1.甘く呼ぶ声 人魚【にんぎょ】 それは海の底に住む、魂を持たない魚とヒトの中間生物。空っぽのその身体を満たすために、人魚はヒトを襲い――― 少女はふと頭上を見上げた。何かの落ちる音がしたような気がしたから。何も見えない。少女はちらりと姉たちを見やる。幸い、と言って良いのかどうか、彼女らには何も聞こえなかったようだ。 (…呼んでる) 少女はそう思った。 「散歩、行ってくるね」 「気をつけてね、イーシャ」 太陽に向かって泳ぎ出す。鱗が光を浴びて、きらりと光った。 少女は何の道しるべもなく、真っ直ぐに進んでいった。 (…呼んでる) さっきと同じことを思う。確かに、少女の耳には声が聞こえていた。助けて、と。少女は強く水を蹴る。自分と同じ人魚が、助けを求めるはずがない。だってここは、海の中なのだから。そんなところで助けを必要としているもの―――言葉を発する生物はただ一つ。人間、しかなかった。 ざぱ、と音を立てて海面に顔を出す。少女は耳をすませた。人間が居るのなら、息づかいが聞こえるはず。人魚は息をしない。理由はきっと、魂がないから。 「あっち」 微少な吐息を聞こうとする彼女に、風がそっと囁いた。 「ありがとう」 少女は小さく言うと、風の指す方向に泳いで行く。そして、ぽこりと突き出た岩の上。 人間を、見つけた。 人魚は人間を襲う生物だ。けれど、不思議と今の少女には、その気持ちは浮いてこなかった。生きる為の本能だと言うのに、少女はそれを忘れていた。 「綺麗な人」 少女は岩の上に横たわったその人を覗き込む。 「まだ、生きてる」 そっと頬に触れると、歌い出した。 泪に落ちた心に 花片は接吻る 空映す球体 壊れそうにふるえた ... 人間の瞼が、ふるふると動く。少女はただ目を瞑って、歌い続けた。 虹のふもとまで 一つの夢の始まりに ... 「…天使…?」 ぶつり、と歌が途切れる。 「あ…」 人間が、目を開けていた。綺麗な青の瞳。それが、不思議に少女を捉えた。 「私は…」 そして、はっと思い出す。自分は人魚だ。人魚は人間の敵だ。言ってしまったらきっと、この綺麗な青に拒まれてしまう。 ばしゃん 鱗にまみれた尾が見えないように、そのまま海に落ちて行くように、少女は人間の視界から消えた。 「あ!」 人間が声を上げたけれど、少女は止まらなかった。どくどくと耳の裏が脈打っているようだった。人魚に心臓なんてあったのか、そんなこと、知らなかったけど。 * 2.祈りの痛み どくどくという音は、いつまで経っても鳴りやまなかった。ただ浮かんでくるのは、あの青。海でも空でもない、きっと、あの人だけの色。す、と立ち上がった少女は何かを決めた。 「何処へ行くの、イーシャ」 「―――海の上へ」 少女は笑う。これが最後だと、心に決めていた。 「ミセス・ウィッチ」 怪しげな壺が気泡を上げるその真ん中に、若い女性がいる。その身体に鱗はまばらにあるものの、そこにあるのは尾ではなかった。脚、がそこにあった。 「イーシャか」 魔女は振り返る。 「何か、用か?」 「脚をもらいに来たの」 それは、ひどくあっけらかんとした言葉だった。 「―――その意味を、分かって言っているのか…?」 魔女は少女を見つめる。少女は、ゆっくりと大きく、頷いた。魔女の力ならば、少女の尾と彼女の脚を取り替えることは可能だろう。でも、代価なしに、願いは叶えられない。 「私に差し出せるものなら、全て差し出すわ。髪でも目でも、腕だってかまわない。人間に、なりたいの」 瞼の裏にいる、あの人に会うために。そう言って笑った少女は、ひどく儚かった。 「その人間を、愛しているのか」 「愛っていうのは、良く分からないけれど、きっとそうなのだと思うわ」 あどけない表情が、その重さを知らないと物語っていた。魔女は小さくため息を吐く。 「人魚が人間になるには、脚と尾を交換する…。でもそれは賭けでしかないんだ。人魚が人間で居られる期間は二週間。それまでに、人間に愛されなければいけない」 「…魂がないから?」 「そうだ」 人魚が昔から人間を襲うのは、その空虚を満たす為。 「人間に愛されると…人魚は魂を得るんだよ。どういう仕組みかは知らないけれど。そんな危険な賭けだよ。それでも…やる?」 言葉が返ってくる前に、魔女は少女の答えを知っていた。 「もちろんよ」 「痛む…からな」 「うん、頑張るわ」 魔女がそっと液体を差し出す。