ひかりのあるところならばどこでもいい 1 その先に行けば彼女がいることを僕は知っていた。だからこそゆめちゃんは僕の手をぎゅっと握って話さなかった。 「でも、貴方は分かっているのよ」 「何を」 「この先に行かなくちゃいけないこと」 「どうして」 「彼女に会うために」 「なんで」 僕の言葉は幼稚園児が駄々を捏ねるようで何一つとして要領を得ない。それをゆめちゃんは優しく、慣れたものだと言うように解きほぐしていく。 僕だけでは。 この世界に拒絶されてしまうのに。 「大丈夫よ」 ゆめちゃんは言う。魔法の言葉を言う。それだけを抱いて生きていけば、きっと何か報われるとでも言うように。 「彼女は貴方を拒絶しない」 「する」 「しない」 だって貴方は知ってるもの、とゆめちゃんは笑った。とてもきれいな笑顔だった。 本当に知っていないのなら、分かっていないのなら、此処まで来ることも出来なかった。 それはその通りで、だから僕は来た道を帰ることも出来ないでただ立ちすくんでいる。 「行かなくちゃ」 ゆめちゃんが手を握る。その先の彼女に会いに行こう、と言う。それがどういうことなのか、ゆめちゃんだって分かっているはずなのに、それでも彼女は言う。 「きれいな風景も見られるはずよ」 そんなものはどうでも良かったのに、それでもゆめちゃんは足を止めないのだ。まるで僕がそう望んでいるように。 かんからりんどう、音をすり抜けて。 ああやっと来たんだね、と彼女は笑った。ずっと待っていたよ、と僕とゆめちゃんの手をぎゅっと握って、まだ時間はあるのだから、散歩でもしようか、と言った。 靴ずれしような靴を履いてきてしまった、と思った。 ゆめちゃんはさっきとおんなじように笑って、また一歩踏み出した。 * 2 人がいるのに静かだった。蝉の声が五月蝿くて、初めて今が夏だということに気付いた。それをこぼすと彼女は引きこもってばかりいるからだ、と鼻で笑った。他人事だと思って。ゆめちゃんはむっとした僕に気付いたように、でも此処はとても静かよ、言う。 そう、本当に静かだった。人の姿は見えるのに。 「まるで僕たちだけ人間じゃないみたいだ」 何を言い出すんだと彼女は鼻で笑ったけれど、ゆめちゃんはそうはしなかった。そうかもしれないわね、と言っただけだった。いろいろな花や樹が植わっているのを眺めては、その植物の名前、他の言語での名前を見比べていく。そんなことに意味はないのに、彼女もゆめちゃんも率先してそういうことをする。彼女とゆめちゃんがおんなじようなことをするのが僕には意外だった。意外だったけれども、僕にはそれを言うだけの力がなかった。言葉を零すことは出来るのに、所詮それだけだった。何だったか忘れてしまったけれども彼女とゆめちゃんの目線の先にあった立て札に、星という文字が踊っていて、それが日本語の方ではなく中国語の方に入っていたのを見てなんだか不思議だな、と思った。 * 3 そのまま僕たちは先へと進んだ。幸い僕たちには時間があった。だからぶらぶらと宛てもない散歩のように、歩いていることが出来る。 それがしあわせなことなのか、僕には分からなかったけれど。 「何処でも良いんだよ」 僕は言った。日差しが暑くてつらかったからかもしれない。 「何処だって良いんだよ」 それに彼女は何処でも良い訳ないだろう、と返した。だって大切なことじゃないか、と。僕だってそうは思っていたけれど、だからと言って彼女に肯定されるのは違うと思った。 「何も知らないくせに」 そうだ、彼女は僕とゆめちゃんのことなんか何も知らない。ゆめちゃんは彼女が僕を拒絶する訳がないと言っていたけれどもそんなこと、あるはずない。だって彼女は僕たちのことを何も知らないのだから。何も知らないから、なんだって言えるし、分かったような口をきくことだって出来るのだ。 彼女は少し、本当に少しの間黙ってから、それから馬鹿じゃないの、と言った。心底呆れた声だった。知っているよ、と、その声は続く。知っているから―――その先は聞き取れなかった。 