地獄へ真っ逆さま。 君はうつくしいですね、とぽろり。 まるで本音でも漏れるように零した言葉は、間違いなく、嘘もなく、本当のことだった。つまりは本音だった。しかしながらこののっぺりとした頬は同じ笑みしか乗せないために、その本当が伝わっているかどうか。おそらく伝わっていない。言葉のとおりとても美しい彼はありがとうございます、と微笑んだ。それからそんなことないですよ、と謙遜した更に言葉を重ねなかったのは、いつだって笑うことで対人関係を乗り越えてきた、そんな悪癖の所為だった。何を言ったら彼に信じてもらえるんだろう、困ったことにその方法を知らなかったのだ。もう二十も超えているというのに、まずそもそもの経験値が足りないのだ。レベル1なのだ。可哀想。ロックもされていないのでそのうち食わせられる運命。 だったのに、どうやら運命の女神というやつはなかなかの退屈変人だったらしくて、一人の少年を通じて二人をあわせてしまった、引き合わせてしまった。そうだ、運命なのだ。大きく出たな、と思う。しかしこの美しさを見て尚、運命でないと言い張る程物分かりは悪くない。諦めもいい方だ。握手。していた。ただひたすらにその温度を感じ取ろうと必死になった。自分の手が冷たいと感じたのだからきっとそれは温かかったのだろう。息を吸う。自己紹介なんて腐るほどしてきたのに、ああ、喉がからからになるなんて知らなかった。 *** 冷たいコーヒー 俺の愛おしい子供はどうにも一つ、勘違いをしているように思う。俺にだって、恋という地獄に落ちた経験はあるのだ。愛おしい子供にそのことは言ったことはなかったけれども(だって彼にあんな地獄に落ちてほしくなかった)(それに、その相手は彼のだいきらいなひとだったのだからなおさらだ)、俺の中でその心は実は今も息づいているのだ。それが執着なのか、本当にまだ恋なのか、それを確かめる術はないけれども。だってきっと確かめに行ったらそれだけで、俺の愛おしい子供の真綿のように弱々しい心は粉々に砕け散ってしまって、そうしてきっと二度と戻ってこないのだ。最近はやっと彼は彼だけの女神を見つけて、どうにも偶然の悪戯というやつで二人は愛し合って、それを俺はそれなりに喜ばしいことと考えているのに、それをすべて台無しにするというのはあまりにひどい話である。俺のことを彼が大事にしてくれるように、俺は彼を大事にしたいのだ。だから、そういう訳で俺はその、俺に地獄を経験させたひとの名は呼ばない。忘れたことにしている。彼と出会ったことなど、俺たちの中ではなかった。そういうことになっている。それで良かった、そうしなければいけなかった。 俺は自分の地獄のような恋よりも、彼の方が大切だった。 *** 結局は、片道切符の人生でした。 恋をしたんです、と言った。何故ならそれは嘘ではないからだ。そうですか、と返された。まるで興味のないような調子で。それがとても心地好い。 「地獄ですね」 「そんなこと知っていて飛び込んだんだろう?」 「飛び込まざるを得なかったんですよ」 「それにしては、」 幸福そうですね? と言われて笑う。 「これが幸福なんて感じるから地獄なんでしょう?」 狸華 http://licaodai.3rin.net/ *** 恋じゃない愛じゃない世界なんて変わっちゃえ 彼に抱かれましたと呟いたら、僕らの愛すべきキュービッドは少しその目を大きく見開いてから、そうなんだ、とだけ呟いた。 「ええ、でもなんで俺に言うの」 「切欠は貴方だったようなものなので、一応ご報告に」 「いやそういうのいらないんだけど」 「でも貴方、そういうの好きでしょう」 「好きだけどね。そういう問題じゃないの、今ちょっと飽和状態なの。疲れてんの」 「でも僕のために時間を割いてくれる」 「そりゃあ君のこと、好きだからね」 そういう感情でないのに唇に乗せる言葉はひどくからりとしていて、まるで秋の夜ののようだった。いいなあ、と思う。もっと、彼に対してもこの関係のような、そういうものを求めていたはずだったのだけれども。 あれは、いつから地獄になってしまったのか。その先は片道だ。分かっていて伸ばされた手を掴んだのは、きっと恋なんかじゃない。 