ごぽごぽと気泡を上げる、でもひどく冷たい紫の飲み物。 「飲むだけで良いの?」 「ああ」 魔女は頷く。 「声は…完全に失くなってしまうのよね」 魔女が頷くのを見てから、 「じゃあ最後に言っておくわ」 笑って、 「―――ありがとう」 それから、少女は少しだけ顔を険しくして、それを喉に押し込んだ。次の瞬間。 恐ろしい程の痛みが全身を駆け抜けた。 「―――ッ」 少女が声にならない悲鳴を上げる。…否、声のない今となっては、上げられるものも上げられなかった。 「イーシャ、幸運を祈る」 渦が起こって、少女の身体が空中に放り出された。 胸が焼け切れそうだ、と思った。太陽の光がひどく眩しい。 (…死ぬのかな) 少女はぎゅ、と手を握りしめた。なんだかざりざりしている。 「―――大丈夫!?」 瞼を閉じようとした少女に、声が降り注いだ。 少女はその声に、ぱっと目を開ける。間違いない、と思っていた。その視線の先には、 「何とも…ない?」 素敵な、青。 少女はこくん、と頷く。 「僕はこの国の王子だよ。君は、どうしてこんな所に?」 王子の問いに、少女は少し考え込む。自分が人魚だったことを知られては、拒まれてしまうかもしれない。それに、声が出ないのだから、上手く説明なんて出来ない。そう思ってから、こてん、と首を傾げた。 「んーじゃあ、何処から来たのか分かる?」 少女は王子が違う解釈をしてくれることを祈って、海の方を指した。すると、 「海の向こうか。記憶がない訳じゃないんだな」 少し嬉しそうに笑った。 (この人、私を案じてくれている) 少女は思った。それと同時に、何かが込み上げてくる。 (なんか、これ、あたたかい) 少女がにこりと笑うと、王子は優しくその頭を撫でた。 「君の名前は?」 (なまえ?) 少女は王子を見上げた。そして、小首を傾げる。 (どうやって、伝えようかしら…) 名前は姉たちが呼んでいたものがあったが、それを彼に伝える術がない。 「名前がないのかい? それとも、記憶がないの?」 ふるる、と二回首を振る。それから、喉に手をあてた。 「声が出ないの?」 こくん、と頷く。 「文字では書けない?」 (も、じ?) 今度は疑問から首を傾げた。海の中に、文字というものは存在していなかったから。 「文字を知らないのか…。それだと、君の名前を教えてもらうことは難しいな…」 王子は少し悩んだ後、 「僕がつけても良いかい?」 とても、素敵な提案をした。 少女は一度大きく頷く。 「良かった! …実は、もう決めてあるんだ」 王子は照れくさそうに笑って、 「アンディーン、なんてどうかな」 素敵な名前、と少女は思う。姉たちに呼ばれていた名前よりも、しっくり来るような気がした。 「僕の国の言葉で、水の精霊の呼び名だよ。君をここで見つけた時に、一番最初に浮かんできたんだ」 水の精霊。少女は胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。もう、戻れない生活。 「海の向こうに、帰りたい…?」 王子の少し翳りのある声に、少女ははっとした。急いで首を振る。そして、王子に手を伸ばした。脚の動かし方なんて知らなかったけれど、少女はずりずりと王子に近付く。 「アンディーン?」 ぎゅ、と抱きついた。 (離れたくない) この思いが、伝われば良いのに。 「―――」 王子は少し黙っていたあと、 「お城に来る?」 ぽつり、と言った。少女は王子を見上げる。 「来ても良いよ。僕と一緒に居たいと思ってくれているのなら」 (…伝わった) 少女はこくん、と頷いた。 「良かった! 僕はアーサー。よろしく」 王子が手を差しのべる。少女は、ゆっくりとその手を取った。 何処かで、後ろに続いていた道が崩れ落ちるのを感じた。 * 3.追憶に沈んで 少女は人間のことを何も知らなかった。だけれど、王子はそんな少女を見捨てることなく、根気よく人間のことを教えていった。少女の思いは、 (…くるしい) 止まる所を、知らないまま。 キィ、という音で、王子は目を覚ます。 「…アンディーン?」 暗がりに目を向けながら、王子はそっと少女を呼んだ。衣擦れの音が聞こえて、やがて少女が姿を現した。月明かり。照らされた少女を見て、王子ははっと息を呑む。 「…駄目だよ、こんな遅くに寝室に来ては」 少女はすがるような瞳で王子を捉えた。どきん、と王子は自分の鼓動を聞く。 