くるん、と世界が回って、僕は。 * 4 暑さにやられてひっくり返るなんて、今時じゃない。 僕はそう思いながら水蒸気を出すそのパイプを見上げていた。おまんじゅう屋だ。ひさしがあるところは近くにたくさんあったけれども、一番先に彼女とゆめちゃんの目に入ってきたのは此処らしかった。少し扇風機に当たった僕は回復して、メニューを眺めてからアイスグリーンティーを頼んだ。ただの冷たい緑茶、と思っていたが、飲んでみて思ったより濃かったことに驚いた。ゆめちゃんは普通に飲んでいたけれども、彼女は濃いお茶が苦手なようだった。 やっぱりうまくなんかやっていけない。 そう思ってゆめちゃんの手をぎゅっと握ると、その瞬間にじゅごっとストローが底を吸った音がした。そんな勢い良く飲まなくても、と再度呆れてみせる彼女にぎゅっと唇を噛み締めながら、何処かで本格的にお茶をするのも良いなあ、と思った。パフェを食べるのがゆめちゃんの夢だった。僕はそれを知っていた。 それに、僕はこの濃いお茶に牛乳を混ぜてみたくて仕方がなかった。 そうこぼすと彼女は苦笑して、私はなんにもいらないや、とだけ言った。 * 5 僕とゆめちゃんは仲良くパフェを完食した。彼女は付き合いのように抹茶ミルクを頼んだだけで何もしなかった。それを望んだのは僕なのにな、と思ったけれども彼女と同じ思考をしていたようで気に食わなくて、僕はそれを口にすることはなかった。パフェは美味しかったのに緑茶の苦味が口中に広がって、僕はずっと無言でいた。 ゆめちゃんが、そろそろ行きましょう、と言ったからかもしれない。 僕は手をぎゅっと握り締めながら僕たちは緑色の電車に乗って、がたんごとん、と揺られる。其処まではとても近い。電車で二駅。僕たちはわざと目の前の電車を見送って、それから違うホームから出る電車も見送った。少しでも此処にいたかった。変わらないのに、と彼女は顔をしかめたけれども僕にとっては必要な時間だった。 僕たちには、時間がある。 僕は噛み締めるようにそう言った。彼女はだからと言って無限な訳ではない、と言った。僕だってそんなことは百も承知だったけれど、ゆめちゃんと離れることを僕がそんな簡単に決断出来るものと思われているのならば、僕は彼女にどれほど非情に映っているのだろう。 馬鹿だな、と彼女は言った。それだけだった。 それから僕たちはやって来た電車に乗って、二駅、着いてしまった。 駅には人が溢れていた。当たり前だ、此処は今日、お祭りなのだから。少年や少女が列をなして踊っていた。人々はそれを写真に収めていた。夏の暑さを振り払うようなその踊りに、この夏もいつか忘れられていくのだろうか、それとも彼らの心にはずっと残り続けるのだろうか、と少し痛む胸を抑えた。 * 6 まだ明るいから大丈夫だよ、と彼女は言った。僕は彼女の言うことがよくわからなかった。 だって、僕は先に進むことがこわい。 進んだら、ゆめちゃんが。 「大丈夫なわけあるもんか」 僕の声は提灯についた札のように揺れていた。本当は氷のような声が出したかったのに、これじゃあ彼女に笑われてしまう。ゆめちゃんに、心配されてしまう。なのに、僕のふるえは止まらなくて、こわくて、たまらなくて、僕の足はぴくりとも動かない。 大丈夫だよ、と彼女は再度繰り返した。 僕が思っていたような馬鹿にしたような笑い方ではなかった。君は大丈夫だ、と彼女はまた言う。やめろ、と僕は思う。だって、それは。まるで。 ゆめちゃん、みたいだ。 僕はもっとこわくなって、ふるえて、でも彼女はそれを全部わかってるとでも言いたげに先へ進んだ。僕は置いていかれない。彼女は僕を残していかない。 ―――彼女は僕を拒絶しない。 それだけが今はとてもこわくて、かなしくて、うれしくて、ただ僕は泣き続けた。周りの人は僕を気にしはしなかった。僕は彼女に守られていた。 * 7 少し道をのぼったところで、彼女はその汚い顔を洗いなよ、と言った。僕の呼吸はすでに落ち着いていた。ゆめちゃんも頷いて、僕は本来ならば手を洗うべき場所の水を少しもらって、顔を綺麗にする。