僕のそれは、愛だった。だからこそ、彼の行動にいちいち戸惑い、どうしてだろうと目を見開いて―――それから、彼の望むようにした。それが僕の願いだった。けれどもすべて終わってから、間違いだったのではないかと思ったのだ。まるで少女漫画だ。そういう世界に生きてこなかったのに、こんな、時だけ。 「僕はですね、彼に抱いていたのが愛だと思っていたんですよ」 「あい」 繰り返される言葉、子供のような言葉。何処か真っ直ぐな彼の生活はどことなく爛れているものの、その本質はいつだって変わっていないなあ、と思う一端。 「ええ、僕なんかが愛を語るのもおこがましいとは思うんですが、そうですね、少なくとも僕は愛だと思っていたし、僕が愛だと思いたかったものを彼に抱いていたんです」 ふうん、と相槌。氷の回る音。 「それが、彼からは違う形で返ってきて、それがあまりに思いもよらぬ形で、僕は戸惑っているんですよ」 「それで頭冷やしに来たの」 「ええ、君なら話を聞いてくれると思いましたから」 甘えているんですよ、と笑う。まあいいけどね、と彼は言う。このケーキ美味しいし、とそのお金は僕が出した。 「多分、憎まれるとか、嫌われるとか、そういうのは突発的に発生する分、諦めもついていたし、僕はかっこつけた言い方をするとそれに慣れていたんですよ」 「はあ」 「でもなんというか、彼の目の中に僕が映っていると、そのことを知らされてとても驚いたんです」 「ほお」 「それが、また、恋だなんて言うから、余計に」 よけいに…と言葉が消えていく。 あれは、本当に恋だったのか。いや、彼がそういったからには彼の中ではそうなのだ。問題は、僕がそれを受け入れきれていないということで。 「ねえ、君なら分かりますか」 顔を上げる。氷がまた溶ける。水になっていく。 「恋って、なんですか」 「…二十越えて、その質問? しかも俺に」 「だって僕、友達いませんし」 「俺だってわかんないよ、好きな人に死なれそうになったり、それ止めたり、忙しかったけど。それでも恋が、とか言われるとよく分かんないし、結局セックスが気持ちよかったらそれで良いんじゃないのって思うし、でも正直俺とあいつが運命だったって言われると吐き気さえするし、でもどっか嬉しいって思う気持ちもあるし、麻薬みたいでさ、お薬だよ。頭の中いじっちゃうやつ」 「へえ」 「つまりさ、世界を変えちゃうやつなんじゃないの」 そうやって考えたら。思わず笑ってしまった。同じことにたどり着いたのだろう、彼も笑っていた。明日会ったら、僕から話しかけよう、と思った。何でもない話を、彼とたくさんしよう、と思った。 *** 歩調合わせてよ ずっとずっと不思議でたまらなかった、どうして彼がずっと僕の傍にいるのか。どんな顔でも出来る彼が、どうして僕の傍にいるのか。 先日僕は他の人に抱かれて、それを彼に知られて、それで何がどうなると思っていた訳ではないのだけれども。どうやら現実という奴はそうではなかったらしい。現実は何がどうなったか、とりあえず何かが起こって、僕と彼は隣り合って歩くことはなかった。 「人のことをとやかくは言えませんが、」 友人とも言えない友人は真面目な顔でそう呟く。僕の女神よりもずっと美しいかんばせで、ああこういうのを人を惑わすものというのだな、と既に女神に惑わされている僕はなんとも思わずに、ぼうっと見つめる。これは神の啓示だ、確かにそうだ。一人頷く。 「彼のそれは、恋だとか愛だとか、そういうものではないんでしょう」 「それは、僕もそう思います」 人の頭を勝手に断定するのもどうかと思うが、それだけは決してないと思っていた。思い込みではなく最初から何度も何度も考えてみて、やっぱり変わらない事実だった。僕の一番は彼で、彼の一番は僕で、確かにそうだったのだけれどもそれを変える何かがあったとか、そういう訳でもないのに。僕が誰に抱かれようと、僕は僕で、僕の一番は彼であることはかわりなく、同じように彼もそれを分かっているはずなのに。 「でもまあ、推測ですが」 「別に前置きいらないですよ」 「そうでしたね、推測しか出来ないのなんて最初から分かってますもんね」 神に愛されたような少年は頷いて笑う。