風になるとき。 周りの音、歓声さえも、雑音と化する。 一 なあ、と軽い声に顔を上げることはしなかった。まさか俺に話し掛けられているなんて思わなかったからだ。 「オイ、シカトはよくねえだろ」 そう言われて初めて、その対象が自であったことに気付く。 パキン、とシャーペンの芯が折れた。顔を上げる。声の主は同級生だった。クラスは違うけれど、俺はそいつの名前を知っている。 百住透(ももずみあきら)。陸上部期待のエース。県でもトップだとかなんとか、確か女子が騒いでいた。 「…何か用か」 「用っていうか、部活。お前何処にも所属してないだろ」 「してる。美術部」 「ユーレイじゃん」 「悪ぃか」 教室には俺と百住の二人しかいなかった。確かに、この状態で声が返って来なかったらシカトと言われても仕方ない。 なあなあ、と声は鳴り止まない。俺は何だ、とだけ返して机の上の課題を片付け始めた。色ペンを筆箱にしまって、教科書やノートを積み上げる。 「陸上入らん?」 「なんで俺が」 「ナンデって…お前がお前だから?」 「はぁ? 何が言いたいか分かんねぇよ」 横にかかっていたかばんを机の上へ。勉強道具の一つひとつ、丁寧にしまっていく。 「いや、お前には分かってるはずだぜ」 手が、止まった。 百住の言い方に何か引っかかりを覚えて、顔をあげる。にやり、と弧を描く唇。まるで悪役だ、俺のところに入ってきた風評は爽やかだの人当たりが良いだのコミュ力が高いだの。そういう好意的なものばかりだったのに、それを一瞬で崩せるくらいの悪人面だった。 「なあ、浅山祥護?」 高校一年生がもうすぐ終わろうというその日。 どくり、と心臓がいやなふうに音を立てた。 *** 隠していたいこと。忘れていたいこと。 美しくなれない思い出に、蓋をするように。 二 がっと、手から伝わってきた衝撃が何なのか、最初は理解出来なかった。 「…って、めェ…」 喉が潰れるような自分の声を聞いて、そこで初めて百住の胸ぐらを掴んでいることに気付いた。気付いたところでその手を離すことなんて出来ないのだが。 とは言っても非常に残念なことに俺と百住には身長差というものがあって、背の低い俺がその胸ぐらを掴んだところで、百住は苦しくはないようだった。へらり、と口角が上がる。 「ア、何、隠してた? それはごめん」 言いふらしたりはしないから、と笑う顔をどうやって信用しろと言うのだろう。 自分が今、しっかり息をしているのかも分からない。 「何で分かった!」 「ナンデって言われても」 「違和感なんてなかったはずだ! 俺は普通に走れてる!!」 そうだ、違和感なんてあるはずがないのだ。全力を出さなければ―――医者にだってそう言われている。 指摘されるのがいやで、バレるのが怖くて、だからこそ代わりというように勉強に打ち込んで、全力も出さずに走って、そこそこ、という印象になるように調整してきたというのに。何で、なんで。 胸ぐらを掴まれたまま、百住は眉を寄せてみせた。 「そんな違和感なんて漫画じゃあるまいし。まあ強いて言うなら違和感あったのはお前の表情だよ」 表情。 「走るのが恋しくてたまらないって顔しちゃって」 手から、力が抜けていくのを感じた。 走るのが、恋しくて、たまらない。そんな、顔を。 ずるり、と力の入っていない腕が落ちる。それを眺めながら、百住がへらへらと言葉を続けた。 「その感じだと怪我? まあ、おれの頼みに怪我とかそういうの、カンケーないけど」 こんなやつの言葉なんて右から左へそのまま抜けさせていけばいいのに、耳はしっかりとそれを拾う。 「おれのコーチしてよ」 「………は?」 いつのまにか百住のつま先を見つめていた視線が、ふいっと上げられた。 今、何か意味不明なことが聞こえた気がする。 「だから、コーチ。おれ、今、伸び悩んでんだよね」 「陸上部のエースが伸び悩みとは贅沢だな」 「あっなんだ知ってたんだ? おれのこと結構興味あった? 関わりたい感じだった?」 「ンな訳あるか。ただお前が有名人だってだけだろ」 ペースにのまれている、とは思った。思ったけれども先ほどの馬鹿馬鹿しい言葉をなんとか飲み込むにはその流れに乗るより他はない。 「…ってかコーチって。そういうのって専門家に頼んだ方が良いだろ」 俺は素人だ、と主張する。その主張は、現役で走っている人間にならちゃんと伝わるはずだ。 「んー…それとなーく顧問にオネダリはしてみたんだけどさ。やっぱ金かかるらしくて。うち公立だし、いくら成績出してるって言ってもそこまで金は掛けらんないんだってさ」 「でも、だからって」 「おれもいないよりはマシ、って体で声掛けてる。顧問の許可もそれで取った。でも、おれはお前がいるだけではおさまらないって、そう思ってる」 じっと、見つめてくる瞳。真っ直ぐで、きらきらとしていて、こんな目を見たことがある。鏡越しに。そうだろう?お前はそんな場所にいるのには飽き飽きしているだろう、甘言を弄する。 「ま、考えといてよ。―――白井」 わざとらしく俺の今≠フ名前を呼んで、百住は教室を出て行った。 *** |