泣いている間、僕はただくるしいだけだった。いろいろな感情が混ざり合って、それから僕の行くべき先が完全に見えてしまって、それがくるしかった。彼女にも、ゆめちゃんにもそれは伝わったのだと思う。だからこそ、この中腹、には少し低い場所で、一休みしているのだ。 タオルを出して顔を拭く。落ち着いた? と聞いてくる彼女に頷くだけで返して、僕は、ゆめちゃんに―――何も言うことが出来なかった。何か、もっと、僕は、ゆめちゃんに。しなくてはいけないことが、あるはずなのに。 「………暗く、なる前に」 僕は静かに言った。山頂、とまではいかなくても、少し高いところまで、行かなくてはいけない。僕たちが目指すべきはひかりのあるところだ。なによりも、ひかりが重要なのだ。 「行こう」 僕はゆめちゃんに何も言えなかった。 ゆめちゃんはそれでいい、と呟いた。 * 8 道は長かった。今までだらだらと歩いていたつけがまわってきたかのように、足の裏が痛くて側面が痛くて、靴ずれが起こっているのは一目瞭然だった。それでも僕は弱音を吐かなかった。弱音を吐いたら彼女に馬鹿にされると思っていたわけではない。彼女は僕を馬鹿にしないし、拒絶もしない。僕はこの短時間でそれがいやというほどわかってしまって、さっき認めざるを得なくなってしまって、もうその言い訳は使えなかった。 だって、本当にそれを望んでいるのは。 僕はぎゅっと唇を噛んだ。何してるんだよ、と彼女が唇を脱ぐっていった。関係ないだろ、とは言えなかった。 「この先、」 提灯はまだ続いていた。 「この先に行けば、良いんだよ」 自分に言い聞かせるようだった。僕は間違っていない。それは彼女とゆめちゃんが証明している。だから、間違っているのは僕だった。間違っていて欲しいなんて間違ったことを願うのは、僕だった。 「このさき…」 ごお、と風が吹いた。 まるでトンネルのようになったその道は、まだ灯りの灯っていない提灯がゆらゆら揺れていて、とても気味が悪かった。この先に行ってはいけない。だってこの先は目的地だから。僕がまたふるえるのを感じて彼女が先に一歩、踏み出す。 行かないのか、と彼女が言った。行くよ、と僕は返した。 ゆめちゃんは楽しそうに、きれいな紅ね、と笑っていた。 * 9 中腹、と彼女が言ったので僕はそこを中腹とすることにした。人混みは増していた。僕たちは邪魔にならないようにひっそりと道の端に蹲った。 「何か食べておいでよ」 僕は言う。彼女に、ゆめちゃんに、僕のことなんか放っておいてくれ、と言う。けれども僕は返って来る言葉を知っているのだ。今はお腹が空いていないから。別に食べたくないから。彼女も、ゆめちゃんも、僕に遠慮をしている訳ではない。僕のことを、心の底から心配してくれているだけなのだ。それが分かっているのに、僕は蹲るしか出来ない。 山を登っていく人々は僕たちのことなんか気にかけない。ろうそくの火がゆらゆらと揺れていた。池にどんどん落ちていく日が映っている。 僕たちは。 時間が過ぎる中にいる。 「もうすぐだ」 僕は呻くように言った。 「もう、すぐだ…」 彼女もゆめちゃんも、嫌ならやめたら良いとは言わなかった。彼女もゆめちゃんも分かっているのだ。分かりたくないのは僕だけ。 変わりたくないのは、僕だけ。 * 10 少し下に戻ろう、と彼女は言った。さきほど通ってきたところならばきっと灯りが入るのが見やすいだろうから、少し下の方が良い。高いところだからと言ってなんでもかんでも良い訳じゃあない。彼女はそう言って、まるでひとりごとのように、そうして歩き出した。 下る道は静かだった。僕たちの周りには人がたくさんいるのに、関係のない人がたくさんいるのに、ただひたすら、静かだった。この一つひとつに灯りが入るんだね。彼女はなんの気なしにそう言った。僕はそうだね、とだけ言った。ゆめちゃんは不思議ね、と言った。 誰も早く見たいとは言わなかった。 僕だけが弱者だった。僕だけが異質だった。