美しい笑みだと思う。まるで美術館にでもいるようだ。僕が彼にここまで心動かされないのはやはり、既に心を女神に捧げたからだろうか。奪われたからだろうか。 「執着というものはまた、別なのでは」 つまり、嫉妬ですよ。そう言われて初めて、ああ、と項垂れることをした。 「嫉妬」 「ええ嫉妬」 「それは失念していました」 ずっと、ずっと。生まれた時から一緒にいる存在。彼にだって整理のつかない嫉妬だってするのだ。これは僕のミスだ。 「謝る、というのは違いますよね」 「そう思います」 「では、とりあえず、説明をしてきたいと思います」 立ち上がる。 「君と話せて良かったです」 「こちらこそありがとうございます」 「君は優しい子ですね」 思わず頭を撫ぜたのは癖だった。いつも彼にやっている、こと。神のような少年は少しばかり身を固めたけれども、すぐに順応して笑ってみせた。この、何処か人間らしいところも好かれるのだろうな、と思った。彼は、分かってくれるだろう。 走り出す。僕の女神が、どれだけ僕を愛しているのか。僕の女神が、どれだけうつくしいのか。 *** ブランデー 酒の力は偉大だと思う。僕はそう思いながら僕は食べることの出来ない(主に嗜好の問題で)その甘ったるいお菓子のパッケージを眺めていた。どうにもこれは強いらしい。僕はブランデーが嫌いな訳ではなかったし、与えられればガンガン呑むのだけれども、チョコレートとの相性をよくないとでも思っているのか、どうにもこれは食べることが出来ないのだ。その点、僕の生まれつきの伴侶とかそういった呼ばれ方をする彼はばくばくと食べる。もしかしたらそれは僕が食べることが出来ないからなのかもしれない、ということに気付いたのは五年ほど前だったか。 「俺はな、お前が幸せならそれで良かったんだ」 真っ赤な顔で涙をこぼしながら、彼は今まで僕が一度も見たことのない顔で言う。 「俺は、俺はそれだけのために生まれたし、俺はその一点のために生きてきたんだ」 知っています、と答えた。ひどく傲慢だ、そう思った。しかし彼はそれを望んでいるし、そもそも僕が傲慢になるために生まれたのが彼なのである。 「なのに、突然に怖くなった」 「僕が僕の女神に抱かれたからですか」 「お前はそういうものには関わらないのだと思っていた」 「まぁ勃ちませんしね」 巻き込まれない、の間違いではなかろうか。 「でもお前は関わった」 「関わったというか、まぁ、半分事故のようなものですが」 「事故でも、お前はそれを苦にしていない」 「そうですね、案外求められるというのも僕の性に合っているようです」 ひどい話だった、女神をだしに僕らは酒を呑んでいる。僕はしらふだけれども。 「俺は、僕は、ぼくは、ああ」 がくん、とその首が落ちた。時間切れだ。 「僕らは、もう、形態を変えるべき時にやって来たのでしょうね」 静かに、その肩に上着をかけてやる。 二十年あまり。ずっと一緒だった、片時も離れたことがなかった、僕は僕なりに彼を愛していたし、彼の方は言わずもがなだっただろう。それは愛ではあったけど恋とかそういうものの延長にはなくて、ただ、母が子を愛するような。彼は僕の母だった、僕にはなかった母だった。 「さよならの、練習でもしておきましょうか」 僕は、自分勝手だ。知っていた。女神はきっとこの話を知ったら幻滅するかもしれない。けれども僕は彼を、きっとこのままにしておけない。このままにしておいたら、僕の女神が殺されてしまうから。 美しい少年を思い出した。彼の存在を知っている、唯一の存在を思い出した。彼も似たような存在だったな、と思い出した。でもだからと言って、何がどうなる訳でもなかった。 *** No.1 ひどい嘘吐きがいたもんだ、と思う。それくらいに来々は、自分がどんなにひどいことを言っているか自覚があった。自分の役目を他のものに押し付けて、それを緩和するためにストレス解消の捌け口まで作ってやって。 それがたとえ、来々の想像でしかなかったとしても、どれだけ非道いこと、なのか。 