運命の歯車は噛み合う
目を開けたら知らない空だった。 目をしぱしぱと瞬かせる。視界良好。手をぐーぱーさせる。動く。 むくり、起き上がってみる。特に痛いところもない。しかし。 「何処だ…此処………」 辺りを見回す。知らない街だった。空だけじゃない、空気も違う。 何処なんのだろう。黒姫惟前(くろひめいさき)は身をぶるりと震わせた。 物心つく頃に親に捨てられて、それ以来ずっとスラムで過ごしてきたはずだった。 だと言うのに、此処は何処だろう。もしかして、眠っている間に人さらいにでもあったのだろうか。 スラムの人間なんて幾ら消えても問題にはならない。だって、あそこは掃き溜めだから。 眠っている人間を麻袋に詰め込んでそのまま奴隷商に売りつけたり、 解体して売り捌いたり、そんなことをされたことはないから噂だったけれど。 それでも、攫われかけたことは何度かあった。 だからこそ、いつだって熟睡しないように、気を張りながら眠っていたはずなのに。 薬でも、嗅がされただろうか。 でも、もしも誰かの仕業で惟前が此処にいるのなら、一体、どうして。何の目的で。 混乱している惟前の視界に、ざり、と二組の足が映った。人間の足だ。見上げる。 「黒姫、惟前くん?」 何故名前を知っている。全身の毛が逆立ったような心地に陥った。 「ほら、警戒された」 「えー、でも、人違いだったら嫌じゃん?」 「お前が視間違えるはずがない」 「その信頼は嬉しいけどさー」 男女二人組だった。歳の頃は、惟前よりも少し上、くらいだろうか。 如何せん栄養状態が違うとひと目で分かる。 そもそも正しい年齢なんて分からないのだ、スラム育ちなのだから。 じり、と手に力を入れる。まだ地面に座り込んだままではあったが、身体に異常はなさそうだ。 走れる。逃げられる。大丈夫。二人組は自分たちの話を続けていた。今なら、逃げられる。 「あ」 「逃げられた」 だっと走り出すと後ろからそんな声が追ってきた。 これでも、足は早い方だ。 いろいろなところから食べ物をかっぱらって来なければならなくて、 更にはそれを横取りしようとする奴らから逃れないといけなくて。 自然と鍛えられた自慢の足に、ついてこられる人間などごく僅かだ。 と、思っていたのに。 「君、早いねえ」 慌てて止まる。目の前にいたのは先ほどの女だった。 先回り、どうして、そう混乱する頭で回れ右をすれば、今度は先ほどの男。 「イリア、お世辞は関心しない」 「ちょっと李空! これはお世辞じゃなくて社交辞令!」 「どっちも同じだ」 間に惟前を挟んで、また二人は会話を始めた。そこに惟前などいないかのようなマイペースさだ。 これなら、と思ってまたじり、と動く。前にも後ろにもいられるなら、横だ。 「おっと」 そうやって飛び出そうとした惟前は、何かに躓いた。 思いっきり地面に顔を打ち付けるところを、すんでで回避する。 「おおー運動神経良いんだね」 「視えてなかったのか」 「あまりに遠くてね。詳しいことまで分かる訳じゃないからさ」 足を引っ掛けられたのだと気付いたのは、のんびりした会話をまた聞かされてからだった。 「…何なんだよ、アンタたち」 立ち上がろうとすると、男の方がすっとこちらを見た。 それだけで、惟前の中の逃げてやろうという気持ちが萎んでいく。危険だ、頭の中で警報が鳴る。 今までに、見たことのない人種。人さらいなんかより、もっとたちが悪いもの。 「あっ、自己紹介がまだだったね? アタシは地国(じごく)イリア!  ちょっとね、不思議な力があるんだ」 「彼は、そういう意味で聞いたのではないと思うが」 「もー李空はかったいなあ。こっちは深影李空(みかげいすく)! アタシたちの隊長さん」 隊長、ということは彼らは何かしらの組織に属しているのだろうか。 こうして惟前の前に現れたということは、 彼らが惟前をこんな知らない場所へと連れて来たのだろうか。 唇が、震える、全身の血の気が引いていくような心地。 「アタシたちはね、影踏って組織の…うーん…特殊部隊? の隊員なんだ。黒守部隊って言うの。 ボスがね、黒守サンて名前で。今はこの李空が隊長してるけど、 メンバーが集まるまではボスが直々に隊長してた部隊なの、だからボスの名前がついてるんだー」 心底どうでも良いことまで喋られた気がする。 「それでねっ。アタシがちょっといろんなものが視えるから、 そのことを任務報告ついでにボスに話したらあ、行って来なさい、ってオーケー貰っちゃって!」 困惑する惟前を見下ろしたまま、 女―――イリアはまるで止まることを知らないかのようにしゃべり続ける。 「だからね、来たの」 「…オレはその付き添いだ」 李空は諦めたようにそう付け足した。 二人を見比べながら、惟前は恐る恐る口を開く。 「視えたって…俺が?」 「そうだよ」 他に誰がいるの? と言わんばかりの顔で首を傾げられた。 「その…ボスさんは、なんで行って来なさい、って言ったの?」 「アタシが言ったから」 「いや、その、そうじゃ…なくて…」 心が折れそうだ。 そもそも人と交流するなんてこと、なかったのだ。先ほど言った人さらいの件もある。 他の寝ている人間の居場所を教えて自分は助かろうだとか、考えるやつも中にはいるのだから。 ちらり、と助けを求めるように李空へと視線をやると、暫くしてその唇が開かれた。 「イリアが視た内容を伝えられたボスは、オレたちに任務を下した」 にんむ、と呟く。任務だ、と返される。 「それは、何?」 心臓が、どきどきと煩かった。きっと、今までで、一番。 「異世界人・黒姫惟前を、未来のために影踏裏部隊影遊び、黒守部隊に引き入れること」 こんなに、生きていることを感じる瞬間なんて、きっと、もう、訪れない。
黒姫惟前(くろひめいさき) 地国イリア(じごくいりあ) 深影李空(みかげいすく)
20150203