それでも彼女は僕を拒絶しないし、わかろうとすることをやめない。そんなのはただのみちしるべなのに。彼女には、選ぶ権利があるはずなのに。何も出来ない僕は彼女が拒絶してくれることをこんなにも願っているのに、彼女は決してそれをしてくれない。 彼女は優しいから、それが出来ない。 彼女はざくざく進んでいって、何も言わなかった。僕も何も言わなかった。ゆめちゃんはにこにこしていた。だから言ったでしょう、そう言いたげににこにこしいた。ゆめちゃんの向こう側に提灯が見える。紅い。丸い。軽そう。 ああ。 この提灯に灯りが入るという当たり前の予測が、僕にはとてもこわかった。 * 11 まだ明るかった。 「ああ…」 僕は思わず声を漏らす。 灯りが、入った。 入ったね、と彼女は言わなかった。絶対に言うと思ったのに、ただ黙って僕が何か言うのを待っているだけだ。ゆめちゃんもおんなじ。周りの人々は歓声を上げる。彼らにとっては待ち望んだことなのだ。この灯りを見るためにこんなところまで登ってきたのだ。浴衣を来た人々も多くいた。彼らは灯りがついたことが嬉しくてたまらないようだった。一緒にいる人間ときれいだね、と言い合って、そうしてまた中へと入っていく。ぐるぐる、ぐるぐる、気がすむまでそれを繰り返す。 僕を置いて。 僕を残して。 一緒にいられる、その人とこの光景を見るのと心待ちにしていたというようなきらきらした表情が、今の僕には毒にしかならない。 「まだ、明るいのに」 そうだ、まだ明るかった。灯りを入れるのは時間で決まっているのだろうか。今日は、晴れだから。 そうだね、と彼女は言った。もっと綺麗になるまで待とうか、と言った。僕は頷くことすら出来なかった。冷や汗が辛くて、彼女の押し付けてきたラムネを一気に煽ったら噎せた。 * 12 そんなことをしていても、僕の中でどれだけ時間を引き伸ばしても、日は暮れていくもので。じっと灯りを見つめる僕に、彼女は何度か不安を抱いたようだった。何度か、というのは彼女がそういった素振りを何度か見せたということであって、もしかしたらずっと不安を抱いていたのかもしれない。けれども彼女はそれをずっと僕に悟られ続けるという真似はしなかった。それが僕を守るためだと分かってしまうので、僕は唇を噛むしか出来ない。 僕は、踏み出さなくてはいけない。 彼女の言葉でもなく。ゆめちゃんの言葉でもなく。 紛れもない、僕の言葉で。 人々は列をなしていた。その先に何がある訳でもないのに、人々は灯りの中を歩いている。それが幸福であると言うかのように、ゆるりと、脚を引きずるくらいに遅く、歩いている。彼らは何を話すのだろう。友人と、恋人と、家族と、かけがえのないその存在に、一体何を語るのだろう。 僕は。 ゆめちゃんに、何を言ったら良いのだろう。 彼女は、僕の手を握るような真似はしなかった。それでも、彼女の心は僕に余すことなく伝わってくる。あれだけ拒絶したかったのに、拒絶して欲しかったのに、彼女はすべてで僕を受け入れる。 「行こう」 僕は言った。もう後戻りは出来なかった。 灯りはきらきらとゆらめいていた。とてもあたたかそうで、涙が出そうだった。 * 13 僕は列に近付いた。みんな、人間ではないみたいだった。灯りに引き寄せられる虫のように、誰かの胃の腑へと落ちていくように、ただぞろぞろと列になって歩いている。でも、僕は知っているのだ。彼らは人間だ。ちゃんとした、紛れもない人間だ。 僕たちとは違う。 「―――ゆめちゃん」 僕は震える声で呼びかけた。こちらへ来てからずっと僕はゆめちゃんに話しかけることはなかったような気がする。僕のこぼした言葉にゆめちゃんが反応してくれることはあっても、僕から正面切ってゆめちゃんに話しかけることはなかったような気がする。向こうでは、あれだけ話していたのに。 これが、最後なのに。 「ゆめちゃん」 「ゆめちゃん」 「ゆめちゃん」 僕の言葉はゆめちゃんにしか届かなく、誰一人として聞いていない。 周りは喜びにあふれている。これは喜びの行列だった。 