「…おいで」 仕方ない、という響きを含んで、王子は少女を手招いた。そして、その頭を抱き締める。 「眠れないの?」 こくん、と少女が頷いたのを感じた。 「じゃあ…」 少し迷ってから、 「何か僕が話をしようか?この国に伝わる、古い御伽噺を」 少女がまたこくりと頷いた。王子は少し笑って、少女をベッドに上げる。 「僕の国に、こんな物語があるんだ」 話を、始めた。 「ある国の王子が、嵐の夜に船から落ちてしまうんだ。でも、彼は人魚に救われる。それはそれは美しい声を持った人魚だよ」 どきん、と胸がなる。 「その人魚は魔女に頼んで、声と引き替えに脚をもらうんだ。王子に会うために、人間になるんだよ」 まるで、見透かされているような。 「君に最初に会った時、僕は物語が本当になったような気がしたんだ。僕も…声のすごく綺麗な女の子に、助けられたことがあるからね」 少女はぎゅ、と王子にしがみついた。 (それは、私なの、よ) 声さえ出せれば直ぐにでも伝えられる、そんな簡単な事実なのに。脚と引き替えにしたものは、小さくはない。 (アーサーを助けたのは、私、なの) 「アンディーン?」 少女は何も応じなかった。 「寝ちゃったかな」 王子は少し頭を撫でてから、横たわる。 「明日、絵本をあげるよ。人魚姫の、絵本」 少女の脳裏には、海を泳いでいた時の記憶が、ぐるぐると回っていた。 * 4.愛に抗え、生を手繰れ 翌朝、絵本を手渡された少女は、それをずっと見つめていた。文字というものは読めなかったけれど、そこに書いてあるのは、まるで自分のことのような物語。 (アーサーの声は優しかったけど) 少女は挿絵をなぞりながら思う。 (でも…何か違った。それだけじゃ…なかった) 胸が押しつぶされそうな。 (何が違うか、分からないけど…) 絵本の中の人魚の顔を見る。もしも彼女に声が出たのなら――― (きっと、アーサーとおんなじ、声がする) 優しいけど、でも何か違う、この良く分からない感覚の声が。 それから数日後、城中が騒いでいるのに、少女は気付いた。王子と少女は一緒に居たけれど、そう言えば、約束があると言っていた。くい、と袖を引く。 「ん?」 王子は少女を見る。少女も王子を見つめた。 「…城が騒がしいのが気になるの?」 王子の言葉に、少女がこくり、と頷いた。 (分かってくれる) 少女はそう思った。 (アーサーは私のこと、分かって、くれてる) 王子は少し照れくさそうに笑った。 「隣の国のお姫様が来ているんだよ。国として、恥じないおもてなしをしなくちゃいけないからね」 少女はふうん、とでも言いそうな顔で頷いた。隣の国のお姫様。 (きれい…なのかな) アーサーの隣に立つであろう、彼女は。 (声が…出るんだろうな) なんとなく、少女を不安にさせた。 そして、それは現実となる。 「アンディーン」 王子が少女を呼ぶ。 「さっき言ってたお姫様だよ。イーシャって言うんだ」 背筋を、何かが走り抜けたようだった。 (私と、同じ、名前) 王子の隣の女性は、それはもう綺麗で。 (敵わない) 瞬間的に、少女は思った。王子の目は少女に向いていなかった。ただその綺麗な青が、その女性を映していた。そしてまた、その女性の―――深みのある翠の―――瞳が、王子を映していた。 少女はなんとも形容し難い顔で、二人を見ていた。それは言い換えれば、泣き出す寸前の幼子のような表情であった。 (―――消える) 少女は思った。 (もう駄目だ、アーサーはあの人しか見てない) 元々空っぽな身体が、もっと空っぽになったような、そんな気がした。 (アーサーが私のことを分かってるなんて、思い上がりだった。私の気持ちは、届いてない。アーサーが私の考えていることが分かっても、アーサーはあの人しか、見てない。もう―――) 黒いものが自分を包んでいくような気さえした。 (―――愛してもらえない) ぱきん、と、少女の中で、何かの壊れる音がした。 「あの子に、貴方を殺させます」 その夜、王子の夢には、一人の女性が出てきた。美しい女性(ひと)だったが、その下半身は鱗に覆われている。 「…人魚?」 「ええ。貴方に拾われた子の姉です」 「やっぱり、あの子は人魚だったのか」 人魚姫の話をした時に、意味あり気に揺れた瞳。重なるように、入り込むように、ずっと挿絵を撫でていた、指。ひどく、まっすぐな瞳が王子を貫く。 「あの子は、貴方を愛しています。