだ、だからこそ実力行使に出ない。彼がやろうと思えばこの身体の主導権をすべて奪って、利木月来々の存在をなかったことに出来るだろうことは分かっていた。でも、彼はそれをしないから。 彼は恋というのがどんなに人間を馬鹿にするのか分かっているから。 「貴方が美しく強大で俺たちを支配する! 貴方はすべてで俺たちを包み込む! 支配されてるなんて誰も思わない! 圧迫感だって快感に変わる!!」 両手を広げて、それはきっと映画のワンシーンのように。 「だから俺たちは、貴方の下(もと)に跪くんです」 胸に手を当てて、ああ、我らが神よ。 「―――来々」 *** 「ねえ、きみをあいしてる」 浮気だとか何だとか言ったあとで何だろうと思うけれども、そういえば結局口に出して付き合うと言い合った訳ではないな、と思い出した。そういうのはあまり良くないのではないかとも思ったけれど、恐らくそれを受人が言うのは世間的に可笑しいことなのだというのは理解していた。所謂お前が言うな案件だ。分かっている、その程度の自認はあった。 それでもこんな気持ちは初めてなんだけどなあ、と思う。きっと言っても伝わらないだろうけど。彼は何処か自分に向けられる言葉のすべてをリップサービスと受け取っている部分があるから。もっと自分に自信を持つべきなのに、君はもっと愛されるべき価値のあるものなのだと―――首を振る。そんなありきたりなことが言いたいのではない。 伝えたいこと、叫びたいこと、届けたいこと。 ―――どうでも良いから、 ただ、言いたいこと。 駆け出すには少々距離が足りなかった。だから手を伸ばす。 *** うつくしいのは 畠野為史はとっくの昔に自分の役割に気付いていた。自爆装置。くだらない展開しか知らない物語をただ見ているだけ、時折終わらせるだけ。 の、はずだったのに。 「嘘、でしょう…」 歯車は回っていく。物語は展開を続ける。 この抱えた時限爆弾に、耐えられるものなんていないように。 *** 夢 声が出ない、と思ったことがある。喉がじくじくと痛くて、脚も痛くて、こういう話があったな、と思うのだけれどもそんな記憶もないのでいつもの病気だ、と思う。そう、病気だ。どうにもならないもの。 「かがみくんのそれはね、」 するり、と頬を撫でる手は魚のようだった。冷たい、ざらざらとした、誰だろう白魚のような、なんて。 「せつなくても、くるしくても、かなしくても、がんばっていた、あかし…だよ………」 何を言っているのだろう、突然何の話なのだろう。いつも涸月はこういった喋り方をすると思っていたが、今日はなんだか違うように思う。 「だからね、けさなくていいの…」 でも、何処が違うのか分からない。接吻けの味がする。 「だってかがみくんは、こげつたちの…」 溶け合う、溶け合う、溶け合っていく。涸月とかがみの境界線が消えていって、一つになる。 「ゆめ………」 少女に戻ったような身体で涸月は消え去った。 まるで海に戻った人魚姫のように、消えてしまった。 *** 紅茶花伝はまだ残っている 音がする。ペットボトルを振るような趣味はないから歩く度に揺れる、その程度の音だけれども存在を主張するような音にぞわぞわと心臓の裏から這い上がるものを感じる。恐怖のようなものだ、このままこの感情をどうにも出来ないのか、このまま終わるまで消すことも出来ずに、腐らせていくだけなのか。それが怖くて怖くて、悲しくて。こんなにも、こんなにも愛したいのに。自分の身体を抱き締める。 届ける術を知らないまま。 *** それを愛と名付けた どくん、と音がした。 心臓から耳の裏まですっと衝撃が突き抜けるような、ああこれは確かに感動だとか そういうものなのだろう。じくじくと胃の裏が灼けていくような心地がして、地に足が着いていないような。走り出す。どうして、どうして、と思う。これは裏切りだ! ひどい裏切りだ!! そう叫ぶ部分がない訳ではななかった。だって英の身体は英一人のものではないのだから。分かっている、分かっている、けれどもどうして。 君を思う度に、鼓動が早まるのを止められずに。 *** 奇跡はいとも簡単に起こる 飽きたな、と思った。そう、飽きた。特に理由はないけれども飽きた。そんなに長い期間一緒にいた訳でもないのに、ふっと春風が吹くようにそう思ったのだ。 だから、手を伸ばした。 「本当の僕なんてどうだっていいんですよ」 笑って彼女の首を絞める。 「本当の僕なんて誰も知らないままで、みんな理想の僕を見ていれば良いんです」 彼女はいつでも優しかった。とても美しい微笑みで畠野を包んでくれた。セックスだって上手かったし、時々恥じらってみせるところも好きだった。お金はあったし毎日が充実しているようだし、それでいて畠野をアクセサリーのように扱わない。満ち足りている。分かっている。 「だから、ね?」 でも、飽きたのだ。 「君はきっと朝には生き返っていますよ」 君が特別じゃなくても、僕が特別だから。 そう言い終えてやっと畠野は、アンモニア臭をさせる女の上から降りた。 *** ぼくらはいっしょうおんなじはこのなか じわり、と熱さが込み上がってきて思わず突っ伏した。床に血の痕はない。その代わり、シーツにはいつのだろう、変色した血の痕が残っていた。枕の横。だからきっと経血やそういうものではない。 「もういい、っておもったんでしょう」 まるで性行為をする準備のように、涸月はかがみに伸し掛かってくる。重くない。成人女性であるのに、その身体は骨ばっていてやわらかさとは程遠い。肉がついていなければならないはずの腹も、ぺたんこで。 「いっぱいいっぱいで、そんなすれすれでもいきてるから、もういいや、って」 この肉袋の中に本当に臓器だとか、そういうものが入っているのだろうか。信じられない。 「まわりがわかってくれなくても、ごはんをはいても、なんにもたべられなくなっても、かがみくんがかがみくんであることにはかわりはない」 かつん。音、何かが落ちた音。 「だから、だいじょうぶって、そうおもったんでしょう」 刃が出たままのカッターナイフが、床を傷付けた音。何処からそんなものが降ってきたのか疑問に思う暇もない。涸月が、長い髪を垂らしている。こんなに髪が長かっただろうか。まとわりつく、それが正常のような気がする。 「いきるって、きめたんでしょう」 時計の音。時間だけが流れていく。 「いきたいから、こんなこと、するんでしょう」 浮かび上がってきたのは白い疵痕だった。かがみにはそれがとても美しいもののように映って気味が悪い。 「すれすれのじしょうごっこも、くびのしたのひっかききずも、のどをつまんであざをつくって、ねえ、かがみくん」 そんな傷があるのは涸月の方なのに。 「そんなこと、するんでしょう?」 *** 雨の日は横断歩道に注意 骸が子羊を選んだ。 突き付けられた、過去から出された挑戦状のようなものにただ現は立ち竦むだけだった。朝家を出る時に確か骸は今日は雨だと言っていた。なのにどうして現は傘を持って来なかったのだろう。何処かで知っていたからではないのか? 現は選ばれないことを。なのにいつだって骸が傍にいるような気がして、負けたことを認めたくなくて。受け入れられない、現実。 其処から一歩も動かないでじっと現は雨に打たれていた。 否、動けなかった。 |