葬列を形成する僕たちとは違う、喜びの行列。 * 14 ゆめちゃんの手をあたたかいと感じたのはいつぶりだろう。ずっと感じていたはずなのに、もう長いことゆめちゃんに触れていないみたいだった。 「貴方はね、とても臆病」 ゆめちゃんは言った。 「いつだって灯りは貴方の中にあるのに、貴方はそれすら怖いと言って目を塞ぐの」 ゆめちゃんの言葉はとても美しい。とても優しい。 「私はそれがずっと心配だった」 そして、 「だって貴方の灯りはとてもうつくしいのに」 とても、残酷だ。 「………だって、」 僕はもう、僕がどんな顔をしているのかわからなかった。泣いているのかもしれない。鼻水が出ているかも、それとも逆に、怒っているのかも―――逆に、と思ってから逆じゃないかもしれない、と思った。悲しみも怒りも何もかも、感情は、表裏一体だ。おんなじものだ。 僕を僕たらしめる。 彼女や、ゆめちゃんとおんなじように。 「僕は知っている」 「何を?」 「この灯りはゆめちゃんがくれたものだ」 ゆめちゃんがいなければ、僕の灯りは灯らなかった。僕はそれを知っている。知っているのに、ゆめちゃんは首を振る。それを間違っているとは言わないけれども、ゆめちゃんはそれを間違っていると思っているのだ。僕もそうだと思った。 それでも僕はこの灯りはゆめちゃんのくれたものだと信じていたかった。 たとえそれが、僕以外には間違った、嘘であったとしても。 * 15 その後暫く僕とゆめちゃんはふたりきりで歩いた。彼女は気を利かせてくれたままだった。僕とゆめちゃんは繋いだ手で言葉の代わりにたくさんのことを話した。今までのこと、これからのこと、僕がゆめちゃんをどれだけ大切に思っているかということ。すべて伝わったとは思えなかった、僕はそれほどに会話が下手だった。言葉を介さなくてもそれは会話で、僕はどうしても僕のすべてをゆめちゃんに伝えることは出来なかった。 「ほら、みちしるべが見えてきた」 ゆめちゃんの小さな手が指をさす。 僕がずっと、見ないようにしてきた現実。ゆめちゃんは小さい。その意味を、僕はわかっている。彼女は大きい。僕と、おんなじくらい。 「彼女が待っているわ」 「………うん」 「彼女は貴方を拒絶しない」 「うん、分かってる」 もう最初のように駄々を捏ねるようなことはしなかった。 僕はもう分かっていた。 彼女は優しい。とてもやさしい。彼女こそが灯りを持つに相応しい。ゆめちゃんのためではなかった。彼女も僕もゆめちゃんのためだと思っていたけれども。 此処を選んだのは、彼女のためだった。 何処へも行けない、彼女のためだった。 * 16 彼女はもういいの、という顔をしてみせた。僕の代わりにゆめちゃんが答えた。もういいのよ、大丈夫なの。ゆめちゃんの言葉は僕の言葉だった。それを彼女は知っていた、ようく知っていた。僕より、ゆめちゃんより。僕は彼女と今日出会ったばかりだけれど、彼女は違うのかもしれない。僕がなんとでも言えると思った言葉は、彼女がたくさんたくさん考えて発したものかもしれない。僕はその可能性を考えなかった。考えたくなかった。だって僕は僕とゆめちゃんのことだけを考えていたかったから。 彼女は頷いて、歩き出した。 世界が灯りに染まっていく。 僕と、ゆめちゃんと、彼女を残して。 僕たちは並んで歩いた。僕とゆめちゃんは手を繋いだままなのに、彼女は僕にもゆめちゃんにも触れなかった。触れる必要がなかった、とも言えるのかもしれない。だって、彼女にも僕にもこれから、がある。今は、必要なかった。今があるから僕も彼女もここを歩いているのだ。何かが必要なのは、ゆめちゃんが必要なのは、さいごまで必要なのは、考えるまでもなく僕だった。 僕はとても、よわくてかなしくてどうしようもないいきものだ。 それを彼女はわかっているのに、それともわかっているからか、なんにも言わなかった。さいごまで僕の好きにしたら良いと、そんな顔で僕たちに並んでいた。 その優しさがとても、痛かった。 * 17 道の終わりは見えていた。