だけど、貴方はあの子を愛さない」 物語のように現実が流れていく。全てを棄ててしまった、人魚姫のように。 「それなら呪いが始まる前に、貴方を殺してしまえば良い」 王子の答えなど、もう決まっていた。 「僕は―――」 「イーシャ!」 ばしゃばしゃと波の打つ音がする。少女は声のする方へ駆け出した。 「これで、王子を殺しなさい」 差し出されたのは、小ぶりのナイフ。 (どう、して?) 「ミセス・ウィッチに聞いてきたの。貴方がこれで王子を殺せば、貴方は人魚に戻れる」 ぐらり、と心が揺れるのが分かる気がした。そっと、少女は手を出す。 「待っているわ、可愛いイーシャ」 ナイフを渡して、そっとその頬を撫でてから、姉はざぶんと海に消えた。 (アーサーを、殺す) 冷たいナイフを握りしめながら、少女はきっと暗闇を睨みつけた。 (絶対に、消えてなどなるものですか―――) * 5.大嫌いな神さま その夜遅く、少女は王子の寝室に忍び込んだ。右手に光る、ナイフを持って。王子は静かな呼吸をしていた。 (生きてる) 不意に、少女はそう思った。 (これから、私が殺すんだわ) 閉じられた瞼にそっとキスを落として、 (さよなら、アーサー) ナイフを――― 振り上げることすら、出来なかった。 (何…これ…) 胸の内に渦巻く、訳の分からない熱。 (やだ…) ぎゅ、と胸を押さえたその時、魔女の台詞が浮かび上がってきた。 『その人間を、愛しているのか』 (これが…?) 知らなかった思い。知らないままなら、殺せたのに。 (どうして…っ!!) ナイフを持つ手が震える。 「…アンディーン」 ベッドの上の王子は、少女を見ていた。 「殺さないの?」 そして、全てを知っていた。目を見て、少女は思った。それでも、自分を追い出さずに、置いていてくれた。自分が殺されるかもしれないというのに。 (…できない) ナイフが音を立てて床に落ちる。 (殺すなんて、できない…!) ぼたぼたと、目から水が流れてきた。 「アンディーン、泣かないで…」 (な、く?) 王子が少女の目をそっと拭った。それでも、水は止まらないで出てくる。 (これは、何?) 王子を見上げれば、 「これは涙だよ。哀しい時や嬉しい時に出るんだ。…今は、哀しい、のかな」 (かなしい) 王子は少女を抱き上げる。 (これは、あの時の声と一緒だ) 少女は王子を見つめた。優しいけれど、何かが違う。それがきっと、「哀しい」。 「アンディーン、僕は、あの人に…」 言いたいことが分かったかのように、少女は激しく首を振った。 (嫌だ) 少女は思った。 (アーサーが私のためにあの人を棄ててしまうなんて、そんなの―――) (神様―――) 少女は王子の腕の中で、泣きじゃくりながら思った。 (居るなら、この人を幸せにしてください。私は、私はどうなってもかまわないから…!) これが愛なんだと。 (嗚呼―――愛って、どうしてこんなにも、残酷なのですか…?) * 6.言ノ葉にのせて 「アンディーン、文字を習い始めたんだって?」 少女はこくん、と頷く。そして、ぱっと思い付いたように紙に向かうと、何やら懸命に書き始めた。 「何を書いてるの?」 覗き込めば、ぱっと隠す。王子は仕方ないな、と呟いて、少女の傍らに座った。 あの夜、腕の中で泣き続ける少女に、王子はそっと話をした。物語を聞かせるように、哀しい結末を、消すように。 「僕はね…確かにあの人を綺麗だと思ったよ。だけど、それは恋じゃないんだ」 (恋?) 少女が顔を上げる。大分腫れぼったい目を、慈しむように撫でる。 「人を、好きだと思うこと」 王子は笑った。 「…違うかな。愛おしいとか、愛してるとか、そうやって思うこと」 少女が自分を見ているのを、王子は感じていた。視線こそ合ってはいないが、まるで見つめ合うように。何度も繰り返してきたこと。でも、今、少女の鼓動が聞こえる。きっと、少女にも、王子の命の音が。 「ずっと傍に居たい。許されるなら、抱き締めていたい。この先ずっと一緒に居たい。僕から離れないで欲しい。僕がそう思っているのは―――」 瞼に、柔らかな、感触。 「―――アンディーン、君だけ、なんだよ」 しばらくして、少女がペンを置く。ずい、と紙が差し出されて、 「何々…?」 (完)
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