「分かっている、のになあ」 やめられないのは、未だ、あの人への恐ろしいほどの恋心を、忘れることが出来ないからだろうか。 *** チャンネル それが合ったのはたった一度だけだった。 一回きり。利木月来々が生まれた、その一瞬だけ。 それでも脳に焼き付いて離れないのは、その人が本物だからだけではない。一目惚れ、地獄、愛してる―――なんて言葉にしてやることすら烏滸がましい! あの瞬間、来々は全身で理解したのだ。来々の全部で、理解したのだ。 これは、恋だ。 「俺はあの人に恋をしてしまったんだ!」 そしてその心はきっとその人には伝えられないのだと分かった。 それが幸福で、どうしようもなく素晴らしいことなのだとも分かっていた。だから、この心は誰にも言わないまま殺してしまおうと思った。 きっと世界のためにはそれが一番だった。 *** 神様もう一度だけ そんなふうに願うのは、これが恋だからだろうか。 「来々」 この名を呼んでもらうことすら叶わない、目線を交わすことすら。来々が利木月来々でいる間は絶対に、それは起こらないことで、それを了承したからこそ此処にいるはず、なのに。 「神様」 喉がからからと乾いている。さっき飲んだティーハのミルクティーの味がする。舌に残る、微かなえぐみ。 「あの子にもう一度、世界を」 俺をどうか、ころして。 *** 天使の甘言 ぼくはきみののぞむなにかにはなれませんよ。そう言った自分の声がどれだけ情けない音をしているかなんて敢えて教えて貰う必要もなかった。だって聞こえている。この部屋でしゃべっているのは僕だけで、それでこの部屋はひだく静かなのだから。そんなものはただの集中の度合いの問題で、きっと一つ隔てた扉の向こうにはざわざわと喧騒が広がっていふのだろうけれど。だからこんなところで本命じゃあない人間を押し倒してなんて見せた、この泣きそうな男がどれだけトチ狂ってるのかなんて、言われないでもわかるのだ。わかるのにそれに大した抵抗もしない僕も、まぁ、似たようなものなのかもしれなかったけれど。 「僕は君を抱いたりは出来ないんですよ」 推測になりますけどね、と前置きをしてから言う。すると困ったようにその美しいかんばせが歪むを本当は、此処で成り切ってやるのが、彼ののぞむなにかになってやるのが、愛だとかそういうものなのかもしれない。 でも僕にはそう出来ない理由がある。感情論じゃあない、もっと根本的な。 「僕、不能なんです」 言ってから、ああ、これでは誤解を招くな、と思った。 「いえ、あの、もっとちゃんと言うと、不能に、されたんです」 詳しいことは省くけれど、君の所為ではなくて、ただそういうものなんです、と釈明をする。僕がこんなふうになってしまったところで誰が困ることもなかったけれど、こうも彼の願いを叶えられないのなら、あの日を恨むことくらいしても良かったのかなぁ、とそう思った。形として、まるで尊厳を残すように、使えないそれはあの日からもずっと僕の身体に居座っているけれども、ただの飾りなのた。それが正しく、僕の気持ちを代弁してくれることなんて、ない。 「だから、ごめんなさいね」 君が逆でも良いなら、頑張りますけど。 今までで一番に困った顔をしている自覚はあった。いつもへらへらしている頬にそれ以外の表情が刻まれる様は滑稽だろう。けれどもそれをさせているのがこの美しい男なのだから、それはそれで良いと思った。そう思う反面、幻滅されてしまうかな、とも思った。 「…いいんですか」 「え?」 漸く動いた薔薇のような唇の意図が掴めずに聞き返す。 「貴方を、犯しても良いんですか」 「君、聞いていました?」 「ええ、聞いていました」 「頑張るとは言いましたが多分まぐろにしかなりませんよ。痛いのは多少我慢出来ますけど。それもそう、耐性が高い訳でもないですし」 「それで良いです」 ぱちり、目を瞬かせる。よく、わからない。わからないけれど、 「…いい、ですよ」 二言はありません、とその顔を見据える。 ああやはり、美しい。初対面で零した言葉は今も尚、真実だった。 「ありがとうございます」 「どういたしまして」 キスをして良いですか、と彼は聞いた。僕は好きにしてください、と多分いつものように笑った。 |