人混みの中を僕たちは静かに、言葉よりもずっと雄弁に語り合った。そうして初めて僕はゆめちゃんと通じ合えたのだと思う。そうであって欲しかった。 ずっと、ずっと一緒にいたのに。僕はゆめちゃんに対して言葉も、感情も尽くしてはいなかった。そうしたいとずっと思っていたのに、僕にはそれをするだけの能力が足りなかったのだ。それが、こんな、さいごになって初めてできるようになるだなんて。それが、おわりを連れてきたものによって、成されるだなんて。 「ゆめちゃん」 僕は呼び掛ける。 「さいごまで、一緒にいて」 もうゆめちゃんの感覚はなかった。僕は泣くのを我慢した。僕が泣いてはいけなかった。だってゆめちゃんだって泣きたいのに、彼女だって泣きたいのに。 おわりを連れてきたのはほかならぬ僕である。 彼女は、おわりにあわされるのだ。僕のせいで。 ぼ く の 。 * 18 最初からそうであったようだった。僕と、彼女、その二人だけで、ゆめちゃんは最初からいなかったみたいだった。道を歩き終わった人々がきれいだったね、もう一回見てこようか、と会話をしながら手を繋いだり腕を組んだり、そんな接触はなくても仲が良さそうに、ちょっと疲れちゃったから休んでいこう、人多いね、なんて笑い合って。 僕たちにはそれが許されない。 それを、恨む訳ではなかったけれど。 帰ろうか、と彼女は言った。それが僕を思いやった言葉なこともちゃんと分かっていた。うん、と僕は頷く。帰るまえが遠足で、帰るまでが僕のつとめだ。ゆめちゃんの、望んだこと。僕がなすべき、こと。僕と彼女は来た道を引き返した。人々の流れに逆らって、時間を掛けて、灯りの中にいた。 帰りの灯りもまた、あたたかく見えた。ゆめちゃんがいないのに、僕も彼女もちがうものになってしまったのに。それでも灯りはあたたかく見えた。それが、とても悲しい。 「かなしいよ」 それでも僕はちゃんと言葉にする。それが、僕のすべきことだと思ったから。 「さよなら」 僕のゆめ。 * 19 「ひかり! ひーかーり! 灯!!」 呼ばれて私は振り返る。 「まったく、提灯綺麗なのは分かるけどね、あんまり一人でずいずい進まないでよ」 「ごめんごめん。なんか、すっごく、なんだろうね。惹かれちゃって?」 「ちょっと、神隠しはごめんだからね?」 「あはは、そういうのじゃないよ」 私が笑うと友人はまったく仕方がないなあ、とため息を吐いてみせた。本気のものではなくて、じゃれつくみたいなもの。友人もちゃんとこの祭りを楽しんでいるのが分かって、私は少しだけ肩の力を抜く。 「すごく楽しみにしてたもんね」 「うん」 頷く。SNSで写真が回ってきてからなので、一年。 一年だ。 「だって」 私は身体の奥深く、私が本当は忘れていたはずの感情を思い出した。さみしかった、かなしかった、何一つ出来ない自分のことがきらいで、何か選ばなければいけないことが嫌だった。それでも進んだ、それが誰かの望みだと知っていたから。 自分の望みだと知っていたから。 「ずっと知ってた」 「うん」 隣の友人の相槌はとても優しい。時々私は友人は私のことを全部分かっているんじゃないかと思いたくなるくらい。 「ねえ、私は、夢に向かって歩けているかな」 勿論、と笑みが返って来た。 それだけで、きっとあの日並んでいた三人のことを、私は愛することが出来ると、そう思った。あの日、流すことの出来なかった涙を私が変わりに流せると思った。言えなかったさよならを、言うことが出来ると、ありがとうと、そう言葉に出来ると。 きっと、本当は、彼が少しだけ、正しいに近い。 「きれいだね」 友人が立ち止まる。 「うん」 私は頷く。 「とても、きれい」 「来られてよかった」 「誘ってよかった」 笑い合う。 私だけがすべてだった、私だけが世界だった。彼と彼女が手を繋いで、そうして呟く姿が見えた気がした。 ひかりのあるところならばどこでもいい。 わたしのいるところならばどこでもいい。 ゆめをおいもとめる、わたしがいるところ、ならば。 20170417 |